Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#255 日米野球 

2013年01月30日 | 1981 年 



カンザスシティ・ロイヤルズが来日して日本各地で試合を行なっている。今シーズンはプレーオフで敗退したものの昨年はア・リーグ優勝を遂げた強豪チームだ。3Aチーム相手に日本のプロ野球が1勝も出来なかった昭和24年から32年が経った現在、改めて日米野球を振り返ってみる。

米国チームとの対戦の歴史は古く明治41年のオールアメリカンチームの来日に始まる。大正2年にはニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックスが世界周遊旅行の途中に、大正9年にはコーストリーグの選抜軍が来日して対戦したが、ここまで日本は1勝も出来ないでいた。大正11年ハンター監督率いる大リーグ選抜軍との第7戦、三田倶楽部の小野三千麿投手の好投で日本が9対3で初勝利を飾った。昭和6年に再びハンター監督が大リーグ選抜を率いて来日。第2戦で対戦した早大が7回表に4点をあげて5対1とリードすると選抜軍のギアが入り、その裏に一気に7点を奪って逆転。8回表から速球投手のグローブが登板してあっさり片付けた。特に9回は三者三振、投じた11球にバットに当てる事すら出来なかった。

昭和7年に文部省は「学生野球統制令」を出して学生とプロ野球チームとの対戦を禁止した。その為、昭和9年に来日した大リーグ選抜軍の対戦相手用に組織された全日本軍が後の巨人軍となる。「世界最強」と銘打っていただけに全日本軍は全く太刀打ち出来なかった。引退する前年で衰えの見えるベーブ・ルースが打率.408 , 13本塁打を放つなど日本のレベルはまだまだ大リーグの足元にも及ばなかった。10対0、14対0、15対6、21対4と敗戦が続いていた11月20日の静岡・草薙球場で登板したのが京都商の沢村栄治投手だった。6回まで両軍ともに2安打無得点。7回の選抜軍は先頭打者ルースが投ゴロに倒れ、四番ゲーリックは初球のストライクを見送った後の2球目を右翼席上段へ叩き込み、これが決勝点となり1対0で選抜軍が辛勝した。選抜軍は18試合で打率.326 , 47本塁打と猛打を誇っただけに沢村の5安打・1失点は見事であった。その後の米国チーム訪日は第二次世界大戦の影響で昭和24年まで中断する事になる。

昭和24年にやって来たサンフランシスコ・シールズは3Aだったが歯が立たず全敗で日本のプロ野球チームは未だに1勝も出来ずにいた。6試合で打率.180 , 本塁打は無しと力の差は歴然だった。シーズン46本で本塁打王となった藤村冨美男(阪神)、打率.361 で首位打者となった小鶴誠(大映)も全く打てず連敗は続いた。日本チームが初勝利した大リーグ選抜軍相手の昭和26年も第1・2戦ともに完封負け、第5戦の9回裏に西沢道夫(名古屋)が放った本塁打が記念すべき日本プロ野球の第1号だったが敗戦。第6戦は4投手の継投で1点に抑えても得点が奪えず完封負け。第11戦は延長戦に持ち込むも2対2の引き分けと未勝利は続いた。そして迎えた11月13日の第14戦で全パが遂に勝利した。山本監督は相手打線が一回りする毎に投手を代えて選抜チームを1点に抑え3対1で勝った。昭和24年のシールズ戦から数えて20試合目で日本のプロ野球チームが米国相手に初めて勝った。

初勝利から30年後の今では米国相手に勝つ事も珍しくはなくなったが、それをもってして日米の差が縮んだと考えるのは早計である。今年もカンザスシティ・ロイヤルズ相手に第3戦で全日本チームは新人の原と石毛が本塁打を放ち、村田-小松-江川の継投で13三振を奪うなどして7対3で快勝している。それでも手放しで喜べないのは第2戦でバックスクリーン横へ飛び込む本塁打を放ったジョージ・ブレッドの痛烈な一言だ。「特大ホームランだって?アメリカだったらセンターフライ、良くてツーベースかな」と両手に本塁打の賞品を抱えながらウインク。米国相手に対等に戦うには野球の技術向上以前に箱庭球場を解消するなどやるべき課題が山積みの日本野球界なのである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#254 安打製造機 

