Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#231 1981年 ドラフト候補 ①

2012年08月15日 | 1981 年 



ロッテの三宅スカウト部長が居並ぶ各球団のスカウト達を前に「金村(報徳学園)はウチのものだぜ。どこも手出しは無用だよ」と叫んだという話が瞬く間に広まった。ロッテには他球団が太刀打ち出来ないルートがあると言われている。今年の甲子園大会は金村に始まり金村に終わったと言っても過言ではない。三宅スカウトが何を言おうが各スカウトは金村の話になると語調は強まる。

「スイングの速さはプロ並み(巨人・伊藤スカウト)」「柔らかさと強さを兼ね備えている所は中西太、王貞治以来(中日・田村スカウト)」「原や石毛の高校時代よりも上(大洋・湊谷スカウト)」「今のままでもファームの中軸を打てる(日ハム・三沢スカウト)」・・いやはや中には眉唾ものの評価もあるが、大打者になれる素材である事に間違いないようだ。投げる方はと言えば「ウチの西本のようなタイプになれる(伊藤スカウト)」「投手でもプラスアルファを持っている(広島・木庭スカウト)」との意見がある一方で「入団したら打者一本で行くように説得する(田村スカウト)」など評価は分かれる。家から見上げる小高い丘に阪急・長池コーチの豪邸があり、「プロに入ってあんな家を建てたい」「阪急のエースになるのが夢」と言った話が流れて阪急関係者がニンマリしたと言う。

「投打総合のNo,1」が金村なら「投手のNo,1」は松本(秋田経法付)である。「走者が出てから力強い投球をするなどメリハリがある(近鉄・中島スカウト)」「打者の力量に合わせて投球できるスマートな投手(阪神・田丸スカウト)」「15勝投手になれる素材(三宅スカウト)」等々。懸念は松本本人に社会人志向があり、両親は大学進学を希望するなど指名しても拒否される可能性がある事だ。去年の高山や川村の二の舞はゴメンと各球団は身辺調査に懸命だ。

松本に次ぐのが工藤(名電高)・古溝(福島商)・高木(北陽)の左腕トリオだ。工藤のカーブは即プロで通用するというのが各スカウト異口同音のようだ。スカウト界の長老である丸尾顧問(日ハム)によると上半身の使い方が江夏や鈴木啓にソックリらしい。入札競合が確実な金村を回避して1位指名を目論んでいる球団もある。それに渋い顔なのが地元の中日で、隠し玉のつもりが一気に全国にその名前が広まってしまった。高木も地元の南海・阪神・近鉄が密着マークをするなど上位指名の可能性もある。逆に甲子園での出来が今ひとつだった古溝の評価は下がる一方だが、中には「時間はかかるかもしれないが地肩が強いのが魅力。プロでじっくり鍛えればスピードも増すしキレも出てくる。魅力的な素材ですよ(西武・宮原スカウト)」と認める意見もある。

甲子園不出場組にも光る素材が豊富だ。各スカウトが二重丸を付けるのが槙原(大府)、片瀬(榛原)、西岡(法政二)の3投手だ。「何しろ終速で140㌔を出すのだからスピードだけなら高校No,1じゃないかな」と槙原に関して詳細なデータを得ている伊藤スカウトの巨人は上位指名を考えている。もちろん巨人以外の全球団のスカウトも大府詣でを済ませている。全球団という事では片瀬も同じで常時138㌔を出す柔らかなバネの利いた身体使いが魅力で、唯一の欠点は大舞台での経験が無い事くらい。西岡も一部で伝えられた肩痛も大事には至らず3人とも3位指名までには消えている筈の逸材だ。
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#230 ザ・プロ野球選手 ③

2012年08月08日 | 1981 年 

柏原純一 … 前期243打数63安打の2割5分9厘だった男が8月25日時点で2割9分8厘、後期だけで言えば3割6分6厘だ。打点も前期65試合で36打点だったが後期は42試合時点で早くも36打点となった。「調子がいい?そうでもないよ。前期はやたら考え過ぎて失敗したから今は結果を恐れず無心で打席に立っている」と無欲を強調する。

いわゆる "肥後もっこす" でさっぱりした性格。南海時代の育ての親の野村克也氏が「純一に欲が出てきたら鬼に金棒なんだが…」と言うくらいガツガツしていない。そんな男が近頃は欲を持ち始めた。「プロである以上、一度は優勝しなくては選手として一人前とは言えない。その為に自分が何をすればいいのかを考えるようになった」と今年からキャプテン兼選手会長が熱く語る。豪放磊落な柏原が後期に入ると不眠症に悩まされた。個人成績はグングン上昇しているのにチームの牽引車としてのもう一人の柏原は眠れぬ夜を過ごすようになる。

そんな柏原に「意外性のある選手」という新たな称号がついた。観衆をアッと驚かすプレーをやってみせるからだ。7月6日の対ロッテ戦の6回表、ヒットで出塁して2つの内野ゴロで三進すると打者大宮の時にホームスチールを成功させた。また7月19日の対西武戦の6回裏2点リードの二死三塁で柏原、西武ベンチは永射に敬遠を指示し次打者のソレイタとの勝負を選択した。その3球目、柏原が高目の球を飛びつくように打つと打球は左翼スタンドへ消えた。

腰痛、風邪、不眠症と実は一日として無病息災だった事はない。しかし周囲は柏原の愚痴や弱音を聞いた事がない。だからこそ若手や多くのナインが柏原を信頼しているのだ。「江夏さんにも言われたが後期は最後の最後までシビレる試合が続くだろう。ウチは優勝経験が無くプレッシャーに弱いと言われているけど決してそんな事はない。経験豊富なチームにだって "初めて" の時はあった。皆が通る道なのさ」 べらんめぇ口調の大沢監督が親分なら柏原はさしずめ次郎長一家の「大政」だろうか。



田淵幸一 … 後期の西武は走者をためて一発ドッカ~ンという場面が減ってきた。単打をつなぎバントやエンドランを絡めるソツのない攻撃が売りだ。12試合ぶりに先発復帰した田淵だが、四番を外されて阪神時代にも経験しなかった六番に据えられた。今の打順を見るとチームにおける田淵の存在価値が薄くなったと言わざるを得ない。5月22日の近鉄戦から田淵が欠場するとチームは10連勝。8月12日の日ハム戦からの5連勝も田淵をベンチに温存した時だった。

田淵が先発で出場すると打線のつながりを欠き得点力が低下し勝てないのは単なる偶然ではない。象徴的な場面が8月20日のロッテ戦だ。ロッテは7回と9回のピンチを二度ともクリーンアップを敬遠し田淵と勝負して逃げ切った。離婚・再婚問題と今年の田淵はグラウンド外での活躍?が見られるが、現在の不振の原因はそうした精神的な事より肉体的な衰えにあると見る専門家が多い。

