Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 615 問題男の去就 ➋

2019年12月25日 | 1976 年 



あのミスタータイガース・田淵はもうマスクを被れない?
「来年の田淵は正捕手の座を奪われるだろうし、また田淵が捕手にこだわるとチームは分裂するかもしれない」これが阪神担当記者の声である。まさかミスタータイガースがそこまで追い込まれていようとは思わなかった。しかし周辺を取材すると意外と根拠のある話であるのだ。外から見たら不動の四番で守りの要の捕手として君臨する田淵も内部での評価はガラリと変わる。「ブチにマスクを被らせ続けるのならもう投げる気が失せてしまう」と話す投手がいたり、「田淵を捕手から外さない限り阪神の優勝は遠ざかる」とまで言うコーチがいるのである。遂には「田淵はプロとして通用する捕手ではなくなった」と決めつけるフロント陣までいる。

「サインを出しても投手と呼吸が全く合わない。しかもそのサインが走者ばかりではなく相手ベンチから丸見えなんだよ。盗塁が見え見えの場面でも腰を落としたままでフリーパス状態では投手がかわいそう」との声が球団内から漏れて来る。捕手・田淵への不信感を決定的にしたのが7月31日の甲子園での巨人戦だ。吉田選手が打ち上げた一塁側ベンチ前のファールフライを一歩も動かず一塁手のブリーデン選手に任せたが捕球できなかった。命拾いした吉田は本塁打を放ち巨人が勝利した。この時はさすがの虎キチも「田淵の怠慢プレーで負けた」と怒り心頭だった。辻作戦コーチは「捕手失格だ」と吐き捨てた。

この試合を機に田淵と他の選手との間にあったモヤモヤした感情が一気に噴出し表面化した。更に田淵の起用に関して吉田監督とコーチ陣の間にも溝が出来てしまった。吉田監督は就任1年目の昨季が終わると看板選手の一人であった江夏投手を放出した。江夏のトレードに関しては球団内にも賛否両論があったが吉田監督の英断で決行されたのだが、今季の江夏の成績を見れば吉田監督の判断は間違っていなかったと見る向きが多く球団内で吉田監督の影響力は増した。その吉田監督は田淵を重用してきた。投手交代の際は投手コーチより田淵の意見を重視していた。田淵が捕手として結果を出していれば異論は抑えられたが昨今の田淵のプレーは素人の目にさえおかしいと映るものが頻発されるようになった。

そうした理由からか来季の阪神は田淵の他に太平洋から移籍した片岡選手と3年目の笹本選手で正捕手の座を争う事になる。仮に田淵が争いに敗れればコンバートを強いられる。現実問題としてあの動きで使えるのはせいぜい一塁手ぐらい。今季の一塁はブリーデン選手が守っていたが来季の契約は未定で田淵の状況次第で解雇も有りうる。ただ問題は捕手失格の烙印を押された田淵がコンバートに納得するかだ。何しろ年俸三千二百万円の押しも押されぬ大スター選手だ。プライドを傷つけられておとなしく従うかは疑問だ。「厄介なのは四番・捕手という重責に対しての高年俸であって、その重責に負けたとなれば大幅ダウンは間違いなく田淵がどいう態度を取るか未知数だね(担当記者)」と。

そもそも片岡や笹本で田淵の代役が務まるのか、ブリーデンを解雇して打線が小型化しないのか、そうしたプラスマイナスについて球団内でも意見が分かれる。首脳陣の間の意思疎通の問題解消など田淵がミスタータイガースといわれるだけあってそう簡単に進展するコンバート話ではない。「田淵の打撃を生かすには思い切って一塁にコンバートする方が選手生命も伸びて本人の為にもなる。怠慢プレーではなく今の田淵は内臓疾患による体調不良のせいで捕手の重労働には耐えられないのだ」と消息通は言う。「ミスタータイガースの称号は掛布選手に譲って気楽にプレーする年齢になったと思えばいい(担当記者)」と。優勝を逃すと色々な雑音が飛び交うのが野球界の常である。



