行徳平兵衛の徒然

とりあえずは奥の細道の自転車放浪記

平兵衛の「奥の細道」-33 山中温泉~永平寺

2008年05月16日 | 奥の細道
2008年4月28日(月)晴
山中温泉の湯は素晴しく昨夜三回今朝一回入浴し、心身共にふやけ気味だ。
朝食前にあたりを見学すべく、5時前に宿を出て大聖寺川の鶴仙渓谷遊歩道を散策する。幾何学的な“あやとり橋”からは新緑の梢が下に見え、渓谷の流れに吸い込まれそうだ。道明ガ淵あたりに「やまなかや きくはたおらじ ゆのにほい」の芭蕉句碑がある。人気も無く水音だけの渓谷をのぼり“こおろぎ橋”を渡ると街中に出る。菊の湯近くの芭蕉の館には、芭蕉と曽良の別離の像がある。この像は奥の細道の一節「行き行きて たふれ伏すとも 萩の原 曽良」と「今日よりは 書付消さん 笠の露 芭蕉」の場面の蕪村画を再現したようだが、何ともイメージを壊してしまう様に思われるが、如何なものだろうか?
この温泉町はその佇まいから今も大いに繁栄している様に見受ける。藤原三代が栄華を尽くし築き上げた平泉も「兵どもが夢の跡」と化し、この山中は「たかだか湯が出る」だけなのに、芭蕉の時代も今も人々の生活を見事に支えている。自然の偉大さには感服だ。
朝食を済ませ7時に宿を出る。北上し塚谷交差点を左に入りR364を大聖寺に向って道なりに進む。路肩が狭く走りにくい道が続くけれども、くだり道には助けられる。北陸本線を潜り東町交差点を左折し大聖寺駅前を過ぎる。小川の手前を右折すると全昌寺に出る。
ここで曽良は「終宵(よもすがら) 秋風聞くや 裏の山」の句を、あとを追う芭蕉が「庭掃いて いづるや寺に ちる柳」を残した。これ等の句碑は境内の「はせを塚」にある。
寺を出て左に進み、R305を道なりに西進。北陸自動車道をぬけると右手に大聖寺川が並進する。前方の小山の新緑が日を受けて銀色に輝いている。まもなく吉崎の蓮如の里の仏閣が城郭の様な姿を現す。
北潟湖を開田橋で渡り芦原GCのクラブハウスを訪れ、汐越の松への案内を請う。500m程離れた海岸近くの松林に、朽ち果てた最後の汐越の松が横たわっている。沢山の若木が育てられているが、徐々に松喰虫の被害が広がっているそうだ。
西行とも蓮如の作とも云われる
      終宵 嵐に波を はこばせて
          月をたれたる 汐越の松 
を思い起こし、木の間に見える穏やかな海と僅かな潮騒を聞きながら一時を過ごした。
北潟湖西岸のR305を南下し丸岡城をめざす。この湖岸の道は路肩が無い部分と湖水側に広い歩道を持った所がある。周囲の風景は水と新緑の山と遠くの村々が絶妙なバランスにあり美しい眺めだ。調子に乗って湖岸の歩道を飛ばしていたとこ、歩道を横切る溝の蓋が落ち込んでおり、後輪が激突しスネークバイトとなる。日之出橋袂で30分程のパンク修理を行い再出発する。
R120からR29に入り幾つかの小さな峠を越え坂ノ下(さかのしも)に着く。左折し川沿いの道を芦原温泉駅に向かい、汐見医院の辻を右折しR9を南進する。
北陸本線を越えると広々とした田園地帯となり、彩り鮮やかに新緑が覆った山並みが田面に映っている。
丸岡はこじんまりとした城下町で、高台の丸岡城の天守閣は、現存天守閣の中で最古の遺構とのことだ。桜の時期は城が霞の中に浮かんでいるようで「霞ケ城」の別名もあると言う。また城内には本多作左衛門の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の石碑がある。
R17と並進する山際の旧道?を利用し永平寺に向う。九頭竜川を鳴鹿橋で渡り、「えちぜん鉄道」を横切り、R364の東側の山沿いの人気のない道をのぼり、荒谷でR364に合流し永平寺に入る。
兼六園と同様に韓国・中国の旅行者が多く見られたが、中には黄色い僧衣をまとったタイの聖職者と思しき人達も参拝いていた。
苔むした境内と流れる清水、巨木の間に軒を連ねる七堂伽藍、数知れぬ群れなす堂宇(写真)、静寂の中にもこの寺の隆盛を感じる一時であった。
山をくだり永平寺口駅近くの宿に17時過ぎ到着した。パンクしたチューブの補修、洗濯、旅程の確認と結構いそがしい。
今日の走行距離 65km


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