ここへ来てトレードや引退を取り沙汰されるようになった。もちろん田淵本人は来季も西武でプレーするつもりでいる。だが田淵の四番復帰構想は現在の根本体制にはない。それどころか立花が復帰すれば大田が指名打者に戻り、田淵は再びベンチの控えに逆戻りだ。「今のウチは個人の名前で野球をするチームではない。常にチーム全体を見渡して適材適所の起用で勝利を優先させる」と根本監督は断言する。球団内から「やはりパ・リーグの水が合わないようだ。慣れ親しんだセ・リーグに戻してやるのが本人の為でもあるのではないか」とトレードを模索している情報が漏れ伝わって来る。現に解雇が決定的なスパイクスの後釜に中日が調査を始めたとの話もある。

人気面でもNo,1の座は今や石毛に明け渡した。確かに新球団旗揚げの際に興行面で貢献したのは田淵だった。それもあって球団は田淵の処遇を邪険に扱う事はしないだろう。あくまでも本人の意向を優先するつもりだが来季も西武に残っても先発出場の確約を与える事はない。残留か移籍か引退か、吹き始めた秋風の中に立ち尽くす田淵にとって残り試合は、まさに選手生命を賭けた挑戦と言える。
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#229 ザ・プロ野球選手 ②

2012年08月01日 | 1981 年 



福本豊 … 一時は打率が2割5分台まで落ち、66kgしかない体重が60kgにまでなった。どんな時でも明るさを失わなかった男がヤツレきっていた。「俺はフィーリングで打つタイプ。打席での構え方やスイングの形など気にした事なんて無かった。これまでにもスランプはあったけど今度のはいつものとは違っていた。そのうち…と楽観してたけど一向に調子は上がらず焦るばかりでドロ沼にはまり込んでしまった」「打てなくなると藁にもすがるようになり、普段は気にしないフォームをいじって事態はさらに悪化してしまった」と本人が振り返るスランプによる精神的落ち込みはプロ入り最大の危機だった。打撃不振は守備にまで影響して凡ミスを連発して上田監督から名指しの批判を浴びた事もあった。

「お・い・あ・く・ま」不振のドン底で福本が思い出したのはプロ入りしてすぐに中田(現二軍監督)から教わった教訓だった。"おごるな・いばるな・あせるな・くさるな・まような" との教えだった。今の自分にあてはまる事ばかりだと気づいたのだ。職人肌の福本は元来チームの順位には無関心だった。上位にいる事に越した事はないが、まずは自分の成績重視だった。「チームの事が気になったのは自分が打撃不振に陥って暫くしてから。俺が打てなくなってからチーム成績も一緒に落ちていった。いかに自分の不振がチームに迷惑をかけているのかを気づかずにいたのが恥ずかしかった」と振り返る。これを機に福本は変貌する。宿舎ではバットを振り続け、休みを返上して特打ちに出向いた。

きっかけさえ掴めば実力があるだけに結果はすぐに現れ、8月21日からの近鉄3連戦では11打数6安打・7打点と切り込み隊長の実力を如何なく発揮した。生涯目標は1000盗塁。今年中に王の本塁打数に並ぶ868盗塁が目標の福本の足は打撃復活と共にスピードアップしてきた。上田監督は言う「前期は本当に動きが悪かった。名指しで叱った事もあったが、それはチームにおける彼が占めるウェートがいかに大きいかという事の裏返し。現に今は彼が打って走ればベンチはグッと活気づく。不振脱出よりもその事に彼自身が気づいてくれた事の方が大きい」と。

「若い時は自分が精一杯やれば良いと考えていた。でも今はどんな形でも、他の誰が活躍してもいいからもう一度優勝したいと切実に思うようになった」自分の成績ばかりを追ってきた男がチームを考えるようになってきた。今季のパ・リーグは東高西低が顕著で、何とか阪急が上位を狙える位置にいる。「確かに日ハム・ロッテ・西武は強いけどウチもまだまだ諦めていない」この11月で34歳になるベテランが牽引する阪急が混戦の後期に割って入る。






門田博光 … 昭和46年、120打点で打点王のタイトルを獲得して以来10年ぶりにチャンスが訪れた。7月に王を超える月間16本塁打の日本記録を達成し、8月になっても勢いは衰えを見せない。山口県に生まれた門田は幼い頃に奈良県に引越し、五条中学~天理高という野球人生をスタートし、名門・天理高時代には甲子園に四番打者として1度出場した。今の身長172cmは高校時代と同じ。門田は「背が伸びないのなら筋力をつけよう」と我流の筋トレをやるようになった。2つのバケツにセメントを流し込み持ち上げる原始的?な腕力養成法を高校の3年間続けた。

社会人のクラレ時代には合宿の大鏡の前で1年中、毎晩素振りをして鏡の前の板の間に門田の足型が残ったというエピソードがある。1つの事をやり始めると、とことんやり続ける性格は昔から変わらない。昭和54年のアキレス腱断裂という大怪我を克服する為にリハビリをこつこつと地道に続けられたのも彼の不屈の闘魂あればこそだろう。「俺の生きて行く上での信条は "自分に嘘をつかない人生を" だ。負けたと思ったらそこで終わり。大好きな野球を辞めたくないという気持ちに正直に、まだまだ終われんという気持ちを持ち続ける事が大事なんだ」と苦しかった時を思い浮かべながら充実したシーズンを門田は送っている。

本塁打と打点部門でソレイタ(日ハム)とテリー(西武)と争っている。「チームはここ数年低迷していて、そういう環境で緊張感を維持し続ける事は難しい。でも今年は上位に食い込むチャンスがあってチームも俺もモチベーションは近年になく高い」喜怒哀楽を表面に出さず内に秘めるタイプの人間は一度燃え始めると手のつけられない爆発力を発揮する。門田は決して自分から前にシャシャリ出ようとはせず控えめに振舞う。爆弾を抱える門田の両足の為に純子夫人は手製のサポーターを編んでいる。鮮やかな色とりどりのサポーターを家では着用しているが、球場へは地味な色のを選んで行くのも門田らしい。そんな地味な男が二冠を目の前に派手な働きを続ける。


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#228 ザ・プロ野球選手 ①

2012年07月25日 | 1981 年 


子供の頃にプロ野球選手と言われ思い浮かべたのは、いかつくてオッサン臭を撒き散らしながらプレーするベテラン選手で派手さは無くても仕事は出来る「ザ・プロ野球選手」達でした。


加藤英司【松下電器 → 阪急:通算 2028試合 2025安打 374本塁打 打率.297】
プロ入り13年目の33歳。この男に対するイメージは「ダーティ」だ。一匹狼、暴れん坊、反逆者・・。が、加藤はそんな声にも平然としている。「妙に穿った目で見る人がいるけど俺の生き方を理解してくれている人もいる。八方美人的な付き合い方は俺には無理だ」昭和53年の暮れ、当時の上田監督との衝突もそうだった。ヤクルトとの日本シリーズに敗れた夜に上田監督は宿泊先の水道橋のグリーンホテルで、報道陣に対して「新聞の締め切り時間も過ぎたから…俺は今年で辞める」と監督辞任を表明した。敗れた事以上に大杉の本塁打に対する抗議で日本シリーズというプロ野球界最大のイベントに泥を塗ってしまった責任を取るというものだった。

