行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」 目次

2008年10月25日 | 奥の細道
1  深川~両国       芭蕉稲荷
2  両国~千住       隅田川船旅
3  千住~栗橋       草加
4  栗橋~鹿沼       室の屋島
5  鹿沼~矢板
6  矢板~黒羽       雲巌寺
7  黒羽~白河       殺生石、遊行柳、白河の関
8  白河~日和田      須賀川
9  日和田~飯坂      安積山、しのぶもぢ摺り、医王寺
10 飯坂~大河原
11 大河原~仙台      笠島、武隈の松、宮城野
12 仙台~松島       壷の碑、末の松山、塩竃神社
13 松島~登米       石巻
14 登米~平泉       平泉、光堂
15 一関~岩出山
16 岩出山~尾花沢     尿前の関、山刀伐峠
17 尾花沢~立石寺 
18 大石田~新庄
19 新庄~羽黒山      最上川
20 月山~湯殿山
21 羽黒山~酒田
22 象潟~由良
23 由良~勝木
24 勝木~村上
25 村上~新潟
26 新潟~出雲崎
27 出雲崎~直江津
28 直江津~市振
29 市振~富山
30 富山~高岡       那古の浦
31 高岡~金沢
32 金沢~山中温泉    小松、那谷
33 山中温泉~永平寺   全昌寺、潮越の松
34 永平寺~敦賀      天龍寺、福井
35 敦賀~色ヶ浜
36 敦賀~関ヶ原
37 関ヶ原~大垣



平兵衛の「奥の細道」-37 関ヶ原~大垣

2008年10月24日 | 奥の細道
10月4日(木)晴
今朝は「奥の細道」最終日の出発だ。
関ヶ原の観光マップを見ると至る所に○○陣跡や戦場跡そして首塚等があり、簡単に見切ることは出来ない。東首塚や陣場野公園の「家康最後陣跡」を見学し、R21関ヶ原バイパスを東進、大高交差点を右折R21へ出る。近くに家康初陣跡(桃配山)がある。地図で見る限り三成率いる西軍は南宮山の毛利軍を含め鶴翼の陣構えを敷き、その中に家康率いる東軍がノホホンと入り込んだ様に見えるが、事前に十分な内応を図った上での進軍であろう。
一ッ軒交差点先から旧中山道に入ると、良く整備された道筋に松並木が美しい。垂井宿西の見付では広重の絵の複製を見、静かな街道には二基の常夜灯を配した大鳥居があり、駅入口を過ぎ相川橋を渡る。
R216を横切ると左手に広大な美濃国分寺跡がある。北に山を背負い南は広々とした平野が続き国府としては最適の地だったろう。
これより美濃赤坂の明星輪寺(赤坂の虚空蔵さん)へ向かうが、中山道に戻り道なりに進み赤坂の宿に着く。町中の虚空蔵口バス停から北へ急坂を登る。秋とは言え強い日差しの中を登ること暫し、ようやく木立の中の山門に入る。ここでは芭蕉句碑「「はとのこえ みにしみわたる いわとかな」を見る。木の間隠れにこれから進む大垣方面を望むと、吹き上げる風が汗ばんだ身体に心地よい。
山を下り街中に戻り「中山道 赤坂宿」の史跡や豪壮な矢橋家を見ながら駅に向かう。線路に沿って裏道をただただ真南に走り、中曽根町交差点で美濃路(R31)を左折大垣に向かう。養老鉄道を越え道が整備されてくると水門川はもう直ぐだ。大きな絵看板に「奥の細道むすびの地」とある
良く整備された川の両岸には「奥の細道むすびの地」の標柱(写真)や蛤塚
       蛤の ふたみに別 行秋ぞ      はせを
多くの句碑・像・住吉灯台・朱塗りの橋等がある。上流に進み大垣公園から大垣城に入る。木陰で着替え洗顔し大垣駅へ向かう
帰りの車中で「芭蕉は敦賀から大垣までの街道の戦」に何故一言も触れなかったのか等と考えているうちに東京へ18時過ぎに到着した。
帰宅後「奥の細道」無事完走を祝い、庭から摘んできた萩の花とますほの小貝を盃に入れ、ぬる燗の酒を注いでいると、女房曰く「何しているの、シジミより貧弱ね」だって。
疲れた体には大層美酒であったが、奥の細道の「種の浜」の頁を開き、食卓にそっと置き寝室に入った。
       妻と見る ますほの小貝 萩の杯   平兵衛
今日の走行距離19km
                   完

