日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

『アクト・オブ・キリング』を観て

2014-01-31 10:16:33 | (相)のブログ
 今日1月31日は「旧正月」にあたる日で、職場はお休み。休日だが、日刊イオは更新します。
 今回のエントリは、またしても最近鑑賞した映画について書きたい。今年に入って書いた4回のうち、実に3回目となる映画レビュー系エントリ。すみません…。
 今回鑑賞したのは、ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』。「全世界40以上の映画賞を受賞した傑作」という前評判もあり、4月の公開を前に、先週都内某所で行われた試写会に足を運んた。公開前ということで、可能な限りネタバレを排して書きたいと思う。

 本作品の原題は「The Act of Killing」、直訳すると「殺人という行為」。どのような作品なのか。以下、会場で配られたチラシのイントロダクションから引用。

 これが“悪の正体”なのだろうか―。60年代のインドネシアで秘かに行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちは、驚くべきことに、いまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしている。映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現してみせたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。まるで映画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせる男たち。しかし、その再演は、彼らにある変化をもたらしていく…。

 本作は、65年9月30日にインドネシアで発生したいわゆる「9・30事件」後の大虐殺を直接実行した「処刑人」たちの現在の姿を映したドキュメンタリーだ。「9・30事件」とは、当時のスカルノ大統領の親衛隊の一部が陸軍トップの将軍らを殺害し、革命評議会を設立したが、すぐに粉砕されたクーデター未遂事件のこと。しかし事件はそれだけでは収束せず、未曾有の大混乱を国内に呼び起こすことになる。クーデターを鎮圧し、同国の第2代大統領となったスハルト少将らは事件を背後で操っていたのは共産党だとし、65~66年にかけて国内各地で共産党関係者を大量に虐殺したのだ(犠牲者の数は100万とも200万とも言われているが、いまだ真相は明らかになっていない)。
 本作には当時「処刑人」だった人々が登場するのだが、主人公格はアンワル・コンゴという70歳過ぎの老ギャング。彼らは自らを「プレマン」(自由人、英語の「free man」が訛ったもの)と呼んでいる。
 アンワルは「9・30事件」当時、北スマトラ地方でハリウッド映画を上映する映画館の前でダフ屋をするギャングの一員だった。軍部が虐殺にギャングの手を借りたことから、彼も「共産主義者狩り」に関わるようになる。その後、ギャングは「パンチャシラ青年団」という数百万人規模の準軍事組織に組み込まれ、政権を支える存在であり続けた。

 映画冒頭から衝撃的なシーンが続く。針金を使った絞殺具で「1000人もの共産主義者を殺した」ことを公言するアンワル。撲殺は血だらけになるので、「あまり血がでず、楽に殺せる」絞殺を好んだとか。オッペンハイマー監督の求めに応じて、殺人の手口を仲間相手に嬉々として再現する老プレマン。拷問と殺人を行った後はクラブで踊った、と得意のステップも披露してみせる。のっけからスクリーンのこちら側が催す嫌悪感はマックスだ。
 映画は、アンワルとその仲間らが自分たちの過去の虐殺を再現する映画を撮影する過程と、彼らの日常生活に密着する過程の2つを軸として構成されている。
 残虐行為を行なった人々は撮影当時までも権力の座についていたり、メディアや政権、軍、警察、財界と密接な関係にある。カメラの前で平然と商店から金をカツアゲしたり、青年団の集会で副大統領が演説をしたり、ギャングたちがテレビ番組に出演し、昔の虐殺のことを誇らしげに語ったり…。再現映画にゲスト出演した政治家が演技で「共産主義者どもをぶち殺せ!」と叫んだ後、「私たちは本来もっと人道的ですからね」と話す場面はおぞましいの一言。
 主人公らが自らも出演して殺戮の現場を再現していくシーンが続くにつれて、本作のタイトルは「殺人の行為」と「殺人の演技」という2つの意味を帯びてくる。加害者が被害者を演じたり、はたまた遺族の男性が拷問される共産主義者役を演じているうち、やがて現実と虚構の境界は溶け始める。
 実際の大量虐殺者たちにカメラの前で自らの殺人を演じさせるという「前代未聞」の手法は、観客と出演者双方に大きな衝撃を与える(監督はこの「胸糞が悪くなる」ようなアイデアをいかにして思いついたのだろうか)。出演者は演技(=アクト)を通じて自らの行いを追体験し、あるいは仲間たちが演じる様子を見ることで、自らの過去の行為(=アクト)に向き合うこととなる。自責の念が完全に欠落しているように見えるプレマンたちに果たして心境の変化はあったのか。再現映画撮影の過程で彼らは図らずも自らの過去の残虐行為を再考するようになり、それがラストシーンにつながっていく――。

 本編が終わり、エンドクレジット。そこに載ってるスタッフの大半は「匿名」(Anonymous)だった。政府の迫害を恐れてのことだという。事件に関する真相解明がいまだなされていないインドネシア社会の現実を見るような気がした。
 本作はインドネシア一国の出来事を超えて、「悪とは何なのか」「人間の本当の恐ろしさとは」という普遍的な問題を見る側の眼前に突きつけているように思えた。チラシには、本作の製作総指揮を務めたヴェルナー・ヘルツォークの、「少なくともこの10年、これほどパワフルで、超現実的で、恐ろしい映画を観たことがない。映画史上に類を見ない作品である」というコメントが載っていた。作中、血は一滴たりとも流れない。しかし、これほどの恐怖を呼び起こし、吐き気を催すような映画には最近お目にかかったことはなかった。雑誌で紹介しようと思い、試写会に出かけたのだが、予想以上の衝撃的な内容だったため、取り扱うかどうか一瞬迷ってしまったほどだ。
 映画は4月からシアター・イメージフォーラム他全国で順次公開される。必見のドキュメンタリーだと思う。(相)


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