その場にホロ酔いの加藤が戻ってきた。加藤を見た上田は「おいヒデ、お前は情けないゾ。負けて悔しくないのか、阪神から田淵とのトレード話が来てる。シャッキリせんと本当に出されるゾ」と諌めた。これに血の気が多い加藤がキレた。「そんな話は辞めていくアンタには関係ないだろう、黙っていてくれ!」と言うなりイスを蹴り上げた。加藤としては「監督が辞めると聞いてそりゃショックだったよ。だけど責任のある立場の人が公の場で口にした事を選手が説得しても無駄だろ。興奮した事は反省しているが、俺は監督を引き止めんよ」と加藤なりに考慮したのだそうだ。その上田監督が3年ぶりに今季から復帰。今の加藤は選手会長&主砲としてチーム再建に乗り出した監督を支える立場の選手になっている。「俺が一番驚いたのはヒデの成長や。嘘をつけない性格は今も昔も変わらないが、久しぶりに話してみて凄く大人になっていた。ヒデには何も言わんでも大丈夫や、プロ中のプロになっとったわ」と上田監督も加藤に対して全幅の信頼を置いている。

人は加藤を天才と呼ぶ。確かに腰を開きバランスを崩されても球をバットの芯で捉える技術は天才の域にある。昨年までの通算打率.314 は若松、張本に注ぐ3位。ONや打撃の神様・川上哲治よりも上なのだ。「捕手というものは2ストライクと追い込んだ後にどんな球で討ち取るかを考えて逆算して投球を組み立ててリードをする。ところが加藤は追い込まれてヒット狙いに切り替えるとボール気味の球でも芯を外さない。彼の場合は早打ちして大振りしてくれた方が討ち取りやすい。本当に厄介な打者」 とインサイドワークに定評があった野村克也も脱帽する選手なのだ。しかし、加藤自身は「天才」と呼ばれるのを嫌っている。「バッティングとは何か。今は勿論、引退しても分からないだろうね。こんな難しいスポーツはない。いつも恐怖心を持ちながら打席に立っているんだ」と心情を吐露する。





水谷実雄【宮崎商業 → 広島東洋:通算 1729試合 1522安打 244本塁打 打率.285】
7月14日の阪神11回戦、腰痛の為に欠場したライトルに代わって四番に座り、敗戦目前の9回裏二死の場面で工藤から引き分けに持ち込む14号本塁打を放ち重責を全うした。昭和54年5月26日以来となる最下位に落ちるなど、2年連続日本一の栄光を手にしたチームとは思えないほどに低迷している今季。水谷もチーム同様に開幕当初は成績も低迷していたが夏場を迎えて徐々に上昇してきた。8月4日現在、打率.343 で藤田(阪神)・篠塚(巨人)に次ぐ3位。水谷には3年前に若松(ヤクルト)と熾烈な首位打者争い繰り広げタイトルを手中にした経験がある。「タイトルは狙って取れるもんじゃない。欲を出せば必ず崩れますから」と語る。

3年前の首位打者である割りに印象が薄いのは前を打つ山本浩のまばゆさと昭和54・55年と2年連続日本一への貢献度が低かったせいかもしれない。その2年間の打率は.260 .270 と振るわなかった。「結果に一喜一憂して、打てば慢心し打てなければ焦る。1年を通して平常心で野球をやる事の大切さを学んだよ」と振り返る。2年連続不振でも連続日本一のお蔭で年俸(推定2千万円)は下がらずに済んだ。「成績が悪かったのに給料を下げなかった球団に恩返ししなくちゃね」と今年は捲土重来を誓う。3年前の首位打者のタイトル以外とは縁が無く月間MVPすら受賞した事がない。「結果よりも過程を大切にしている。万全の状態で打席に立てるようにする事が重要なんだ。五体満足で野球が出来る今は幸せ」と語るには理由がある。

宮崎商の投手として甲子園のマウンドを踏み広島東洋カープへの入団が決まった頃、突然の慢性腎臓炎で入院。医師からは「野球のような激しいスポーツを今後も出来る保証は無い」と宣告された。当然キャンプ期間中は病院のベッドの上で過ごした。家族や学校関係者らの周囲からは契約金を返して野球を諦めるよう説得されたが本人は頑として首を縦に振らなかった。奇跡的に病状は回復したものの今度は投手失格の烙印を押され野手転向を余儀なくされた。代打で実績を残してようやく入団5年目には外野の一角を手にしてベストナインにも選ばれたのも束の間、外人選手導入が本格化し再び代打に戻ってしまった。

「ミズタニを使う用意はない」と宣言したのは球団初の外人監督・ルーツだった。「悔しかったね。実力では絶対に負けてないと思っていたけど、外人を連れて来ると無条件で先発で使うからね」苦しかった日々は酒に逃げた事もあった。「家に帰って女房に話したところで分かってもらえる筈もないから黙ってジッと我慢の毎日。酒に頼るしかなかった・・いくら飲んでも気持ちは吹っ切れない。そこでブッ倒れるまでバットを振った。それでようやく落ち着いたんだ。野球選手は体を動かしてナンボだからね、毎日試合に出られる今が凄く幸せなんだ」 つい最近まで食事療法を強いられていた男に二度目のタイトル獲得のチャンスが訪れている。





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#227 練習生の成功例

2012年07月18日 | 1981 年 



典型的な現代っ子である。ヒーローになれば全身で喜びを表現し、チョンボをしても頭を掻きながらペコリと謝るも決して落ち込んだりしない。そんな性格なのかプロ入り初の二番打者に抜擢されても物怖じせず3打数3安打(1本塁打)4打点、翌日も3安打の大活躍で遂には三番打者に昇格した。

今から4年前、小倉工を中退した松永は地元の百貨店でアルバイトをしていた。プロ入りの夢を捨てた訳ではなかったが、毎月決まった金額で生活する事は何故か好きにならなかった。一か八かの勝負に賭けて練習生の待遇条件で阪急入りした。昨年までの2年間は一軍では何一つ成績を残していない。今季の年俸が300万円と一軍最低保障額に満たないのも当然で、12球団イチ安サラリーの三番打者なのである。「お金の話ばかりするのはイヤらしい気もしますけど、ボクはお金を稼ぐ為にプロに入って来たんです。だからお金の為に頑張ります。これがボクの野球哲学なんです」

