Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 572 ペナントレース総括・西武ライオンズ

2019年02月27日 | 1985 年 



打線の軽量化を投手力でカバー
優勝したとはいえ本塁打数はリーグ5位
今オフ、西武はスティーブ選手に代わり大リーグ・ブ軍のベン・オグリビー選手に白羽の矢を立てている。オグリビーは大リーグ歴15年・1651試合・通算打率.273・230本塁打で1980年には41本塁打でア・リーグの本塁打王になっている実力派。西武にとっては喉から手が出るほどの助っ人だ。今季の西武は優勝したとはいえチーム本塁打数は156本でリーグ5位。最少だった南海と6本しか違わない。四番に座るスティーブは打率こそ7位の3割1分5厘だったが四番打者に求められる本塁打は11本。規定打席に達した他の助っ人選手中、最多本塁打だったデービス選手(近鉄)の四分の一。打点もブーマー選手(阪急)の半分の61打点。大砲獲得は西武にとって緊急の課題である。

金太郎飴打線の欠陥を最後に露呈
三番には中日から移籍した田尾選手が座ったが、打率.268・13本塁打と期待に応えられなかった。西武の打順別の打点数は一番から九番まで圧倒的な差はなく、付いたあだ名は " 金太郎飴打線 " 。五番・六番はともかくも、一番打者の打点数が三番・四番より多いのは打線としてはいびつである。裏を返せば三・四番がクリーンアップとして機能していなかった証明でもある。この欠陥が阪神との日本シリーズで露呈した。バース選手が第1・2戦で効果的な本塁打を放ったのに比べて西武の三・四番は第3戦まで本塁打はゼロ。第4戦でスティーブ選手が2ラン本塁打を放ったが、三番の田尾は全6試合を通じ本塁打どころか打点すらゼロだった。

守備面での人工芝対策は万全の構えだった
打線には不満があったが投手を含めた守りに関しては手落ちはなかった。チーム防御率、守備率は共にリーグ1位。特に人工芝である本拠地・西武球場では万全の構えだった。ロードの65試合では42失策だったが西武球場の65試合では27失策と1試合平均0.42個である。土のグラウンドの大阪球場で4月29日の試合で3失策した秋山選手も西武球場では年間を通じて3失策。同じく土の旭川で1試合3失策した石毛選手も本拠地では5失策だった。来季以降は土のグラウンド対策が課題となる。

番記者が選ぶベストゲーム
7月4日、対阪急13回戦(西武)。この試合を落とせば4連敗で独走中とはいえ2位・阪急と4.5ゲーム差に迫られる負けられない試合だった。エースの東尾投手を先発に起用したが試合は終始、阪急ペースで進んだ。1点差の8回裏、疲れの見え始めた阪急・山田投手から田尾選手が7号ソロ本塁打を放ち同点に追いつき、山田は降板。代わった山沖投手から9回裏に石毛選手が14号サヨナラ本塁打で試合を決めた。本塁上で誰彼となく抱き合う選手達を見て番記者連中も胸を熱くした。その時に確信した。これで優勝だ、と。

" 掌中の珠 " の郭泰源を巡り色んなことがありました…
いやはや西武という球団は何て細やかな心配りが出来るんだ、という話がある。台湾から激しい争奪戦の末に獲得したオリエント超特急・郭投手。ロス五輪では優勝こそならなかったが対米国戦で時速158km を計測し、日本ではどれだけ活躍するのかと注目を一身に浴びた来日だった。しかも来日直前に右ヒジの故障が報じられて活躍に疑心暗鬼な目で見られたこともあった。その時に西武はどのような対応をしたのか?「日本と日本の野球界に慣れるまで郭投手との個別のインタビューを禁止する」と坂井球団代表は表明した。普段の取材も球団関係者が立ち会い、インタビューは共同会見のみに制限した。当然ながらマスコミ各社は報道管制だと抗議したが球団が態度を変えることはなかった。