平兵衛の「奥の細道」-36 敦賀~関ヶ原

2008年10月21日 | 奥の細道
2008年10月3日(水)晴
今日は関ヶ原までの行程で7時にスタート。越前と近江の峠越えや北国脇往還道の道路事情が気になる。
気比神宮前から8号線を南下、市内の歩道のあちこちにあるメルヘンチックな彫像を覗き見し、岡山1交差点を過ぎる。JR小浜線の陸橋を過ぎると歩道は消え、大型トラックの風圧に煽られこわごわと路側を歩く。「小河口2」の信号を過ぎ、次の「小河口」交差点を左折、静かな旧道に入りホッとする。
疋田の三叉路を左折し、左に通行止めの旧道を見ながら、広い路側帯のある上り坂を進む。曽々木集落のY字路を右折(左折し刀根方面のトンネル通過は避けた方が良い様だ)し、8号線の広い歩道を喘ぎ喘ぎ上る。奥麻生入口あたりの気温は16℃と快適だが、「峠はまだか?」とブツブツ言いながら暫らく登る。峠の茶屋で一休みし近江の国へ入る。下り坂が延々と続き、ブレーキのオーバーヒートを気にしながらも近江塩津駅へアッと言う間に着いた。
塩津交差点先から左折し旧道に入ると沢屋などの旧家が残り、舟運で栄えた琵琶湖最北端の宿場はその佇まいを今に残している。
8号線の味気ないトンネルを避け藤ヶ崎の湖岸を進む。幾重にも重なる山並みが湖上に浮かび、ついには薄靄の中へ消えて行く(写真)。遥かな沖の島は竹生島だろうか?
飯浦の集落から左の旧道に入り、急坂を登り賎ヶ岳トンネル(8号線のトンネル通過は大変危険)を抜ける。左手は柴田勝家軍と秀吉軍の激戦地(1583年4月)賤ヶ岳の入り口だ。
北陸本線を過ぎ、門前町の様な坂道を上って行くと地蔵尊に行き当たる。この辺りが北国街道の木之本宿の中心だろうか。
左折し北国脇往還道(R365)を南下すると、稲刈りの済んだ田圃には彼岸花が咲き、時期外れの蝉も鳴き、遥か左手には湖面が青く霞んでいる。十一面観音の渡岸寺で一休みし、阿弥陀橋を渡り野中のレストランで昼食をとる。
右前方に秀吉が陣取ったと云う虎御前山が見え、伊部辺りで浅井長政・お市の方の悲劇(1573年8月)の舞台となった小谷城跡の標柱があり、寄り道することにした。
入口の駐車場に熊注意の案内があり、熊除け鈴を付け自転車を引いて急坂を登る。しばらく登る事2km程度か、疲労困憊し漸く城の入り口に到着する。城跡は奥深く続き、幾つかの出城を配し、山全体が要砦化していた様だ。案内板を見て納得した事にし帰路につく。楽しみにしていた降りはブレーキの多用からリムが発熱し、しばしば歩かざるを得ずガッカリだ。
R365は所々で歩道が切れ、車に注意しながら暫く進むと姉川の野村橋に着く。東上流の橋辺りが織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の「姉川の戦い」(1570年6月)の場所だ。
R356の走り難さから山裾を通る坂浅東部広域農道へ迂回した。しかし大型車・無歩道・アップダウン等で相変わらず走りにくい。やむを得ず野中の脇道を選び高番の交差点に出たが、R356の危険度は増すばかりで、遠回りだが中山道へ迂回することにした。
R551を道なりに南下、頭上を通過する新幹線を見送り、柏原宿東端に着く。東海道本線を横切り直ぐに左折、旧中山道を東に進み関ヶ原に向かう。地図上では旧街道とR21と線路の三本が縄なう様に行き来している。
長久寺集落には滋賀と岐阜の県境があり、近江路から美濃路へと替わる。落ち着いた今須宿を過ぎ、緑に覆われた峠を下ると新幹線が横切る山中の集落に出る。近くには常磐御前の墓や黒血川が流れている。
藤下の集落を下り藤古川を渡る。この川の両岸は壬申の乱(672年)の激戦地で、西岸に大友皇子軍が陣取り、東岸に大海人皇子が布陣した模様だ。
坂を登り不破の関跡を見学し、小早川秀秋が陣取った松尾山を南に見ながら関ヶ原の街に入った。今回走った旧中山道は車も少なく見所は多く、しかもゆるい下り坂が続き、北国脇往還道とは雲泥の差だった。
今日の走行距離 81km


平兵衛の「奥の細道」-35 敦賀~色ヶ浜

2008年10月16日 | 奥の細道
2008年10月2日(火)晴
芭蕉が大垣へ到着したのは遅くとも8月21日(陽歴10月4日)と言われている。願わくば其の季節感を共有したく10月2日敦賀へ向かう。今年は台風の本土上陸は無かったが、13号と15号は台湾近辺で共に直角に進路を変更し、本州の南海上を東進した。15号台風は昨日熱帯性低気圧となり東洋上に去り、全国的に快晴でこの好天は数日続きそうだ。
東京駅6:23発ひかり401号で米原乗換、敦賀へ9:27に到着した。駅前で自転車を組み上げ、昼食を調達し、今晩の宿を松原町辺りに予約。色ヶ浜に向って出発した。
駅前道路を進み8号線を横切り、土橋バス停先を右折北上し川崎町を左折。松島橋を過ぎ松原公園内を通り花城橋を渡る。道は海岸沿いの絶景が続く一本道となり、快適なサイクリングが楽しめる。これから進む敦賀半島の小崎や白砂青松の海岸線を北に望み、東に敦賀湾越しの青く霞む山波、南には敦賀の町が白く輝いている。
小さな峠を越えると数軒の二村の集落となり浜が美しい。名子の海水浴場(写真)はひっそりと人影はない。海辺には「故陸軍歩兵上等兵勲八等片山松之助之碑」が彼方の小崎を背景に立ち、半世紀以上も過ぎたであろうに、誰が活けたか真新しい菊の花が碑前を飾っていた。縄間(のま)の児童館では運動会が行われ、めずらしく多くの人々が集まって楽しげだ。児童館の前には「縄間区各家先祖代々諸精霊位供養塔」の大きな墓石があり、各家々のお墓を一つに纏めたそうで、彼岸やお盆には村人総出でお参りするとの事で大変合理的だ。
常宮神社の鳥居の横には「国宝 朝鮮鐘」の大岩があり参拝して見る事にした。石亀の口から流れ出る手水で清め、随神門を入ると軒下に多くの貝殻が展示され、小籠の中に小さな貝があり「ますほの小貝」と記されていた。奥の細道の旅行者が探し求めても見つからないと云う「ますほの小貝」を、神主さんにお願いし数個頂戴し、良く整えられた境内の維持管理のご苦労を暫し拝聴した。常宮の集落には12時の時を知らせる懐かしい歌が流れ、情景はまさに歌詞そのものだった。
       一、
         われは海の子,白浪の
         さわぐいそべの松原に、
         煙たなびくとまやこそ、
         わがなつかしき住みかなれ。
       二、
         生まれて潮にゆあみして、
         波を子守の歌と聞き、
         千里寄せくる海の気を
         吸いて童となりにけり。
       三、
         高く鼻つくいその香に、
         不断の花のかおりあり。
         なぎさの松の吹く風を、
         いみじき楽とわれは聞く。
                 明治43年文部省唱歌
沓の峠越えはややきつく自転車を引いての登りとなる。途中大きな野良犬と鉢合わせし暫し睨み合うが、犬が先に退散しホットする。手ノ浦海水浴場を過ぎ、色ヶ浜バス停から右手の道を下り色ヶ浜集落に入る。
村始めに開山堂があり芭蕉句碑「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」や西行歌碑「潮染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の濱とは 言ふにやあるらん」があり、近くの本隆寺には「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」と「衣着て 小貝拾わん いろの月」の芭蕉句碑が狭い境内に残されていた。
寺の前の浜は船溜りで貝を拾う雰囲気にはなく、岸壁から水島を眺めながら昼食のおにぎりを頬張る。
帰りのバス(敦賀駅~立石 1日3往復)を待つ間先程の野良犬とまたも鉢合わせ、人家に近いせいか、彼は一目散に逃げ去った。帰りのバスの車窓からの眺めも良く、気比神宮前で下車し敦賀市内のサイクリングに入る。
気比神宮は北陸道総鎮守・越前の国一宮で、入口には数基の石灯籠を配し朱塗りの大鳥居が神前へと導く。社殿前の広場の一隅に芭蕉像・句碑が木漏れ日の中に立っている。
         月清し 遊行のもてる 砂の上      はせを
神宮の横を北東に進み曙交差点を左折し、天満神社横を北に道なりに進むと踏切を越え金前寺に行き当たる。寺の裏手の芭蕉句碑「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」を覘き、金ヶ崎城跡へ向かう。石段手前に駐輪し、結構きつい坂を喘ぎ喘ぎ登ると眼下には無粋な貯油タンクや貯炭場が見え、せっかくの絶景がだいなしだ。
その昔この城では、足利尊氏軍に包囲された新田義貞軍の兵糧が尽き、馬を食し死者の肉を食らった所(1337年3月)とか、また織田・徳川連合軍が朝倉景恒軍をこの城で下したが、浅井長政の裏切りに遭い織田軍は「金ヶ碕の退き口」または「金ヶ崎崩れ」と呼ばれる有名な敗退戦(1570年4月)を演じた地であると言われ、本丸(月見御殿)跡から色ヶ浜方面を眺めつつ、しばし古に思いを馳せた。
市内に戻り、市民文化センター前の芭蕉句碑「国々の 八景更に 気比の月」やレストラン梅田前の「芭蕉翁逗留出雲屋跡」の石柱・芭蕉を色ヶ浜へ案内した廻船問屋跡(あみや旅館裏)を見学し、夕暮れの気比の松原(三保ノ松原・虹ノ松原とで三松原)を散策し宿に入った。
今日の走行距離 19km