順調に成長してきたとはいえ真の三番打者になる為には、まだまだ険しい道が待っている。「野球がそんなに甘くない事は分かっています。でも物事を悪い方に考えてばかりいては話になりません。今は前向きに進んで行くしかないですよ。お金に対する執着心をボールにぶつけていくだけです」 ウルフと呼ばれる筋肉の持ち主で握力は70㌔を超える。12球団イチ安い年俸の三番打者でも可能性の大きさは無限大だ。



後の伊東・大豊・中込などドラフトの裏技と言える球団職員という「囲い込み」ではなく、純粋な練習生として成功した稀なケースでした。




1978年 2月 6日 号 『練習生』
     
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#226 第3の助っ人・郭源治 

2012年07月11日 | 1981 年 



「郭源治が初めて試合で投げる」・・チームは低迷が続き、夏場に入ってめっきり明るい話題がなくなった中日にとって久々のニュースであった。来日して3週間目の8月18日の南海戦、午前11時過ぎに始まった二軍戦のネット裏には各社スポーツ紙の記者たちが一軍の試合並みに詰め駆けた。

試合開始後いきなりピンチに見舞われた。連打と四球で二死満塁、打席にはドカベン香川。郭は動揺する事なく低目の変化球で泳がせて投ゴロに仕留めピンチを脱した。2回以降は5回まで3人づつで片付けて見事なデビューを飾った。当初の予定は3回までだったが5回まで続投し降板後も「まだまだ投げられるよ。全然大丈夫」と潜在能力の高さを証明してみせた。打者18人・投球数80球・被安打2・四球1・奪三振3・自責点0 と文句無しの内容だった。記者席の中央で視察していた近藤監督は 「初めのうちは緊張でコチコチだったが4回からは球のキレも出てきた。調整段階でこれだけのスピードを出せるのは本物」と期待は増すばかり。

来日して3週間で本格的に練習できたのは正味2週間。打撃投手を2度務めただけでランニング中心の練習内容で、本調子には程遠いが右手人差し指のマメが固まったので実戦で試してみた段階なのだが球場のスピードメーターは144㌔を計測。試合後の会見では「立ち上がりは緊張でコントロールが悪くてどうなるかと思った。台湾よりもストライクゾーンが狭いのが分かったのも収穫だった。あと5日もあれば148㌔は出るョ」と投球内容に一安心といった様子。通訳する足木さんも日本語・中国語・英語のチャンポンに一苦労で、会見の途中で途中でもどかしくなると郭本人が黒板に「緊張」「硬」「約束」「慣習」など漢字を書いて対応していた。

ハズレ外人・スパイクスは今季限りが決定的だけに郭の一軍昇格に障壁はない。郭本人もそれは承知しているようで「ボク、一日でも早く一軍で投げたいョ」と売り込みに積極的だ。既に来季に向けて球団は動き始めている。9月に入ったら郭のピッチングを一軍でお目にかかれそうだ。




8月30日の横浜大洋戦で一軍デビュー
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#225 1981年・夏の甲子園 ③

2012年07月04日 | 1981 年 

 今大会を通じてのスカウトの総評は概ね「技術はあるが基礎体力に欠ける」のが相場らしい。目玉は秋田経法大付・松本豊投手。181㌢ 71㌔の大型本格派投手でスナップと肘が滅法強い。野手を含めてNo,1評価と言うのが各球団スカウトの一致した意見で 「良いと言い切れるのは彼しかいない (西武・浦田スカウト)」もちろん球威は高校生の水準を超えるものだが、他にもフィールディングや牽制などもプロの投手に劣らないセンスの持ち主と評価されている。ただ気になるのはカーブの切れ味が春より鈍っている事。「あのタイプの投手は一度きりで判断できない(広島・木庭スカウト)」と擁護する一方で「腕だけで投げている。もっと下半身を使えば球威もまだ増す筈(阪神・渡辺スカウト)」と評価を下げた球団もある。さらに松本には社会人野球入りの情報もあり各球団も指名を決めかねている状態だ。

興南・竹下浩二投手の評価も上がったり下がったり。2年生で注目を浴びたものの、春・夏と甲子園に来るたびに評判倒れの投球に終わった。「太り過ぎてキレが悪くなった」「打たれ出すと歯止めが利かなくなるのは精神面が弱いから」など散々。南海・石川スカウトは「中央に来るとダメなのは心臓が弱いからだろう。良い捕手がリードしてやれば使える可能性は有る」と捨てきれない様子。

名電高・工藤公康投手については「指名するかもしれないので悪い事は言えんが上背が足りんよ」や「左腕だしあのカーブはプロでも通用するかもしれんが左打者用のワンポイントタイプかな」と今ひとつ。投手以外では「いないなぁ」と溜め息が漏れてくる。「報徳学園の金村義明投手は打者としての評価は高いが投手としての将来性は無い。でもそれを言ってヘソを曲げられたら大変」と悩みは多い。
















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#224 1981年・夏の甲子園 ②

2012年06月27日 | 1981 年 



荒木大輔(早稲田実業) … 今年のセンバツ大会では1回戦で早々に敗退。理由は明らかに練習不足だった。1年生での衝撃の甲子園デビューのお蔭で「ダイスケフィーバー」は加熱し荒木が動けば群集も一緒に大移動するなど、とても満足な練習など出来る環境ではなかった。三度目の甲子園での荒木の顔つきは少々逞しさが増していた。1回戦の高知高を1安打・10奪三振、2回戦の鳥取西高は本調子とは程遠い投球ながらも8回まで0封。鳥取西のエース・田子投手は1回戦で16奪三振の好投手だが記者から「田子投手を意識する?」と対決を煽られても「田子さんは外角高目で勝負するタイプ。ボクは外角低目が生命線の投手でタイプが全く違うので比較しても意味ないです」と冷静だった。

1点差の6回一死満塁のピンチに藤岡をカーブで、続く松田を直球でと公言通り外角低目の球で見事に打ち取った。「最後の直球は外すつもりが入っちゃった」と照れたがココ一番で見せた力強さは去年にはなかった「大人の顔」があった。試合後のギャルフィーバーは相変わらずだが宿舎や練習場では格段に静かになった事も荒木の気持ちを楽にしている。「女の子?もう沢山ですよ。でもまぁ、全くいないよりは少しはいてくれた方が励みになりますけど」と16歳の少年らしい笑顔で語った。



金村義明(報徳学園) … 噂の金村はやはり怪物だった。横浜高のエース長尾から2打席連続の本塁打。1本目は高々と舞い上がった、いわゆる乗せて運んだ典型的な軌跡の本塁打。2本目は外角へ逃げるカーブを左手1本で左中間へ運んだ。「長尾君はシュートがいいと聞いていたので踏み込んで打つ練習を繰り返しやった成果です。2本目は必ず外角中心になると思い投手寄りに立ってカーブを狙っていました」片や打たれた長尾は「2本とも勝負にいった球ではなかったのに・・脱帽です」と寧ろサバサバした表情。しかしこの2本で満足しないのが金村らしい。「当然3本目も狙ってました」と挑んだが勝負を避けられて不発に終わった。