球団の " 過保護 " ぶりはこれだけではなかった。郭の通訳に球団が選んだのは当時、慶応義塾大学商学部4年生で台湾からの留学生・薜森唐さんで、1年間所沢市小手指のマンションで郭と同居し公私に渡り面倒を見させる徹底ぶりだった。さて、その薜さんの通訳ぶりが記者達をイライラさせることとなる。薜さんは野球に関する知識が余り無い為に専門的な質問をしても回答は要領を得ない。そもそも日本語の語彙力が乏しく通訳としての能力にも疑問符が付く。郭が長々と話しても「はい」とか「いいえ」で終わってしまうこともしばしば。「天下の西武グループなんだからもっと優秀な通訳を雇えばいいのに」と記者達は不満を口にした。

報道管制といえば今季の早い段階で箝口令が敷かれたことがあった。球団の内部情報が外へ漏れる事態が相次ぎ、業を煮やした根本管理部長が「球団関係者のマスコミとの接触を禁止し、広岡監督に窓口を一本化する。球団関係者とはフロント陣だけでなくコーチも含む」と球団内に御触れを出した。しかしコーチ陣が一斉に反旗を翻したことで早々にお触れは撤回された。ちなみにコーチ陣の中で一番のお喋りは先ごろ退団した黒江作戦コーチ。広岡監督の知恵袋と自他ともに認める存在であっただけに報道陣は黒江コーチの周りに群がった。生来のお喋り好きな性格もあり、報道陣から聞かれると余計なことまで話してしまうこともしばしばあった。担当記者達にとってこれほどありがたい存在はなかった。
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# 571 ペナントレース総括・ヤクルトスワローズ

2019年02月20日 | 1985 年 



打てず走れずの体質は今季も…
外人枠2人を生かせず1年を無為に
今にして思うと3月8日の近鉄とのオープン戦に8対3で勝利したのは、とんだヤブ蛇だった。この試合で二番を打っていたスミス選手は3連発を含む4安打と大爆発。来日1年目の昨季は52試合・打率.214・5本塁打と本来なら戦力外でもおかしくない成績だったが、1年目で日本の野球に慣れていないという理由で今季も首が繋がったのだ。そしてこの試合の活躍を見せつけられた首脳陣は今季こそはと期待したのだが、16試合出場して僅か6安打・0本塁打でシーズン途中で退団となった。もう1人の助っ人・マルカーノ選手も阪急時代の雄姿からは程遠く12本塁打に終わった。またスミスに代わって途中入団したビーン投手も8試合・2勝・防御率 7.25 でこれまたシーズン終了を待たずに退団してしまった。

チーム盗塁数が高橋慶(広島)の4割にも満たない
チーム打率・防御率ともにリーグ最下位とあっては5位中日にすら11.5ゲーム差でブッチギリの最下位になるのも当然といえば当然。加えて走る方も全く意欲を欠いていた。チーム盗塁数は29個。これは盗塁王・高橋慶選手(広島)の73個の半分はもとより40%にも満たなかった。走塁にスランプは無い、が球界の常識だが今季のヤクルトは当てはまらない。2年前の昭和58年はリーグ3位の90盗塁を記録したが、翌年は49盗塁とほぼ半減。とうとう今年は29盗塁に。水谷選手の10盗塁がチーム最多で次が岩下選手の5盗塁では話にならない。

後半戦にチームを立て直した荒木の快投
ヤクルトは開幕から5連敗、1つ勝った後にまた5連敗。オールスター戦を前にして勝率は3割を僅かに越えたくらい。それが後半戦は4割5分9厘と悪いながらも上昇した。そのヤクルトを象徴しているのが荒木投手である。鳴り物入りで早実からプロ入りしながら昨季までの2年間では通算1勝5敗だったが、今季は8月に一軍復帰を果たすと9日の巨人戦で完投勝利。シーズン終了までに6勝を上げた。後半戦での6勝はヤクルト投手陣では高野投手、梶間投手と並ぶ最多勝利数だった。9月23日の巨人戦では3安打完封勝利。ヤクルトの投手が巨人戦で完封したのは昭和54年9月2日の松岡投手以来の出来事だった。

