日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

「アンニョンハセヨ、はじめまして」

2016-11-16 10:00:00 | (理)のブログ
 イオ編集部ではすでに来年度1月号の工程に取りかかっています。新しく始まる連載、リニューアルされる連載など、2017年も内容盛りだくさん。
 新連載の一つに、「アンニョンハセヨ、はじめまして」という企画があります。これまで同胞コミュニティに出会う機会がなかった同胞たちを紹介するコーナーです。

 日本の学校に通ったためウリマルはわからないけれど当たり前のように朝鮮名を使っていたり、もしくは日本名で生活していても自分のルーツをどこかで意識していたり。
 連載をしようと思ったきっかけは、今年そういった同胞に出会う場が多かったからです。そして、お会いした方のほとんどが『月刊イオ』の存在を知らない、というのも新鮮でした。

 イオでは、ウリハッキョや同胞コミュニティとつながりのある同胞たちを紹介することがやはり多いです。その理由の一つとして、私(編集部員)自身が、コミュニティとつながる機会のなかった同胞たちとまだまだ出会えていないからというのがあったと思います。「同胞コミュニティ」という言葉も、私はウリハッキョを中心とした集まりを考えていますが、それ以外にもきっと様々な場があるでしょうね。
 もっと色々な同胞と会って話してみたいですし、事前にイオも読んでもらって意見や感想も聞いてみたいです。イオのコンセプトは「コリアンつながりで広がる生活情報誌」。少しずつつながりを広げていけば、そこからより楽しいものが生まれてくると思います。(理)

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2 コメント

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素晴らしい (名無し)
2016-11-16 17:15:49
久しぶりにワクワクする内容だったので投稿しました。
イオが向かうべき方向性は、そこにあると思います。
コリアン繋がりを発掘して輪を広げて行く事です。
イオ編集部に敬意を表したいと思います。
もはやオールドカマーが主流派で無くなるのは時間の問題であり、「在日同胞」という言葉すら死語になる日が近づいているでしょう。
日本や朝鮮半島以外のルーツを持つコリアンもどんどん増えてますし、両親がオールドカマーでウリハッキョ卒業生を中心に構成されるコミュニティのみを「同胞社会」と呼んでいる限りは、狭小的で閉鎖的で内向きな発想しか生まれません。
私事ですが、つい先日、青丘学院の学園祭を見てきました。
様々な背景を持つコリアン生徒がおり、韓国からの留学生もいます。
昨今の韓国社会の混乱ぶりを考えれば、留学生らが将来、本国へ帰らず、日本企業に就職し定住する人も相当数出てくると思います。
その人たちも、やがて家族を持ち、子供の教育問題に直面するでしょう。
日本に住む中国朝鮮族の同胞たちも、子供のアイデンティティの確立に苦慮していると聞き及びます。
今こそ、真剣に、民族教育の未来を考える時ではないでしょうか。
「総連を選択された一世同胞の子孫たちがメインのオールドカマー専門学校」
〜これで本当に良いのでしょうか。
それこそ、コリアン繋がりであれば、誰もが通う事ができる、真の民族学校を追求すべきではないでしょうか。
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Unknown (ブラウ)
2016-11-18 13:40:35
名無しさん

>「総連を選択された一世同胞の子孫たちがメインのオールドカマー専門学校」
>〜これで本当に良いのでしょうか。
>それこそ、コリアン繋がりであれば、誰もが通う事ができる、真の民族学校を追求すべきではないでしょうか。


現実の朝鮮学校は、学校運営のあり方としてすでにそうした方向性をある程度打ち出しており、実例が『イオ』誌上でもこれまで何度も紹介されてきたかと存じます。
ただし、私個人としてはその方向性を無条件・無制限に拡大すべきではないと考えるものです。

たとえばあなたは「コリアン繋がりであれば、誰もが通う事ができる」学校にすべきとおっしゃいます。しかし、これはややあいまいな問題提起だと言わざるを得ません。

それが意味するのは「なんであれ朝鮮民族の血統につながる者」なのか、あるいは「朝鮮(韓国)に好意的な外国人」までも包含する新しい概念なのか。じっさい、とあるブログのコメント欄では「中華学校に比べ、ふつうの日本人が入学できない朝鮮学校は閉鎖的なのでは」という意見を見たことがあります。

「朝鮮との接点」とは何か、「血統」にせよ「好意・興味」にせよ明確な基準線を引かずに拡大し続けていくと、朝鮮学校の「民族への抑圧と差別、非対称性に基づく支配・被支配の関係に反対する」ことへのこだわり(これが朝鮮学校の理念的屋台骨であるはずです)に対立する構図が生起する可能性は少なくありません。
祖国の分断とそれを取り巻く政治状況を鑑みるとき、そこにはありとあらゆる政治的志向性が働いており、在日コリアン社会にもその力学が波及することによって、「野放し」であるだけにある意味本国よりいっそう複雑な状況が生まれています。これは否定しようのないリアリズムとしての問題です。

念のため申し上げれば、在日社会の現実に学校がフレキシブルに対処すること自体を否定するつもりは、さらさらありません。ただ、「朝鮮学校を朝鮮学校たらしめているものは何か」を見失ったとき、朝鮮学校は朝鮮学校でなくなる——そのことを肝に銘じなければならないと私は考えます。
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