思った事をズバズバ言う金村についたアダ名は「モハメド・アリ」とか。同室の東郷遊撃手によると「常々甲子園ではエエとこを見せて商品価値を上げたる、と言っていました」と言う通り金村の目標はプロ野球。母・かね子さんによれば東京の複数の大学から入学金免除の好条件で勧誘が来ているが本人はあくまでプロ一本だそうだ。「2本も打てたし次戦からは投手に専念します」言い忘れたが金村はエースでもある。



松本 豊(秋田経法大付属) … 「ノーヒット・ノーラン男」の工藤に「僕に彼くらいの身長があったら、もっと凄い球が投げられるよ。社会人でもプロでも胸を張って行ってやりますよ」と言わしめたのが松本だ。それ程の技術・体力に恵まれている。「あいつの泣き顔が見たい」とまで工藤に言わせるくらい、あの松本が簡単に負ける筈などないと思われていたが、志度商相手に延長10回サヨナラ負け。整列に向かう両校の選手をよそに腰を折り膝に両手をついたまま動かない。やおら砂を掴むと思いっきり投げ捨てた。

「強い相手と対戦したい」との願い通り1回戦・興南、2回戦・福島商と強敵と当たるも勝ち上がってきた。ただ投球内容は傍目には今ひとつ迫力不足と言われているが「勝つ為の投球を覚えた」と秋田経法付・古城監督は寧ろ成長の証だと言う。興南戦の8回、走者2人を置いて強打者・竹下と対戦した場面では快速球で三振を奪うなどココ一番では捻じ伏せる投球も健在だったが彼本来の豪腕ぶりは見せぬままに松本の夏は終わってしまった。



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#223 1981年・夏の甲子園 ①

2012年06月20日 | 1981 年 



工藤公康(名電高) … 102球目、長崎西・江頭のバットが空を切り山本捕手のミットが地上スレスレでこの外角カーブをガッチリ捕えた。史上19人目のノーヒット・ノーラン投手が誕生した瞬間だった。工藤は表情一つ変えず二歩、三歩とマウンドを降りかけてようやく笑顔を見せた。その顔は「甲子園の1勝」ではなく「地区予選の1勝」のようであった。「練習試合のつもりで投げました(工藤)」 とは随分クールな記録達成だった。この試合を見ていた人ならこの発言も頷けるだろう。それ位、工藤と長崎西打線の力の差は大きかった。工藤が投じるカーブにかすりもしないのだ。 「あんなカーブは見た事がありません(江頭)」「途中で球が消えました(別宮)」とベソをかくばかりで、5回あたりから場内は記録達成を予感していた。もちろんベンチ内の確信はそれ以上で普通なら投手を緊張させないようにするものだが、主将の中村は早くも2回に「いけるゾ、狙え!」とハッパをかけていた。

思えば試合前から予兆があった。ブルペンでの投球練習でカーブを投げたら「えらく曲がるので自分でも驚きました(工藤)」「投げる工藤が近く見えた。球が速く見える事はこれ迄にもあったけど近く見えたのは初めて(山本捕手)」さらにツキもあった。3回裏、別宮のセーフティバントを工藤がハンブルして出塁を許したが記録はエラー。球が変な回転をしてイレギュラーしたからだった。勿論、ツキだけでノーヒットに抑えた訳ではない。学校のグラウンドから合宿までの13kmを毎日ランニングをし、山本捕手との投球練習ではバッテリー間の中間点から投げ始めて10球連続でストライクが取れたら3歩下がって同じ事を繰り返した。投手板に着く頃には300球を要する時もあったという。日々の努力こそが「記録の母」なのである。




山本幸二(名電高) … そんな工藤投手の女房役が強肩・強打の山本幸二捕手だ。打席に入れば広島東洋カープの山本浩二選手で御馴染みの「コージ・マーチ」をブラスバンドが鳴らし始める。これは山本本人によるリクエストで「ちょっと恥ずかしいけど、山本浩二選手にあやかろうと思ったので頼みました」6回表カウント1-1からの3球目、長崎西・小阪投手が投じた緩いカーブを捉えると打球はライナーで左翼ラッキーゾーンへ飛び込んだ。大会前から騒がれていただけに「もしも打てなかったら・・・」と悩んでいただけに一塁を回った所で思わずバンザイをしていた。

守りでも工藤のノーヒット・ノーランを支える好リードと強肩で盗塁を阻止した。3回裏に四球で出た俊足の江頭を遠投109㍍の自慢の肩で刺した。「1回裏に出たランナーが走ってくれなくて見せ場が無かったから今度こそはと思っていました」とは大した自信。捕手としての目標がヤクルト・大矢捕手という山本の夢はプロ野球選手。「守りは大矢選手、打撃は谷沢選手(中日)が目標」という山本の評価は◎だ。




田子譲治(鳥取西) … 甲子園に来て一躍有名になったのが田子譲治投手だ。大会2日目の第3試合の対東奥義塾戦。初回先頭打者にヒットを許したのみで予選チーム打率 .367 の東奥打線から16奪三振、準完全試合の快投を演じた。「アダ名ですか?『9割9分』と呼ぶ人もいます。多分、僕がホラを吹くから9割9分アテに出来ないという事でしょう。今朝も完全試合をやって4本塁打を打つと宣言しましたけども、誰も相手にしてくれませんでした。今日は1本打たれたから99点です。自分ではエラーだと思っていますけど」と報道陣を笑わせた。

ホラは吹くがイガグリ頭に太い眉、目がいかにもイタズラ小僧といった感じでクリクリと動き回って憎めず「あの子は強豪校や名門校相手だったりすると実力以上の力を発揮するタイプ。だから、この大舞台でもきっと何かやらかすと思っていましたが、それにしても・・」と井上監督も驚きを隠せない。甲子園で自己の奪三振記録を3個も更新しヒットも打った。「田舎のマウンドより甲子園の方が投げやすかった」これもホラかもしれないが実にアッケラカンとしたもんだ。鳥取県青谷中学時代から投手で鳥取西高では2年生からエース。176㌢73㌔、お寿司屋さんの長男坊の好投手は全国的には無名でも意外と大物かもしれない。



3人ともドラフト指名されて揃ってプロ入りしましたが大成したのは工藤だけでした・・



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#222 遂にブレークした落合

2012年06月13日 | 1981 年 



1980年12月8日号  『ブレーク前のロッテ・落合博満』 の翌年、遂にブレークしました。


初出場 … オールスター戦に初出場したと思ったら何といきなり四番の重責を負った。普段は物怖じ
しない男もさすがに緊張したとか。「そりゃあロッテでも三番か五番ですからね。並み居る大先輩達を差し
置いて全パの四番はキツイですよ」と柄にも無くネガティブ。