猫の手も借りたい時なのに…かつてのエース・木樽は今?
木樽投手といえばロッテのエースというより球界を代表するエースだった。それが今や1勝も出来ずに二軍で調整を続けている。現在のロッテ投手陣は猫の手も借りたい状態だが今後の見通しは決して明るくない。木樽はロッテ在籍11年、堀内投手(巨人)と同期で昭和40年11月の第1回ドラフト会議で指名された好投手である。昭和45年には21勝10敗で最多勝、ロッテを10年ぶりにリーグ優勝に導きMVPに輝いた。翌年も24勝8敗と2年連続20勝投手となり押しも押されぬ球界を代表するエースとして君臨した。昭和22年生まれだからまだ29歳で決して老け込む歳ではない。

ここ数年の不振の原因は言うまでもなく持病の腰痛である。「僕の腰痛はもう完全には治らないかもしれない。一番つらいのはこの痛みを他の人に分かってもらえないこと」と木樽は寂しそうに言う。しかし復活を諦めた訳ではない。「ヤツを何としても今一度マウンドに立たせてやりたい」と話す醍醐二軍監督の下で再起を目指して懸命の調整を続けている。今季のロッテは首位争いを演じ8月の時点で2位の南海に2ゲーム差をつけて首位にいた。しかし疲労が溜まった投手陣が底を尽きかけていた。そこで金田監督が苦肉の策として木樽を先発投手に起用した。騙し騙しやってきた腰が悲鳴を上げ、今季は開幕から満足な投球を出来ずにいた木樽。しかしかつてのエースとしてのプライドが敵前逃亡を許さなかった。

「これは大博打や!チームにもタル(木樽)にとっても命運を決める大博打や」と金田監督。8月14日、平和台球場での対太平洋7回戦に先発した木樽は打者3人・被安打2・四球1・3失点と1回持たず僅か14球を投げただけで降板した。いつもの通り金田監督は怒り沸騰で「ワシもタルも博打に負けた。もうタルは一軍で使えん」と二軍落ちを告げた。翌朝、木樽は荷物を纏めて帰京。以降、真夏の炎天下での二軍通いが始まった。今季の成績は14試合・0勝2敗・防御率5.50 に終わった。投球回数35回2/3で被安打45と滅多打ちだった。右打者の内角をえぐるシュートも外角へ鋭く逃げるスライダーも影をひそめた。昨季も5勝14敗で年俸も激減し復活を目指したが成らなかった。

持病の腰痛は木樽の投球を蘇らせてくれなかった。長いイニングは厳しいと判断した金田監督は木樽を救援の切り札で起用しようと考えた。監督自ら投球フォームの改造に乗り出したりもしたが実らなかった。ランニングをしても完走できず、投球練習も50球がせいぜいと歯がゆい思いをし続けた。「精神的に苦しい筈なのに練習時間も皆と同じで自分の練習が終われば若手へのアドバイスも欠かさない。むろん練習を休んだことはない。見ているこちらが辛くなるよ」と醍醐二軍監督は同情的だ。前田投手コーチも「今年の木樽はキャンプから出遅れて二軍での調整も不十分なまま一軍に上がった。もう少し二軍で調整してからの方が良かったのでは」と。

一軍が本拠地球場を持たないジプシーなら二軍も同じくジプシー。普段は東京証券の鶴瀬グラウンドを使わせてもらっているが、使えない時は日ハムや大洋の多摩川グラウンドを拝借してのジプシー練習が続く。そんな厳しい状況でも木樽は再起を目指している。腰痛さえ治れば10勝する力は持っている。それだけに今オフにはトレード要員として他球団から狙われるのは間違いない。「中日の近藤コーチがロッテ時代から木樽の面倒をよくみていた関係から中日あたりがトレードを申し込むのではないか。本人にとってもこのあたりで心機一転ユニフォームを変えてみるのも良いのでは」とロッテ担当記者は言う。契約更改では25%以上の減俸提示も有りうるだけに本人の気持ち次第で移籍する可能性はある。
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# 614 問題男の去就 ➊