番記者が選ぶベストゲーム
8月9日、対巨人18回戦(後楽園)は先発した荒木投手の奮闘で4対3の辛勝だった。荒木は被安打8・奪三振5で完投勝利。打線は広沢選手の本塁打などで江川投手を攻略した。開幕以降、一度も最下位から浮上することなく、巨人にもなかなか勝てずヤ党はヤキモキしたが荒木の溢れる闘志、広沢のケタ外れのパワーなど若手選手の活躍で溜飲を下げる思いだった。ヤクルトの主力選手は平均年齢が高く若手の台頭を願っていたヤ党にとって荒木や広沢は来季に向けての希望の光だ。2人の活躍に度肝を抜かれたような目をしていた王監督の姿が忘れられない。

荒木を奮闘させたのは交通事故の示談金200万円だった !?
本誌6月頃の『12球団 Topic Box 』のコーナーで荒木投手が「ボク、秋頃に結婚するんです」と " ジョーク " を掲載したところ、合宿所の電話はファンからの問い合わせで鳴りっぱなし状態に。「友人・知人からの連絡が絶えなくて、もう否定するのに大変な思いをしました。冗談を冗談と取ってくれなくて…(荒木)」と改めて自分の人気にビックリ仰天した荒木だった。ただ荒木にガールフレンドがいたのは事実で、しかも彼女を車に乗せてドライブ中にオートバイと接触事故まで起こしていた。この事故で免許証は寮長に取り上げられた上に示談金も払う目に遭ってしまった。その後は彼女とは自然消滅したようで今は休みの日でも出かけることなく埼玉県戸田市の合宿所で過ごしている。

冷暖房完備で新築して1年のピカピカで3階の6畳間が荒木の城だ。ところが荒木は大の掃除嫌いでお世辞にも綺麗な部屋とは言えない。更に洗濯も嫌いで「ベッドのシーツなんか1ヶ月近くは洗いませんよ。汚い?他人が使う訳じゃないし気になりません(荒木)」と顔に似合わずバンカラ男だ。昨秋の浜松キャンプでは入団5年目以下の若手は3日に一度交代で、先輩のアンダーシャツを洗濯する役目があった。新人の広沢選手や秦選手は丁寧に時間をかけて洗うのだが、荒木は洗剤を使わず濯ぎだけで済ませてしまった。「だってユニフォームみたいに泥で汚れてるわけじゃないし水だけで充分でしょ(荒木)」とアッケラカン。

現在、荒木の部屋はテレビ、ビデオ、ステレオ、そしてファンから贈られたぬいぐるみなどが置かれ少々手狭になっている。「僕の希望としては近い将来、合宿所を出て実家(東京・調布市)の近くに部屋を借りて独り暮らしをするのが夢(荒木)」と笑った。今季後半戦の活躍でシーズンオフはテレビの出演依頼や取材の申し込みで引っ張りだこ。更に製薬会社からCMの話が来るなど球団の広報担当は荒木本人以上に連日大忙しである。人気沸騰で球団としては嬉しい悲鳴だが「浮かれ過ぎになるのも本人の為に良くないからテレビ出演は極力避けたい(広報担当)」と本音を漏らす。荒木本人も「歌番組やクイズに出たりするのは苦手。ですから自分としては球団の方針をありがたく思っています。顔見せが出来ない分は来季ローテーションに入ってファンの皆さんに恩返ししたいです」と話す。
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# 570 ペナントレース総括・中日ドラゴンズ