目標 … シーズン前の目標は「130試合フル出場」だったが風邪で1試合欠場してしまい開幕早々に
目標達成は無くなってしまい新たに「本塁打25本」を掲げ、月5本をノルマにした。5・6・7月とあっさり
ノルマをクリアして7月30日現在、ソレイタ(日ハム)・門田(南海)に次ぐ3位21本で目標達成は確実だ。
西武戦・6本、日ハム戦・4本、阪急戦・4本、近鉄戦・4本、南海戦・3本と各チームから万遍なく打って
いる。


首位打者 … 島田誠(日ハム)や石毛(西武)のペースが落ちコンスタントに打ち続ける落合がトップに
踊り出た。「いやぁ、まいったね。追いかけるのは楽だけど追われるのはキツイっすよ。シーズン終盤なら
ともかく、まだ夏場ですからタイトルを意識するのはまだまだ先ですよ」と本人は無欲を強調するが周りの
期待はヒートアップしている。「アイツは球を捉える技術は既に持っている。リストが強く腕力に頼らず腰を
入れて打てるのもエエ。あとはアッパー気味なスイングをレベルスイングで脇を固めてインパクトの瞬間に
全神経を集中させられるように出来れば首位打者も夢ではない(山内監督)」


性格 … 少々秋田訛りが残ったおっとりした喋り方をする。細かい事には無頓着の面倒くさがり屋で
口下手だがアルコールが入ると饒舌になる。土地柄か酒は強く水割り10杯は軽い。「博満は7人兄弟の
末っ子で、きかん坊で負けん気は人一倍あったと思います。野球に熱中したかと思えばプイッと大学を
辞めて帰って来たりはしたけど、手のかかる子ではなかったです(父親・長蔵さん)」


東芝府中 … 東洋大学中退後、知人の紹介で東芝に入る。東芝時代は競馬場が近かったせいもあり
競走馬には詳しい。血統を語らせるとなかなかウルサイが馬券の的中率は定かではない。


女性観 … 「女性たるもの男子の職場に顔を出したりしてはならん」という一家言を持っている。だから
新婚の祐子夫人(25歳)は一度も球場へ来た事がない。「当たり前の話。男はグランドで命懸けで戦って
いるわけですから」


契約金 … 入団交渉で三宅スカウト部長は3千万円を用意していたが、切り出しの「2千5百万円」の
一声に、「ありがとうございます」とあっさりとハンコを押してしまい三宅部長を慌てさせた。この契約金で
横浜市鶴見区にマンションを購入したしっかり者。入団1年目は合宿所暮らしだったので実姉に代わりに
住んで管理してもらい、昨年オフの結婚と同時に新居に。


鈍足 … 小学生の頃に雪の中で走る自動車の後部につかまり遊んでいて転倒。その際に後輪で足を
轢かれた。100㍍走14秒台だった俊足が鈍くなったのはその事故のせいだと本人は信じている。


太く短く … 昨年のオープン戦で足を怪我して入院生活を送った時に、つくずくと体が資本と痛感した。
その為に怪我をしないように細心の注意を払っているが「野球に怪我は付き物」と長くプレー出来るとは
思っていない。プロ入りが遅かった分、稼げる時にタップリ稼いで引退後は何か商売でも・・と思っている。



「太く短く」どころか45歳までプレー出来ましたし、再婚相手の信子夫人は落合の女性観とは懸け離れた人でした。
思い通りに行かない人生の方が面白いのかもしれません。
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#221 第10回・日米大学野球選手権 

2012年06月06日 | 1981 年 



多くのプロ野球選手も出場経験のある日米大学野球選手権が、この年は日本で開催されました。日本が
過去9回の大会でアメリカに勝ち越したのは第1回・7回大会のみ。第1回大会では山口高志(関西大)の
好投と長崎慶二(法政大)・藤波行雄(中央大)・山下大輔(慶応大)などの好打者たちがアメリカ投手陣を
打ち崩し、第7回大会では松沼弟(東洋大)や高橋三千丈(明治大)らの好投手を揃えてアメリカを倒した。
今大会では第1戦が森岡と尾上、第2戦は全員野球、第4戦は仁村、そして優勝を決めた第5戦は宮本と
日替わりでヒーローが現れて3年ぶり3度目の優勝をした。第1回大会では元巨人のクロマティもアメリカ
代表に選ばれていて今大会に選抜されたメンバーの中にも後のドラフトで指名されてプロ入りした選手が
多くいました。


尾上旭(中央大→中日)…派手な一発だった。9回まで3安打の無得点。森岡(明治大)の力投でどうにか
延長戦に突入した10回裏に尾上のサヨナラ本塁打が出て初戦に勝利した。 「いつものお前らしくないぞ、
何なんだコツコツ当てにいくバッティングは」 大会前の練習を見た中大・宮井監督に一喝された。体格は
1㍍75㌢68㌔と大きくないが思い切りの良さで東都大学リーグ現役最多の13本塁打を放つ豪快な打撃が
魅力の尾上だったが練習ではヨソ行きの打撃に終始していて「監督さんに言われて目の前のモヤモヤが
消えました。東都の面目に懸けても森岡の為にも打ちたかった。スタンドへ入ったのが見えた時は思わず
涙が出ちゃいました」 今大会では遊撃手に大学球界を代表する選手が2人選ばれた。明治大の平田と
尾上だ。島岡全日本監督も悩みに悩んで尾上を二塁へコンバートしてまで尾上の打撃を生かそうとした。
「あいつは大仕事をするタイプだと思ってた。狙い通りだよ」と島岡監督も、してやったりの表情。


西浦敏弘(近大→南海)…それは外人顔負けの凄まじいパワーだった。第2戦9回一死1・2塁の場面で
マイスター投手が投じた直球を叩き左翼スタンド中段まで届く本塁打を放った。「外人の球はもっと速いと
思っていたけど大した事なかった」とポパイが愛称の西浦はニコニコ顔。上腕部のチカラコブは40cmを
超えるほど盛り上がる。全日本大学選手権大会で2ホーマーした近大の主砲はまだ2年生だ。「よく喰うし
ありゃ国技館へ行っても通用する」と島岡監督もそのパワーに目をむく。しかし泣き所は守備で高校では
三塁、大学では一塁を守っているが本職レベルには程遠い。その為、守りの野球を標榜する島岡監督は
西(明大)を先発で起用しているがアメリカのパワーに対抗できる数少ない日本人選手の起用に気持ちが
揺れ始めている。


仁村薫(早大→巨人)…第4戦を勝ち一気に王手をかけたい第5戦は、第1戦同様に森岡とボスバーグの
投げ合いで延長戦ムードが漂う展開に。7回一死一・三塁で代打に起用されたのは投手が本職の仁村。
ボスバーグの2球目を叩くと打球は右中間スタンドへ飛び込んだ。「外寄りのチェンジアップ。抜けるとは
思ったけどまさか入るとは・・・」と本人もビックリ顔。実は仁村起用には裏話がある。確かに仁村は打者
顔負けの打撃技術を持っているが、さすがにこの様な緊迫した場面では荷が重い。島岡監督は仁村では
なく西浦を告げたつもりだったのだが、この試合の球審はアメリカ人。通常は国際試合の場合は背番号で
選手交代を告げるのだが、つい日頃の癖で名前で告げた為に「ニシウラ」を「ニムラ」と間違われたのだ。
怪我の功名となった仁村は「次は投手としても貢献したいです」と打者・二ムラにご満悦。