2013年01月23日 | 1981 年 



「もう打席に入らなくていいと思うとホッとした気持ちの方が強い」と言い残し淡々と引退の言葉を口にした。漂泊の強打者~それが張本の全てなのだ。韓国人である事に誇りを持ち続けてきた張本にとって普通の日本人選手なら何気なく通り抜けられる道でも、時には風雨に叩かれ回り道をしなければならなかった。そんな苦難の道を彼は23年間も、いやプロ入り前も含めると30年以上の年月を独りぼっちで歩き続けた。昭和15年春、広島市大洲町に5人連れの韓国人家族が住みついた。韓国人であるというだけで異端視された時代に5人は麗らかな瀬戸内海に背を向けてひっそりと暮らしていた。やがて一家に新たな家族が加わった。張相禎・朴順分夫妻にとっては2人目となる男の子は「張勲」と名付けられた。

「おい、朝鮮人」蔑視と共に投げかけられた言葉に張本少年は戸惑った。朝鮮人である事の何が悪いのかと母に問うと「何も悪い事はない。そんな風に他人を馬鹿にする人間が一番恥ずかしいの」と教えたという。だが成長するうちに、この言葉の粘りつく重みの様なものを感じ始め「今に見返してやる」と子供ながら反逆の炎を燃え上がらせた。高校受験を前にして広島商には受験する事さえ断られ、広陵高は不合格。浪花商を受験する為に単身、大阪の地に降り立った時が張本勲の漂泊の第一歩だったのかもしれない。その日の食べ物にも事欠く日々から一家が抜け出す為には金を稼ぐしかない。「私が大金を稼ぐにはプロ野球選手になるしかなかった」と張本は後年に語っている。

昭和33年暮れ、遂に念願のプロ野球界へ第一歩を印した。東映で打撃コーチをしていた松木謙次郎と運命の出会いをする。この出会いは張本にとって生まれて初めての「幸運」だった。松木は張本のスイングを一目見て「こいつは将来球界を代表する打者になる」と直感したという。金を稼げる華やかな長距離砲に固執する張本に対してヒットを量産する広角打法を取り入れるよう説き伏せ一流打者に育て上げた。球を線で捉えるという松本の打撃理論を貪るように体に叩き込んだ。昭和34年からの17年間で7度首位打者に輝き、13度のベストナインに選出されるなど球界を代表する選手になった。だがこれ程の選手でありながら張本の周りにはマスコミも含めて白眼視する空気が漂っていた。「粗暴だ」というのが理由だった。子供の頃から売られた喧嘩は買ってきた。争い事は嫌いだが身に降りかかる火の粉は払う必要があり「やられる前にやれ」が少年時代に身に付けた自己防衛策だった。

ビーンボールまがいの投球に対してはバットを片手に肩をいからせて二歩、三歩とマウンドへ向かう。投手の顔に怯えの表情が見えれば充分で、内角に投げづらくなって外寄りの甘い球をすかさずヒットゾーンへ打ち返した。そうした行為がマスコミやファンの目にどう映っているか張本本人も分かっていた。「自分の身は自分で守らなければならない。君たちは一度でも私を救ってくれた事があるのか?」が張本の答えだった。水原監督は張本の心情を理解していた。守備交代を命じられ試合中にもかかわらず憤然とベンチを抜け出し合宿に帰ってしまった張本を水原は父親のように懇々と諭した。巨人を追われるように去ったばかりの水原には張本の屈折した怒りを何となく共感できたのかもしれない。以後、誰よりも水原を信頼して慕うようになる。恐らく張本にとって水原や松木はプロ野球選手になって初めて「見返してやる」必要性を感じなかった人達だろう。

