蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

ノーベル賞受賞大村博士の“大村美術館”詣で!

2015-10-14 22:55:19 | 田舎暮らし賛歌
10月13日(火)快晴。

 このところ秋晴れの毎日。ついつい心浮き浮き。どこかへでかけたくなる。昨日は、近くの大村美術館へ。ノーベル賞受賞記念で入館料無料開放の最終日。この日は平日。少しは空いただろうかと行ってみて驚いた。
 美術館のはるか手前で誘導員の人に車を止められた。30分近く待ってやっと駐車できて、やれやれと美術館の入口はとみれば、そこでまた、4、50人の行列。何とか中に入れば、壁の絵の前で蟻の歩み…。これでは折角の絵をゆっくり鑑賞するどころではない…。
 家人と二人、二階の展望室からの八ヶ岳、茅ケ岳、富士山をの眺望を前に自動販売機のコーヒーを戴いて早々に後にして帰ってきた。

 大村美術館。10年余り前、茅ケ岳山麓のこの地へ越してきて、近くをドライヴしていて偶然みつけてはいったことがあった。
 その時は、この美術館が新薬の特許で巨万の富を得た、大村という地元出身の化学者が、地元への恩返し韮崎市に寄贈されたものであると知って、随分奇特で立派な人がいるものだと感心した記憶がある。
 その大村博士の業績が今回のノーベル賞に称えられるほどのものとはつゆ知る由もなかった。

 受賞を機に連日のようにTVや新聞で報じられる大村博士の笑顔、談話に接するにしたがい、そのお人柄の好さに、人としての生き方の立派さになるほどと思わされるばかりである。
 今までのノーベル賞受賞者は、なにか私たちとは隔絶した能力の持ち主として、半分以上縁のない人と感じてきた。
 が、今回の大村博士に限っては、天才的頭脳の結果というよりは、その研究方法をうかがっても、ただただ超人的な根気の好さのうえの成果のようである。
 また、その経歴を伺えば、地元山梨大学を出て都立高校の定時制の教師時代に、油で汚れた手も気にせずに授業に駆けつけてくる生徒を見て、自分も勉強しなおさなくてはと、大学院へ入りなおして、奥様の内助の功に助けられて研究者の道を全うされたとのことにも、深い共感と親近感を覚えた。

 そして博士の学者離れした粋なことは、この美術館の横に絶景の景色を堪能できる温泉(白山温泉)施設まで併設されて、来る人を癒そうとされているのである。
 伺えばその特許料収入250億円とかを、北里大学の再建に供されたとか。にもかかわらず、TVの画面に視るご自宅は、世田谷区内とはいえ、門から玄関まで一足ほどのごく普通のお宅のご様子。なんとつつましやかなことだろうか…。
 大村博士、この11月には文化勲章受賞だろうか…。天皇陛下もこのような博士へこそ心からのお喜びをこめて勲章を授与されるのではなかろうか…。

 清清しい好天の秋の一日であった。

―十年一昔―福島原発事故のつけ、太陽光パネルがやってくる!

2015-03-15 00:06:22 | 田舎暮らし賛歌
 今日の夕方近く、いかにも人の良さそうな私と同い歳かっこうのご老人が訪ねてこられた。ご挨拶としるされタオルの包みに名刺を添えてわたされた。
 伺えば、我が家の南側の山林の地主さんだ。
 今度、そこに太陽光パネルを設置するので工事等でご迷惑をおかけするがよろしくとのこと。
 そんな話こちらにとってはまさに晴天の霹靂だ。本来なら怒り心頭といったところだ。だがいかんせん他人様の土地のことだ。
 持ってこられた話とはうらはらに、その穏やかそうな人柄に惹かれて、もう少し詳しいいきさつを伺うべく、わが仕事場の薪ストーヴの前に招じた。

 聴けば、下の方の街の通りで雑貨屋をやっているが、今は、お客が一人も来ない日がある。なんとか商売は黒字でも、とても夫婦二人たべてはいけないとのこと。
 そこで先祖伝来持っている土地を少しでも活用するほかなく、今回、我が家の前の千坪ほどの山林にも太陽光パネルを設置することにしたとのこと。
 設備には1800万ほどかかるが、10年ほどで回収でき、あと20年ほどは耐用年数があるとのこと。今は、固定資産税も一銭もかからないが、太陽光パネルを設置すると、宅地並みの7割課税となる。そうすると市税収入も増えるとのこと。
 地主さんと市にとっては確かにいい話だ。