2019年12月18日 | 1976 年 



シーズン終幕近くなると気の早い人は来季への青写真を描き始める。消息通といわれる人達の間で今ひそかに話題となっている情報を集めてみると・・消息通だけが知っている不気味な大物の去就、シーズンオフに話題必至の怪情報である

何もしないと言われる関根巨人二軍が優勝した時?
長嶋巨人V1の声が高い。これはチーム全体が一丸になってのものだ。だから来季も現体制維持は固い筈なのに、関根二軍監督だけは辞任するのではないかという噂が出るのは何故だろう。二軍も一軍同様に優勝しようというのに。その理由は先ず契約切れ。関根二軍監督は第1次長嶋内閣のヘッドコーチとして一昨年の秋に2年契約で巨人に入団した。長嶋監督の懐刀として期待されたがチームは球団初の最下位に沈み、当時の関根ヘッドは責任を取り辞任を申し入れた。だが球団側が慰留して二軍監督に配置換えとなった。その2年契約が切れるが関根二軍監督は自らの去就について明言していない。担当記者によると昨年一度辞表を出した経緯もあり契約更新はないとの見方が多勢だ。

もともと関根氏は長嶋監督のヘッドコーチ招聘にも難色を示していた。夫人が川崎市で喫茶店を経営しており、経済的にも不安はなく自由に発言し活動できる解説者の仕事に満足していた。批判も受けやすいヘッドコーチ就任に家族も反対していたが長嶋監督たっての要請に現場に戻る決断をしたのだ。それだけにユニフォームに対する執着は少ない。辞表を提出したのも最下位になった責任を取るのも理由の一つだろうが、コーチ業が性に合っていないと考えたとしても不思議ではない。監督やコーチの去就は本人の意思と契約期間だけで決まるのではない。球団側が強力に慰留すれば留任するケースは少なくない。

球団側が慰留する理由として後任問題がある。次の二軍監督を任すことが出来る人物に当てはあるのか?「今の巨人に二軍監督候補はいません。滝コーチでは無理。宮田コーチや中村コーチも力不足。内部からだと黒江コーチくらいか。だが黒江コーチを二軍に回したら一軍のコーチが手薄になってしまう。黒江コーチの後釜に土井選手をコーチ専任にという声もあるが本人は現役に拘っていて無理。今更、武宮寮長や中尾スカウト部長の現場復帰も有り得ない」と担当記者は言う。つまり内部昇格の線は難しく球団として関根氏に辞められると困るのが実情だ。しかし球団内に関根氏の指導力に疑問を持つ勢力が存在しているのも事実。

現在の二軍はイースタンリーグで優勝目前。西本投手、篠塚選手、中畑選手、二宮選手らが着実に成長し来季の一軍入りを虎視眈々と狙っている。彼らの成長は関根監督の手腕と言えるが不思議と評価されていない。「優勝と選手の成長を関根監督の手腕と結びつけるのはどうかな。二軍は昨季も2位でほぼ同じメンバーで戦ったのだから勝って当たり前じゃないの。選手の成長だって伸びる奴は放っておいても上手くなるもんさ。関根監督はとにかく動かない。全てをコーチや選手任せ。自主性を重んじると言えば聞こえがいいが、若い選手にはある程度の押しつけも必要だと思うんだけどね」と巨人OBの評論家は言う。巨人生え抜きの外様に対する冷めた意見とも言えるが同じ事はヘッド時代も言われていた。