宮本賢治(亜大→ヤクルト)…優勝に王手をかけて臨んだ第5戦(札幌円山球場)、先発・宮本は必死の
形相だった。森岡、仁村でポンポンと2連勝した後の第3戦で負け投手。同じ下手投げの森岡が好投した
だけに「2度も負ける訳にはいかない」6回を3安打1失点、仁村に救援を仰いだものの優勝決定試合の
勝利投手に。「外人相手に初めて投げたが打球が飛ばないので拍子抜けしてしまった。自分の球がある
程度通用する事が分かって自信になった」 3試合11回投げて3失点の好成績を引っ提げて、卒業後は
プロ入りを目標としている。


平田勝男(明大→阪神)…タッチの差だった。あと1本ヒットが出ていれば主将として日本チームを優勝に
導いた功績に首位打者の栄誉まで付くところだった。毎試合安打の主砲・スタブスが3割6分で、平田は
3割4分5厘。自由に打てる三番打者と比べて制約の多い二番打者だった平田は分が悪かった。今年の
チームには去年の原辰徳(東海大→巨人)のような大物スター選手はいないが全員が良くまとまっている
そこには人当たりの良い性格と攻守で牽引した平田の存在を忘れてはならない。「首位打者なんて柄じゃ
ないです。今日で日米野球は終わり。少し休んだら秋へスタートです」と既に気持ちは切り替わっている。
最終戦でも豪快な一発を放った尾上とはドラフト会議で人気を二分する新たな戦いを繰り広げそうだ。





                                                 

他に白武佳久(日体大→広島)・木戸克彦(法大→阪神)・山沖之彦(専大→阪急)やアメリカチームには
後に横浜や阪神で活躍したジム・パチョレック(当時の表記は「パシオレック」)なども出場していました。




       
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#220 夢の球宴史 ⑦

2012年05月30日 | 1981 年 













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#219 夢の球宴史 ⑥

2012年05月23日 | 1981 年 



【球宴史上唯一の代打逆転サヨナラ本塁打】…阪急・高井保弘が放った代打本塁打26本は世界記録だ。そんな代打屋家業の男に球宴という桧舞台が巡ってきたのは昭和49年の第1戦(後楽園)9回裏・無死一塁の場面で代打に指名された。セの松岡(ヤクルト)は絶好調でパの打者は皆、振り遅れていた。0-1からの2球目「あれはスピンの効いた最高のストレート(松岡)」と振り返った快速球が内角低目を突いた。しかし高井は90㌔の巨体を柔らかく回転させると易々とこの球を掬い上げた。打球は綺麗な放物線を描き左中間スタンドに飛び込んだ。実は高井は球宴初出場に新人の様に緊張していて「俺みたいな日陰者がONや野村さんらと同じ舞台でプレーするなんて」と最高潮の緊張で臨んだ第1戦は雨で中止に。出鼻をくじかれた事が逆に高井の緊張を解いてくれたのだった。夢見心地でベースを一周し生還する高井を世界記録達成の御褒美で推薦してくれた全パ・野村監督が笑顔で迎えた。


【野球界初のガッツポーズ?】…今でも高校野球や大学野球においてガッツポーズは非紳士的行為として心証が良くないがプロ野球では頻繁に見られる光景。そんなガッツポーズの出現は意外と新しい。戦前の藤村(阪神)が本塁打を放ちベース一周する際に帽子を取って腕をグルグル回す光景は目にしたがガッツポーズを見た事はなかった。昭和31年7月3日・後楽園での第1戦。佃明忠(毎日)は捕手部門で初めてファン投票1位で球宴出場を果たした。8回裏、左中間に本塁打を打ち込んでベースを一周する間に4度もバンザイをした。右手で帽子を掴み何度も飛び上がりホームインした後もベンチ前で再びバンザイをした。この光景を目にしたNHKの志村正順アナウンサーは「佃選手は大変な喜びようです。両手を揚げ何度も何度も飛び跳ねています。そうです、これはバンザイホームランと名付けましょう」と絶叫した。新聞記者も「志村さん、そのフレーズ頂き」と飛びつき原稿を送ったが各社のデスクの反応はおしなべて「ウ~ン…」と悪かった。バンザイは戦時中の「バンザイ突撃」を連想させるからと却下されたのだ。終戦からまだ10年しか経っておらず戦争の傷跡はまだ消えていなかったのである。これといった成績は残さなかった佃だがこの一発で「元祖・ガッツポーズ男」として後世に銘記される事となった。


【勝ち星の荒稼ぎ】…昭和52年7月23日・26日の2試合で新人の梶間(ヤクルト)が2勝をあげる活躍を見せた。同じ投手が2勝するのも稀だが要した球数が僅か17球だったのも珍しい。第1戦6回裏、無死一塁で加藤(阪急)を迎えると全セ・長嶋監督は鈴木康(ヤクルト)を代えて梶間を起用した。加藤、門田(南海)と左打者が続くので左腕の安田(ヤクルト)の出番という大方の予想に反して長嶋監督は梶間を選択した。加藤、門田、島谷(阪急)を15球でいずれも外野フライに打ち取り涼しい顔でマウンドを降りた。試合は7回表にセが先制し勝利した事で梶間に球宴初勝利が転がり込んだ。第3戦では2対2の同点の5回表二死の場面に登板すると2球で打ち取った。その裏に若松(ヤクルト)の犠飛で勝ち越して逃げ切り勝ち投手は梶間で前代未聞の2勝の新人勝利投手が誕生した。これで運を使い果たしたのか後半戦に入ると1勝しか出来ず、斉藤明(大洋)に新人王をさらわれてしまった。


【球宴で活躍した助っ人】…過去30回の球宴に打者は41人、投手は5人が出場しMVPにも輝いた選手もいる。マーシャル(中日)は昭和38,39年と2年連続、スペンサー(南海)はペナントレース以上にハッスルし昭和40年にそれぞれMVPを獲得した。投手ではミケンズ(近鉄)とスタンカ(南海)が目立つ。ミケンズは通算3試合、8回1/3を無失点。昭和35年の第3戦では外人として初勝利投手になっている。スタンカは2試合、6回を1失点。昭和39年の第3戦でMVPになっている。過去の外人選手で最も強烈な印象を残したのはギャレット(広島)だろう。昭和53年の第1戦で、高橋直(日ハム)・藤田(南海)・柳田(近鉄)から3本塁打しMVPになっている。現役選手ではリー(ロッテ)が打率.350、4本塁打、6打点の好成績を残していて、特に本塁打・打点は歴代外人選手中トップである。
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#218 夢の球宴史 ⑤