 だが、ここの自然景観が気にいってわざわざ建てて間もない浦和の家を投売りのようにして越してきた者にとっては、なにかに騙されたような気分を拭えない。
 私とて、20年前の富士山麓、上区一色村に悪名高きオウム真理教が巨大な倉庫群のようなサティアンを建てたことは頭にあった。

 私が自宅を買った土地も地目は山林で建築基準法上は無指定であった。それが怖かった。無指定ということは何をつくろうがお構いなしということだからだ。
 その不安について、売主の地主さんに「いつまでもこのままの景観でいられますかね…」と。地主さんは太鼓判を押してくれた。
「なーに、心配ありませんよ。私の目の黒いうちは、もうこれ以上売りませんから…」とのことであった。
 私は、その一言に半信半疑ながら希望的観測をもって購入した。その際、周囲山林が何らかの理由で切り開かれてもいいように千坪ほどは欲しかったが、建築費を考えるととても無理だった。400坪弱が限度だった。それでも浦和に居たときの10倍の広さに当初は満足だった。

 だがその喜びは長くは続かなかった。周囲の美しい赤松林の赤松が松食い虫に次々におかされてたちまち茶色に立ち枯れ始めた。
 そして大風の吹いた後に、あちらで一本、こちらで二本と倒れていった。
我が家の南側の赤松林もある日突然きれいさっぱり伐採されてしまった。後はその代替に檜が植林されることになった。

 私は、赤松ならともかく代わりに檜が植林されたのでは、将来目の前の景観が年中不変の鬱陶しい緑の壁がそそりたったのではたまらないと思った。
 そこで、物は試しと地主さんを訪ねて、なんとか檜の植林をやめて伐採したままにしておいてもらえないでしょうかと頼みに行ってみた。
 だが、それでは市から伐採の費用を助成してもらえないとのことで断られた。
 私は諦めた。どうせ、苗木の檜が成木になる頃にはこっちはこの世に居ないのだからと…。

 その挙句が今回の話だ。我が家との境界の樹木は極力残すという。それなら仕方が無い。檜の緑の壁よりは、太陽光パネルの畑なら高々2Mほどだ。黒っぽい、太陽光パネル無機質の一群は、我が家からは境界付近の木や草で隠れて、冬を除けばほとんど見えなくなる筈だ。それで我慢するほかないのだ…。

 それにしても、この太陽光発電パネル。この地では、日照時間日本一の歌い文句が裏目に出て、今や、そこここの春秋の色彩豊かな雑木林が片っ端から切り払われて、太陽光パネルの一面の黒い海になるかとの勢いだ。
 東日本大震災。福島原子力発電事故の影響が、4年後の今日、思わぬ形でわが目の前に迫ってきた。
 とはいえ、東日本大震災で二つと無い生命や財産を失われた方々。福島原子力発電事故の被害で、いまだに今まで住んでいたところに住めなくなった方々のことを思えば、たかが目の前の景観が少々変わったからといって、おまえは何を贅沢な、身勝手なことをほざいているかと、お叱りをうければそれはそれで一言もないところではある。

だが、それはまさに、我が国の国土・土地利用政策、農山林政策の無策のつけをこんな形で忍ばねばならないかという思いを、一概に無下にされるものだろうか…。
 そして、今やこの国で、美しくいと思い、その景観に惚れこんで安心して住み続けられる場所は、いったいどこへ行けば得られるというのだろうか…。

 嗚呼、哀しいかな! 我が田舎暮し賛歌!
 
 
 

早、一昔…!我が田舎暮し賛歌

2014-07-29 01:16:27 | 田舎暮らし賛歌
 2014.7.28(月)晴れ。 

 TVをつければ、新聞を開けば、人殺しのニュース。大は、イスラエルとハマスの何時止むとも知れない殺戮の応酬。
 小は、高校1年生の女生徒が同級生を殺したうえ、首や手足を切断した…とか。
 人間とは、どういう生き者なのだろうかと、つくづく考えさせられてしまう…。
 こんな馬鹿な間尺に合わないことをする生物は、この地上に人間以外、存在しないことは確かだろう…。

