浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-11-30 00:04:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

         講演集、 三

     自分の為に祈ってはならない


私はその行いによっていろいろなことを体験させいただき、
その中から正法、神理を体得させていただきます。
お釈迦様或いはイエス様がお説きになり、
今生、高橋信次先生がお説き下さいましたその法を、
自ら行った時に必ず結果が出ます。

自分自身が心を正すことなく、どれほど祈りましても、
お参りしましても、功徳は一切ありません。
「祈り」というのは、自分の為に祈ってはなりません。
祈って許されるのは、「光をお与え下さい」
「未熟な私をどうぞ間違いなくご指導下さい」そして、
あとは「感謝」です。
これは祈りとして許されます。

しかし、金儲けさせて下さい、商売繁盛させて下さい、
病気を治して下さい、という祈りは、無理というものです。
理に合いません。
こういう無理は、神様はお聞き届けにならないのです。
他の方の幸せを願う祈りは聞き入れられます。

「心行」に書かれているように、
「祈りとは神仏の心と己の心との対話であると同時に、
感謝の心が祈りでもある」のです。
「神理に叶うた祈りの心で実践に移る時、
神仏の光はわが心身に燦然と輝き、
安らぎと調和を与えずにはおかない」―――
これは正に神理だと思います。
そして行った時、これは間違いなく神理だということを
自ら納得させてもらいます。


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「御垂訓」

2020-11-29 02:13:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


講演集、 三

    「ふるさと」の歌にある「志を果たす」とは


前々回からですが、西宮のUちゃんにバイオリンを弾いていただいています。
音楽といいますのは、音律の調和があり、私たちの心に調和を与えてくれます。
ふるさとの歌二曲を弾いていただきます。

「ふるさと」といいますのは、私たちが生まれたこの世でのふるさと以外に、
この世に生まれさせていただく以前の「魂のふるさと」があります。
そのふるさとを思い出しながら、共に合唱していただいたら結構かと思います。
ではお願いします(拍手)。

―――バイオリン演奏―――

ありがとうございました。
上手に弾いていただいて、ほんとうにありがとう。
音楽というのは心に響きます。
「志を果たしていつの日にか帰らん」と歌われています。
私たちがこの現象の世界で「志を果たす」とは、一体何でしょうか。
高橋信次先生の「心行」の中に、
「人々と互いに手を取り合って、調和を目的として互いに助け合い、
補い合いながら、この地上で幸せな仏国土、ユートピアをつくらんがため」
と書かれてあります。
地上にその世界をつくる為に実践することが、私たちの志を果たすことです。
「行うこと」は、学問が無くても、才能が無くても、
誰でも行うことはできるはずです。


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「御垂訓」

2020-11-28 00:00:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三

各地より集う喜び

こうしてたくさんの皆様に集うていただきまして、
心からお礼を申し上げます。
ありがとうございます。
特に今日は東京からも、九州の鹿児島、大分からも、
そして静岡、富山、京都、和歌山、奈良など各府県から、

私のような未熟者の話しの為に日本の各地から
集うて下さいまして、
この喜びはほんとうに言葉に表すことができません。
心からお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

今日来ていただきました福井のおばあちゃんは、
足腰が立たなくて若い者が
止めておけと言うのに、
どうしても連れていってほしいと言われて、
命がけで来て下さいました。
ありがとうございます。

また東京から昨夜十二時半頃に辿り着かれて、
表から入ってこられますものを、
夜遅く入ったら悪いと思って朝まで表に
立っていただいた方があります。
お仕事は、もう日本では少なくなりましたが、