2012年05月16日 | 1981 年 



停電事件(昭和44年7月22日・平和台球場)…3対1で迎えた9回表二死から王が起死回生の2ランを放ち同点となり延長戦へ。13回表に高田(巨人)の右中間二塁打で1点を入れ、続く王が打席に入った時に「ボンッ」という鈍い音と共に球場の照明が一斉に消えた。消えたのは照明だけでなく、球場全体の電気系統がダウンした為に売店なども含めて真っ暗闇に。当初は運営委も楽観視していたが10分が経ち20分が過ぎても点灯する気配が無くようやく慌て始めた。「ヤバイ」運営委が真っ先に心配したのはスタンドのファンの動向だった。博多っ子ファンの気の短さには定評があってライオンズ史におけるトラブルの陰には少なからずファンの存在があったからだ。

場内マイクが駄目ならとハンドマイクを持って球場内を説明して回る事になったが悪い事は重なるものでこちらも故障で使えない。そうこうしている内に痺れを切らしたファン数名がグラウンドへ降り始めたのだ。両軍ベンチへ向かって選手達にサインの強要である。幸いな事に真っ暗であった為に多くのファンには気付かれる事はなく追随するファンも出ず混乱は避けられた。選手達も逃げようにもベンチ裏は、さらに暗闇であった為にベンチ内から動けずサイン攻めに応じざるを得なかった。「打ち切って没収試合にしてしまおうか」「いや、セ・リーグがリードしたまま打ち切ったら博多のファンが騒ぎ出して大混乱に成りかねない」 "小田原評定" が延々と繰り返されたが結論は出ずにスタンドのイライラもピークに差し掛かった50分過ぎにやっと電気系統が復旧した。

試合は再開され13回裏に阪本(阪急)の同点打で目出度く午後11時半、引き分けで博多っ子も満足して帰宅の途についた。そもそもこの試合はこんなに縺れずに終わっていた筈だった。パの4番手で登板した成田文男(ロッテ)は快調に7・8回を抑え、9回も続投する予定だったが8回裏に登板した金田(巨人)を見て西本監督のサービス心が動き9回は金田留広(東映)を登板させ兄弟対決を演出しようとした。だがこれが裏目となって王に同点2ランを浴びて延長戦に突入したのだ。「あのまま成田が投げてれば今頃は中洲で美味い酒を飲めてたろうに・・・」 暗闇で西本監督を見つめる選手達の視線は冷たかった。



組織票事件(昭和53年・日ハム)…この件の詳細は 1978年7月31日号 を参照して下さい。


コーチ辞退事件(昭和39年・大洋)…大洋・三原監督が病気を理由にコーチとしての出場を辞退した。しかし、選手や球団関係者から「監督が病気だって !?」「元気そうに動き回っているのは双子の弟か?」などと冷やかされるくらい本人はピンピンしていた。後に別所ヘッドコーチの暴露で事の真相が明らかになった。「監督はハナから出たくないの一点張り。監督に出てもらわないとウチの選手がやり難くて困る選手を無茶な使い方されても知りませんよ、と説得しても嫌だと言って首を縦に振らない。何で嫌なのか尋ねると『俺がテツの下でコーチなんぞやれるか!』ですと。もうダダをこねる子供ですよ」と苦笑い。

要するに川上監督より下の立場が気に入らないという事で結局出場を辞退してしまった。ただ川上監督もしたたかで、この年は移動日無しで3試合を行なう強行日程だったが3戦全てに大洋の投手が登板した。これが尾を引いたのか大洋は球宴まで2位阪神に6.5ゲーム差をつけていたが後半戦はアッサリ引っくり返されて優勝を阪神に許す醜態を演じてしまう。監督の我が儘の代償は余りにも大きかったのである。
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#217 夢の球宴史 ④

2012年05月02日 | 1981 年 


【最多観客試合】…記念すべき第1回シリーズの第1戦。昭和26年7月4日、雨が降る甲子園球場に
48、671人が詰めかけた。歴史的試合だったが内容はお寒く両チーム合わせて7安打の貧打戦と
なり2対1でセ・リーグが初勝利をあげた。勝利投手は別所毅彦(巨人)、MVPは川上哲治(巨人)と
いたってオーソドックスな結果であった。


【最長時間試合】…昭和27年の第1戦(西宮)は延長21回の引き分け。試合時間は4時間30分と現在
では驚くほどではないが当時では異例の長さ。しかも日没が理由の打ち切りであったのでナイター設備が
ある現在ならば延長戦はさらに続いた筈。


【最多勝利監督】…鶴岡一人(南海)が17勝でトップ。次が水原茂と川上哲治が10勝で続く。「人気のセ実力のパ」は鶴岡がセ、特に巨人相手に異常なほどのファイトを燃やし、パの選手に「銭が欲しかったらセ・リーグに勝ってみぃ」と叱咤激励して勝利をもぎ取った事から言われ始めた。

【最年長選手】…ご存知の月見草・野村克也。昨年は西本監督の粋な計らいで西武から監督推薦で出場7月19日の第1戦で通算選出回数が21回となった時が45歳と20日。2打数無安打だったが6回の守りでラインバック(阪神)の二盗を見事に阻止した。ちなみに通算最多三振を喫したのも野村で1試合4三振を記録した事もある。

【最年少選手】…怪童・尾崎行雄(東映)が昭和37年の第1戦(平和台)で登板した時の17歳10ヶ月が記録。9回裏に登板して2奪三振、第2戦では8・9回を投げて初勝利をあげた。

【最多試合出場】…20回選出され58試合出場の王貞治。選出回数は野村に及ばないが、打撃部門の記録の多くを王が保持している。打数138・得点25・本塁打13・塁打数87・長打数21・打点31・犠飛3・四死球34、などの最多記録をマークしているが打率だけは2割1分3厘と低い。しかしMVPを2度獲得しているあたりは流石である。同僚の長嶋茂雄は通算打率 3割1分3厘、7本塁打、21打点と好成績を残してはいるものの、何故かMVPには縁がなかった。

【1試合最多安打】…高倉照幸(西鉄)・長池徳二(阪急)・マルカーノ(阪急)・門田博光(南海)の4本が最多。高倉とマルカーノは4打席連続安打であった。

【最高打率】…70打席以上に限定すると近藤和彦(大洋)の3割3分8厘 、30打席だと藤原満(南海)の4割1分2厘である。概して大打者と言われた選手は低打率で藤村富美男(阪神)1割6分7厘、大下弘(西鉄)2割0分4厘、中西太(西鉄)1割7分2厘、川上哲治(巨人)2割2分6厘であった。


明日から怒涛の家族サービスの日々が待ってますので次回の更新は 5月16日 です・・・
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