Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 702 巨人・阪神の血闘 ①

2021年08月25日 | 1977 年 



1977年の巨人・阪神の第1幕は巨人の3連勝という意外な展開のドラマとなった。両軍ファンの期待が大きかっただけに、その反応も凄まじく怒りと喜びに甲子園が揺れ動いていた。そのドラマを追う・・

商売途中で駆けつけたのに大損や
対巨人3連敗が決まった後の阪神ファンは怒り狂った。「人を馬鹿にしとるでホンマ。阪神はもうやめてまえ」「そうや、そうや。お前らみんな殺したるど」などなどビールの空き缶やゴミが甲子園球場のスタンドに舞い、物騒な怒号が飛び交った。観戦していた伊丹市に住む斎藤満さん(会社員)に意見を伺うと「怪我や故障は不可抗力と言うけどそんなんは言い訳だ。巨人を見てみいや、張本や王だって故障してるけど弱音は吐かんやろ。浅野もヒジを痛めているのにちゃんと抑えているじゃないか。阪神はなんや、掛布が故障したら『俺も俺も』と皆が言い出しよる。チーム全体が甘えとる。こんなチームにした吉田監督の責任だ」と嘆く。

今回の巨人3連戦は4万人、4万6千人、4万2千人を集めテレビの放映権料や売店の売り上げなど1億円を越える収益だったが球団幹部はどこか渋い表情。「3日間で12万人以上の動員だったがチームが3連敗では素直に喜べませんよ」と。商売の街である大阪近辺は平日の『五十日(ゴトウビ)』は商売上の決算日に当たり本来なら野球どころではない。「この忙しい時期に仕事を途中で切り上げて甲子園に来たのに阪神が負けて一つも面白くない」と嘆くファンは多い。また甲子園球場の周辺では阪神戦が行われる日は警察による駐車違反の取り締まりが厳しくなる。この3連戦中は1日平均150台の車が摘発され、〆て200万円を超える罰金が国庫に納められた。


古参記者に詰め寄られた吉田監督
巨人戦となると取材陣の数も他カードより増える。普段グラウンドで顔を合わせる若手記者だけでなく、記者歴20年・30年といったベテラン記者もやって来る。それぞれの新聞社で部長とかデスクといった肩書の猛者達が2連敗した試合後に甲子園球場2階にあるプレスルームで吉田監督を質問攻めした。「3回裏、一塁走者だった上田次郎が中村の二塁打で三塁を回った時に一枝三塁コーチと接触してスピードが落ちた。本塁突入はやめるべきだったのでは?」・・吉田監督は暫し沈黙。畳みかけるように「上田が吉田捕手とぶつかって昏倒したのに後続打者は早打ちしてチェンジとなり上田は意識朦朧状態で投げざるを得なかった。状況判断がまるで駄目だ」

吉田監督の沈黙は続く。「下手な走塁、サインミスなど普段からチェックしているのか?」吉田監督はまだ沈黙。「上田の本塁突入は吉田捕手のブロックがホームベースよりかなり三塁寄りだった。走塁妨害の抗議をしなかったのは何故?」ここでようやく吉田監督が口を開く。「確かにそう言われたら…今はじめて…まぁそういう事にしておいて下さい」とだけ言うと席を立ちロッカールームに向かった。普段の試合後の会見なら若手記者から「今日の試合の感想は?」程度の軽めの質問で終わるところが今回の巨人戦では厳しい質問が相次いだ。吉田監督にはグラウンド以外にも思わぬ敵が待ち構えていたというわけだ。

対巨人3連戦初戦を落とした吉田監督は「いやぁ今日の負けは私の責任です。古沢に未練を持ち過ぎたのが失敗でした」と若手記者相手に煙草をプカプカ燻らせながら余裕の応対に終始していたが、連敗後の古参記者相手では勝手が違ったようだ。その会見を横で眺めていた評論家の牧野茂氏は「いやぁ関西の記者さんは厳しいね。巨人相手だから?見ていて気の毒になったよ」と言うと古参記者の一人が「いや、腑に落ちない点を聞いたまで。相手が巨人以外でも同じ質問をしますよ。そもそも質問された監督があんなに黙っていたら駄目ですよ。社に戻ったら若い記者連中に注意しとかないと」と厳しい質問は至極当然といった顔つきだった。

そして迎えた3戦目、度重なる走塁ミスに前夜に輪をかけた拙い攻めでチャンスを自ら潰して負けた阪神。試合後の吉田監督は帽子に何度も手をやりながら足早にロッカールームへ向かった。「監督、監督。一言お願いします」という記者達の声に一度も立ち止まらず、途中のプレスルームも素通りした。数分後、数十人が待ち構えるプレスルームに現れたのは河崎広報担当。吉田監督とは京都・山城高時代の同窓生だ。「皆様に申し上げます。吉田監督は今日の試合に関して皆様がご覧になった通りで何一つ弁明することはないと申しております。悪しからず」とだけ言うと退室した。遂に現れなかった吉田監督。本拠地での屈辱的な3日間の象徴とも言える場面だった。
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# 701 景浦 將

2021年08月18日 | 1977 年 



起死回生の本塁打に賭けられる懸賞金。今ではありふれたことだ。しかし昭和11年時点で、あの沢村投手から100円(現在に換算すると20万円)の大金付きの本塁打をモノにした景浦将(松山商➡立大➡阪神)という男がいた。昭和20年、太平洋戦争の犠牲となった景浦を生き証人・石本秀一の話を基に今ここに呼び戻してみる。

三段落ちドロップとらえた36インチ
昭和11年12月9・10・11日の3日間、東京府城東区の洲崎球場で巨人軍と大阪タイガースによる優勝決定戦が行われた。第1戦の先発投手は沢村栄治と景浦将。序盤3回を終えて巨人が4対0とリード。沢村相手にタイガースの敗色は濃厚と思われた。意気消沈のベンチを活気づける為にタイガース・石本監督は4回表のチャンスに懸賞金という大芝居を打った。三番・小川が四球で出塁すると続く四番・小島が右翼線二塁打を放ち無死二・三塁。迎えるは五番・景浦。ウェーティングサークルにいた景浦に石本監督が「ここで一発出たら懸賞金を出すぞ。球団が払うんじゃない、俺の財布から出すんだから嘘はつかん」と言うと景浦はニヤリと笑い打席に向かった。

長さ36.5㌅(92cm)・重さ1200g のバットを手に打席に入った。参考までに王選手のバットは34.5㌅・920g である。景浦は片手でリンゴを握り潰せるほどの握力の持ち主なので長くて重いバットも苦も無く使いこなせた。ボールカウント1ー2からの4球目、沢村が投じた三段ドロップを捉えると打球は左翼席上段に飛び込み、跳ね返って場外へ。当時の外野スタンドは木製の柵だけで仕切られていて目の前は海岸線で打球は海に消えた。景浦のスリーランで一挙に点差は1点に縮まり、勝敗の行方は一転して分からなくなった。この一発で景浦は懸賞金を手にしたわけだが、実は懸賞金の額については色々な説があったのだ。

当時、東京帝国大卒の初任給は45円、早大・慶大など私立大卒だと40円ほど。月給が100円あればお手伝いさんを雇えたという。そういう時代だから景浦が手にした懸賞金の額は10円と言われていた。大卒初任給の1/4 ならば現在に換算すると2万円で妥当な額だ。その点を当事者の石本氏に質すと「いや違う。私が渡したのは100円だ」と反論した。続けて石本氏に聞いてみた。

「100円だと当時の帝大卒の倍以上ですよ?」
「そうですよ」
「現在だと20万円に相当する。10円の間違いでは?」
「そう思うのはあなたが景浦という男を知らないから。10円じゃ景浦は本気にならんですよ」と100円説を譲らない。

景浦の月給は120円で大卒初任給の3倍だ。当時の野球選手の月給はサラリーマンの3倍相当と言われていたので景浦の月給は特に多かったわけではない。ちなみに石本監督の月給は300円と高額だったが、月給の1/3 に相当する100円を懸賞金に出すのは考えにくいと思ったので再度10円の記憶違いではないかと聞いたが石本氏は頑として譲らない。何しろ「自分で出した懸賞金だから金額は自分が一番よく知っている」と主張されると、こちらとしてもそれ以上は返す言葉は無かった。


吉田監督の下で生き返る懸賞金成金
現在の各球団はどこでも罰金と賞金の制度を取り入れている。もしも今の阪神に景浦が蘇ったらさぞや大金を手にするのではないかと思われがちだが、そう簡単にはいかない。景浦には別の顔があった。石本氏が言う「あなたは景浦という男を知らないから」の発言がそれだ。実は相当な我がままだったという。石本氏は監督時代に『球団日誌』なるものを書いていた。その中に「景浦、走らず、捕球せず。理由不明」という文章が残っている。要するに景浦は右翼を守っている時に打球が飛んで来ても走らない。走らなければ捕球できない。仕方なく中堅手の山口政信選手が打球を処理したという。チームプレーを完全無視だ。これでは今の阪神でプレーするのは不可能だ。

理由不明と記されているが真相は何だったのか?当時タイガースに朝鮮半島の平壌高普から入団した林賢明という投手がいた。実力は三流だが今でいう助っ人扱いだったので月給の方は一流で、景浦より30円も高い150円だった。景浦にしてみればエースで中心打者、しかも登板しない日は野手として出場している自分より林のほうが月給が高いとは納得がいかなかったのである。高まる不満が爆発し、あのような行為になったようだ。そういう男だから石本氏の言う通り10円の懸賞金では動かなかったであろうと推察できる。吉田監督をもってしても景浦を使いこなすのは難しいであろう。賞金額が高い巨人戦では活躍するもそれ以外の試合は手抜きするのが目に見えている。


5月20日をめぐる誕生日と命日の差
昭和20年5月20日、景浦はフィリピンのカラングラン島にいた。数名の同僚と一緒に景浦伍長は洞窟生活を送っていた。とにかく食べるものがない。80kg あった体重は50kg 台に落ちていた。「洞窟を出て食糧を探してくる」と景浦伍長は2~3人の仲間と山を下りた。それから数時間後、景浦伍長は冷たくなって洞窟に戻って来た。山を下りて麓を探索中に米兵に見つかり狙撃されたのだ。仲間に背負われて洞窟に戻って来た時は既にこと切れていた。一説には餓死したという話も伝わっているが、親族は射殺の連絡を受けたという。

弾丸が数㎝ ズレて致命傷にならなかったら…戦後のプロ野球の歴史も変わっていたかもしれない。戦後32年が過ぎた現在でもそうした思いにかられる。毎年5月20日になるとマスコミは巨人・王選手の誕生日のニュースを流す。巨人ファンならずともお祝いムードになる。だが景浦を知る人間にはこの日が憂鬱でならない。同じ球界を代表するホームラン打者でも王は誕生日、景浦にとっては命日なのである。平和で自由に野球をすることが出来なかった時代があったことを今の選手たちに知ってもらいたい。
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# 700 序幕のヒーロー ④

2021年08月11日 | 1977 年 



異色の新人が現れた。無名の25歳さして注目もされなかったのに、いきなり先発で初勝利。このカネやんを大喜びさせたロッテの仁科時成投手の得意球が男にとってなりよりの " 度胸ボール " とは楽しいではないか。

新人一番乗り
開幕して僅か4試合目、ロッテのルーキー仁科はクラウン相手にプロ入り初登板・初先発した。のしかかるプレッシャーを跳ねのけて新人離れしたマウンド捌きで9回に村田投手の救援を仰いだものの、8回 1/3 を5安打・2失点の好投で初勝利をあげた。セ・パ両リーグで開幕から一軍入りした5人の新人投手の中で最初に勝ち星を手にした。新人がチャンスを掴むのは難しい。なにしろ登板する機会自体が少ない。あれほど騒がれたサッシーでさえ初登板の機会は容易に巡って来ない。キャンプ当時は「球そのものだけなら二線級」と妙な折り紙を付けられていた男が、何故これほど早い時期に登板のチャンスに恵まれたのだろうか?

確かに三井投手、成田投手の主力2人が故障で先発ローテーションを組むのがままならないというお家の事情はあったが、仁科自身にも登板のチャンスをモノにするだけの切り札みたいなものを持っていた。それは人並み外れた度胸の持ち主だという。仁科は25歳というプロ野球の世界では " 老けた新人 " でアマチュア球界では無名の投手だった。アンダースローの技巧派で打者を圧倒する球威もなく、年齢を考慮すればプロ入りに不安があって当然だが自ら踏ん切りつけたのは仁科独自の度胸と言ってもいい。「俺は2~3年先が楽しみな立場ではない。プロ入りするなら今しかない(仁科)」とロッテに入団した。

ちょうど10年前、仁科が岡山・山陽高に入学し野球部に入部してみると幸か不幸か自分以外に投手を希望する同級生がいなかった。一念発起した1年坊主は自宅の庭に簡易なブルペンをあつらえた。家の中から電気を引いて裸電球をぶら下げ、捕手の所にムシロを置いてストライクゾーンを描き毎日のように投げ込みをした。「俺以外に投げるヤツがいなかったから必然的にエースになっただけ(仁科)」と謙遜するが、高校卒業後に四国の大倉工業に入社後も同様にエースの座に就いた。全国大会出場をかけた試合の目前に肺浸潤を患い入院を余儀なくされても入院先から試合にかけつけて登板したが延長戦の末に敗れ涙を飲んだ。


どこか違う新人
高校時代の努力に加え、ノンプロ時代のそんな経験が持って生まれた度胸の良さを更に大きくした。だからこそ新人として初めての登板でも冷静でいられたのだろう。「さすがの仁科もかなり緊張していた。でもどこか他の選手と違うんだなアイツは」というのが首脳陣の一致した見方だ。「自分の投球が出来たのがあれだけ投げられた要因」と仁科は自己分析する。自分の投球とは打者のヒザ元にシンカーを投じること。粘り強く丁寧に打たせて取る投球に徹した。手も足も出ない直球や変化球は投げられないが投手として特徴がないのが特徴と言われるだけに大きな短所がないのも幸いした。

ドラフト3位入団の投手が飾った快挙で久々の涼風だがプロの世界は底知れぬほど厳しいのも事実。今後克服しなければならない課題は残されている。走者を出した際の投球がそれだ。仁科特有の「タメ」が薄れて打ちごろの球になりやすい。クイックモーションで投げても本来の球のキレが失われる。牽制球などのマウンド捌きもまだまだ一流投手の足元にも及ばないが「大丈夫。そんなに時間はかからない。器用じゃないけど着実に伸びるタイプのピッチャー」と八木沢投手コーチは心配していない。取り立てて体力やセンスがあるわけではないが、仁科はピッチングの術で乗り切っていこうとしている。異色の新人王が誕生するかもしれない。
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# 699 序幕のヒーロー ③

2021年08月04日 | 1977 年 



阪神の猛進撃は下位打線の活躍によるところが大きい。両外人や掛布らの快打も下位打線の充実で効果を発揮する。特に佐野選手の猛打は注目の的。その佐野には凄まじい男の執念があった。

忘れかけられた存在
「それは辛かったですよ。どうしても掛布には負けられないと思うと眠れないことも…でも今は充実感でいっぱい。これからが本当の勝負です」と200発打線の猛威を欲しいままにする阪神の八番打者・佐野は語る。この言葉が佐野のプロ生活の全てを物語っている。今から4年前、佐野は中央大学の三塁手として脚光を浴び阪神にドラフト1位指名されてプロ入りした。「実力のある内野手が久しぶりに阪神に現れた。藤村2世の誕生か」と騒がれたがキャンプ、オープン戦が始まる頃になるとそのような声は自然と消えていった。代わりに同期入団でドラフト6位指名の掛布が頭角を現し三塁のポジションを手に入れた。

佐野にとって屈辱だったのは掛布の話題がマスコミに取り上げられる際に佐野の名前が引き合いに出される機会が徐々に減っていった事。掛布の凄さを伝えるには大学出の1位指名の佐野と高卒でテスト入団同然の6位指名の掛布を比較するのが分かり易い筈なのだが、三塁手として佐野の存在は比較対象に値しないと判断されたのだ。内野を逐われた佐野は外野手として活路を見出すしかなくなった。それがどうだ。今や打つわ打つわで「恐怖の八番打者」とマスコミが大騒ぎする存在に。思えば昨年まで掛布の打順が八番だった。いわば掛布の後釜なのだが佐野は「関係ないね」と掛布の後塵を拝しているとは微塵にも思っていない。


開幕第1打席の快打で
プロ入り4年目に掴んだ外野手のポジションだが、そこには幸運もあった。阪神の外野は左翼・東田、中堅・池辺、右翼・ラインバックと固定されていたが東田が腰痛で出遅れていて吉田監督はその穴埋め候補として桑野、池田、川藤、町田らを競わせる腹づもりでそこに佐野も加えた。降ってわいたチャンスを佐野はモノにした。オープン戦の後半から大当たりの連続で、とうとう対ヤクルト戦の開幕スタメンに名を連ねた。「あの時は本当に嬉しかった。開幕戦の第1打席でライト戦に二塁打を打って『やれるゾ』と確信しましたね(佐野)」と思ったそうだ。続く打席でも安田投手から本塁打を放ち勢いに乗り、その後の活躍は周知の通りだ。

今年の年俸は推定320万円。このままいけばオフの契約更改で大幅アップは確実だが、お金より先ずはレギュラーを確保することが佐野の念願だ。佐野は25歳の独身で合宿所の虎風荘で掛布と同じような毎日を送っているが、昨年までは少々違っていた。大卒のドラフト1位で入団しながら年下の掛布に追い抜かれた悔しさで二軍の練習後に大阪や神戸の繁華街に出かけてアルコールでストレスを発散していた。「今は酒を飲みたい欲求も減った。好きだった麻雀も暫くしていない。昼間に試合をする二軍と違いナイターに合わせて体調を整えたり、いかにして睡眠時間を十分にとるかなど考えたら飲みに行ってる暇はなくなった(佐野)」。


春の椿事にはしない
人は変われば変わるものだ。思えば昨年ある人物から「お前が酒を飲んだり麻雀をしている時、掛布は素振りをしているぞ」と言われて気持ちを改めたのが人生の分岐点だったのかもしれない。技術的には前のめりに突っ込む癖があったスイングを引きつけるようにしたことで投球を最後まで見極めるようになり変化球にも対応できるようになった。「今までならファールになっていた内角低目の球を左翼線に持っていける上手さが出てきた」と山内コーチも絶賛する。元々佐野はパワーには定評があり掛布の比ではない馬力の持ち主だけに、今の打撃を続けていけば左翼手のレギュラー確保も難しくない。

「左中間の守りは池辺さんがカバーしてくれるから安心して任せている」と冗談めかして佐野は言うが、実は前述の打撃フォーム改造のヒントを教えてくれたのも池辺であり、今では公私ともに心酔している。猛打を欲しいままにしている阪神打線の中で首脳陣が一番頼もしく思っているのはラインバックと佐野だ。二人とも率先して特打ちを繰り返してチームに好影響を与えている。ラインバックはブリーデン、佐野は掛布への対抗意識から特打ちを欠かさない。プロ3年通算打率 .224 の佐野が今や首位打者争いを繰り広げている。それが春の椿事か否か。虎風荘の自室にある群馬県高崎市の実家から送られてきたダルマに大願成就し両目が入れられる日がやって来る日も近い。
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