ハンセン病の患者さんのお世話をなさっているそうです。
すばらしいご縁で、夜中から朝まで表に
立って待っていただきました。
ほんとう申し訳ないことでした。


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「御垂訓」

2020-11-27 00:10:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


        講演集、 三

恩師のオリジナル     神の御心

いとしき我が子よ、いとしき我が子よ

そなた達は幸せに生きよ、健やかに生きよ

己自身を苦しめることなかれ

己を愛し、己を愛するが如く他を愛せよ

汝らの喜びは我が喜びなり

汝らの苦しみは我が苦しみなり

いとし子よ、自らを苦しむることなかれ

汝らは我がいとし子であることに目覚めよ

自らの神我に目覚めよ

我は愛故にそなた達を

形として現わせし厳しき現象界に旅立たせし者なり

いとおしきが故に旅立たせし者なり

いとし子よ、そなた達がこの地上に肉の身を持ち

旅立ちし日より今日までをよく振り返り見よ

我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ

もし我が心と離れし箇所に気付かば

それを悔い改めよ

その時、汝らの魂は清まれり

我が与えし、その肉の身を持ち我が思いを

この地上に示し現わせよ

我が心を地上に具現せよ

汝らは我がいとし子なるが故に我は汝らの父なり

父はただ、子の幸せを願う

自らを浄め、自らを高め、自らの神我に目覚め

我が胸の中に帰るべし

我はただ、汝らの帰りを待ち望むものなり


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「御垂訓」

2020-11-26 00:39:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 三


恩師「長尾弘」先生のオリジナル   神の御姿

我は 姿あって姿なし

姿あっては 天地自然 万生万物の中に 我が姿を見よ

姿なくては 生きとし生けるものを生かさん その生命を 見よ

汝らを 姿あるものとして この地上に生じせしめ

姿なき 汝らの 神我となりて 我は証しせん


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「御垂訓」

2020-11-25 00:03:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
     恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 三

     はじめに


この講演集は縁あるお方のご好意とご尽力により、
お話会のテープを文字に起こしていただきましたものを、
何回分かまとめて一冊の書として世に著わしたものです。
幼い頃より「神様とは一体どのようなお方だろうか、
人間とは何者だろうか、
心とはどういうものだろうか」常にこのような思いから
離れることはできませんでした。

昭和四十九年十一月、私は故高橋信次先生のご講演に縁をいただき、
反省することによって己の心を知るこを学びました。
そして人間を幸せにするもの、或いは不幸にするものは、
すべて自分の心の作用によって現れていることが理解できました。
その結果、今の私はこの世の中の誰よりも幸せ者であると
自認しております。

人さまは、私の毎日の生活が、一年中ただ一日の休みもなく、
自分自身の時間が皆無に等しいのをご覧になると、可哀そうな奴だ、
自分のことは何もできないで馬鹿な奴だ、と思われるかもしれません。
しかし、そう思うのは思う方の心であって、私の心ではありません。
自分に与えられた環境の中で足ることを知り、
常に感謝に心を切り替える練習を積み重ねた時、

たとえどのような環境の中にあっても私の心の中は幸せいっぱいになります。
この幸せを一人でも多くの方々にお伝えしたい、
喜びに満たされてほしい、
苦しみから救われていただきたい、
ただこの一念で私の命の尽きるまで人さまに
お伝えさせていただきたいと思っております。
浅学非才無学文盲の愚か者ですが、
日々の生活実践と自分の体験談を通して
喜びに至る道をお話をさせていただいております。

『愚か者の独り言』第一集、第二集はお陰様で大変好評を頂き、
身に余る幸せと心から感謝申し上げます。
不思議なお手紙やお電話を無数に頂きました。
この講演集を読んで医師から不治と言われた病気が治ってしまった、
家庭内が調和された、離婚寸前のご夫婦が離婚を取り止め
仲むつまじく暮らせるようになった、商売がうまくいくようになった、
本が現実に光り輝いているのを見た、
嫁姑の間が良くなった、子供が良い子になってくれたなどと、うれしいことで
ございます。

幸甚と、申す以外に言葉もありません。
この不思議な出来事の数々は、全く無償でご奉仕して
下さいました皆様の愛が、
神の愛として現象化して現れたものと確信致しました。
ただ感謝あるのみです。