昭和50年オフに高橋一、富田との2対1の交換トレードで巨人へ移籍した。巨人へ来てからの張本は人が変わったように粗暴さが消えた。プライドと世間体を気にする名門チームの中で安泰に生きる場所を求めるには決して肩をいからせてはならない事を張本は知っていた。それは身ひとつで山を越え、河を渡り異郷から異郷へと漂泊を続ける旅人の深い知恵に通じるものである。この頃から張本の心理に微妙な変化が起きる。周囲を威圧し「見下す」前に彼は「見上げられている」事を肌で感じ取っていた。巨人の選手を見るファンの目には憧れと畏敬の念が溢れていたのである。ひたすら金を稼ぐ事に固執していた張本に「名誉」という光が照らし始めたのだ。張本に求められていた役割は王の刺激剤という脇役であった。東映-日拓-日ハムと17年も打線の中心であった張本には役不足であった筈だが、その役割を甘んじて受け入れ巨人のリーグ優勝に貢献した。

昭和54年限りで巨人を退団しロッテへ移籍。ロッテに来てからの張本の打撃はパ・リーグ時代の荒々しさは影を潜め、巨人での4年間の生活が張本の目から獣のような光を奪っていた。長い漂泊の旅はようやく終わりを告げようとしていた。庄司や水上、そして落合といった若手の台頭で張本の居場所は徐々に狭くなっていった。かつての張本なら牙を剥き肩をいからせて若手を押しのけていただろうが晩年の張本にその力は残っていなかった。「よくやったと自分に言いたい」この言葉が全てを言い尽くしている。現役を退いた張本はこれから新たな旅に出ようとしている。その旅がこれまで通りの茨の道となるのか、違ったものになるのか今は未だ分からない。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#253 逆指名 

2013年01月16日 | 1981 年 



物怖じしない現代っ子と言ってしまえばそれまでだが、昨今の逆指名の流行に拍車をかけたのが去年のドラフト結果だろう。原、石毛、竹本ら実力派揃いで「10年に一度の選手」を獲り合うと思われたが原は4球団、石毛と竹本は2球団と競合数は予想を下回った。当初は原に入札するのは8球団と言われていたが「逆指名」宣言が効いたのか撤退する球団が相次ぎ意中の巨人が当たりクジを引いた。石毛もプリンスホテルと西武の繋がりを前に他選手に乗り換えた球団が多かった。こうした先輩たちの戦術を使わない手はないと今年も逆指名は大流行なのだ。ただし今年はこれまでの巨人一辺倒から少々趣きが変わってきた。社会人投手は津田(協和発酵)、右田(電電九州)、田中(電電関東)らが人気なのだが彼らは巨人を意中の球団とはしていない。

「会社は僕が行きたい球団なら"仕方ないだろう"と送り出してくれますが、意中の球団以外なら会社に残って構わないと言われています。行きたいのは広島か阪神です。巨人?僕は天下の原さん相手に投げたい(津田)」つまり広島・阪神以外の球団が交渉権を得ても1位指名枠が無駄になると宣言した。右田も「もしも1位で指名してくれたらプロへ行きたいと思います。最下位のチームはやり甲斐がありますねぇ」と大洋を逆指名。「僕は何となくパ・リーグの方が向いていると思うんです。関東で育った人間だから西武か日ハムならプロでやってみたい」と最近のパ・リーグ人気が反映しているのか田中はパ派だ。彼らに共通しているのは「即一軍」だ。巨人投手陣の顔ぶれを見たら新人が割り込む余地が無いのは明白で、今の若いアマチュア選手はしっかりしている。人気よりもまずは一軍の試合に出る事を優先する選択は間違っていない。

逆指名の流れは高校生にも広がっている。人気・実力 No,1の金村(報徳学園)は週刊誌でその言動が面白おかしく取り上げられて以来マスコミ対応は両親が担っていてスカウトに会うのも両親なのだが、その対応を見れば金村本人の心中は推し量れる。阪急と近鉄とは3時間以上も話をするが、それ以外の球団は1時間もすると席を立つ。プロ入りすれば三塁手転向が噂される金村だが向こう10年は不動の原がいる巨人に隙いる余地は無い。センバツ準優勝キャプテンの月山(印旛)は「プロでやる以上は試合に出られないとお金にならない。出場出来るチャンスのある球団じゃないとね」と捕手の手薄な阪神・阪急・ロッテ・西武を逆指名する一方で、意中以外の球団に指名された場合は大学進学する両天秤作戦を決行中で毎晩猛勉強。こうした両天秤をしている選手は多く「巨人か在京セ以外は熊谷組へ(名電高・工藤)」「パ・リーグだったら本田技研鈴鹿(都城商・加藤)」「セ・リーグ以外なら進学(大府・槙原、榛原・片瀬)」「中日以外なら国鉄名古屋(名電高・中村、山本)」と逆指名が花盛りだ。