平兵衛の「奥の細道」-17 尾花沢~立石寺

2008年08月29日 | 奥の細道
2007年5月13日(日)雨後晴
今日は早朝から雨模様で、しかも昨日の自転車後輪のトラブルもあり、行ける所迄行き、旅を中断する予定だ。
宿の近くにある「芭蕉清風歴史資料館」は早朝のため閉館中で、前庭に芭蕉像があり、裏手は清風宅址で人麿神社が残るのみだ。
奥の細道に「尾花沢にて清風という者を尋ぬ。彼は富める者なれども、志いやしからず。----」とある鈴木清風(通称島田屋八右衛門)に関し、彼らしい伝説が語られている。芭蕉を歓待した尾花沢の紅花豪商清風は、元禄15年江戸商人の紅花不買運動に遭い、品川の海岸で紅花を焼き捨てた。そのため紅花は高騰し三万両の利益を得た清風は、三日三晩吉原の大門を閉ざし、遊女達に休養を与えたと言う。意気に感じた高尾太夫から送られた柿本人麿像を祀った神社が、今も屋敷址に残る人麿神社との事だが、何とも粋な話だ。
芭蕉は清風の肝いりで町の北西にある養泉寺を宿所とした。この寺には「涼しし塚」や芭蕉の発句「すずしさを我やどにしてねまるなり」に対し清風が「つねのかやりに草の葉を焼」と続けた連句碑がある。寺の下の広々とした田圃からは西に葉山・月山が北に鳥海山が望めるとの事だが雨に霞み何も見えない。
ところで、芭蕉はこの地で「這ひ出でよ 飼屋が下の ひきの声」の句を詠んでいる。この句は万葉集の「朝霞 かひやが下の 鳴くかはづ----」が本歌とされている様だが、もしそうで無ければ大変だ。早春の恋の季節ならばいざ知らず、陽暦の七月前半の句だ。こんな時期に寡黙なガマさん声など出すはずがない。さもなくば蛇にでも追いかけられているに違いない。等々と考えながら芭蕉の接待係りを引き受けた村川素英の生前墓に向う。
羽州街道を南下し常信寺手前左側の観音堂に素英の墓の標柱がある。
「みちのく風土記の丘資料館」を過ぎると道は尾花沢バイパス(R13)に入る。土生田から旧道(R120)に戻り、以後R13に付きつ離れつ羽州街道を南下する。本飯田を過ぎ、左手に樹齢600年とも言われる赤松の巨木が現れる。この辺りまでは車も少なく、傘を差しながらの走行も可能であったが、楯岡の街は自転車を引いての雨中行進となる。
麩作りの六田宿を過ぎ、神町に数本残る街道の松などを眺めながら天童の街に入る。この頃には雨も上がり東風が強くなってきた。
天童の一日町から山寺街道に入り、手入れの行き届いた民家の庭先等を覗き込みながら、山寺への道を彼方の山間へと進む。
山寺駅で帰途の乗車券を手配し、駅前に自転車を置き立石寺に向う。
根本中堂前の芭蕉句碑「閑さや巌にしみ入蝉の声」や秘宝館前の芭蕉と曽良の像と句碑を見る。振り返ると念仏堂があり、ここをお参りすると“ポックリ往生出来る”との事で、賽銭を奮発する。硬貨は賽銭箱の桟に当たり跳ね返り、三度目にようやく入った。これを後ろで見ていた娘さん達が曰く「コリャ駄目だ」たって。
これより山門に入り急坂の中段に「蝉塚」がある。「静かさや岩にしミ入蝉の声」の風化した句碑だ。奥の細道に「----岩に巌をかさねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物の音聞こえず。岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。----」とあるが、観光客の多様な異国語が飛び交い、寂寞としてはいないが佳景(写真)だった。
自転車のトラブルもあり14:54発の仙山線で仙台経由東京に帰る事とした。
今日の走行距離38km