2019年02月13日 | 1985 年 



打線の " 小型化 " と守乱がアダに…
見る者をハラハラさせた57失策の三遊間
モッカ選手はシーズン閉幕前の9月20日に帰国した。人柄を愛され9月19日の試合後にはナインに胴上げされた。打率.301 は充分合格点なのだが、それをも帳消しにしてしまうほどお粗末な守備だった。そもそも" 不動 " である上に球際に弱くポロリポロリと落球をする場面が多々見られた。今季の阪神、巨人、ヤクルトの三塁手の失策は10個。しかしモッカは1人で24失策、チームとして三塁手は32失策。加えて遊撃を守る宇野選手は25失策。チーム全体の失策数112個のうち三遊間の合計失策数は57個、最少のヤクルト(25失策)の倍以上でリーグ最多である。投手陣は打球が三遊間へ飛ぶ度に冷や汗をかき、目をつぶり祈るしかなく堪ったものではない。

昨年比で55本も減少していたホームラン
昨季は勝率.598 で首位に3ゲーム差の2位と健闘したが今季は勝率.479 で首位とは15ゲーム差の5位に沈んだ。様々な要因があるが本塁打数の減少も大きな要因の一つ。宇野選手は昨季より4本増産したが谷沢選手は23本減、モッカ選手は18本減、大島選手は7本減と中心選手の多くが昨季より本数を減らした。また昨季20本塁打した西武へ移籍した田尾選手の後釜に期待された川又選手は9本塁打と田尾の穴を埋めることは出来なかった。セ・リーグ全体の本塁打数は昨季より増えているのに対して中日は55本減ときては他チームに後れを取るのも当然か。

暗い話題の中で投手陣の整備は来季へ光
今季は5位に低迷した中日にとって来季への光明は投手力が整備されたことだ。セ・リーグ全体の完投数は昨季が179 、今季は176 と大差なかったが中日は36完投から45完投へと増やした。昨季までの5年間はもっぱらリリーフ専門で、過去に先発した18試合でも完投はゼロだった牛島投手が今季は10試合に先発して6完投と先発投手としての役割を充分に果たしたことは収穫だった。更に郭投手15、小松投手14などリーグ最多の完投数でチーム防御率もリーグ2位と健闘した。

番記者が選ぶベストゲーム
10月24日・対広島26回戦(広島)。この最終戦の前まで小松投手と広島の北別府投手は共に16勝でハーラーダービーのトップで並んでいた。また同じく広島の川端投手と防御率争いをしていたが、3人はこのまま登板せず最多勝は北別府と分け合い、最優秀防御率賞は川端が獲るとの暗黙の了解で、両チームとも試合前からノンビリムードだった。ところが同じく今季最終戦だった大洋の試合がそんなムードを一変させた。大洋は9回を終了して2対2の同点で延長戦へ。仮に大洋が負けて中日が勝つと中日は4位に浮上する。この時点で広島との試合は9回表を終了して同点。勝てば4位かも…すると山内監督は何と9回裏から小松を起用した。こうなると広島も黙ってはいない。延長10回表から北別府を登板させた。二死二・三塁の場面で打席には小松。結果はタイムリーヒットで小松は最多勝と防御率の二冠に輝いた。ただし大洋が勝った為に中日は5位のままだった。

某コーチの職場放棄であわや山内監督辞任の危機
6月13日、対大洋戦(横浜)は雨天中止。中日ナイン一行は次の遠征先となる浜松へ向かった。ある一人のコーチを除いて。某コーチはチームには同行せず新横浜駅からこだま号に乗り、浜松で降車せず名古屋へ。当初、球団側は「何か理由があるのだろう。用事が済めば今夜中に戻って来る筈」とタカをくくっていた。翌朝の8時過ぎに宿舎である浜松グランドホテルの鈴木球団代表の部屋の電話がけたたましく鳴った。「まだ〇〇コーチが戻っていません。どうしますか?」本田マネジャーの声だった。「本人に連絡したのか?(鈴木)」「はい。ただ要領を得なくて…(本田)」「どういう事だ?戻る気がないのか?(鈴木)」公式戦真っ只中での現役コーチの職場放棄は前代未聞の出来事だった。