「まったく嫌な世の中になったね。困った流行だよ」と渋い表情なのがロッテ・三宅スカウト部長だ。ロッテはあまりアマチュア選手に好かれていなくて入団拒否も少なくない。しかも今年は山内前監督の後任が未だに決まらず補強方針も定まっていない。パ・リーグ贔屓の田中(電電関東)でさえロッテは意中球団に入っていない。実は田中はある人物を通じてロッテ・福田コーチとは顔見知りの間柄だという。その福田コーチも山内監督に殉じて退団する見込みだと言うから泣きっ面に蜂だ。「逆指名は今に始まった事ではないんだ。昔から事前交渉の段階で"お宅は遠慮して下さい"と言われる事はあった。これまでは内々で駆け引きをしていたのが最近の子はハッキリ自己主張をする、マスコミを使って我々に牽制球を投げているんだ。時代だよ」と三宅スカウトは半ば諦め顔だ。

一方で大人しいのが大学生だ。東都のサブマリン・宮本(亜大)は「僕なんか指名してくれる球団は有るんですかね?指名してもらえるだけでありがたくて好みなんて言っていられません」と殊勝だ。首都の速球王・井辺(東海大)も「どこでもいい。プロは入ってからが勝負、チームはこだわりません」とこちらも12球団OKだ。野手では「指名されたら考える。希望球団は無い(明大・松井)」「第一希望は中日だけど在京セ・リーグならOK(中大・尾上)」 六大学の盗塁記録を更新した慶大・小林も「条件さえ揃ったらプロでやってみたい」といずれも門戸は広い。明大・島岡監督の「就職口は幾らでもある。大した評価をしていない球団にわざわざ行く必要はない」に代表されるように大学生は球団よりも「評価」を重視しているのが共通でプロ野球を就職口の一つと見ている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#252 沢村賞 

2013年01月09日 | 1981 年 



現在の沢村賞は元プロ野球投手から構成される「沢村賞選考委員会」によって選出されていますが当時は日本新聞協会に加盟し東京で日刊紙を発行する新聞社・通信社、東京から映像や電波を送信するテレビ・ラジオ局の運動部長で構成される「東京運動記者クラブ部長会」の面々が選んでいました。普段は会社にいてグラウンドへは顔を見せない部長職のお偉いサンたちの選考結果が波紋を呼ぶ事になります。

「今年の沢村賞は西本」という一報を聞いた多摩川グラウンドで日本シリーズに備えて練習する巨人を取材中の各社の記者達は異口同音に「いったい部長さん達は何を考えているんだ?現場の取材をしていない お偉いさんは何も分かっていない」と唖然としていた。候補の一人でもあった角は「誰が見たって30番(江川)だろ?唯一の20勝投手で完封だって奪三振だって段トツじゃないか」と自分の事のように気色ばんだ。江夏(日ハム)に至っては「投手として最高の栄誉。数字・実力とも江川以外ありえんだろ。客観的事実を認めようとしない連中を許す事は出来ない」とまで言い切る。昭和22年に読売新聞社が制定した沢村賞には一応の選考基準がある。❶先発完投型❷20勝以上❸勝ち数と負け数の差が10以上❹防御率2点台以下❺三振奪取率❻優勝貢献度…等々。報知新聞・原口明運動部長は隣席の東京新聞・新山善一郎部長に「今日は何もないでしょう」と挨拶すると新山も「江川で決まりでしょ」と答えた。二人は共に長らく「大相撲担当」に属していた元記者で、彼らのように出席者全員が野球に精通している訳でなかった。


西本   34   14    3   18   12   .600   257 2/3  126    74     2.58
     登板  完投  完封  勝利  敗戦  勝率  投球回数  奪三振  自責点  防御率
江川   31   20    7   20    6   .769   240 1/3   221     61     2.29 


