Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#263 1982年・キャンプイン

2013年03月27日 | 1982 年 
選手として大成して監督まで昇りつめた者、怪我で選手生命を縮めた者、日の目を見ずに球界を去った者、志半ばで夭逝した者など…人生いろいろです






















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#262 海外キャンプの弊害

2013年03月20日 | 1982 年 


最近では海外で春季キャンプをする球団は見かけなくなりましたが先駆けはヤクルトのユマキャンプでした

5年連続で行なわれているユマキャンプが今年でピリオドが打たれる公算が濃い。武上監督は来季のキャンプについて問われると「さぁ?今年の成績次第でしょうね」と答えている。監督・コーチ陣ら現場からは継続を望む声が多い。日本では真冬の2月でもアリゾナは30度前後で寒さが原因の怪我は起きにくい。さらに雨は殆んど降らず練習スケジュールの変更に頭を悩ます心配は皆無と良い所だらけなのだ。ところがヤクルト本社筋ではユマキャンプを今年で一応の終止符を…と考えているそうだ。

そもそもユマキャンプを行なうに至った最大の理由はヤクルトの飲料水を米国西海岸で販売する計画に伴い「Yakult」の名前を広める為で、事前宣伝の一環でチームのユマキャンプが実現したのだ。ところが本社の西海岸進出計画は頓挫してしまった。ならばわざわざ大金をかけて海外キャンプを行なう理由もなく日本国内で充分と判断したようだ。今季、優勝かそれに近い好成績を残せばユマキャンプの有効性を立証できるがBクラスに留まれば本社を説得する根拠を失ってしまうから今年の武上監督の目の色は違うのだ。

ただ本社側が懸念しているのは金銭的な問題だけではない。ここ数年、選手に腰痛や肉離れが多い原因の一つにユマキャンプがあるのではと考えている。ユマのデザートサン球場は砂漠地帯の真ん中にありグラウンドが異常に硬いのだ。早朝・練習前・夕方と1日に3回も水を撒いてもアッという間に乾いてしまいカチカチで極端に言えばコンクリートの上で練習しているようで足腰への負担はかなりのものだ。今年も1月下旬にユマ入りして合同自主トレをしていた大矢捕手が早くも左膝を痛めて病院送りとなってしまった。2月に入りキャンプが始まると若松、竹本、渡辺と故障者が続出する始末。

同じユマでキャンプをしているサンディエゴ・パドレスはその辺の事情はお見通しのようで、身体作りは別の場所で仕上げていてユマでは総合的なチームプレーをサッと済ませるとオープン戦の為にユマを離れる。技術的に未熟な2Aや3Aでもヤクルトのような猛練習はしないと現地では日本式練習のクレージーさが話題になっている。広岡前監督の置き土産でもある気の遠くなるような練習量が武上監督のアキレス腱になりかねない。



アメリカ国内でも最近ではフロリダが主要なキャンプ地となっていて砂漠地のアリゾナは敬遠されがちです。昔はろくに現地の環境すら調査せず海外キャンプを有り難がって取り入れていました。
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#261 1981年・珍記録集

2013年03月13日 | 1981 年 



連続打席無安打…さすがに記録の持ち主は打者ではなく投手。阪神・伊藤投手が昭和53年5月31日の広島戦以来の60打席連続打席無安打にピリオドを打った。1年目は4打数1安打、2年目は12打数0安打、3年目の昨年は24打数0安打と新人時代の1本きりだった。今年の奇しくも同じ5月31日の大洋戦で右前安打を放った。ただし1本出たからと言って打撃開眼した訳ではなく以後また無安打が続き10月4日の中日戦で打ったが、44打数2安打・打率は.045 で今季は終了。安打以外の42打数中26三振、中堅より左へ飛んだのは遊ゴロが1つと非力さが目立った。

0球セーブ…阪急・山田投手は5月15日の日ハム戦で1球投げただけでセーブをあげたが、それの上を行ったのが南海・三浦投手。6月4日の日ハム戦9回裏1点差の二死一塁で打者は古屋の場面で三浦投手が登板した。右前安打を放ったソレイタの代走・井上晃が大きくリードをしたのを見て牽制球を投げてアウト。0球セーブが成立した。セーブの規定が設けられて今年で8年目だが0球セーブは三浦で2人目で1人目はチームメイトの金城投手。なお三浦は5月6日の西武戦では2球でセーブをあげている。

負け越し…今年のセ・リーグは巨人の独走状態だった。序盤こそ中日が快進撃で首位に立ったが1ヶ月で息切れして6月に入ると巨人以外の5球団が揃って借金生活でセ・リーグでは昭和46年以来10年ぶりの出来事。この時は2日間だけの事だったが今年は7月になっても5球団は勝ったり負けたりで勝率5割前後をウロウロ。7月15日にも5球団が負け越し状態に陥った事からでも巨人の独走ぶりが分かる。