そこで問題となるのは関根氏を三顧の礼で迎えた長嶋監督の意向である。監督就任1年目に球団初の最下位となった代償でコーチの人事権を剥奪されたが今季は優勝目前で、このままいけば発言権も強くなると予想される。仮に長嶋監督が関根氏の続投を望めば球団側も無下に拒否できないであろう。二軍の戦力は年々強化され関根氏の " 波風立てぬ " 温厚主義の下、和気あいあい&のびのび野球で勝利を重ね結果を出した。その何もしない関根野球の効用を長嶋監督が評価し続投を球団側に要請するかが焦点である。後任に人材がいない巨人、少なくともミスは犯していない関根氏。こうして見ると噂となっている退団話も今後は紆余曲折の展開となりそうである。



ヤクルトの実力者、武上の現体制協力度は?
広岡監督と並ぶもう一人の実力者である武上コーチ。広岡監督とは水と油の関係であると球界内では大方の見方であるが、今のヤクルトでは一致協力してチームを支えている。何が武上コーチを変えたのだろうか?変身の兆しが見られたのは第2次荒川内閣発足の頃からである。武上コーチは現役の頃から歯に衣着せぬ言動が目立ち、おとなしい選手が多いヤクルトでは異色の存在であった。 " 突貫小僧・ケンカ四郎 " のニックネームはグラウンド上だけの事ではなく、思った事は例え相手が監督だろうとズケズケと言葉にした。三原監督の時代に干されかけた時もあったが武上の言動は変わらず結局、三原監督も武上を手懐けるのを諦めた。

通算1000本安打にあと23安打としながら引退を余儀なくされた頃から武上の振る舞いに変化が現れ始めた。親分肌の武上に他の選手が追随するのは特に問題は無かったが、現役を引退してコーチという管理職になり立場が変わるとそうはいかない。チームとして組織のトップは監督であり、コーチ・選手が監督の意に従わなければチームは空中分解してしまう。「広岡監督とは性格が正反対だったが野球観は不思議と一致していた」と担当記者は話す。また別の記者は「荒川監督式の江戸っ子野球には反発していたが粘っこい妥協を許さない広岡の野球理論には昔から傾倒していた。広岡監督とは性格は水と油だが自分にはない広岡監督の理念・信念を学ぼうとしたのでは」と推論する。

荒川監督時代、コーチ会議の座長は広岡ヘッドコーチだったが生え抜きの丸山・武上両コーチが積極的に発言していて、当時から広岡ヘッドとはウマが合うようになった。立場が人を変えた。だが周囲はそうは見ていなかった。荒川監督が成績不振で休養となり、広岡ヘッドが監督代行となると " 静の広岡 " と " 動の武上 " はいずれは対立するだろうと思われていた。しかしその心配は杞憂に終わった。「広岡さんは武上コーチの一本気な性格を買っているんだ。似たもの夫婦より正反対の夫婦の方が上手くやっているみたいなもの(担当記者)」。好むと好まざるを問わず武上がコーチ業に全力投球をしているうちに武上自身が大人になったと考えるのが最も的確な結論であろう。

もっともその裏には球団内部というよりヤクルト本社筋の広岡監督への信頼が大きくものをいっているのも見逃せない。荒川前監督が僅か5連敗しただけで更迭されたのはまるで一時的な雇われマダムの様な扱いだったが、広岡政権はヘッドコーチとして入団した時からの既成事実だったからである。佐藤球団社長が逃げ回る広岡氏を千葉のゴルフ場まで追いかけて口説くなど三顧の礼を尽くして迎え入れた経緯からして広岡監督誕生は既定路線だった。そのあたりの政治力学を武上も感じ取った筈である。近い将来、いずれ武上にも政権を任される時がやって来るであろう。自分に欠けているものを広岡監督から吸収し勉強しようとする姿勢は想像に難くない。

