Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#246 優勝請負人

2012年11月28日 | 1981 年 



昨今の球界には「良い子ちゃん」ばかりだ。あの江川でさえイメチェンし、江本も「アホ…」呼ばわりで球界を去り最後に残った個性派が江夏だ。複数球団を渡り歩き「優勝請負人」と呼ばれる江夏は初優勝を成し遂げた日ハムをどう変えたのか?


聞き手…南海以来のパ・リーグはどうでしたか?

江 夏…パの野球は変わったね。昔のイメージは良く言えば豪快、悪く言えば大雑把だったけど今は細かい野球をするようになった。ただDH制のせいなのか案外試合を早く投げてしまうケースが出てくる。打ち込まれてる投手でも代えない。セなら打順が回ってきたら当然代打を送るけど、それがないから続投させて傷口は広がり捨て試合になる。前後期制で日程が詰まっているから出来るだけ投手の無駄使いを避ける傾向がある。そのせいで監督の采配に面白さが無くなっちゃったね。

聞き手…2月のキャンプでの日ハムの印象は?


江 夏…このチームでよく2位になれたなと。とてもプロのチームとは思えんかった。どうしても広島と比べちゃうけど、あらゆる面で幼いというか小粒だと感じたね。正直えらいチームに来てしまったと思った。選手、フロント、設備・・これで本当にプロの球団かと。

聞き手…選手も?


江 夏…捕手の大宮がね「江夏さんがサインに首を振らずに投げてくれるのが嬉しい」と言ってると記者から聞いたけど、奴は分かってないんだ。

聞き手…分かってないとは?


江 夏…奴のサインに首を振らないのは納得しているからではないよ。シーズン前に大沢監督から「大宮を育ててくれ」と頼まれたから、打たれても勉強になればとサイン通りに投げてるだけさ。まだ相手を見てサインを出すレベルまで行ってない。例えば上位打線と八・九番打者を同じ組み立てをする。下位打線はポンポンと早打ちして凡打しても主力打者はジックリと狙い球を絞っている。そりゃ下位と同じ組み立てでは抑えられんよ、でも打たれて覚えるのも勉強だからね。そんな初歩的な事からやらなきゃならなかったから大変だったよ。

聞き手…キビシイですね

江 夏…こういう事は言葉で聞いただけでは分からないからね。俺も南海へ来て野村監督に9回二死満塁・カウント2-3でストライクを投げなくてもいい場合がある、と聞かされた時は「ホンマかいな?」と思ったけど実際にそんな場面がやって来た時にボール球を投げたら空振りを取れたからね。幾つになっても日々勉強だよ。

聞き手…江夏さんもですか?


江 夏…当たり前だよ。プロへやって来る連中は高校や大学で四番であったりエースであった選手ばかり。二軍にいる選手でも何かしら良い所があるはず。俺は何か盗める所はないかと観察しているよ。

聞き手…江夏さんの投球の極意は何ですか?


江 夏…簡単な事ですよ、いかに少ない球数でアウトを取れるか。長いシーズンを考えたら3球かけて三振を取るより1球でアウトにするに越した事はない。好打者に多くの球数を見られたら、それだけ打たれる確率が増える。好打者は失投を見逃してくれない。全て思った所に投げられる訳ではないし、失投を減らすには投球数自体を減らす必要があるからね。

聞き手…コントロールは抜群じゃないですか。どうやって身に付けたのですか?


江 夏…あちこちで聞かれるけど・・・練習しかないわな、当たり前の話だけど。基本は高低よりも内外角のコース。人間の目は横に並んでいるので投げる時に多少頭が動いても目標がズレにくいからコントロールしやすい。それとブルペンでチェンジアップの練習をしてる奴がいるけど、あれは何と馬鹿な事かと思うね。打者がいて初めてタイミングを外せているかどうか分かるのでブルペンで投げても意味ない。バッティング練習で投げるのなら分かるけどな。コントロールをつける秘訣は精神力かな。根性や気合という意味じゃなくて、成果が直ぐには現れない地道な投球練習を続けられる精神力。

聞き手…今後のパ・リーグについては?