平兵衛の「奥の細道」ー16 岩出山~尾花沢

2008年08月19日 | 奥の細道
2007年5月12日(土)晴
今日は中山峠と山刀伐峠で奥羽山脈を越え尾花沢へ向う。
旧道を北へ向かい江合川(荒雄川)を渡り、上野目駅手前で羽後街道(R47)に合流し北上を続ける。進むにつれ徐々に山間に入って行き、左側のこけし像のある小黒崎観光センターに、芭蕉像と“小黒崎とみつのこじま”の説明板がある。センターの前の小山が“小黒ヶ崎山”245mで春の新緑・秋の紅葉の美しい歌枕とのことだ。
少し進むと左手に“美豆の小島”の道案内があり、田圃中の田舎道を下ると歌碑と解説板がある。歌碑には次の歌が刻してある
        古今和歌集 巻第二十 東人
  をぐろ崎みつの小島の人ならば
      都のつとにいざといはましを
いずれが本歌か知らないが、姉歯の松の歌にあまりにも似過ぎている。
水量の少ない荒雄川の中にある“美豆の小島”は菰や葦に隠れ、往時の歌枕の美しさはなく残念だが、道を教えてくれた村人の優しさと誇りに癒された感じだ。
R47を西進し川渡温泉郷・鳴子御殿湯駅を過ぎ、新屋敷交差点で羽後街道は北に向うが、北羽前街道(R47)を直進する。東北電力の発電所等を眺めながら、鳴子温泉駅を過ぎ大谷川を渡ると、左手に“こけし館”が現れる。道は登りに入るが右手に駐車場があり、尿前の関への急な下り階段が遠く林の中へと続く。
奥の細道に「----この路、旅人稀なる所なれば、関守にあやしまれて、やうやうとして関を越す。----」とある尿前の関跡は、昔を模した門や柵があり公園になっている。茶店前の石畳を下ると「尿前の関跡」の説明板があり「伊達藩の尿前境目番所であった。間口40間、奥行44間、面積1700坪、周囲には、切石垣の上に土塀をめぐらし、屋敷内に長屋門・役宅・厩・土蔵等10棟が建っていた。この関を中心に尿前の宿もあった。---」とあるが今は寂しい所だ。近くの薬師神社前には芭蕉句碑がある。
北羽前街道に戻りトンネルを抜け、中山平への登り坂を西進する。中山平の平坦部で一息つき、鳴子峡の絶景を覗き込み、いよいよ県境の峠への長い長い上り坂を車に注意しながら進む。奥羽山脈の峠を越えると下り坂になり、山形県の境田集落に入るとほっと安堵する。
R47の右側に、国の重文である「封人の家」の旧有路家があり、解体修理したとは言え300年を経ても堂々とした家構え(写真)だ。前庭に芭蕉句碑「蚤虱 馬の尿する 枕もと」がある。家守の人によると「当時も有路家は旅館業をしていたので蚤や虱は居なかった」との事だ。
尿前の関から山刀伐峠越えの「奥の細道」(歴史の道)がある様だが、今回は一般道を進む。笹森辺りで、次の山刀伐峠越えに備えカルビ定食でスタミナをつける。赤倉温泉駅手前でR28(尾花沢最上線)に入り南下する。
赤倉温泉郷を東に見ながら小国川を渡る。宮城では概ね川は南東に流れるが、山形では北西に流れる様だ。
これより山刀伐峠への上りとなるが、3km程進むと、自転車の踏み込みが非常に重くなって来た。歩き始めたところ、後輪にブレーキがかかっているではないか。原因は一本のスポークが破断し、リムを変形させブレーキに接触している為であった。今日の目的地尾花沢までは15km以上あるし、赤倉温泉駅へ戻るにも自転車を下げて行かなければならない。思案の末に、ブレーキを取り外し、切れたスポークを隣接するスポークへきつく結束した結果、何とか走行可能になった。奥の細道に「----この路必ず不用のことあり----」とあるが、その通りに成ってしまった。
山刀伐トンネル入り口に「奥の細道山刀伐峠頂上まで1.8粁」の標柱がある。トンネルをぬけると尾花沢までの下りが十数キロ続く。この間、前輪のブレーキだけで下るので、発熱する車輪を冷やさなければならず、屢歩く事になる。
市野野・関谷・押切・正厳・二藤袋の集落を過ぎ、漸く夕暮れの尾花沢に到着した。
今日の走行距離 62km

平兵衛の「奥の細道」-15 一関~岩出山

2008年08月08日 | 奥の細道
2007年5月11日(金)晴
4時45分自宅を出発、8時35分一ノ関駅着。今日の目的地は岩出山だ。
市名は「一関市」駅名は「一ノ関駅」と「ノ」の有無が異なる。
駅前を西に進み磐井川を渡り山目小の交差点を左折南下する。再度磐井川を渡りR4と東北自動車道を横切りR457を道なりに西進する。
緩い登り坂が続き、三島神社前のバス停小屋で遅い朝食をとる。この頃になると体も目覚めペダルを踏む足にも力が入って来る。人気の無い国道を暫らく進み、石兜バス停から田舎道を南下(左折)し栗駒駅(くりはら田圃鉄道)方面に向う。岩手と宮城の県境を過ぎ、小さな峠を幾つも越え、栗駒里谷スポーツランドに近づく頃には、北西の強風が吹き始めた。
奥の細道の「----平泉と志し、姉歯の松・緒だえの橋など聞き伝えて、----」と、芭蕉は歌枕の「姉歯の松」を訪ねようとしたが、道を違え石巻へ出てしまったと云う。その姉歯の松を訪れようと、田圃の中のR4を東進する。追い風に助けられ沢辺神林交差点へアッという間に到着する。直進し金成沢辺町の丁字路を左折、三迫川を二本目の橋で右岸に渡り、台地を巻くようにしてバス道を進む。左側の土手上に姉歯の松(写真)や歌碑・姉歯松碑そして説明板がある。
この辺りは「金成○○」と「金」を冠した地名が多く、「金売り吉次」やその父「炭焼藤太」が金で財を成した故郷との事だ。
姉歯の松については、その昔用命天皇の頃、宮中の女官(采女)を全国から募り、陸奥国の長者の娘・朝日姫が選ばれ、都へ向う途中慣れぬ旅路から当地で亡くなった。里人は不憫に思い墓を作り葬ったが、その後姉の代わりに都へ上ることになった妹の夕姫がこの姉歯の地を訪れ、寺を建立し姉の墓に松を植えた。里人はこれを姉歯の松と呼び後世に伝えたと言う。
この姉歯の松は伊勢物語第14段の「くたかけ」に、ややお粗末な田舎娘と都から来たプレーボーイとのやりとりを、次の歌と共に滑稽に描いている。
   栗原のあねはの松の人ならば
      都のつとにいざといはましを
陸羽街道のこの辺りは昔栄えていた様で、幾つかの館跡・義経も訪ねたと云う「鷹の羽清水」・横穴古墳を見て、姉歯バス停でR4に合流し南下する。
二迫川を渡り一迫川に沿って進み築館の街に到着する。これより山間部に入るため腹ごしらえの昼食を摂る。
東北電力前の交差点で西に右折しR398で迫の町に向うが、強い西風に阻まれ歩いた方が早いくらいとなる。
迫町手前の道を左折し、岩出山に向うR17(陸奥上街道)を南下する。集会場前のバス停から、道路標識(左岩出山市内)に従い、R17を離れ山間の道を南下する。磯田を過ぎ曲坂近くで、翼を道幅一杯に広げた大鳥(何鳥か?)が飛び立ち驚かされる。その間幾つかの小さな峠を越え、日本紙工業横を通りR47(岩出山バイパス)を上野目交差点で横切る。
江合川に架かる歩行者専用の粗末な橋を、北西の烈風に吹かれながら恐々と渡り、工場地帯を迂回し羽後街道に出る。街道に面し綺麗に整備された岩出山の仲町や本町を横切り、岩出山城跡への急坂を上ると、当城に12年間居住した伊達政宗の大きな像が高台に立っている。もう少し気が利いた像を造れなかったものか?と思案しながら、城跡にある今日の宿に入る。他には宿泊客も無く、殿様になった気分で夕食のビールを存分に楽しむ。
今日の走行距離62km