広岡監督同様、武上コーチの能力を高く評価している松園オーナー。「武上にはまだまだ修行させないと。広岡君にはチームの優勝とは別に後継者も育てて欲しい(松園オーナー)」と周囲に話している。球団にもヤクルト本社にも全く信用されていなかった荒川前監督とは違って投手陣を再生させた広岡監督の手腕は今や絶大な信頼を得ている。「勝負の世界に妥協は絶対にダメ。どちらかが生き残り、殺されるかなんだから。考えているのはチームが勝つ事のみ(武上)」と言う台詞は広岡監督と全く同じである。誰よりも早くグラウンドへ来て一番最後に引き上げる粘っこさも広岡監督ばりである。今年も悲願の初優勝は成らずBクラスに低迷したがムードは決して悪くない。
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# 613 移籍男のドラマ ②

2019年12月11日 | 1976 年 



初勝利を2人だけで祝った気持ち
太平洋クラブライオンズへ新天地を求めた関本・玉井の両投手。2人は投壊状態の長嶋巨人を横目に見事に揃って完投勝利を挙げた。開幕直後は打線が湿り得点力が落ちていたので頼みの綱は投手陣だった。その投手陣を救ったのが関本・玉井だった。巨人では一本立ち出来ずにいたがパ・リーグにやって来て変貌を遂げた。あるスポーツ紙は2人を二人三脚と表現したが、確かに2人は仲間という中途半端な間柄ではない。ちょっぴり古い言い方だが " お神酒徳利のよう " という表現がピッタリだ。球場入りも一緒なら帰りも一緒。そもそも住んでいるマションが同じなのだ。福岡市の南部にあるマンション前に車を乗りつけると「じゃあまた明日」と肩を叩いて別れる。

2人は同じ階の向かい合った部屋に住んでいる。「普段からお互いの家を行ったり来たりしているんですよ。主人たちを見ているとまるで双子の兄弟みたいな感じです」と笑いながら打ち明けるのは関本久子夫人。これほど2人を親密にさせたのはやはり巨人を追われたという共通の境遇だろう。久子さんは玉川大学英米文学科卒の姉さん女房なのだが関本という男はどこへ行ってもワンマンぶりを発揮しているらしく、久子さんもそうした亭主関白ぶりを寧ろ頼もしがっている風さえある。「いやぁ関本家の仲の良いこと。僕らもあやかりたいので、しばしば女房と一緒にお宅にお邪魔するんです」と玉井。

太平洋移籍を機に永すぎた春にピリオドを打って玲子夫人と新婚家庭を築いた玉井だが、玲子夫人より関本と一緒にいる時間の方が長いかもしれない。なにしろ職場である球場への行き帰りだけでなく、「買い物や市内見物もお互いの家族は一緒(玲子夫人)」なのだ。関本と玉井は同じ26歳。僅かに4ヶ月だけ関本が兄貴で性格的にも陽気でグイグイいくタイプなので、イニシアティブは関本が握っているが関本によれば「玉井はおとなしい?そんなことないよ。お互いにワーワー好きなこと言い合っている。俺たちくらいウマが合うコンビはちょっと珍しいんじゃないかな」と言う。

トレードの時もそうだった。太平洋の中村オーナーはトレードに出す加藤初投手の見返りに要求したのが先ず関本で、その時はまだ玉井の名前は挙がっていなかった。2人目には張本とのトレードで日ハムに移籍した富田の名前も挙がったが合意には至らず、何度かの交渉の末に玉井で合意した。言葉は悪いが玉井はいわば刺身のツマ程度の存在だった。その添え物だった玉井が関本やエースの東尾よりも先にチーム初白星をかっさらった。平和台球場での対ロッテ1回戦、玉井は外角ギリギリへ直球、切れ味鋭いスライダー、ストンと落ちるフォークボールを織り交ぜた投球でロッテ打線を封じた。