 だが、そんな世間とは、私の日常生活は別世界の極楽に思えてくる。
 しかし、それは、同時にこんなことを云うと何かに対して申し訳ないような、何か後ろめたいようにさえ感じられるのは何故だろうか…。

 職場を60歳の定年退職と同時に、東京のマンションを処分し、この標高600m余りの茅ケ岳山麓に越してきて早十年が過ぎた。
 越してきたときは、来た衆(し)(※ ここの方言、新参者の意)として誰一人、知人も親しい隣人も居なかった。

 それが、今は、10数軒のお隣さん(組内)はもとより、組に入ったおかげで持ち回りの役を務める中で、100軒余りの集落のあちこちに顔見知りや、親しい知人にも恵まれた。

 今日も、夕方、涼しくなったところで愛犬の散歩にでかけた。途中、大根を掘ったからと、あるいはトウモロコシが採れたからと、朝、起きてみると玄関先に黙って届けてくれる篤農家のKさんの家に立寄った。
 心ばかりのお返しを届けるために…。

 Kさん夫婦は、自宅前の作業小屋に居た。
 私がその話し声に釣られるように顔を出すと、「ああ、いいところにきたよ…。今、珍しいジャガイモ掘ってきたばかりだから、食べてみて…」とのこと。
 「これから、上の方に行くから、玄関前においておくよ…」とのこと。
 私が、持ってきた小さな袋を手渡して「冷やして、お茶請けに…」と云うと、「いちいち気にせなんで…」とのこと。
 僅かなお返しに来て、またその場で戴くとは…と、恐縮しつつその場を後にした。

 目の前に瑞々しい緑一面の稲田が広がる。雪が融けて、こげ茶色の荒木田。やがて耕運機できれいに耕され、水が張られ、雪解けの山々を美しく映しだす。五月、早苗が風にそよぐ。なんともいえない可憐さ。
 しかしそれも旬日。空行く浮雲を映していた水面はたちまち見えなくなり、一株一株くっきりとした輪郭をもった株立ちとなる。
 その稲穂の上を夕風が渡ると、銀緑色の漣(さざなみ)が走る。やがて稲穂が黄金に輝き今年の稔りの秋を迎えるのだ。
 この稲の稔りに私の生命が生かされているのだと思うと、なんとも云えず神々しくありがたい気持ちになる。
 こんなことは、東京で暮らしているときは、思ってみなかった。お米は単に白くさらさらとした米粒でしかなかった。

 小一時間、南北約1k、東西2kほどの圃場を一周して帰途につく。目の前の稲田の中をまっすぐに伸びる農道。
 その向こうに横一列、左下がりに吾が集落の家並みが連なっている。その中に、先ほど、別れてきたKさんの家もある。
 集落の後景の八ヶ岳は、裾野だけをみせ峻烈な峰々は、夕日の薄赤みを帯びた雲に覆われている。その左に目をやれば、鳳凰三山の巨大な山塊が落日を肩に藍(あお)あおと立つ。

 そんな夕景を眺めながらつくづく思った。
 ここに来て早、10年余り。本当に良い終(つい)の棲家にたどり着けたものだと…。
 四季折々の変化の美しさ。松くい虫に荒れつつはあるが、そこここに残る雑木林の中を歩く楽しさ。緑に包まれて生きていることのなんという安らぎ。まさに人生の林住期にふさわしい。
 
 絵描きを第二の仕事にと思ってやってきたはずが、今や、日々の風景の美の豊かさと変化に追いつけず、絵を描く気持ちを失ってしまった。
 私が現役の頃、あれほど多忙な日々の合間を見て、風景画に魅せられて走り廻ったのは、東京と云うコンクリートジャングルの中での日々の息苦しさからの逃避であったことを、今にして悟った。
 
 黄昏の中の我が家に戻ると、家人が「ほら、こんなに戴いた…」とヴェランダに置いてある、ビニール袋を示した。
 美味しそうなかぼちゃが3個。「ジャード・クイーン(中は紫)サラダ用です。」とメモの入った小さめのジャガイモがごろごろ。もう一袋には、「レッド・ムーン」とのメモ。アケビの一回り大きいような金時色したジャガイモがずっしりと入っていた。