この日の試合開始まではまだ9時間余りあったが鈴木代表は山内監督に事の顛末を告げた。「ええ?彼が辞めるなら私も辞めざるを得ない」と山内監督。この頃の中日は負けが込んで苦しいチーム状態であったが、よくある話でそういう時に決まって作られるのが不満の捌け口としてのスケープゴート。今季はある某コーチ一人に選手間の批難が集中した。いたたまれなくなった某コーチは「私が辞めてチーム状態が良くなるのなら…」とチームを去る決心をしたのである。某コーチの職場放棄を一部マスコミが嗅ぎつけて14日の朝刊で『山内監督休養へ』と報道した。具体的な代理監督の名前まで載せたスポーツ紙もあった。騒動は鎮静化する気配はなく球団側も監督交代やむなし、に傾きつつあった。

鈴木代表はコーチは空席でも構わないが監督は代理が必要になると判断し一軍スタッフに加えて二軍スタッフも含めて代理候補を思い浮かべた。浮かべては消し、消しては別の人物を思い浮かべた。やがて一人の人物に行き着いた。ちょうどその時、部屋のドアをノックする音がした。本田マネジャーだった。「代表、大丈夫です。〇〇さんはもうすぐ来ます(本田)」と。この日(6月14日)の試合は無事行われた。郭投手と尾花投手(ヤクルト)の投手戦となり残念ながら試合には負けたが、勝敗よりもチームが瓦解しなかった方が重要だった。現在は山内監督の下、選手・スタッフ一丸となり来季に向けて頑張っているので今更コーチの名前を明かす必要はないだろう。だがチームが空中分解の瀬戸際まで追い込まれたのは紛れもない事実である。
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# 569 ペナントレース総括・横浜大洋ホエールズ

2019年02月06日 | 1985 年 



投壊現象で打線の改革も影うすく
長年の左腕不足は今年も大きく影響した
今季の各球団の左腕投手の成績は以下の通り
     

ここ数年、大洋は左腕不足に悩まされてきた。昭和57年は1勝5敗、翌58年は3勝6敗、昨年は0勝2敗と勝ち星以前に投げられる左腕自体が一軍に定着出来ずにいた。今季も3勝(久保2勝・広瀬1勝)のみで期待された大畑投手は0勝だった。しかし3勝しているとはいえ完投勝利はゼロ。左腕投手の完投勝利は佐藤投手(現ロッテ)が昭和56年8月3日の対ヤクルト戦まで遡る。そんな大洋に希望の光が。昭和53・54年のドラフト会議で指名しながら獲得できなかった木田投手を日本ハムからトレードで獲得した。実に7年越しに願いが叶った。最近は低迷している木田だが心機一転、新人時代のような大活躍をするよう期待している。

何故かドラフト1位指名投手が育たぬ体質
球団も左腕不足に手をこまねいていた訳ではない。最近は毎年のように真っ先に左腕投手に白羽の矢を立ててきたが一向に育つ気配が無い。昭和53年の高本投手(勝山高)は一軍で1試合も投げずに退団。昭和56年の広瀬投手(峰山高)は通算2勝止まり。翌57年の大畑投手(九州産業大)は今回の日ハムとの交換トレードで移籍。1位指名投手が育たないのは何も左腕に限った話ではない。昨年は鋭いフォークボールを武器に即戦力ナンバーワン投手の前評判だった竹田投手(明治大)を1位指名入札。巨人、中日と競合したが抽選で引き当てた迄は良かったが、1勝どころか一軍にすら昇格することはなかった。

一応成功を収めたスポーツカートリオ
近藤新監督は就任早々に内野陣の総入れ替えを断行しチーム内外を驚かせた。喝を入れられたチームは蘇った。昭和58年のチーム盗塁数は僅か78個、翌59年は110個に増えたが今年は更に増え188個でリーグ1位。大洋にとっては昭和25年の180個を更新する球団記録だった。個人では屋鋪58、加藤博48、高木豊42個と走り屋トリオが誕生した。同一チーム内に40盗塁以上が3人というのはプロ野球史上初の事。チーム打率は2割6分7厘で昨季の2割6分3厘と大差ないが、得点数が昨季の484点から589点と大幅に増えた要因の一つに機動力の充実があった。