平兵衛の「奥の細道」-20 月山~湯殿山

2008年08月02日 | 奥の細道
2008年7月29(火)曇
今まで盛夏の旅はキツイので遠慮してきたが、月山~湯殿山ルートはそうもいかないので、好天を選び訪れることにした。
東京7:22発新庄行新幹線で余目経由12:28鶴岡へ到着。12:52発羽黒山頂経由月山8合目行きバスに乗車。バスは昨年訪れた日枝神社の弁天島や大泉橋を経て大鳥居・羽黒町手向(とうげ)を通過し羽黒山頂に着く。
羽黒山頂で月山に向う登山客を乗せ、手向街道(R211)を南へ進む。右手の月山高原牧場を眺め、月山3・4・5合目の尾根筋を登って行く。6合目辺り(平清水)から霧が深くなり見通しが悪く、しかも極端なヘアピンカーブが連続する。遭難事故でもあったのか救急車・消防署の赤い車2台・パトカー2台が下ってくる。霧雨の中の8合目終点(標高1400m)でバスを降ると丁度3時だった。
外は大変寒くレストハウスで雨具を着け、阿弥陀ヶ原の遊歩道を一周する。
景色は全く見えず、霧の中の花々を見つける程度で、今日の宿の御田原参篭所に4:10到着した。

2008年7月30日(水)晴後曇
参篭所を5時に出発。快晴の湿原を鶯の声を聞きながら歩き始める。高山植物の可憐な花が露を含みお辞儀しながら迎えてくれる。気まぐれな山の天気はアッと言う間に霧に包まれる事もある。ゆるやかな霧降坂や鍋割を過ぎ、雪渓を見ながら小山を越えると仏生池小屋となり6:40に到着した。
前面に頂きが見えるが頂上ではなくオモワシ山だ。行者返と云う短い急坂を越えるとゆるいモックラ坂が頂上へと続く。宿で作ってもらった朝食のオニギリを食べながら、北の鳥海山・鶴岡の町・北西の日本海を眺める。東の葉山辺りや西方は雲に覆われ、頂上にもお椀を伏せた様な雲がかかり始めた。東斜面の大きな雪渓に沿って進むと月山神社(標高1980m)に8時過ぎ到着した。
石の鳥居をくぐると境内は撮影禁止で、神主から御祓いを受け、厄を紙の人形に移し小池に流す。旅の安全を祈願し神酒を頂き退出した。
山頂で飲料水を購入したが一本五百円で1円/ccの勘定となり、トイレが百円で「オチオチ水も飲めない」等とつまらぬ不平を云いながらガスの中を南西の台地に向う。広々とした台地では東と南に登山道が分岐している。西の湯殿山への下山道近くに大きな矛先の様な芭蕉句碑「雲の峯 いくつ崩れて 月の山」がある。
ガスで周囲の風景は見えないが、神社での道案内「湯殿山への道は常に分岐点を右に進みなさい」に従い、9時前急なガレ場を湯殿山に向かい下り始めた。
道々奥の細道にある「-----三尺ばかりなる桜の莟半ば開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心わりなし-----」とある桜花を懸命に探したが見当たらない。だが高地に咲く紫色鮮やかな紫陽花(写真)の一輪に出合えた。
牛首辺りからは道が緩やかになり、左手の大きな雪渓から吹き上げる冷気が汗ばんだ体に心地よい。姥ヶ岳のお花畑を見ようと寄り道する。木道両側の満開の花々が雪渓を渡る風にそよぎ実に美しい。金姥の分岐点に戻り、装束場への道に入ると人影も少なくローカルな感じだ。
施薬避難小屋を過ぎると直ぐに急峻な月光(がっこう)坂の鉄ハシゴが続く。この頃になると膝のヒヤルロン酸?が切れ、足はガクガクだ。おまけに水月光の濡れた岩は良く滑り、ブレーキの利かない足には大変危険だ。
仙人沢の滝音を聞きながら崖崩れの泥道を過ぎ、湯殿山神社(標高1100m)へ無事到着した。時12時10分。
伊勢・熊野と並ぶ三大霊場の湯殿山神社については、奥の細道に「-----惣じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめて記さず-----」とありそれに従う。
本宮前の芭蕉句碑「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」や曽良の句碑を見る。
シャトルバス(5分)で大鳥居のある仙人沢駐車場に向かい、13:30発のバスで鶴岡駅へ向う。新潟経由東京へ20:12到着。
今回の歩行距離12km 高低差 登り580m下り880m  