振り逃げで2点…6月23日の甲子園での阪神-広島戦、9回裏2点リードの広島は簡単に二死とした所で急に大野投手が制球を乱して死球、四球、四球で満塁のピンチを招いてしまった。打者の藤田平はカウント2-1からの4球目を空振りして三振。試合終了と思われた次の瞬間、ワイルドピッチで球は後方へ転々・・・三塁走者に続き二塁走者の吉竹も生還して同点に。続く佐野がボテボテの二塁内野安打でサヨナラ勝ち。広島には悪夢のような一戦だった。記録上は藤田は三振振り逃げで出塁、2点は大野投手の暴投であって藤田に打点は付かない。

三振で1打点…藤田と同じく三振だったのに打点が付いたケースがあった。三振した打者に打点が付くという日本プロ野球史上初の珍事が起きたのは4月14日のイースタンリーグ・日ハム-巨人戦での事。一死二・三塁で山崎は空振り三振したが田村捕手が捕球できず後逸して球を拾った田村が一塁へ送球して山崎を刺す間に三塁走者が生還。山崎はアウトになったが打点が付いた。上記の藤田の場合は「暴投」で山崎が「打点」となったのは打点が付く場合の定義があるからだ。ルールブックには打点の規定に【注】として「無死または一死で走者が一塁にある時を除いて捕手が第三ストライクを捕えないで一塁に送球して打者をアウトにする間に三塁走者が得点した場合は打者には得点打を記録する」とあり山崎に打点が付いた。

両打ち・リー…8月10日の西武-ロッテ戦4回表二死満塁で打者はリー。ここで西武は先発の山下に代えて永射を投入した。これを見たリーは右打席に入り左前に2点適時打を放った。次の7回の打席も右打席で対戦したが今度は遊ゴロに倒れた。実は高校時代のリーはスイッチヒッターだったのだがプロ入りしてからは左打席一本。しかし日本に来て2年目の昭和53年6月10日の近鉄戦で左腕・村田と対戦した際に右で打ったが結果は三ゴロ併殺打。ちなみに今季の対永射の成績は10打数1安打だった。

14年目で2号…中日・正岡選手は9月1日甲子園での阪神戦で今シーズン第1号を放った。これがプロ入り14年目で2本目の本塁打だった。初本塁打は昭和51年5月3日のヤクルト戦で会田投手から放った。第1号を打つまでに480打席を要したが、そこから第2号までには916打席を費やした。今季終了時点で1023試合に出場しているが主に守備固めで打席に立つ機会は少ない。1000試合以上の出場で本塁打が5本以下なのは正岡の他には島原輝夫(南海)の1096試合で3本があるだけ。

フリーパス…西武・吉本捕手は32機会連続で盗塁を許したまま今季を終えた。昨年の盗塁阻止率は3割1分9厘でパ・リーグ平均(3割1分6厘)に近く弱肩という訳ではなかった。今季の前期は2割7分3厘と若干落としたが特に悪さが目立つ成績ではなく阪急・福本の三盗を阻止した事もあった。しかし7月9日の南海戦で定岡に二盗されてからは走られ放っしのまま今季は終了。吉本以上に悲惨なのが日ハム・加藤だ。吉本は7人を刺しているが加藤は26機会で刺したのはゼロ、当然盗塁阻止率もゼロ。ちなみにパ・リーグの盗塁阻止率の最高は近鉄・梨田の4割1分3厘だ。






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#260 入団拒否

2013年03月06日 | 1981 年 



「あの時に入団をOKしていたら球団の、選手自身の今はどうなっていたのか?」と思われるケースが多々ある。昭和40年代の西鉄では入団拒否は珍しい事ではなかったが昭和40年は酷かった。指名した16人中13人が入団を拒否する事態に。その中の1人が江本孟紀(高知商)である。江本以上の大物も逃している。昭和42年には山田久志(富士鉄釜石)を11位で指名したが拒否された。彼らが入団し活躍していたら九州からライオンズが去る事態は避けられたかもしれない。

その山田が阪急に1位指名された翌43年は加藤秀司(松下電器)を2位、福本豊(松下電器)を7位で指名した当たり年だった。加藤はPL学園卒業時の昭和41年に東映、42年には南海にも指名されている。もしも東映に入団していれば張本や大杉と、南海なら門田とクリーンアップを組んでいたに違いない。その門田も昭和43年に山田や福本に続き阪急に12位で指名されていた。門田が阪急に入団していたら西本幸雄氏は「悲運の闘将」と呼ばれる事は無かったかもしれない。

昭和52年に中日入りした藤沢公也(日鉱佐賀関)は八幡浜高卒業時の昭和44年にロッテが3位、46年にヤクルトが11位、48年に近鉄が4位、51年には日ハムが2位で指名していたが拒否し続けていた。ヤクルトとロッテが特にビックネームを獲り損ねているが、一方で両球団の選手を見る目は確かだとも言える。




                               入団拒否した主な選手



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