この書の編集にご尽力いただいている方々に、
刊行が大変遅くなりご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。
原稿に目を通す時間がなく、地方講演の道中、新幹線の中や船の中で、
少しずつ手を入れさせていただきました。
本書を通しまして、一人でも多くの方々の幸福を祈念してやみません。
                       合掌
平成二年九月
長尾 弘


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「御垂訓」

2020-11-23 23:59:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

           老人の呆けと憑依現象


先の続き・・・

こんなことを言うと、お医者さんに叱られますが、
現実にはそういうことですね。
ですから、医者では治りません。
老人呆けを、医学上は老人性脳軟化症と言っていますが、
呆けが進みますと、
最終的には毒を食べても病気にはなりません。
それは、自分に意識がないからです。

私たちが食べ物に当たったり病気をするのは、
「ああ、これを食べたら恐い、
それは毒かと違うか、あれが悪かったのかなあ」などと思うからです。
呆けたら、そういうことが分からなくなりますから、
いくら食べても腹痛は起こらないし、
腐った水を飲んでも大丈夫です。

現在は、衛生をやかましくいう時代ですから、
ボウフラの湧いた水を飲んだら、
皆腹痛を起こします。
さきに話したおじいちゃんなんか健全なものです。
普通だったら、六人分七人分の御飯を食べたらお腹がパンクしますが、
それも起きません。

不思議な憑依現象の例があります。
これは泉大津の方の話しですが、
お譲ちゃんが四国の松山の方と結婚されるので、
両親が四国へ行かれて道後温泉で一泊され、
又お婿さんの家でも泊めてもらって、
二、三日して帰ってこられました。

それから、そのお父さんは食べるわ食べるわ、
お茶碗に八杯食べてもまだお腹がいっぱいにならないので、
お寿司を三人前買ってきて、
家族にも恥ずかしいからお茶だけ持って自分の部屋で食べるというのですね。

お菓子を一箱もらったら、誰にもやらないで一人で食べる。
その方が私のところに来てそんな話をされるから、「それはおかしい、
もう食べないようにしてあげましょう」と言って、
ちょっとお祈りをして、
「今晩食事をされたら電話して下さい」とお願いしておきました。

夜八時頃電話がありまして、
「先生、今食事をしましたら一膳の御飯でやっとでした。
どういうことでしょうか」と言われるので、
「あなたに大きな伊予狸が憑いていましたよ」と言うと、
びっくりしておられました。
あれは狸が食べていたのですね。

そういうこともあるのです。
泉大津駅の前にジャンボどら焼きといって大きいのを売っています。
私はあんな大きいのは一個もよう食べませんが、
それを四つも五つも食べていたと言うのです。
考えられないことが起きますが、そういうのは簡単にとれます。

憑依現象の中にはこういうのもあります。
そこら辺りに坐っていた方に「来なさい」と言いますと、
ピューンと六メートほど飛んで来たので、
憑いていたものをとり除きますと、
「いったい僕、何してますのや」とおっしゃるから、
「あなた、あそこからここまで飛んで来ました」と言うと、
「ほんまですか!」とびっくりされました。
オリンピックの選手でもそんなに飛べませんね。

そして、悪かった肝臓もいっぺんに治ってしまって、
これから帰って野球がしたいと言っておられました。
まあ、こういう不思議なことがいろいろありますので、
私たちは日々の生活の中でいかに心を
正しく生きていくかということが大事なことです。
過った想念、行為に陥りますと、
目に見えない世界の闇のエネルギーの支配を受ける危険が常にあるのです。
だから常に心を光に満たしていきたいと思います。
長い時間ご静聴いただき、どうもありがとうございました(拍手)。
                              合掌