誰も予想していなかった玉井の快投に青木球団代表はやおら胸を張って「な、玉井はエエ投手やろ。私の目に狂いはなかった」と自画自賛した。そしてそんな玉井の快投を一番喜んだのが関本だった。一足早く着替えを済ませた関本はロッカールームの前でマスコミのインタビューを受ける玉井の姿を、あの大きなギョロっとした目を潤ませて見つめていた。「奴はタフなんだ。今日の調子なら延長戦になっても投げ抜いただろう。これで玉井もローテーション入りは確実だね(関本)」と本人以上に喜び、取材を終えた玉井と共に2人で球場を後にした。番記者から祝杯を上げようと誘われた玉井だったが断り、自宅で関本家と" 水入らず " の祝勝会を開いたそうだ。

一方の関本の初勝利はそれから3日後の対近鉄ダブルヘッダー第2試合(日生球場)。昨季は0勝4敗と勝ち星から遠ざかっていただけに勝利の瞬間に関本は喜びを爆発させた。高々と両手を上げて三塁側のファンの声援に応えた後、まだ足りなかったのか自軍のベンチに向かって最敬礼を二度三度と繰り返した。何しろ一昨年の10月10日の対大洋戦以来の勝利だったのだから無理もない。平和台では玉井を迎える身だった関本が今度は玉井に迎えてもらう番となった。玉井が握手をしようと手を差し出したら関本はその手を払いのけて玉井に抱きついた。「やったよ。やっと勝てたよ。バンザ~イ、バンザ~イ」と大はしゃぎだった。

「おめでとう。よかったなぁ…」と言ったきり玉井は関本の激情に押し流されるままになっていた。玉井にしろ関本にしろ今季初勝利で「たった1勝」ではあるが2人にとっては実に大きな意味を持っていた。玄界灘を渡り博多までやって来た。特に関本は問題児の烙印を押されていただけにチームに貢献できた勝利は自分にも周りにも大きかった。投手難に頭を悩ます長嶋巨人から追われた2人にとってこの勝利は古巣に対する強烈な恩返しとなった。自主トレ、キャンプ、オープン戦と2人はお互いを励まし合ってきた。「2人で15勝以上」と勝ち星を語る時も2人がかりだ。折しも古巣の巨人は投手陣が総崩れ。悔やんでも時すでに遅しだ。
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# 612 移籍男のドラマ ①

2019年12月04日 | 1976 年 



人間は、いや男はその場を移ったとき良くも悪くも変わる。プロ野球の中でも自分の意思に反してその場を移さなければならないことがある。トレード。このプロ野球のルールに従って今季も新しいチームへと移った多くの野球人がいる。その中で " 栄光の巨人軍 " から追われた4人の男、高橋一・富田・関本・玉井はさまざまな感傷と意欲をもって新天地にその身を託した。そして始まったペナントレースに彼らは意地を白球に叩き付けている。そこには強烈な男のドラマがあるはずである。

鎖が解けて知った自己規制の尊さ
日ハムに移籍した高橋一、富田のコンビはリラックスの良さを知った。それが逆に自己規制の道であることも知った。この変化はある種の巨人に対する強烈な批判でもあるようだ。巨人時代とガラッと変わった私生活に富田は「人間っておかしなものだなぁ」とつくづく感じている。優等生の多い巨人の中で富田は所謂はみ出し者だった。遠征先では勿論、東京にいても赤坂や六本木の繁華街で飲み歩いていた。美枝子夫人と出逢ったのも夫人が歌手・白川奈美として活動していた青山のクラブであった。そんな富田が鳴門キャンプに入るとパタッと繁華街に飲みに出歩かなくなった。

キャンプが終わり東京に戻っても球場から自宅に一直線に帰宅する。南海や巨人時代の富田を知る人には驚きのようだ。「彼も奥さんをもらって子供も生まれたのだから父親として当然かな」とか「心機一転、張り切ってるんだ」など友人らは言うが、実はどちらも的外れのようだ。富田は「僕はねそんな謹厳居士じゃないよ。日本ハムに来たら普段あれこれと束縛されないからストレスが溜まらない。だから酒を飲む機会が減った。巨人時代はやれ門限だ、やれ酒やギャンブルはダメだとか窮屈だったから飲んで気分転換する必要があったんだ。でも今はその必要が無いから真っ直ぐ家に帰っているだけのこと」と明かす。