 この重さこそが、我が田舎暮し10年の答えの一つか…と、しみじみ有り難く思う…。


冬山賛歌

2013-01-08 13:32:09 | 田舎暮らし賛歌
1月7日(月)晴れなれど寒気強し。

 八ヶ岳を北に望む茅ケ岳山麓のこの地に移り住んで10年がたつ。ところがここのところの寒気、今まで感じたことが無いほど厳しい。寒暖計は毎朝、-5度から10度を指している。
 日中の暖かい頃を見計らって、愛犬の散歩にでかける。稲穂の切り株を打ち返した黒々とした田んぼが、段々状に西の南アルプスに向かって下っていく。
 そのあぜ道を人影のないのを見て、引き綱を放してやった愛犬が飛ぶように駆けていく。
 右手の八ヶ岳から氷の針のような北風が、ブルゾンの上から身に突き刺さるようにつめたい。
 その北風に敢えて顔を向ければ、白鎧々とした八ヶ岳連峰輝いている。
 このような美しい峰々を朝な夕な眺めて暮らせる幸せをつくづく思う。
 
だが、このお正月、雪山遭難のニュースをいくつも視聴した。
 そして思った。

 雪山が好きで行く人はそれでいい。だが、一度遭難となると、正月早々、救助を求められた地元の関係者の迷惑はいかばかりだろうか。
 他人の好き勝手な楽しみのために、下手すれば雪崩などによる二次遭難の危険と隣りあわせではないか。

 犬の散歩に付き合っての裏山の凍てついた残雪の小道でさえ、古希を過ぎた老爺の足はとられる。雪の無いときのなんでもない道が急にこの先を行くのが怖く覚える。

 これが、2千、3千メートル級の風雪厳しい高山となればどうだろうか。
 まさに冬山登山こそ自己責任を全うすべきではないか。
 一度遭難したら、雪が融けるまでそのままにしておけというのは、酷だろうか…。
 
 鎧々たる八ヶ岳連峰輝、正面の甲斐駒、地蔵、観音、薬師と連なる南アルプス連峰を眺め渡しながらこんなことを思う天邪鬼は私だけだろうか…。

梅雨の昼

2012-06-21 12:26:25 | 田舎暮らし賛歌
 6月21日(木)薄日射すも雲多し。時々、小雨ぱらつく。

 昼前、庭に出る。愛犬、ぺくもご主人様に似てか朝寝坊のよびっかりだ!小屋から出てこない。小屋の入り口にたらしてある足拭きマットを転用したカーテンはぴくりともしない。
 
 一昨日の台風4号の雨脚でせっかく近くの釜無川の川原から運んできて撒いておいた砂は、芝生の庭と畑のあいだのゆるやかな傾斜路を流れておちてしまった。

 雨台風が運んできたたっぷりの雨水を吸ってか、トマト、キュウリ、なす、いんげん…。皆元気はつらつと天に向かって伸びている。

 間もなくの収穫が楽しみだ。

 これぞ田舎暮らしの楽しみだ。

 山里に在っては、梅雨の晴れ間もまた楽しからずやである。

古屋和子、琵琶弾き語り―「越前竹人形」―を聴く!

2012-04-06 19:10:05 | 田舎暮らし賛歌
古屋和子、琵琶弾き語り―「越前竹人形」―を聴く!

 4月6日(金)晴れ。
 今日、午後2時から近くの明野総合文化会館の二階和室で、古屋和子、琵琶弾き語り―「越前竹人形」―を聴いてきた。
 素晴らしかった。こんな田舎で、このような素晴らしいものを耳に出来るとは思ってみなかった。
 私たち、今日の聴き手、70人余りが座る座敷の縁側の障子を開けて、渋い鬱金色(ウコンイロ、濃い鮮黄色)の和服姿で大きな琵琶を抱くように入ってきた古屋さんが、「和敬静寂」の書額がかかる床の間の前に、しつらえられたピアノの椅子のような席につく。
 主催者の責任者が短い紹介をする。古屋さんはそれに応えて軽く会釈し、「水上勉先生の越前竹人形を語らせていただきます」とピント背筋を伸ばし、膝に構えた琵琶の弦を軽く一、二音弾いて音調を確め、静かに弦の上を撥を滑らせ語り始めた。
 
一瞬、しーんと静まり返った会場に、琵琶の弦を滑る撥の間からサラサラと竹の葉の葉摺れが聞こえてくる。
ある雪の日、越前の国武生の寒村、竹神集落に住む竹細工職人、喜助のもとへ、美しい女・芦原の遊廓に働く遊女玉枝が、喜助の父、世話になった喜左衛門が亡くなったと聞いて墓参りに来たと告げる。