中華料理店で5つの円卓に分かれて食事を取りながら読売新聞社・星野敦男部長が進行役、三宅卓運動部長が質問に答える役として会は始まった。恒例で先ず数名の候補者が挙げられ、その中から小松(中日)が外され最後に西本と江川が残った。ここまでは特に例年と変わらず進行していたが微妙な空気が漂い始めたのは、日刊スポーツ・金井清一部長の「この賞には人格的な基準はあるのか」「今年だけの成績だけが対象なのか」といった質問が飛んでからだ。三宅部長は「これまで人格云々を加味した例はない。あくまで今年の成績が対象」と答えたが、このあたりから次第に西本を推す声があがり始めた。「前の日に部下たちの意見を聞いたらほとんどが『江川以外いない』だったので自分もそのつもりで出席したのだが、そのあたりからオヤオヤ?という空気になった」と語るのは日本経済新聞社・峪卓蔵部長。

朝日新聞社・田中康彦部長の「巨人の優勝は前半戦の快進撃で決まったと言っていい。開幕投手の重責を果たし独走態勢に入った時点の成績は西本が10勝2敗、江川は7勝3敗だった。江川の勝ち星は独走後にあげたものが多い。優勝への貢献度は西本の方が上」と発言すると、デイリースポーツ社・近藤敬部長が「数字で判断するのが客観的」と反論し江川を支持した。すると田中部長は「数字だけで決めるなら公式記録員に委嘱すればよく、こうした会を開く意味は無い」とあくまで西本支持を崩さない。しかし近藤部長も負けていない。「優勝への貢献度を評価するのはMVPではないのか?沢村賞はあくまでも投手としての力量を評価するべきだ」と。

「勘ぐれば企業戦争の煽りもあるんじゃないかな。読売新聞制定の賞をライバル社の部長さんが決めるというのにも違和感はあるね」と匿名を条件に某テレビ局の部長は語った。ともあれ結果は16票対13票、2白票で西本に決まり、これがニュースで流れると各マスコミの電話が鳴り始めた。「西本がダメだというんじゃない。むしろ西本の方が好きだが沢村賞はどう考えても江川だ」「江川は今でも大嫌いだが数字は数字として評価しなければ何を基準に決めるのかが曖昧になる。個人的な好き嫌いの感情で選ぶのは最悪」とアンチ江川派からも結果に対する異議は多かった。こうした世間の反応に驚いたのか翌日に改めて選考会に出席した31人に聞き直してみると14人が「私は江川に投票した」と答えた。誰かが世論の激昂ぶりに恐れをなして嘘を言ったと思われる。

日本シリーズを前にミソを付けられた格好の巨人・長谷川代表は「思えば3年前、誰一人として江川君の味方はいなかった。それが今では16対13と伯仲するくらいの味方を得たんだ。そう考えて頑張ろうよ、と江川君を慰めたよ」としみじみと語った。そして「こんな騒ぎになって素直に喜べない西本君も気の毒だよ。雑音に惑わされず堂々と胸を張って日本シリーズに臨んでもらいたい」と気遣った。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#251 二軍の有望株

2013年01月02日 | 1981 年 



秋山幸二(西武)…同じく高卒ルーキーの小野和幸投手が「和製バレンズエラ」と騒がれていた頃、二軍関係者の間では「小野より遥かに将来性の有る選手がいる」と囁かれていたのが秋山だ。1㍍83㌢、80㌔の堂々たる体格で遠くへ飛ばす能力を持つのは勿論、長身選手に有りがちなノッソリとしたイメージは抱かせない。ベース1周を14秒で走る俊足も兼ね備えている。根本前監督、岡田二軍監督、毒島二軍打撃コーチらが揃って「今までのプロ野球界になかったタイプの大型選手になる可能性を秘めている」とゾッコン。56試合に出場し7本塁打の長打力は田淵二世と呼ばれる所以だが田淵には無い足を持つ。ならば長嶋タイプかと言うと長打力は秋山の方が上。とにかく過去の名選手には当てはまらない規格外の選手なのだ。