平兵衛の「奥の細道」-3 千住~栗橋

2008年06月11日 | 奥の細道
2008年4月20日(日)晴
日比谷線の南千住駅で自転車を組み立て7時スタート。隅田川を千住大橋で渡り左岸の大橋公園へ向う。此処には「千住大橋と奥の細道」の解説板、「奥の細道矢立初めの地」の石柱、「奥の細道矢立初の碑」等があり、狭い公園は芭蕉一色だ。次の信号から右手の狭い旧道に入ると、仲町商店街・北千住駅前道路・サンロードへと続く。千住宿高札場や豪商の旧家など、かっての江戸四宿の宿場町の俤が所々で見受けられる。又シャッターに色鮮やかに描かれた今様浮世絵を見るのも楽しみだ。
千住新橋の歩道に取り付くにはやや面倒だ。荒川右岸西側のクネクネした歩道橋を上り橋上に辿りつく事となる。
殺風景な街中の日光街道R4を暫らく北上し、西保木間からR49に入る。すぐに東京・埼玉の境界である毛長川に出る。この川は綾瀬川の支流で、昔、川向の新里の女性が手前の舎人の男性に嫁いたが、婚家と折り合いが悪く実家に帰る途中この川に身を投げた。長い髪の毛が見つかり、神社に祀ったのが現在の毛長神社と言う。以来この川を毛長川と呼ぶそうだ。
間も無く右手の浅間神社に、一つの基壇に二つの常夜灯が並ぶ珍しい姿を見、谷塚駅を過ぎる。
右手の火あぶり地蔵尊を拝し、草加宿の旧道に入る。
由緒ありげな小なお堂・古い商家・日光街道の石柱などがある。突然真っ赤な旧形のポスト(写真)が現れ、古い街並との色彩の対照が何とも云えない。「草加せんべい発祥の地」の大きな石柱板が現れると、右手に綾瀬川が感じられ、間も無く札場(ふだば)河岸公園に到着する。
昔、この一帯は低湿地で大雨が降る度に川筋が変わる事から「あやし川」と呼ばれ、後に「綾瀬川」に変じたと言われている。当時の日光街道は、江戸から松戸を経て、当地を迂回し越谷へ抜ける道筋であった。芭蕉が訪れる少し前(1683年)に綾瀬川の直線化が成り、日光街道はこの川筋を通る様になった。
札場公園は少し下流で古綾瀬川を合わせ、レンガ造りの水門・河岸・芭蕉像・句碑・松並木と良く整備された散策路が長く続く。
綾瀬橋・蒲生駅・武蔵野線を過ぎ、瓦曽根ロータリーを左折し、越谷宿の旧家が残る旧道に入る。元荒川を大沢橋で渡り北越谷駅を過ぎR49に戻る。大袋駅辺りから道はR4日光街道となり、単調な道を北上し古利根川を春日部の埼葛橋で渡る。
R16を横切ると杉戸町に入るが、町はじめに「すきすきすぎーと」の地球儀状のモニュメントが立っている。案内板には北緯36度線上の都市としてチンタオ・ナッシュビル・ラスベガス・グランドキャニオン・テヘランそして杉戸町とある。堤根信号から左折し杉戸宿の旧道に入ると、門構えに白壁と黒塀の旧家が何軒かある。杉戸高野台駅近くには、西行法師が奈良東大寺の勧進のために平泉に向う際、何度も振り返ったと言う「西行法師見返りの松」の碑が残っている。
次の幸手宿はR4の上高野信号を左折する。古い商家やお大尽の家が散在し、電柱には昭和22年の大洪水時の冠水した水位(人の背丈程)が示されている。 また街角には「幸せの手」として有名人の手形があちこちにある。
R4に合流すると、右手に桜で有名な権現堂堤が現れる。この堤の中程に洪水を鎮めた人柱の供養塔や石碑などがあり、昔は江戸を水害から守る最前線として、治水に大変苦労した様だ。R4は行幸橋で中川を渡り、旧堤防上を北に進むけれども歩道が無く、土手下の田圃道を見つけながら南栗橋駅にむかった。今回の行程で「荒川の西遷」「利根川の東遷」が古隅田川・旧綾瀬川・元荒川・古利根川・権現川等の流路変遷からおぼろげに知る事が出来た。
今日の走行距離53km

平兵衛の「奥の細道」-2 両国~千住

2008年06月02日 | 奥の細道
2008年6月1日(日)晴
芭蕉の千住までの船旅に習い、国技館前にある両国発着場に向う。
日曜日・祝日の特定日運行の9時発「ゆらり旅」に乗船する。本日天気晴朗にして波も無く、乗客7名+船員4名の豪華船でいざ隅田川クルーズに出発。
右岸は広々としているがビルの壁が立ち上野・谷中の木々の梢は見えない。右手の左岸は高速道路に覆われ眺望はすこぶる悪い。
それぞれ個性のある蔵前橋(写真)・厩橋・駒形橋をぬけると左手は浅草だ。吾妻橋を過ぎると右手にアサヒビールのオブジェ(重さ350t)が出てくる。両岸の桜並木は1,000本以上もあると言われ、船上からの花見はさぞみごとだろう。言問橋から歩道橋の桜橋や白髭橋を過ぎ、左手の再開発地帯がしばらく続くと、右手に旧綾瀬川の合流点が見えて来る。千住発着場はもうすぐだ。
初夏のウラウラした船旅は20分ほどで終了した。「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」の頃は水もきれいだった事だろう。今じゃ魚も目が痛いだろうよ。

平兵衛の「奥の細道」-1 深川~両国

2008年06月02日 | 奥の細道
2008年3月23日(日)晴
東西線門前仲町下車。東口より地上へ出ると深川不動堂の門前町だ。ここは成田山新勝寺の別院で,寺宝などの展示があり無料で見学できる。
東に数百メートル進むと富岡八幡宮の境内に突き当たる。参道に面して神輿庫があり、中には行徳の16代浅子周慶作の大神輿が燦然と輝いている。屋根は24kgの純金で覆われ、多くの金剛石を散り嵌めた鳳凰の鶏冠は2,010個のルビーで飾られ、4カラットのダイヤの目は眼光鋭く辺りを睥睨している。製作の地行徳からは、多くの船を従えてこの地まで船渡行したそうだ。
境内裏の相撲塚を見学し、1km北の海辺橋袂にある採荼庵(さいとあん)跡へ向う。芭蕉が奥の細道へ出発した場所で、草鞋を履き笠と杖を持った芭蕉像(目次の写真)がいざ出立の構えだ。
清澄庭園内の芭蕉句碑等を訪ね、小名木川に架かる万年橋を渡ると芭蕉庵史跡・展望庭園に出る。隅田川越に佃辺りの高層ビルが見えるが、芭蕉の時代はさぞ長閑であったことだろう。公園内には芭蕉像と多くのパネルが展示されている。近くの芭蕉稲荷(写真)は芭蕉庵のあった場所で、「古池や ----」の句碑や祠がある。500mほど北に芭蕉記念館があり、庭に句碑や像そして館内には芭蕉庵跡で発見された蛙や多くの資料が展示されている。
隅田川の遊歩道に降り、広々とした川面や遊覧船を追うカモメ等を眺め、また竪川水門を迂回し、一之橋下の放置されたボロ舟等に立腹しながら、京葉道路をぬけ、東京水辺ライン両国発着所へ到着した。千住への船は4月13日まで運休との事で今日の散策は此処で終了とした。
今日の歩行距離6km

平兵衛の「奥の細道」-34 永平寺~敦賀

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月29日(火)晴
7:00スタート。R416を西に進み松岡の天龍寺に向う。
金沢からついて来た北枝との別れを惜しみ、「物書いて 扇引きさく 余波(なごり)哉」の句を芭蕉が北枝に送ったと云う寺だ。早朝の境内は白砂が清々と掃きならされ、その一隅に先程の句碑が静かに立っていた。
R416に戻り、やや走りにくい道を福井に向う。北陸本線のガードをぬけ、線路沿いに福井駅へ向う。足羽川を幸橋で渡ると、右手の山裾が左内公園だ。
奥の細道に「ここに等栽といふ古き隠士あり。-----いかに老いさらばひてあるにや、はた死にけるにや、と人に尋ねはべれば、いまだ存命にして、-----あやしの小家に、夕顔・へちまの生えかかりて、鶏頭・箒木に戸ぼそをかくす-----昔物語にこそかかる風情はべれと、-----」とある等栽宅跡が此処だ。芭蕉はここで二泊している。
R28を南に向かい、福井新駅辺りから右手の旧道を探す。菰川?に架かる玉江二の橋辺りは、昔は菰や芦が生茂る歌枕の地だった。橋の袂には玉江跡の碑があり芭蕉の句が刻されている。
趣のある街道を道なりに南下すると朝六っ橋に行き当たる。橋の袂には
    越に来て 富士とやいはん 角原の
       文殊がだけの 雪のあけぼの   西行
と芭蕉の句を刻した石碑がある。清少納言の「橋はあさむつの橋、長柄の橋-----」や新田義貞の討死を知った愛妾が涙を流したこの橋も、今では古を辿る術は全く無い(写真)。
北陸道を暫らく南下すると、右手に木立に被われた神明神社が現れ、長い参道は厳かな雰囲気を醸し出している。水落町辺りには「北陸道宿場跡」の新しい碑があり、間も無く鯖江の街を通過する。北陸本線を地下道で通過し、日野川を豊橋で渡ると武生に入る。これより先は山越えの道なので食料を調達する。R365を南下し四郎丸町から右手の旧道を進む。東には「比那が岳」の日野山が見える。これまで奥の細道で幾つかの街道を通ってきたが、この北国街道は特に昔の佇まいを伝えている。街道沿いの家々は豊で豪壮で、旅籠や武家屋敷の様な家、そして寺かと思う家が続き、昔の賑わいと繁栄が感じられる。
南条駅前を過ぎR365に合流するあたりで「鶯の関」を探すが見当たらない。
新田義貞の「そま山城」は何処かと東の山並を見る。
北陸自動車道を過ぎ、今庄ICへのガードをぬけ、右手の旧道らしき道で湯尾(ゆのお)峠へ向う。村人に峠への入り口を尋ねると、自転車を引いた様子を見てかR365への道を教えられ、元の国道に戻ってしまった。
湯尾峠を東に巻いて今庄の街に入つたが、町の中心部は駅の西側にある様だ。ここから今日の宿泊地敦賀へ列車で行く予定だったが、時間もあるので木の芽峠トンネル越えを試みる事にした。
合波・大門・孫谷の集落を過ぎ板取宿までは何とか走り登ったが、トンネル手前の直線の坂道は自転車を引きずっての歩きとなった。トンネルには幅70cm程の歩道があり、充分注意すれば走行可能だ。
トンネル内を通過中、何と無くハンドルが頼り無げに揺れる。点検したところ、何と折畳み蝶番部のボルトが抜け落ちている。自転車は真二つに割れてしまい、タクシーを呼ぼうと電話をしたが、山中のため携帯は使用不可能だ。これから海抜628mの降りを楽しもうとしていたが、落胆の極みだ。日も暮れて来て、如何しようかと頭を抱えていたところ、サイクリング中の今庄に住むS先生が、近くに止めてあった車で敦賀へ送り届けてくれた。73年の人生でこれ程人の親切が身に滲みた事は無い。S先生有難うございました。
    峠越え 深き情けの 木の芽道
    木の芽もゆ 峠越えたか 海の風    平兵衛
突然の重大トラブルで旅を諦め帰宅することにした。米原経由東京行きの乗車券が幸い入手でき、22時前に帰宅することが出来た。やれやれ、今日は本当に疲れた。
今日の走行距離66km

平兵衛の「奥の細道」-33 山中温泉~永平寺

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月28日(月)晴
山中温泉の湯は素晴しく昨夜三回今朝一回入浴し、心身共にふやけ気味だ。
朝食前にあたりを見学すべく、5時前に宿を出て大聖寺川の鶴仙渓谷遊歩道を散策する。幾何学的な“あやとり橋”からは新緑の梢が下に見え、渓谷の流れに吸い込まれそうだ。道明ガ淵あたりに「やまなかや きくはたおらじ ゆのにほい」の芭蕉句碑がある。人気も無く水音だけの渓谷をのぼり“こおろぎ橋”を渡ると街中に出る。菊の湯近くの芭蕉の館には、芭蕉と曽良の別離の像がある。この像は奥の細道の一節「行き行きて たふれ伏すとも 萩の原 曽良」と「今日よりは 書付消さん 笠の露 芭蕉」の場面の蕪村画を再現したようだが、何ともイメージを壊してしまう様に思われるが、如何なものだろうか?
この温泉町はその佇まいから今も大いに繁栄している様に見受ける。藤原三代が栄華を尽くし築き上げた平泉も「兵どもが夢の跡」と化し、この山中は「たかだか湯が出る」だけなのに、芭蕉の時代も今も人々の生活を見事に支えている。自然の偉大さには感服だ。
朝食を済ませ7時に宿を出る。北上し塚谷交差点を左に入りR364を大聖寺に向って道なりに進む。路肩が狭く走りにくい道が続くけれども、くだり道には助けられる。北陸本線を潜り東町交差点を左折し大聖寺駅前を過ぎる。小川の手前を右折すると全昌寺に出る。
ここで曽良は「終宵(よもすがら) 秋風聞くや 裏の山」の句を、あとを追う芭蕉が「庭掃いて いづるや寺に ちる柳」を残した。これ等の句碑は境内の「はせを塚」にある。
寺を出て左に進み、R305を道なりに西進。北陸自動車道をぬけると右手に大聖寺川が並進する。前方の小山の新緑が日を受けて銀色に輝いている。まもなく吉崎の蓮如の里の仏閣が城郭の様な姿を現す。
北潟湖を開田橋で渡り芦原GCのクラブハウスを訪れ、汐越の松への案内を請う。500m程離れた海岸近くの松林に、朽ち果てた最後の汐越の松が横たわっている。沢山の若木が育てられているが、徐々に松喰虫の被害が広がっているそうだ。
西行とも蓮如の作とも云われる
      終宵 嵐に波を はこばせて
          月をたれたる 汐越の松 
を思い起こし、木の間に見える穏やかな海と僅かな潮騒を聞きながら一時を過ごした。
北潟湖西岸のR305を南下し丸岡城をめざす。この湖岸の道は路肩が無い部分と湖水側に広い歩道を持った所がある。周囲の風景は水と新緑の山と遠くの村々が絶妙なバランスにあり美しい眺めだ。調子に乗って湖岸の歩道を飛ばしていたとこ、歩道を横切る溝の蓋が落ち込んでおり、後輪が激突しスネークバイトとなる。日之出橋袂で30分程のパンク修理を行い再出発する。
R120からR29に入り幾つかの小さな峠を越え坂ノ下(さかのしも)に着く。左折し川沿いの道を芦原温泉駅に向かい、汐見医院の辻を右折しR9を南進する。
北陸本線を越えると広々とした田園地帯となり、彩り鮮やかに新緑が覆った山並みが田面に映っている。
丸岡はこじんまりとした城下町で、高台の丸岡城の天守閣は、現存天守閣の中で最古の遺構とのことだ。桜の時期は城が霞の中に浮かんでいるようで「霞ケ城」の別名もあると言う。また城内には本多作左衛門の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の石碑がある。
R17と並進する山際の旧道?を利用し永平寺に向う。九頭竜川を鳴鹿橋で渡り、「えちぜん鉄道」を横切り、R364の東側の山沿いの人気のない道をのぼり、荒谷でR364に合流し永平寺に入る。
兼六園と同様に韓国・中国の旅行者が多く見られたが、中には黄色い僧衣をまとったタイの聖職者と思しき人達も参拝いていた。
苔むした境内と流れる清水、巨木の間に軒を連ねる七堂伽藍、数知れぬ群れなす堂宇(写真)、静寂の中にもこの寺の隆盛を感じる一時であった。
山をくだり永平寺口駅近くの宿に17時過ぎ到着した。パンクしたチューブの補修、洗濯、旅程の確認と結構いそがしい。
今日の走行距離 65km