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「御垂訓」

2020-11-23 00:06:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

          老人の呆けと憑依現象


ほかにも、何人かの老人呆けが治った例があります。
これは統計的に見まして、
一種の憑依現象が起きているのです。
だから、憑依している方を救わせてもらったら、
呆けが治る場合がよくあります。

呆けると、自分の家が分からなくなって、
夜中に飛び出したまま迷子になるのですね。
外に出て行くのはいいのですが、
帰り道が分からなくなる。
それで家族中で探さねばならなくなるのです。
そういう状態の方が何人も治っておられます。
それはどういうことかと言いますと、
この世とあの世との間に境界があります。
生と死の境界線です。

人間は健康な時、幼い時など生命力が溢れている時は、
この死の境界線が遠のいているのです。
若くても病気をしてだんだん進行して
生命力が弱まってくると、
死の境界線に近づいてきます。
病気が最悪の状態になると、
死の境界の中に入って行くわけです。
そうしますと、死がおとずれます。

また年をとって次第に生命力が弱まりますと、
やはり死の境界線に近づいていきます。
若い時は神も仏もあるものかと思っている仏心の無い人が、
年をとったら、
しきりにお寺参りをするようになるね。

死が近づくから知らない間にあの世が恋しくなって、
お寺参りをするのです。
そして、やがては死の境界に入ります。
もう全部入ります。

だんだん年をとって七十代、
早い人は六十代半ばで呆けている人があります。
七十代を越えて死に近づいていき、
死んだことを知らないでこの地上に思いや
執着を残した人が、
肉体は無いのに意識となって境界線をうろうろしています。
その境界線をうろついている人が
たまたま近づいてきた人と心の通じた場合、
その人にとりついてしまいます。
すると、他の人格ができあがります。

死後の世界、つまりこの境界線を越えた時は、
いつも言うのですが、もう尻を
向けたら一目散にさんに走っていくことです。
境界線からいっときも早く遠のくことです。
この世への執着の思いを持てば、
境界線の辺りをうろついてしまいます。
これが、迷える霊です。

いつまで経ってもこの世から離れないで、
生命力の弱い人、或いは自分の
思いと一致した人の中にポッと憑依するわけで、
取り憑かれたということになります。
老人にはそういう場合が多いように思います。


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「御垂訓」

2020-11-22 00:04:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

  尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛


先の続き・・・

「私はこうしてあんたがあの世に行くのをちゃんと
見送るから安心しなはれ、何も恐いことはない。
この世は自分の魂の修行をさせてもらう仮の宿であり、
私たちはあの世へ帰った時、ほんとうのふるさとに
帰ることができるのや。
ふるさと、ほんとうの家に帰るのだから恐いことはない。
この世の一切の思いを離しなはれ。
誰に対しても思いを持ってはいけない。

そして、この世に生きさせてもらった間のことを
よくふり返ってみなはれ」
と言っておりますと、頷いて握っていた私の耳を離してくれました。
息が止まる前に、「いよいよこの世にさようならを
しなくてはいけないのやでー」

と、まあ、おじいちゃんに話すのですから、
それぐらいしか話せないのですけど、
幸いおじいちゃんはもう家族のことはみな忘れてしまって
誰のことも分からないから、
「あの世にちゃんと帰るまで見ててあげるから安心して行きなはれ」
と言って話させていただき、家に戻りました。

すると一時間くらいして、今亡くなりましたと知らせがありました。
死にかけた人が今生の力をふりしぼって愛を求めたのです。
あの世に帰る方法を伝えさせてもらって、「分かったかー」と言いますと、
「おおきに」と言われましたね。

この体験をさせてもらったことで、
現在老人の呆け問題がやかましく言われておりますけど、
そういう呆けたお方でも、
世話する人がほんとうに心からお世話なさった場合には、
治る可能性が高いということを教えていただきました。



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「御垂訓」

2020-11-20 00:56:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
   恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

    尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛


先の続き・・・

その頃、一度腕が抜けたことがあったのですね。
おばあさんにドンドンたたかれて、腕が抜けてしまい、
医者が一番嫌いだったのに、
痛いものだから医者に連れてって呉と泣き出されたのです。
呼ばれて私が行きますと、腕はポッとすぐはまって、
動くようになりましたので、
それ以来、おじいさんが私をよけい好きになってくれました。
私の顔を見たら、幼児が喜んだ時のように何とも言えない笑顔で
うれしそうにされるのです。

しかし私のおばあちゃんが声を掛けたら、
「ウォーッ」と言って怒るのです。
「お前の顔を見たらあんなに嬉しそうにして、
私が声をかけたらえらくこわい顔をされる」と、
おばあちゃんは言いますが、
それは、自分のおばあさんに腕を抜かれたものだから、
自分のおばあちゃんと同じ老人と思うのでしょうね。
(大笑い)。

いよいよ亡くなる時がきて、
その二時間ぐらい前に家の人が私を呼びにこられたのですね。
おじいちゃんは髭を剃っても怒るものだから、髭はボウボウで、
しかもその髭に飯粒がいっぱい付いているのです。
死にかけているのに、そんな恰好で寝ているのですね。
私が「おじい、分かるか」と言いますと、目を開けて私を見て、
「おう、織屋の兄さん」と言いました。

ところが、自分のつれあいも、息子さんも、息子さんのお嫁さんも、
Sちゃんの為にためるのだと言って貯金をしてやっていた孫のSちゃんの顔も、
分からないようになっています。
死ぬ間際に、他人の私に「ああ、織屋の兄さん」と言うのに、
家族の顔は誰一人分からなくなっていました。
愛だけがそれを超えます。

常日頃の愛だけは、呆けた方にも通じます。
「おじい、分かったか、私やで」と話しかけますと、
満足そうに何回も、うなずいておられました。
それから、おじいちゃんの顔を上からのぞき込むようにして
引導を渡しました。

「人間は遅いか早いか必ず死ななくてはいけない。おじいが先か私が先か、
そんなことは分からない。今こうして話しをしていても、
その角で車に当たると私のほうがポンと先にいくかも分からない。
しかし順番からいったら、おじいが先に死ななくてはいけない。
死ぬのは何も怖いことはないのやで」と話していますと、
ウオーと叫んで両手をのばしました。

おじいちゃんが今世の力をふりしぼって引き付けましたから、
もう逃げられません。
私の耳を引っ張って自分の頬っぺに私の頬をくっつけて
離してくれないのです。
まあ汚い髭づらに私、頬ずりしてもらいましてね(笑い)。


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「御垂訓」

2020-11-20 00:51:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
    恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

   尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛


尽くすことによって、尽くされた相手の方が救われます。
そして自分自身も救われます。
こんな年寄りは早く死んでしまったらいいのにと思ったら、
よけい長生きされます。
そうなっているのです。
ついには、呆けて何も分からなくなっても、まだ生きていられます。
だから、尽くさせてもらったら、その時がきてサッと引き取ってもらえます。
年寄りに物を惜しんだらいけません。
人間は、食べるだけ食べなくては死にません。
もし呆けでもきますと、六人分、八人分の御飯はいっぺんに食べてしまいます。
おかずでも、じゃがいもの煮っころがしを家族七人分を大鍋に作っていても、
おじいさん一人でいっぺんに食べてしまって、知らん顔しておられるのですね。
現実にはそんなに食べられるはずがないのに、食べられるのです。
これは私の家から三軒向こうのおじいさんのことです。
もう亡くなられましたが、呆けてよく迷子になられました。
お嫁さんが私の家で働いておられましたので、
私が車で探し回って見付けては
連れ戻しておりました。

度々なので、
「これではかなわないから、
名札と電話番号を服に縫い付けあげて下さい」と頼みました。
すると、思いもかけない遠い所から電話が掛かってくるのですね。
だんだんと呆けが進みますと、もう遠い所へは行けなくなって、
近所をうろうろしておられました。
冬の寒い時には、「おじいちゃん、家の中にお入りなはれ、
こんな寒い外をうろうろしないで、
一服してストーブの側に坐りなはれ」と言って、
タバコに火をつけてあげますと、喜んで吸っておられました。
夏になっても、冬のオーバーを着て歩いておられるのですね。
「この暑い中を、どうぞ中に入ってタバコでも一服しなはれ」と、
又タバコに火をつけて一服してもらいました。
こうしておじいちゃんが、目につけば、
必ず家の中へ入ってもらっていました。
呆けの進行の最中におじいちゃんがおっしゃるのですね。
「お前ら偉そうに言うてもな、織屋の兄さんにものが言えるか、
言えるのは俺だけやぞ」と。

おじいちゃんにしてみたら、
織屋の兄さんをすごく偉い人のように思っているのですね。
だんだんと呆けが進行して、
あの火事のあった家に雨垂れをためるかめがあったのですが、
夏のことですから水が真っ青になって腐って、
ボウフラが湧いているのを、
オーバーを着たままで、その水を手ですくって
ガブガブと飲まれるのです。
そこのお宅の人がびっくりして飛んできて、
「おじいさん、あんな水を飲んでる、
腹痛が起きるよ」と心配されましたが、腹痛は起きないです。
当時家族七人分のおかずと御飯をいっぺんに
ぺロと食べてしまわれるのですから。


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「御垂訓」

2020-11-19 01:12:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

            「お陰様で」


私たちは「お陰様で」という感謝の心を忘れております。
あって当たり前、してもらって当たり前、すべてが当たり前と、
思い違いをしております。

お陰様で、お陰様で、どんなことでもお陰があって今があるのです。
そのお陰様を忘れ去って当たり前になっていくのですね。
当たり前という思いの中から感謝を忘れます。
「私には感謝するような幸せなどありません」とよく言われます。

考えてみますと、こうして生きさせていただくのも、
目に見ることはできませんけれど、
現実に空気を与えられているからです。
もし空気が無く、空気中の酸素が無かったら、
三分以上生きられる人はありません。
全部の人の息は止まります。

この与えられた空気に対して、
「有難いなあ、このように目で見ることのできない酸素や窒素など、
空気中にいろんなものがあって、
私たちは苦しみなしに生きさせていただける。
ありがたいなあ」と心から感謝できた方は一度手を挙げてみて下さい(笑い)。

また、あのお日様の熱や光に対して、心から感謝できましたか。
これも、なかなか私たちにはできません。
私たちの目を楽しませてくれる花、こうして花を生けて下さる方の
私たちのへの思いやり、

すべてはお陰様の中に生きさせていただいております。
当たり前のように思っているので、有難さが分かりません。
お日様も照って当たり前、しかし無かったらどうしますか。
常に「もし無かったら」と思わせていただいた時、有難さが身にしみてきます。
夫婦の間もそうです。

健全に守っていただいている間は喧嘩ばかりして、亡くなった時、
ああ、えらいことをしたと言って、相手が死んでから一生懸命お墓にお参りして、
お父ちゃんお父ちゃんと言っておられる方があります。
生きていた間はさんざん意地悪をして―――。

しかし十分に尽くさせていただいた時にはお墓へお参りしなくていいのです。
生きている時に満足を与えていたなら、お墓へもお仏壇へもお参りしなくても、
うらめしやと出て来られることはありません。

本当に尽くし抜いた時は、絶対に夢に出て来られることはありません。
夢ばかり見るのは、自分の良心が、尽くしていない分だけ自分を責めて、
夢を見せるのです。
死んだ人が夢の中に出て来て、こわい夢でうなされたというのは、
完全に自分の良心が自分を責めているのです。

そういうことがないように、生きている間によく尽くすことですね。
そして、死んでしまってからも何の悔いも無いように、
死なれた時も思いを残さないように、
又あとに残された者も思いを残さないように、日々に十分、
お互いに尽くし合っていくことですね。
そうすれば悔いは残りません。



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「御垂訓

2020-11-18 01:30:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

     苦しみの原因を断つこと、その方法


私たちは、真っ黒けにスモッグを出しても魂そのものは汚れていないのです。
その周りが曇っているだけのことです。
常に反省させてもらって、
自分の過ちを正すことによって自分が出したスモッグを薄くしていくことですね。
スモッグを打ち消す方法として一番大事なことは、
今後の生活で心のスモッグを出さないことです。

あとからあとからスモッグを出したら、いくら反省して消そうと思っても、
尻から出せば同じことです。
先日も或る地方にいって、「皆さんおならを落とした経験がありますか」と言うと、
皆へへへと笑われます。
おならと言えば上品、屁をたれると言えば、
先生はえらい下品なことをおっしゃると言われますが、
しかし現実に屁をたれない人はありません。

しかもこのおならには、頂いた食物という原因によって臭いという
結果がいろいろに変わります。
これは原因・結果の法則です。
ニンニクを頂いておならをすると、これはとても叶いません。
お豆腐などのあっさりした蛋白質のものを頂いたら、おならもあっさりしています。
これはなぜそうなるかと言うと、原因があれば必ず結果が現れるという法則に
従っているでけです。
「この臭いは叶わないから、神様どうか臭いを取って下さい」と祈っても、
自分が臭い原因を作っておきながら、滝に打たれたり、護摩を焚いたりしても
とれるわけがありません。

あと出さなかったらいいのですが、お参りをしながら尻から又おならを出す、
すると又臭いがします。

他力信仰というのは、これとよく似ているのです。
一生懸命神様に、「福を下さい、健康にして下さい、幸せにして下さい」
といくらお祈りしましても、
不幸になる原因、悲しみの原因、苦しみの原因である屁を自分がたれていたら、
いくら拝んでも同じことで、臭いはプンプンとしてきます。
まず、お尻をちゃんと締めて屁を出さないことです。
有難いことに、神様は自然浄化作用、自然治癒能力という愛をこの地上界に
与え給うております。

一度臭いにおいを出したとしても、あと出さなかったら、何も拝まなくても、
臭いは自然に消えていきます。
自分が臭いの原因、苦しみの原因を続けますと、永遠に救われることはありません。
一度で止めれば消えるものを、何回も出したのでは繰返しになります。
こういう話をしますと、先生は不謹慎だ、
神様の話をしながら屁の話をしたとおこられますが、これは神理です。


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「御垂訓

2020-11-17 00:19:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

       本来心は清浄なるもの


なぜ、私は拝まないのに神様はあなたの病気を癒して下さったか、
おじいちゃんは一生懸命拝んで自分の病気さえなぜ治していただけないのか。
私たちの心は本来清浄なるものです。
オギャーと生まれた時は何の曇りもありません。
全部すばらしい清らかな心を頂いて生まれさせてもらいました。
その証拠に、どんな赤ちゃんの顔を見ても全部可愛いです。
どんな赤ちゃんの顔も全部安らかです。

なぜ、そのように安らかであるか、そして可愛いのかといいますと、
それは心が曇っていないから、あのようにすばらしい顔になるのです。
それがだんだんとこの世の風に当たりまして、人さまとの出会いがあり、
出会いによって体験する出来事があり、
この出来事の中で清浄な心を次第次第に曇らせていくのです。
私たちの心は自分にとって都合のいいときは安らかでいられるのですが、
自分にとって悪い都合の出来事が起こった時、必ず苦しみます。
腹を立てたり、愚痴を言ったり、相手を恨んだり、憎んだりして、
その都度自分の清らかな魂を曇らせていきます。
本来は丸く豊かな心を頂いて生まれました。