番記者が選ぶベストゲーム
4月13日・対巨人の開幕戦(後楽園)で近藤監督が高笑いした。6対6で迎えた8回表二死一・二塁の場面で打席には今季から近藤監督が三番に据えた屋鋪。結果は右中間を破る決勝の3塁打。チームに3年ぶりとなる開幕戦の白星を呼び込んだ。「今日は屋鋪に尽きる」と近藤監督はしてやったりの笑顔。「だから僕の言った通りでしょ。屋鋪が三番に定着しないとウチは駄目なんですよ(近藤監督)」と。屋鋪の長打力に目を付けた近藤監督はバットを短く握らせて叩く打法を指導。一番から高木豊、加藤博、屋鋪の順に並べたのは単に足の速さだけで決めた訳ではなかった。そこには長打力という深い読みがあったのだ。「巨人を倒すのが僕のロマン」という近藤監督の思いに屋鋪が応えた。

監督も選手もよくよくドアを蹴っ飛ばすのが好きな今季だった
完敗だった。8月のナイターはただでさえ蒸し暑くてイライラするのに、斎藤投手(巨人)に僅か4安打完封負け。全く歯が立たないまま2時間51分で試合は終了した。報道陣は後楽園球場三塁側ベンチ裏の薄暗い通路に集まり「今日はヤバイな」「怒り心頭だぜ」などと口にした。下唇を突き出す仕草をする記者もいた。近藤監督が興奮すると下唇を尖らせて早口になる癖を真似たのだった。選手達がダグアウトから引き上げて来る。先頭は近藤監督だ。すかさず記者達が近寄ると「今日は無い!何も無い」と明らかに怒っている。「それにしても打てませんでしたね?」とある記者が質問すると「うるさい!耳が聞こえんのか!何も無い!!」と。しかし記者も食い下がる。「斎藤投手はどうでしたか?」と聞かれると「よそのチームのことなんか知るか!」

ハプニングはこの直後に起こった。監督室のロッカーに入ろうとしてドアノブを回したが動かない。ドアは試合が始まると係員が施錠し、試合が終了すると開錠する。ところがこの日に限って係員が開けるのが遅れたのだ。「ガシャ、ガシャ」ドアノブを回す近藤監督の手はブルブルと震え、顔は紅潮し始めた。イライラが頂点に達した近藤監督はドアに自分の体を当て始めた。バタン、バタンッと周囲に異様な音が響き渡り、その場に居合わせた誰もが押し黙ったまま数秒後、「ごめんなさ~い、遅くなりましたぁ」と係員の呑気な声が。しかし近藤監督の形相を見た瞬間、係員の顔がひきつった。「す、すいません。すぐに開けます」と手にした鍵の束から監督室のドアの鍵を探した。

ところが慌てている時はえてして事は上手く運ばない。幾つかある同じ型の鍵の中から監督室の鍵を見つけるのに手間取った。ようやく開いたドア。近藤監督が中に入りドアを閉めた瞬間、ガッシャーンと椅子を蹴り飛ばす大きな音が部屋の外へと響いた。この音に近藤和コーチ、小谷投手コーチの足がすくんだ。更に数秒後、今度はロッカーを蹴り上げる音が響いた。この夜の近藤監督は大荒れで球場を去り際に選手の浴室の扉とロッカーを蹴りつけて帰って行った。そこには近藤監督のスパイク底の黒いゴム跡が残っていた。それから数日後の8月24日の横浜スタジアムで今度は若菜選手が途中交代を不服としてベンチ裏通路の扉を蹴った。扉には穴が開くほどの激しさに亀井マネジャーは「監督に報告しておく」と怒鳴った。試合後、亀井マネジャーが近藤監督に事の顛末を報告しようとした瞬間、同じ扉を蹴り上げた。亀井マネジャーは黙ってその場を離れた。
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