平兵衛の「奥の細道」-32 金沢~山中温泉

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月27日(日)晴
金沢駅を7:00に出発。元車・片町(芭蕉の辻)交差点を経由し犀川大橋に着く。左岸上流の土手に芭蕉句碑が犀川を背に立っている(金沢は何処も彼処も”あかあかと日は難面なくも-----“の句ばかりだ)。段丘上の成学寺に秋日塚と芭蕉句碑があり、あたりは寺町らしく、寺々の一角に願念寺がある。寺には一笑塚や一笑辞世句「心から 雪うつくしや 西の雲」、そして芭蕉句碑「つかもうごけ 我泣声ハ 秋の風」等があり暫し留まる。
「小鯛さす 柳すずしや 海士が軒」の金石町(西浜)は横目で見過し、安宅の関に向った。
R157からR29に入り松任の街を過ぎ、田圃の中の松任美川線を南西に向う。米光町辺りの田の畔には、室町時代の満福寺跡の碑があり、むかしはこの辺を北陸道が通っていたのだろうか?
美川宿を過ぎ手取川を渡り小舞子駅前を通過。北陸自動車道の下を抜ける“ぬかるみの地下歩道”に不平を云っている間に、安宅の住吉橋に到着する。
右手の森が住吉神社で、その裏手が安宅の関跡(写真)だ。海岸線一面に白い花が咲き誇り、打ち寄せる波には、義経主従の其の時の緊張感は今は無い。
浮柳新橋・R25を経て京町交差点を右折し小松の市街に入る。相変わらず融雪水の赤茶けた道路が続くが、宿場町の俤を残す街並みには、落ち着ついた雰囲気が漂い、将来に残していきたい街だ。本折町の日吉神社には「芭蕉翁留枝之地」「しほらしき 名や小松ふく 萩薄」の碑があり、また多太神社には「むざんやな 甲の下の きりぎりす」の大きな新しい芭蕉句碑が見られる。
これより那谷寺へ向うが、JRの線路に並進しながら南下する。小松製作所の前に出ると左折し、陸橋でJRを越えR8を南下し、二ッ梨交差点を左折する。道なりに進み加賀芙蓉CCを抜けると目的地は目の前だ。
那谷寺は那智勝浦の那智山青岸渡寺の「那」と岐阜の谷汲山華厳寺の「谷」を合わせ名付けたとのことだ。奇岩と清らかな流れ、苔むす庭と時古る木々に抱かれ、暫し旅の疲れを癒す。境内の芭蕉句碑「石山の 石より白し 秋の風」を吟じながら山中温泉宿に向って出発した。
R11を南に進み、山代温泉街を過ぎ、長く走りにくい登りの道をひたすら走り続け18時前に宿へ到着した。
今日の走行距離 65km

平兵衛の「奥の細道」-31 高岡~金沢

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月26日(土)晴
宿を7:00に出発。高岡北口駅前のR40を西に進み、羽広町東交差点を左折しR24を南西に進む。西高岡駅近辺の北国街道は、宿場の面影を色濃く残している。
宝来町交差点からR266の旧道を道なりに進む。大野辺りには「旧北陸道(ほくろくどう)往還の松跡」に次世代が植え継がれている。福岡駅近くの旧道沿いには、旅籠かと思われる大きな旧家が何軒も並んでいる。それ等が融雪水で赤茶けた街道に妙に馴染んでいる。岡南交差点でR8を横切り西芹川で再度R42に合流する。
石動の町を過ぎ左折し、石坂を過ぎ松永バス停手前を案内板に従い右折、あとは道なりに自転車を引きずりながら倶梨伽羅峠に向う。当日は八重桜祭りが行われ無料の茶菓子接待があり、また峠では綱引き大会も催されるとの事で、NHKのキャラクターも入り大賑わいだった。静かに古戦場を巡ることも出来ず、早々峠の降りに入り、アッと言う間にR8に到着した。八重桜は実に見事に咲いていたが、紅色が圧倒的に多く白は殆ど無い。平家の軍勢が多かったからか?勝利した源氏の白色をもう少し増やした方がバランスがとれると思うが?
東荒屋では九州南端から北海道北端までぶっ通しで歩くと言う人に会う。エールを交換し健闘を祈る。
津幡駅辺りから旧街道R215に入る。北森本辺りでは昔日を偲ぶ往還の松が数本残っていた。森本でR159に合流し、並進する旧北国街道を見つけては寄り道しながら山の上まで快適に進む。浅野川を浅野川大橋で渡り、左岸下流の高台に泉鏡花生誕の地があり、その筋向いに北枝宅跡という案内板がある。
その後、兼六園下の交差点に達した頃には、西の空に黒雲が湧き上がり、稲妻と雷鳴が轟き激しい降雨となった。暫し雨宿りしたがやむ気配が無く、雨具に着替え金沢駅近くの宿に向った。残念ながら宿に着いた頃には青空が覗き始め、荷物を宿に置き再度兼六園に向った。雨後のしっとりとした園内の雰囲気はまた格別の趣がある。山崎山(写真)の登り口にある芭蕉句碑「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」を訪ね、金沢城公園を一巡し宿に向う。
今日の走行距離55km