鳴門キャンプ初の休養日の朝の10時、他球団から移籍して来た選手に対して「監督室に集合するように」と連絡が回った。監督室に向かった富田ら数名の選手たちは驚いた。監督室には酒が用意されており「おお、よく来た。まぁ飲めや」と大沢監督が手招きしたからだ。午前中からの飲酒にさすがの富田もビックリ仰天。周りを見渡せば娯楽室では遠慮することなく酒を飲みながら麻雀卓を囲んでいる選手たちがいた。巨人では緊急呼び出しの時は大抵はお説教ミーティングか特訓だっただけに、余りのギャップに驚いたのだ。「日ハムは普段から自由な雰囲気だから、ことさら遊びたい飲みたいとは思わなくなった」と富田は言う。

これには高橋も同じ心境だ。「打たれたら、失敗したら巨人だったら散々で気分が滅入ってた。ただそれがプロの世界だと思っていた。でも日ハムでは雰囲気が違っていて直ぐに気持ちの切り換えが出来る。野球に関してこれだから遊びの面では尚更かな(高橋)」ユニフォームを着ている時とそうでない時とのケジメさえつければ、酒を飲もうが門限に遅れようがうるさい事は言われない日ハム。「遊びたければ底なしに遊べる。だけどその結果は全て自分に跳ね返ってくる。だから自分がしっかりしないと、と自戒になるんですよ」と高橋は自己規制の大切さを強調する。

これも自己規制のひとつなのか富田はタバコをやめた。「僕は1日50本を吸っていたので本数を減らそうと常々考えていたけど、どうせなら禁煙しちゃえとね。2日目には頭がクラクラしたけど今は大丈夫だよ」とか。ネオン街に行かない、タバコは吸わない夫に対し美枝子夫人は「今は夫婦で家でビール2本の晩酌をしながら子供の成長を見るのが楽しみ。子供の可愛い仕草を2人で発見し合って喜んでいる」のだそうだ。「確かに巨人時代と違って本人はリラックスしています。大体が一本気な性格なので上から抑えつけられるとダメな人なんです。日ハムの水が合うんでしょうね、今は野球に没頭しています」と美枝子夫人。

その一方で共に巨人から移籍して来た高橋は「南海という自由な球団にいた富田には巨人は窮屈だったんでしょう。僕の場合は高校を出て直ぐに巨人でしたから巨人という環境下でずっとやってきて、それが当たり前だと思っていました」と話す。なので高橋は巨人時代と変わらず同じペースの生活を送っていると言うが、和子夫人の目には少し違って見えている。「主人は元々仕事を家庭に持ち込まない主義の人でしたが、やはり負けて帰って来た時は雰囲気は暗かった。ところが今年は気分転換が出来ているのか家ではノンビリしています」と和子夫人は普段の高橋の様子を明かしてくれた。

さて2人にとって再スタートとなった開幕戦、富田は怪我で出場できなかった。本人は「多少の痛みなら出たい」と意欲を見せたが大沢監督は「一番・セカンドで使いたいのはヤマヤマだが無理をさせて怪我が長引いたら本人にもチームにもマイナス」と出場させなかった。富田は10日の南海戦からスタメンで出場し、早速4打数2安打1打点と結果を残し、存在感をアピールした。その試合に先発した高橋は南海打線を4安打に抑えてパ・リーグ初勝利を挙げた。「前のロッテ戦では打たれたが今日は勝った。パ・リーグの野球も分かってきた。やりますよ、手応えは有る」と力強いコメントを残した。



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