この秋山に一目惚れしたのはスカウトも兼ねる岡田二軍監督だった。昨年夏の熊本県予選決勝、投手で四番の秋山が孤軍奮闘して勝ち進んできた八代高と強肩強打の伊東(現西武練習生)率いる熊本工が対戦した。当初、岡田が注目していたのは対戦相手の伊東と速球派エース大津(現西武)だったが、その大津から広い藤崎台球場の左中間へ本塁打を放った秋山に心を奪われた。帰京するとすぐに「投手としての魅力は無いが野手に転向させたら凄い長距離砲になる」と根本監督に報告し、一計を案じた。というのも他球団も食指を伸ばしていて特に広島・阪急・日ハムが熱心に八代まで足を運んでいたからだ。岡田は父親の辰芳さんを説得して本人ではなく親として「プロ入りして欲しくない」とプロ拒否宣言をしてもらった。この発言を他球団が信じたのは常々、辰芳さんが九州産業大への進学希望をスカウトに話していたからだ。これが功を奏して秋山をドラフト指名した球団はなく、高校生としては破格の契約金4千万円で西武へドラフト外で入団した。

1年目から英才教育が始まった。二軍のキャンプは本球場から離れたサブグラウンドで行なわれるのだが、秋山は午後になると二軍の練習を離れて一軍に合流する事になる。しかし何をするのでもなく、ただ田淵、大田、土井、両外人らの打撃練習をケージの裏で見学した後に毎日1時間のノックを受ける日々が続いた。課題の守備練習以上に一流選手の日常を肌で感じるのが主な目的であった。シーズンに入ると開幕から二軍の四番を任されて、170打数42安打・打率.247・7本塁打・21打点。日ハムの後期優勝が決まった終盤に一軍に昇格し4試合に出場した。2試合目の近鉄戦でプロ初安打を記録した。左中間への三塁打を目の当たりにした根本監督は「一塁を回ってからのスピード溢れる躍動感こそ彼の真骨頂だ。きっと今までにない選手になる」と絶賛した。
    【 通算成績   2189試合  2157安打  437本塁打  打率.270 】


井上裕二(南海)…ドラフト2位で宮崎県都城高から入団した1年目は二軍で、8勝7敗 防 3.29 。8勝中の5試合は完投で、そのうちの3完封はチーム唯一の完封投手だ。井上は中学までは捕手で投手は高校に入ってから。「特に投手としての才能を感じた訳ではなくて、ただ体が大きかった(1㍍80㌢)ので投手に転向させました」と都城高・川野監督。投手転向は本人にしても大変だったようで「投手と捕手では投げ方一つをとっても全然違う。毎晩寮でシャドーピッチングをしてました。今でも昔のクセが抜けなくて苦労する事があります。捕手は機敏に送球する必要があるのに対して投手は大きくゆったりとしたフォームが理想ですから」と話す。

2年生の夏に甲子園出場を果たし3回戦まで勝ち進んだが「甲子園の後にヒジを痛めてしまって3年生の時はダメでした。プロには行きたかったが自信は無かったですね」と進学か社会人入りを考えていたが南海が2位指名。「同じ野球をするなら一番上、すなわちプロでやってみようと気持ちが変わったんです」と両親の反対を押し切ってプロ入りした。球種も直球とカーブだけだったが、この1年でスライダーとシュートを覚えて投球の幅も広がった。2~3年は二軍生活を覚悟していたが一軍の最終戦で勝ち投手になった。「正直言って1年目に勝てるとは思っていなかったので嬉しいです。好リリーフしてくれた金城さんに感謝、感謝です」

姉の英子さん(21歳)は東洋紡守口のバレー部に所属し活躍中だ。「姉さんも頑張っているし負けたくありません。この間、実家に帰ったら両親も初勝利を喜んでくれました。来年は常時一軍にいられるようになって、球場に両親を招待して白星をプレゼントしたいです」先発投手不足に悩む南海にとって何とも頼もしい若鷹の出現だ。来季の南海の浮沈はこの若き右腕に託される。

                           【 通算成績  487試合 54勝 68敗 77S  防 4.41 】

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする