蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

ETV特集「永山則夫 100時間の告白」を視る。―死刑について考え直した―

2012-10-19 17:39:43 | 日常雑感
 10月19日(金)快晴

 先日(14日(日) 午後10:00~午後11:30)、ETV特集「永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実~」を視た。

 番組の概要は、以下のとおりだった。(※NHK番組案内による)

『 1968年秋、全国で次々と4人が射殺される連続殺人事件が起きた。半年後に逮捕されたのは永山則夫、青森から集団就職で上京してきた19歳の少年だった。いわゆる永山事件は、永山の貧しい生い立ちから「貧困が生んだ事件」とも言われてきた。しかし、これまでの認識を再考させる貴重な資料が見つかった。
 永山則夫自身が、みずからの生い立ちから事件に至るまでの心情を赤裸々に語りつくした、膨大な録音テープ。ひとりの医師によって保管されていた。医師は、278日間をかけて、患者の治療に使う「カウンセリング」の手法で、かたくなだった永山の心を開かせ、心の闇を浮き彫りにした。
 100時間を超える永山の告白は、想像を絶する貧しさだけでなく、“家族”の在りようについて訴えかけている。それは、親子の関係、虐待の連鎖など、時代が変わり、物質的な豊かさに恵まれるようになった現代でもなお、人々が抱え続けている問題だった。
 番組は録音テープの告白を元に、罪を犯した少年の心の軌跡をたどりながら、永山事件を改めて見つめ直す。そこから家族の問題や裁判のあり方など、現代に通じる諸問題について考察をめぐらす。』 

 これを視て、私は次のように感じた。

 この録音が、犯行後収監されてから数年後の事とあってか、これが4人も連続射殺犯かと思わされるような穏やかな声音にまず驚かされた。
 それは、反面では、聴き手の医師のカウンセリングの巧みさにあるのではないかと思った。
 医師は、カウンセリングにあたり生まれ故郷の網走まで行き、母や姉にも会って話を聞いたという。
 医師は、死刑囚永山が幼い日、過酷な家庭環境の中で唯一姉と一緒に眺めたという網走の海岸の景色からさりげなく語りかける。それにより彼のそれまで頑に閉ざされていた心がひらいていったようだった。

 聴けばその生い立ちはすさまじかった。母親は、彼を妊娠中に父親が家族を捨てて出ていったため、彼を見るたびにその憎い父親を思い出さされ、彼の歩き方や横向きになって屈みぎみになって寝る姿までが父親にそっくりのため彼をどうしても可愛がられなかったという。

 母は、7人の子のうち3人だけを連れて彼とそのほかの兄弟を置き去りにして青森の実家へ帰っていった。そのため残された彼らは食べる物にも困りゴミ箱をあさり、漁港に落ちている魚を拾って、飢えをしのぐのだ。おまけに7歳年上の兄は、彼をサンドバックのようにことあるごとに殴りつけて苛んだという。母代わりに慕った19歳年上の姉は、男との間にできた子どもを亡くしたことから、気がへんになり、精神病院へ5年ほど入る。そして戻ってきたらある日男と抱き合っているのを彼はみてしまう。それからはその姉に対してもすなおになれず嫌悪感をもつようになる。

 そんな彼らの境遇を周りの住民が見かねて市に通報し、母親の元に送りとどけられる。だが、母親は日々朝早く行商に出歩く生活苦の中で彼らをじゃけんにするばかりだった。今度はその鬱憤を兄が自分にしたように、彼は妹を木刀で殴り続けるようになる。
彼は、いつも不安と恐怖感の中で暮らしていた。学校へも行かなかった。ただ、5年生の一時期だけは先生がやさしくしてくれて熱心に通ったという。

 ようやく中学を出て働きに出ようとしたとき、シャツがなくて万引きしてつかまってしまう。集団就職で上京するさいも家族の誰一人見送る者はなかった。彼は、二度とこんなところにかえってくるもんかと一人旅立つ。
 
 それでも勤め先の店では一生懸命働いた。認められて、支店の責任者にまでなったところ、ある上司が彼の故郷をたまたま訪ねて、万引きの過去を掴んで帰り、何かと彼を脅迫する。居たたまれなくて荷物を置いてにげだす。そうして職を転々とするのだった。

 この間、彼はなんども自分の生きている意味を自問し意味がないじゃないかと自殺を試みる。そうして外国へ行こうと密航した船で見つかり海老攻めに縛り上げられ税関に突き出される。少年鑑別所へいれられる。身長が1m50cm足らずのやせっぽち。いじめのターゲットにされる。あるときは耳の穴に歯ブラシの柄をさしこまれ叩き込まれる。耳から血が噴出する。「あと1時間もあのままだったら俺あのとき死んでたよ」と語る。

 そして出所。だが仕事をやるきにならない。金がない。深夜喫茶を転々とする日々。港の荷役アルバイトで日銭を稼ぐ。だが、二日ともたないほど過酷な労働だ。そこで稼いだ金を持って兄のアパートを訪ねる。あのさんざん殴られ苛め抜かれた兄だ。兄は今パチンコ狂いの毎日だ。彼が稼いだ金を渡す。だがそんなにしても兄は彼を疎み出て行けという。
 
 そんな日々、見つかったら殺されてもいいやというような気分で横須賀の米軍キャンプへ入り込み、偶然、テーブルにおいてあった小型拳銃とその小さな弾丸を盗んでしまう。これさえあれば、こんな弱い俺だってもう何も怖くなんかない。急に自分が強い人間になれたように錯覚する。その拳銃ポケットにねぐらをさがしてうろうろするうちに東京芝のプリンスホテルの敷地にまよいこむ。そこをガードマンにみつかりもみあいとなる。思わず拳銃を取り出し引き金をひいてしまう。一瞬、相手がぐらりと倒れこむ。あの小さな弾で人が死ぬなんて信じられない。逃げた。そして第二の現場でも同様な発砲事件を起こし若い警備員を殺してしまう。その後は、タクシー強盗を立て続けに二回、わずかの金を奪うために二人とも射殺してしまったのだ。

 ここで鑑定医は母親を訪ねその生育暦を聴く。母もまたその母の再婚相手に邪魔にさ
れ、その母親からお前なんか死んでしまえといわれて親の愛を知らずに育ったのだという。母子二代にわたる悲惨な育ち方だ。医師は、永山の脳のMRI画像をとる。普通は左右対称の海馬のある部分が非対称を示していた。明らかに幼児の時の愛情不足が脳の発達に障害をきたしていたのだ。

 そこで医師は鑑定書を書く。永山は幼児のときの愛情不足により、脳に障害がみられ正常な人格や精神の発達を阻害されたものであると。そしてこれは愛を教えることにより矯正できるものであると。ゆえに、未だ人格が成熟過程にあることを考慮すれべきであると記して裁判所に提出した。

 だが、一審判決ではこの鑑定書を無視した。4人も殺したという犯罪の外形的事実ばかりを重視して、何故このような犯罪を犯すにいたった経過に眼をむけようとはしなかったという。それは当時、少年犯罪の罪の軽さを非難する世論が高まっていた背景があったからだった。 

 もし、この鑑定書を採用してしまえば、とても死刑にはもっていけない。さすれば世論の袋叩きに逢うことは必至となる。そこでこの鑑定書を無視したのだという。
 これに対して、二審の高等裁判所は、この鑑定書を評価し、未だその精神は成熟過程にあるから未成年であるとして無期懲役とした。

 ところが、裁判所がこの鑑定書を評価したにもかかわらず、永山自身は「ここに書かれていることは自分じゃないみたい」と否定的に評価した。これを聴いて鑑定書に心血を注いできた石川医師は自分の280日近くの努力はなんだったろうとの思いに駆られ、きっぱりとこれを限りに鑑定医をやめてしまうのだ。

 この二審判決の対して、最高裁は、たとえその生育環境が苛酷なものであったとはいえ、他の兄弟は立派に成人しているではないかとの理由で、二審判決を差し戻し、結果死刑が確定してしまう。

 永山は獄中で勉強し、自らの生い立ちを小説に書き始めた。新日本文学賞まで受賞する。そしてその印税を被害者への償いとして送り続ける。
 だが、平成9年8月1日、48歳のときついに死刑が執行されてしまうのだ。
 それは、刑の執行同年の6月、神戸での少年が少年を惨殺した榊原事件が引き金となったという。

 見ていて涙が出てきた。まさに神にも見放されたというほかはない人生ではないか。
 このような育ち方をすれば誰だってまともな心を持った人間になれるだろうか。
 まるで、オリバー・ツイストの世界だ。しかし、オリバーはまれに見る純真で強い心の持ち主だったが、それは小説の世界での話しだ。

 私は、これまで死刑廃止に否定的だった。だが、これを視て、犯罪はそんな単純なものではないことがいまさらのごとく分かった。
 悔い改めた永山に青の洞門の僧・禅海の姿を見た。

 このような悔い改めた人間を何故、機械的に死刑にする必要があるだろうか…、と。
 そしてそれは同時に、秋田でのわが子を含め連続児童殺害事件の畠山鈴香を思った。彼女も周囲から嫌われ苛められ、高校の卒業文集に「お前なんか死んでしまえ」と書かれた人生を歩んできたのだ。教師すらもその暴言を野放しにしていたのだ。

 犯罪は、憎しみと恨みの連鎖の結果だ。それを断ち切るために裁判があるのではないか。その犯罪を犯した犯人の心情を明らかにし、それを矯正する方法を社会が見つけださなければ、結局は社会の善良な市民は、自分たちの社会の歪みを正す機会を失い永久に悲劇を生み続けることとなるのではないか。

 とはいえ、私は死刑廃止には、ただちに賛同できない。死刑があってこそ、犯罪者は真剣に人間の生命の尊厳に向き合うことができるのではないか。
 そして、死刑にあたるような犯罪はそう多くは無いのだから、永山事件における二審の高等裁判所のように、検察、弁護、関係者の主張を真摯に信念をもって丁寧に審理することにあるのではにだろうか。
 
 この番組、来る20日(土)深夜、24:50~再放送されるという。ぜひ多くの方に視ていただきたいものである。久々に見ごたえのあるそして深く考えさせられた番組であった。
 なお、上記文章は、メモもとらず記憶だけで書いたので誤っているところがあることをおことわりしておきます。



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1 コメント

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酷い生い立ちを持つ犯罪者について (かまぼこ)
2015-03-19 02:00:31
はじめまして。
私は、最近、死刑制度について興味を持つようになり、
死刑存続派、死刑反対派、遺族、人権弁護士たちの意見、全部読んだり聞いたりしました。

全員の言い分、わかります。(同意できないのも一部ありましたけど(汗))
無論、犯罪者たちがやったこと(事件概要)も読みました。事件概要だけ読むと、本当に許せません。全員死刑にしろ!早く殺せ!としか、心に浮かびません。

なんですが…被告の生い立ちを聞くと、複雑な心境になってきます。というか、被告(殺人者)の生い立ちを聞いて、涙が出るって、なんなんだこれ!?と思いました。

最も気の毒なのは被害者とその遺族です。それはわかってるんです。

でも…想像を絶するような不幸な生い立ちがある犯罪者に関しては、ただ「死刑にして殺せ!」だけでいいものか?それが疑問でなりません。

決して、日本中の人々に、「わかった?だから、死刑を無くしましょう!」とまでは言いません。

さすがに、服部純也死刑囚みたいな、強姦して、その女性にガソリンふりかけて生きながらにして殺したとかいう被告を、「おねがいっ!死刑にしないであげて!」とは私も言えませんし、思いません(汗)

ただ、死刑にするにしても、世の中の人たちが「犯罪者側も、とんでもない生い立ちだった人たちが多いんだよ」ということを知ってほしいなと思いました。

そうすれば、じゃあ、犯罪に走る人たちをどう減らせるか?ということを、人間全体が考えられると思いました。

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