怒り、妬み、謗り、愚痴、不要な心配、取越し苦労、不安、恐怖などによって
自分の心を曇らせた時に、その清らかな魂からもくもくとスモッグが出てきます。
その吐き出したスモッグによって自分の魂の周りをくるんでしまうと、
スモッグが私たちの肉体や顔に形となって現れてきます。
苦しんでいる方のお顔を見たら、苦しい顔をしておられる。
喜びに満たされた方のお顔を見たら、喜びに満たされております。
しかも顔だけではなく、肉体そのものも喜びに躍動しております。
悲しみにうちひしがれている時は、必ずそういう顔になっています。
肉体そのものが表現しており、これは避けることはできません。
赤ちゃんは何の曇りもありませんから、あのように安らかで清らかです。


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「御垂訓

2020-11-16 00:36:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

       或るお年寄りとの対話


先週の日曜日、Fの地に招いていただきました。
三階の広間が会場になっていましたが、
エレベーターがありませんでした。
或るおじいちゃんが両側から抱えてもらってやっと部屋に
入って来たのですけど、

入るなり机の前に倒れてしまって息絶え絶えだったのです。
ちょっと息を整えてから私の前の机に坐られましたが、
ひどい喘息の発作で苦しそうでしたので、
「喘息を止めましょう」と言って光を与えますと、
忽ち発作は止まりました。
半時間ほどそのまま話をさせてもらってから、
「おじいちゃん、喘息は止まりましたね」と声を掛けますと、
「いや、わしはじっとしてたら、喘息は出ないのや」
と言うのですね(笑い)。

「じっとしてたら出ないというけど、今まで出てましたよ」と言いますと、
「家でじっとしてたら出ないのや、こうして階段を上がって
来て動いたから出たのや」とおっしゃるのです。
「まあ、それは結構でしたね」と言ったのですが、その方は家にいても喘息が
出て苦しくて堪らないから会場に来ておられるのです。
以前から苦しいので助けてあげて下さいということで、名刺に書いたものを
渡してあったのですが、いつもその名刺にお祈りして、
「長尾先生助けて下さい」
と言い続けておられたというのです。

それが、私に「あんたなあ、喘息が止まったのはあんたに関係ない」と
言われるのですよ。
「今私が、どうぞこのおじいちゃんに光をお与え下さいといって
神様に祈ったのを見たでしょう」と言っても、
「そんなことで治るはずはない」と言い張っていますから、
「では、おじいちゃん一度階段を下りて、
走って上がってきて下さい」と言いますと、
「そんなことをして苦しゅうなったらわしは叶わんから、
そんなことはしない」と、しぶっています。

「でも、しなくては分からないから、行ってきて下さい」と言うと、
おじいちゃんはしぶしぶ出て行かれたのです。
ところがおじいちゃんは、
「不思議だなあ、わし走って上がってきたのにどうもないわ」ということで、
それからそのおじいちゃんと私との愉快な対話が始まりましてね。
もう皆さん、大笑いされました。
「わしは朝一時間と晩一時間ずっと毎日神さん仏さんを拝んでいる。
あんたも拝んでいるのかい」と言われるから、「私は拝んだことはありません。
私が祈るのは、朝の祈りはトイレの中です。

夜の祈りはお風呂です」と言いますと、
「まあ勿体ない。あんたようそんなことするなあ」と、
びっくりされます。
「しかし、私はお尻を出して神様にお祈りしても神様は聞いて下さいます。
生まれたままの姿でも神様は聞き入れて下さいます。
おじいちゃんは、神様を拝もうと思ったら、歯を磨き、
手を綺麗にして拝んでいるでしょう。
でも神様は聞いてくれないでしょう」と言うと、
「そのとおりや。どうしてこんなに差があるのか、
一度聞かしてくれえ」と、まるで叱られているみたいなものでした。


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