古屋さんは、その玉枝が喜助に始めて声をかけるところを、まるで舞台の上の玉枝を目の前に見るようになりきって演じる。
そして今度は、喜助に成り代わって訥々とした偏屈な男の戸惑いの声色で応える。振りこそないが、琵琶の伴奏いりの見事な独り芝居だ。
自分より十幾つも若い年の違う自分を母のように慕う喜助の情にほだされて、娼妓の身を整理して、喜助との新しい生活にそれなりの夢を託して身を寄せた玉枝。

ところが、喜助は一向に玉枝を母として親しもうとするばかりで、愛する女として抱こうとしない。ひたすら、玉枝をみつめて父に負けない竹人形つくりに打ち込むばかり…。

そんなある日、京都から喜助の竹人形の評判を聴きつけて、買い求めに来た番頭の忠平。それはなんと昔、玉枝が京都の島原で娼妓をしていたときの馴染み客だった。生憎、その日喜助は不在。二人は昔語りをするうちに、忠平は俄かに玉枝を襲う。玉枝は心では忠平を拒みつつも、日頃の喜助への不満から心ならずも体はひらいてしまう。女の業。

そしてその一回きりの事で、玉枝は妊娠してしまう。途方にくれる玉枝。暮夜ひそかに重い石を抱いて流産を試みるが、効果はない。思い余って京都に口実を設けて出かけ、忠平を呼び出し事実を告げ、中絶のための助力を乞うが、忠平は玉枝の言葉を信じようとせず、心無く突き放す。
思い余った、玉枝は、伏見の方の遊廓で引手婆をしている唯一の身寄りの叔母を訪ねていく。その途中、宇治川の渡しの船の中で、腹痛に襲われ気を失い流産してしまう。気が付いてみたら玉枝は老船頭の小屋の中に寝かされていたのだった。

船頭は言う。事情は想像つく。岸に着けて警察に届けたりしたら面倒だろうからと、赤ん坊は川に流したと…。玉枝は、老船頭にあつく礼を言って喜助のもとに帰っていく。そして程なく病で死んでしまう。

玉枝を失った喜助は、竹人形つくりをやめてしまう。そして白痴のようになってその後をおうように死んでしまう。水上勉の独壇場の世界だ。今近松だ。

古屋さんが約一時間二十分語り終えて、静かに一礼すると万来の拍手だった。

この会が催されたのは、昨年11月、この会館内にある小さな図書館のファンクラブが、古屋さんの平家琵琶弾き語り「壇ノ浦」を聴く会を開催し、その時、好評を博し、是非近く再度ということになって、今日の会となったのだった。

前回の「壇ノ浦」もすばらしかった。弾き語りの魅力、NHKなどは是非深夜でもいいから、こういうものこそ放送してもらいたいもだと強く思った。

ちなみに、古屋さんの弾き語り、4月の13日(金)~15日(日)、「女殺し油地獄」が東京原宿駅傍の赤星ビル地下、アコ・スタジオで上演されるという。

まだ、聴かれたことの無い方には是非おすすめしたい。

夏の日の夕暮れのひと時に

2011-08-14 22:57:11 | 田舎暮らし賛歌
8月14日(日)晴れ、日中33度。

 私のブログをお読みいただきます皆様、
 暑中お見舞い申し上げます。
 日ごろは、お目に留めていただきありがとうございます。


ー蝉時雨残詠ー
 
暑―い、暑―い、一日が暮れた。

だが、夕方、陽が西山(甲斐駒)の右肩に隠れる頃ともなると、
茅が岳山麓のこの地は、
たちまち蝉時雨の涼やかな一時(ひととき)となる。

庭仕事を終え、汗みずくの体をシャワーで洗い流す。
蝉時雨のヴェランダで、冷えたビールを一杯、呷る。
何んともいえない爽快な気分が、身体いっぱいに広がる。

庭続きの疎林の縁(ふち)の夕日に映える赤松の梢。
その梢の上のスカイグレーの空に浮かぶ
和紙を千切って風に吹き流されたような茜雲。

そんな情景に、思わず心に湧くあれこれの思いを、
ほろ酔い気分の風の泡と消えてしまわないうちに、
文字に残そうとノートを引き寄せてみる。

だが、いざペンを手にすれば詩にはならない、牛の涎のような呟きばかり…。
ふと気がつけば、いつの間にか、利休鼠の紗の夕闇が、
私を静かに包んでいる。

御近所のオープンハウス雑感

2011-01-29 18:19:26 | 田舎暮らし賛歌
1月29日(日)晴れ。

 朝、9時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。何だろうと出てみる。
「おはようございます。今日、上のお宅で見学会をやらしていただきます。お騒がしいかとおもいますがよろしくおねがいします」工務店の人の挨拶だった。
 我が家の直ぐ上の山林を切り開いて、昨夏始め以来建築していた家が出来上がったのだ。
 施主さんが入居する前に、OMソーラーハウスのよさを宣伝するための見学会が今日と明日の二日間開催されるという。

 10時、建築を見るのが大好きな私、早速出かけてみた。一番乗りだ。少々気が引ける。30坪弱の平屋造りの明るい家だ。
 この辺一体は赤松林の緩やかな南西傾斜地である。だがその赤松が松喰虫に犯されて殆ど完伐された今、目の前に南アルプスが聳え眺望はよくなった。
勾配天井の居間の南側一面にそのおおらかな風景が広がっている。足元に我が家がぽつんと小さな置物のように見える。

 こうして見ると、何だかこうあからさまに上から我が家を見下ろされるというのは余り好い気分のものではない。
 もっとも今は冬枯れの季節で周囲の雑木が枯れ木ばかりだが、これがもうじき一斉に芽吹けば、また柔らかな新緑に包まれるだろう。
 このお宅のお風呂場は南東角にあって湯船に寝転んで、南アルプスを一望できるしかけになっている。なんとも羨ましい限りだ。
 この家で定年後のご夫婦二人、仲良く快適な生活を送られることだろう。施主のご主人とはすでに顔見知りの仲。お酒が好きだそうだ。また我が組の好き飲み仲間が増える。

 さて、オープンハウス。この不景気にこんな山の中に一体何人お客があるのだろうかと見ていたら、結構来るものである。多摩ナンバー、水戸ナンバー。中には赤ちゃん連れの若い夫婦。
 このような環境で子育てをしたら最高である。
 このへんの学校は校庭が物凄く広い。校舎だって立派である。
 働き手のお父さんは東京でIKのアパートでも借りて、ウィークデイを働き、金曜日の夜から月曜の朝までここで家族と暮らす生活はどうだろうか。
 
 いやしかし、そんなことより、一番好いのは地方分権を進め、この山梨の地に独自の産業や工場ができ、働く場所ができることが一番だ。

 不景気とはいえ、衣食住のうちの好い住まいへの関心は、結構高いようだ。人様の新しい家を見ると、またもう一度との思いが湧く。が、残念ながら古希を前に私には、もうその余力はない。帰宅して、同じ傾斜地に建つ我が家。それはそれで眼下に一棟の家もなく雑木林の梢越しに南アルプスの一端に連なる櫛形山の優美な山容が遠望できることで、自足する他無いのだ。

地域興し?―私のこの一年―(その4)肩の荷を降ろす

2010-04-05 23:20:34 | 田舎暮らし賛歌
4月5日(月)雨のち曇り、花冷えの一日。






 繭玉のように白く点々と咲いていた辛夷の花が、たちまち薄茶色に萎んで散っていく。代わりに隣の山桜の梢に小豆色の小さな花が咲き始めた。この1年の何と早かったことか。

 退職して10年弱、再びは人前に立つ事も無いと半隠居を気取ってきた所へ、順番で15軒ほどのお隣さんの組長となったら、今度は十人集まった組長の中から区長、区長代理、会計の三役を互選することとなり、まだ組に入って4年足らずの新参者にも係わらず年嵩とあってか区長に選ばれてしまった。

それが去年の3月。それからの1年の大よそは(その1)~(その3)に記した。
そして、先日の3月31日、一年間のお勤めご苦労様でしたということで、新区長に引継ぎを終え、お役御免となった。

ダンボール箱2個分の帳票、文書類を引き渡したら、吾が作業場に散らかっていた文書が一掃されるとともに、文字どおり肩の荷を降ろした実感を味わった。
何と大げさなと、云われるかもしれない。

しかし、現職のころ、平均3年ぐらいで異動をしていた時の後任者との引継ぎ時には、今回のような直に身体に感じるようなことはなかった。

この1年間は、何処へ行くにも自分の組のと、組長の名簿を持ち歩いた。組の何方かの家で不幸があれば、直ちに葬儀委員長として駆けつけなければならない。

現職の時の会議では、役職や立場で物事がそれなりに決まっていく。ところが、自治会となると、メンバーは全て対等である。
特に、農業専業の方々は、皆、一国一城の主。簡単に執行部の言いなりになるものではない。拙速を好まない。昔からのしきたりが巌と鎮座する。行きつ戻りつである。

それでも、10人の組長さん仲間とは、最初は誰が誰だか気心も分からなかったのが、月に2回も3回も顔を合わせ、共同作業をしてい行く内に今ではすっかり仲良しグループになってしまった。
これからこの地で暮らしていく中でなんと心強い仲間を得られたことだろうか。
早速、少し落ち着いたら、皆で改めて近くの温泉につかり一杯やろうということになった。

もう朝早く人が訪ねてくることもなくなった。それも少し寂しくはあるが、朝寝坊の私には、ありがたいことである。
それにしても、これまであまり意識してこなかった自治会活動。これから長寿者がますます増えていく中にあって、いよいよ大切なものであることを、そしてその運営のあり方について、様々な工夫が必要なことを実感した。

地域興し?ー私のこの1年ー(その3)

2010-01-19 11:23:20 | 田舎暮らし賛歌
 1月18日(晴)
  
  半月ほど置いて次の組長会でその結果を集約すると、10組のうち「今更そんなことしなくても…」という1組を除いて、今後続けていけるならということで、やる事に賛成ということに決まった。
  
  私は賛否半々ぐらいと思っていたので、この結果は嬉しかった。しかし、年金暮らしの私はともかく他の組長さんたちは皆それぞれ仕事をもっている。
  それでなくても何かあれば引っ張り出されることとなる役員、現状以上の負担をかけることはしのびない。
しかし、だからといって自分で全部引き受けたのでは、これもまた終わった後で共に働いた喜びを分かち難くなる。
そこで私の仕事場を作業場所として、都合が付いたときは随時手伝いに来てもらう事とした。

  私は、早速、インーターネットで見た、業者にお神輿の飾り物と法被を発注した。そして、近くの酒造メーカーに酒樽について問い合わせると、長く使ってもらえるならということで、寄付してくれることとなった。
さて、今度はその酒樽を載せるお神輿の台座である。インターネットで見たものを見本に図面を引いて材料を見積もり、ホームセンターで調達した。

  トントンカンカン、入れ替わり立ち代りで皆で一週間ほどかけて、立派なお神輿ができた。
その夜はささやかに皆で祝杯をあげた。久しぶりに童心に返った気分を味わった。

  それをお祭りの当日の1週間前の日曜日、公民館に運び込んで、今度はこどもたちの手で飾り付けをさせた。大ハシャギで小さな提灯をつけたり、花飾りをつけたりした。

  11月22日、冬の早い当地では秋祭りには少々遅くなってしまったが、とにかく心配していた天気にも恵まれ、朝、9時半。地域の太鼓保存会の応援を得て、勇壮な太鼓の響きに送られ、子ども樽神輿は鎮守の社の鳥居を出た。
その瞬間、私は目頭が熱くなった。2、3十年来絶えていたお祭りをささやかながら復活できたのである。
  この地に惚れ込んで移り住んで、まだ10年とたたない者に旗振りを遣らせてもらえたことが限りなく嬉しかった。
  その一瞬、この神社を乏しかったであろう蓄えの中からいくばくかを出し合って勧進した昔の人々の笑顔が見えたような気がした。

  お神輿は、村内の伝説の7つの池を巡り、それぞれの場所で村の生活の原点であったその池の謂れを、子どもたちに話して聞かせ、2時間ほどかけて、境内に戻った。
 その間、普段は人影のない路傍に近所の人たちが何人かづつ出迎えおひねりや、お菓子をいただいた。

  お祭りは、日頃は静かな村内に小さな漣をたてたようであった。来年はもっと賑やかに,笛や鳴り物も欲しいな何て声も聞こえてきた。

  一つのお神輿を皆で担ぐ。地域の連帯感が失われたといわれて久しい今こそ、この心が必要であり大切なことなのではなかろうか。