(写真は加倉井砂山・宇良子の墓)
中山備前守信正
松本町13-19(桂岸寺) 029-221-4948
徳川家康の家臣中山信吉は、江戸に住まいした水戸城主にかわって、付家老として現地の政治に携わったそうです。付家老は代々世襲され、桂岸寺に埋葬されているのは、2代信正と4代信行だそうです。
三木之次(ゆきつぐ)・武佐
見川2-103-1(妙雲寺) 029-241-2654
徳川光圀をひそかに自邸で生ませ育てた水戸藩老中で、その邸跡は水戸黄門神社となっています。常磐神社境内には、三木神社も建てられています。
高尾
見川2-103-1(妙雲寺) 029-241-2654
光圀につかえた奥女中だそうで、屋敷も与えられていたそうです。その一周忌にはシダレザクラを光圀が植えたそうで、近くの見川小学校の校庭にあります。墓は復元のようですが、笠のある立派なものです。
加倉井砂山・宇良子
成沢町
江戸時代後期に日新塾という大規模な私塾を経営した教育者です。今の地へは昭和になって移されたそうです。地元で尊敬されていたのでしょう。
佐野竹之介
酒門町330(酒門共有墓地) 029-247-0689
いわるゆあばれんぼうで、色々逸話を残した人物のようです。最後は、桜田門外の変に参加して21歳で死去しました。
水戸市のお墓は、徳川光圀の考え方が色濃く出ています。(写真は酒門共有墓地)
常磐共有墓地
松本町13-34
光圀が寺院の影響を排除して創設したそうです。上町(うわまち 城のある台地上の土地)の武士を埋葬したそうです。「桜田烈士、坂下の変烈士、 敦賀殉難烈士、東禅寺事件志士、生野義挙志士、勅諚事件志士、筑波山義挙志士」などの墓がありますが、水戸ではこういった特有の言い方をするようです。幕末尊皇攘夷運動の東の中心地だったことがよくわかります。
水戸殉難志士之墓(墓地の一角にまとまってあります)
藤田幽谷、東湖、小四郎(三代 幽谷は古着屋の子で彰考館総裁、東湖は徳川斉昭の側用人、小四郎は筑波山に挙兵。)
原市之進(徳川慶喜の側用人。)
安積澹泊(たんぱく)(格さんのモデル。)
豊田芙雄(ふゆ 日本の保母第一号)
青山延于(のぶゆき)、延光(のぶみつ)(父子 ともに弘道館教授頭取になりました。)
酒門共有墓地
水戸市酒門町330
光圀が寺院の影響を排除して創設。かつては下町(したまち 千波湖一帯の湿地を造成してできた低地)の武士を埋葬しました。
安島帯刀(あじまたてわき 家老、安政大獄で切腹させられました。)
常陸山(19代横綱、角聖といわれたそうです。)
大内利貞(蝦夷探検家)
祇園寺
八幡町11-69
諸生党殉難碑(幕末の水戸で、保守の立場を取った人たちの碑、墓もあります)
中村彝(洋画家 中村屋サロンに出入りした一人で、代表作に「エロシェンコ像」があります。)
山村暮鳥(祇園寺が管理する江林寺墓地内 牧師で詩人。保和苑に詩碑があります。)
山田みのる(大正時代の漫画家)
妙雲寺
見川2-103
武田耕雲斎(老中、筑波山挙兵で老齢の主将となった。)
本法寺
千波町2367
会沢正志斎(攘夷運動の指針ともなった「新論」の著者ですが、その後、攘夷の限界を知ったようです。)