江 夏…来年は今年より混戦になる。西武は間違いなく強くなるし南海もあなどれない。問題は近鉄だな。広島と日本一を争ったチームとは思えないほど今季は見る影も無い。西本さんは大好きな監督さんだけど、あんな形でユニフォームを脱ぐ事になったのは本当に残念。西本さんの為にも是非とも復活して欲しいね。それと前後期制は止めて欲しい。プレーオフを勝ち抜くだけでヘトヘトで日本シリーズどころじゃないよ。お偉いさんの英断を期待しますよ、選手の体調を第一と考えるならね。


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#245 監督交代 ・ 西武編

2012年11月21日 | 1981 年 


「監督を引き受けてくれんかね?悪いようにはせんから、頼むよ」 「分かりました。一生懸命に頑張ります」プロ野球の監督要請の多くがこうした紳士協定の「約束」で成り立っていた。それはとても一般社会における「契約」とは程遠いものだった。だから優勝すればオーナーから「やぁやぁご苦労さん。まぁひとつ取っておいてくれ」と規定外の御褒美が貰え、成績が悪ければ契約年数が残っていようが問答無用でクビを切られる。何度も繰り返される監督人事を巡るトラブルの原因は曖昧な球界の慣習にあった。そこに今回西武の監督に就任した広岡達朗氏が楔を打ち込んだ。

ヤクルトの監督時代、前年に球団初の優勝を成し遂げた広岡監督だったが松園オーナーとの対立が激化。球団フロントはクビにする方策を練っていたが複数年契約の途中で解雇すると残りの年俸も支払わなければならない。そこで選手からの不満が多いとの理由をつけて森ヘッドと植村投手コーチを二軍へ格下げして退団へ追い込んだ。これに反発した広岡監督が辞表を出して球団の思惑通りの結末となった過去がある。広岡氏の持論はこうだ。「先ず、きちんとした契約を両者が忠実に実行すること。監督を引き受けた者は現状のチーム状況を把握して優勝する為の条件を示し『球団がその条件を満たしてくれたら1年後には●●、3年後には▲▲とする』といった具体的な契約を交わし、もし実現出来なければ『契約不履行』として潔く身を引くくらいの事をしなければダメだ。『3年契約でどう?』『ええ、まぁ…』といった契約だから成績が悪いとすぐに休養を命じられ、反論も出来ずに従わねばならない。もっと契約意識に目覚めるべきだ」

「これまでのプロ野球の監督の契約というものは民間会社の辞令と同程度のものだった」と今回の西武と広岡氏との契約に際して50条から成る契約書と覚え書きを作成した木村久寿弥税理士は言う。「個人的にはまだパーフェクトなものだとは思っていない。法律家が見たら不備な所もあるがプロ野球界にとっては大きな一歩だったと言える」今回の動きに一部マスコミは監督が使うペン1本、チリ紙1枚の費用まで契約書に盛り込まれているなどと面白おかしく伝えているが「そういう低次元な話では無いのです。プロの監督の契約なら当然こういう契約であるべき、という本質が分かっていないから茶化した報道しか出来ない。その程度の人間が取り巻いているのが現在のプロ野球界なんです」と手厳しい。

野球協約では「この協約に参加する倶楽部と選手または必要によりコーチを含む監督との間に締結せられる選手契約の条項は統一様式の契約書により表示せられなければならない」と選手と同じく監督も統一契約書で縛られている。統一契約書には「参加報酬」「傷病減額」「非公式試合の報酬」「倶楽部による契約の解除」など38項目が細かに定められている。ただし「註」として「コーチを含む監督は統一様式選手契約書での契約締結を強制しない」を根拠に監督との契約書に決められた様式は無く、各球団独自の契約が可能となっている。監督やコーチも選手同様に細かな条項がある統一契約書で契約するべきではないのか。そうする事で責任や義務、そして権利意識も生まれるのではないか。

これまでの監督を巡るトラブルはこうした契約書が無い事で起きたと考えられる。「約束したじゃないか」「言った覚えはない」等々は責任の所在を曖昧にした事で起こる問題で契約書に明記しておけば防げる。それは決して監督の権利だけを主張するものではない。例えば統一契約書には選手との契約条項に次のような一項がある。「選手が良き国民として又良きスポーツマンとしての模範的行動を欠き…<中略>…倶楽部の諸規則を遵守する事を欠き、或いは拒否・無視した場合は契約を解除できる」これを監督にも適用しようという事だ。木村税理士によれば今回の契約では広岡氏が「解任」ではなく「辞任」した場合でも契約金は時期の如何を問わず全額が返還されるという。たとえ5年契約の4年11ヶ月目であったとしても全額返還だ。

契約は昭和57年1月1日から発効されるので年内の秋季キャンプ、ドラフトやトレードなどの編成会議に参加する際の費用は全て広岡氏負担という事になる。これまでは監督就任発表時点から監督のスケジュール等は球団が管理するのが球界の慣例となっている。当たり前とされてきた領域にまで今回の契約は踏み込んでいる。木村税理士に言わせれば日本のプロ野球人は社会人として半人前だと。「引退し評論家と名乗りながら自分ではまともな文章ひとつ書けない。大リーグの選手を見て下さい。ユニフォームを脱いでも大学の体育講師や公認会計士のライセンスを持つ者もいる。一定以上の社会常識を持つ人間が知力・体力を振り絞り戦う事で尊敬も得てベースボールはアメリカ国民に愛されるスポーツに成長したのです」日本球界にはそうした社会人としての基礎がないがしろにされ続けて現在に至っていると。ただ残念なのは旧態依然とした体質が蔓延る球界では進歩的と思われる西武でも契約書の全公開を拒否した事だ。西武側の言い分「民法上の規定で契約書は第三者に公開できない」も理解できる。理解できるが両者の合意があれば公開できたはずで、将来の球界発展の為にも西武は公開に同意するべきだった。
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#244 監督交代 ・ ロッテ編

2012年11月14日 | 1981 年 


「こんなはずじゃなかった…」松井静郎球団社長は思ったに違いない。東京・西新宿のロッテ本社で重光オーナー臨席の下、シーズン報告会が行なわれる事になっていた。プレーオフに敗れ日本シリーズ進出はならなかったが2年連続前期優勝、山内監督の契約もあと1年残っていて報告会は形式的なもので終わるはずだった。プレーオフ敗退後の会見で山内監督は「この悔しさを忘れず来年こそは前後期を制してプレーオフ無しの完全優勝を目指す。その為にもトレードを積極的にやる。特に投手力の充実を図りたい」と意欲を見せていた。それが何故?

報告会当日のスポーツニッポン紙が『山内監督きょうオーナーに辞表提出』と書いた。スポニチは山内が評論家時代に所属しており同紙の社長とは公私に渡って親交があり記事の信憑性は高かった。山内は午前10時に新宿の本社で先ず諸田常務取締役と会い「身を引きたい」と辞意を伝えた。将来のロッテの為になればと何度も待遇や施設の改善案を進言してきたが一向に改善される気配が無かった事に堪忍袋の緒が切れたのだ。午前11時過ぎ本社12階の応接室で重光オーナー、松井球団社長、西垣球団代表、山本取締役と山内が顔を揃えて報告会が始まった。辞意を伝えた事は当然オーナーの耳に入っているはずなのにオーナーはおくびにも出さず来季に向けての構想を語っていた。「オーナーに伝わっていないのか?」山内はこれまでの疑問が解ける思いがした。

山内は過去何度もコーチの待遇や施設の改善要求を球団幹部に直訴していて、その度に「オーナーに伝える」との返事をもらっていた。他球団と比べて安いコーチの年俸、一緒に戦ってきたコーチが他球団へ引き抜かれても「ウチのコーチの給料じゃ気の毒で止める事は出来んよ。プロにとっての評価とはお金だからね」と寂しく語っていた。施設に関しても同じだ。二軍の選手達が口を揃えて「1日でも早く合宿所を出たい」と言うのは一軍に上がりたいと言う意味ではない。プロ野球球団の寮と言うにはあまりにも貧相な建物で6畳一間に2人、身体の大きな野球選手が布団を並べると部屋に余裕は無い。「一向に改善されないのは今までの要求をオーナーに伝えた球団幹部が誰一人いなかったからか?監督とはその程度の存在なのか・・」

当初、球団は山内の意思はそれほど強いものとは考えていなかった。辞意を表明してから1週間は後任探しに動いていない。3年前の監督就任要請の際に世話になった山内の後援者に「翻意するように山内を説得して欲しい」と頼んでいた。その後援者から「翻意は難しい」との返事を得て動き出したが、球界関係者に候補者のリストを依頼すれば4~5人程度はすぐに見つかるとまだ悠長に構えていた。だが現実は厳しかった。ロッテの内情が予想以上に球界に知れ渡ってしまった為に、候補者の誰もが「ロッテじゃねぇ・・」と尻込みしてしまうのだ。事ここに至って初めて球団は慌てた。最後の砦と考えていた張本氏にも断られて有藤の選手兼任監督案まで検討をせざるを得ないほど切羽詰った。

ドラフト会議は刻々と迫って来る。それでなくても毎年のように入団を拒否される事が多い球団にとって更なるイメージダウンは計り知れない。ひいてはパ・リーグ全体のイメージダウンに繋がりかねず、リーグの問題として対処しなければならない局面に追い込まれていた。在野の候補者にことごとく断られた以上、他球団のユニフォームを着ている人物をあてがうしかない。どこかに適任者はいないか?近鉄が名乗り出た。かつて近鉄は長期低迷を続けリーグのお荷物となっていた時期があった。その状況を打破する為に他の5球団に「パ・リーグ全体の問題」として協力を求め、当時阪急の監督だった西本幸雄をオーナー同士の話し合いで譲ってもらい助けられた事があった。今回は自分たちが助ける番だと立ち上がったのだ。

「ロッテの監督になってくれないか」近鉄の山本一義コーチは自軍の山崎代表にライバル球団の監督になるよう要請されたのだから驚いたであろう。山本は西本前監督がその人となりに惚れ込み、三顧の礼を尽くして近鉄に来てもらった程の男だ。本来なら近鉄でその手腕を発揮してもらいたいと考えるのが当然だ。しかし今は自分の所だけ善ければ良いという状況ではない。パ・リーグ6球団が共存共栄する事でリーグ、球界は発展して行くのだ。山本にとってロッテは想定外の球団だったろう。要請を断って広島へ戻ればいずれは広島カープの監督の座に収まる男だ。何も火中の栗をわざわざ拾う必要もない。山本の心を動かしたのは「男には一生に一度、身体全体で賭ける時が必ず来る。今度がその機会ではないのか。頑張ってみろ」という西本の言葉だった。
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#243 監督交代 ・ 近鉄編

2012年11月07日 | 1981 年 



西本監督を「勇退」という名の退団へと追い込んだ。昨年末、2年連続で日本シリーズに進出するも遂に日本一の夢を断たれた後、西本監督は球団にトレードによる補強を申し入れていたが受け入れられず、ロッテを自由契約となった白仁天外野手を獲得しただけだった。さらにパ・リーグ連覇の立役者のマニエルを契約のこじれからアッサリと放出。ならば代わりの助っ人として「右の大砲を」と注文したが、やって来たのは左打者というお粗末。トレードは無し、助っ人は使い物にならないでは天下の名将といえどもどうにもならない。「俺も長いことやり過ぎたよ、潮時かな」 20年間の監督生活にピリオドを打つ事になったのは自分の構想とまるで違う事をする球団に愛想を尽かしたからではないかとの声がもっぱらだ。

4日前に西本前監督が勇退会見を行なった電鉄本社8階の会見場に佐伯オーナー、上山オーナー代行、山崎球団代表らと共に会見に臨んだ関口新監督。「西本さんが8年間教えてくれ、残してくれた土台を皆で立て直していきたい」就任第一声は西本前監督の遺産を継承する事の宣言だった。新監督が決定するまでには紆余曲折を経た。球団はシーズン半ばには西本監督の辞意を察知し、慰留の道を探る一方で後任探しに着手し始めた。吉田義男氏、野村克也氏などの候補の中から最初に接触したのは広岡達朗氏だった。交渉は進展せず9月に入ると球団内では内部昇格案に落ち着いた。内部からとなると関口打撃コーチと仰木守備コーチの2人が候補となり、仰木コーチは時機尚早ではないかという意見もあり関口コーチが後任監督に決定した。本社・球団をあげて西本野球を継承して猛牛軍団を再建しようという声の表れだった。


しかし西本監督勇退後の人選は既に決まっていた筈だった。誰もが後任は山本一義外野コーチだと思っていた。広島商から法大を経て広島カープ入り、3年目からレギュラーとなりクリーンアップを任される。ベストナイン2回、オールスター戦出場5回、昭和47年には主将、昭和49年に選手兼打撃コーチ就任、広島カープ球団創設初優勝の昭和50年に引退、翌年から一軍打撃コーチに専任するなど幹部候補生として古葉監督の有力後継者と目されていた。その山本を西本監督が直々に広島カープ・松田オーナーに頭を下げて近鉄に来てもらった経緯から見ても西本監督の後任は山本以外は有り得ない筈だったのに、何故山本ではなかったのか?そこにはロッテの監督人事が複雑に絡み合っていたのだ。



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