蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

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「安倍内閣」は、もはや死に体内閣に堕したのでは?

2007-05-30 00:33:51 | 時事所感
5月29日(火)晴れ。

  今日、夕方の記者会見で、塩崎官房長官は、「安倍内閣は、今後、国民の関心の高いものから政策として取り組んで行きたい。世論の声に耳を傾けていきたい」という主旨の談話を発表した。

  何をいまさらではないか。今頃「御用聞き内閣」に変身しようったって、そうはどっこいやすやすと、国民がその手に乗って踊るとでも思っているのだろうか。
 
  社会保険庁、5千万件、データ不明問題の浮上。内閣支持率の急降下。そこへの現職大臣の自殺。「美しい国づくり」どころの騒ぎではなくなったようだ。

 大都市を遊説できない「女性は、産む機械」発言でその名を轟かせた厚生労働大臣。そして農村を歩けない農水大臣。その両輪の一方が脱輪してしまったのだ。

こういう状況を指して、昔の人なら、「天に見放された」というのではないだろうか。

  案外、因縁めくが、あたら何百万だかの尊い命を無駄に捨てさせたことなんか、無かったことにしようなんてことに、その何万分の一もの痛みもしらないお坊ちゃまが、A級戦犯の偉大な祖父(?)の夢を果たさんすることに、水漬く屍や苔むす屍が「それはならじ」とゆらゆらと冥界から、おっとり刀で立ち返り、千の風、万の風となってこの国の空に吹き荒れようとしているのではないだろうか。

 これで、先年の民主党は、前原秀才お坊ちゃまの偽メールでのすってんころりんに並んで、今度は自民党の若きプリンスの見当違いの勇み足での失墜で、一対一の相打ちということになるのではなかろうか。

 そしてそのあとは、やっぱり、まだまだ若い奴にはまかせられないとばかりに、甲羅にコケの魑魅魍魎(チミモウリョウ)が、跳梁跋扈の談合政治にたちかえるのだろうか。

と、思うこの頃さ、さて皆様はいかがお思いでしょうか。
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松岡農水大臣の自殺に思う!

2007-05-28 19:01:26 | 時事所感
5月28日(月)快晴。気温、爽やかな一日。


松岡農水相が自殺 議員宿舎で首つる(朝日新聞) - goo ニュース

午後、手仕事をしながら何気なくラジオをつけたら、この事件を報じていた。正直驚いた。
 
 瞬間、「彼も恥を知る人なんだ」と強く感じ入った。自分の心の中がシーンとなるような思いがした。

 私は、前回のブログでその厚顔ぶりと、そんな彼を必死に庇う首相、与党の多数の前で、どうすることもできない世論の無力さを嘆いたばかりだった。

 しかし、今日の結果を見れば、実は、何食わぬ顔で国会答弁をする陰で、実は死ぬほどの苦悩に陥っていたのだろうか…。
 この結果を見れば、真に気の毒な気がしてくる。

 今、各界のコメントが伝えられる中で、その農政に対する見識を惜しむ声が聞かれる。たしかに、農林水産省出身議員として、農政についての国会での大臣答弁を聞いていると、その可否の如何を評する知識は、私には持ちあわせがないが、なかなか力強く自信に満ちていて、所管大臣とはかくあるべきものとさえの印象を受けた。

 地方国立大学出身で官界、政界をその頂点を目指して渡り歩いていく上では、やり方によっては、私なんかには、知る由もない危ない綱渡りがあったのであろうか。

 それにしても、人を殺した訳でもないのに自殺までしなくてもというのは、やはり当事者でないものの傍観者としての軽さだろうか。
 自殺するぐらいなら、さっさと辞職し、受けた疑惑には堂々と事実を弁明してその結果を甘受すれば済む話ではないかと思うだが。
 その分別というか、勇気をどうしてお持ちにならなかったのだろうか。

 しかも酷な言い方にはなるが、自殺された場所が、国民共有の資産とも言うべき完成したばかりの、いろいろと言われている議員会館というのは、いかがなものなのだろうか。

 死者に鞭打つようでいささか躊躇われるものの、一市井の人ではなく国家枢要の国務大臣の身である。
 死ぬなら死ぬで場所を選ぶべきではなかったのか。

 そのような分別も失うとは、案外、老人性の鬱病にでもなられたのではないか。
 私もいくらも年齢の違いはないが、この歳になると、訳もなくちょっとしたつまづきで何もかもが嫌になって、虚しく思えて、死んでしまいたい衝動を感じることがあるからだ。

 自殺者の多くは、電車に飛び込んだり傍の迷惑を考えない行動をとる。それは、自殺という行為が既に、その人を瞬間的に一種の思考停止、視野狭窄に陥らせるからではないのだろうか。

 今回の大臣の死も、何か政治的責任を云々する前に、それが引き金になっての、瞬間的鬱病のしからしむるところではないのかと、思えてしかたがないのだが…。

 このような結果を見させられると、何故か一種のものの憐れを感じるばかりである。

 
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大相撲夏場所、白鵬全勝優勝、第69代新横綱誕生!おめでとう。

2007-05-27 20:05:28 | 日常雑感
5月27日(日)快晴。初夏の気温、風強く、黄砂舞う。

夕方近く、赤旗日曜版の集金に知人が仕事場にきた。お互いに話し出せばきりがなくなった。このところの社会保険庁の無責任さ、松岡大臣の使うこともできない天文学的(?)な光熱水費を計上している虚言に対して、どうすることもできない世論の虚しさ。母親を殺してオブジェにしてしまう高校生。等々である。

だが、バックグランドに流しているNHKラジオの大相撲中継にもそれとなく、取り組みの推移を気にしているこちらとしては、だんだんそちらに気を取られてうわのそらになってきた。

5時が回った。私はたまりかねて「実は、大相撲が気になって…」と、話の切れ目を捉えた。「ああ、わかった。じゃあーまた」と相手は気持ちよく退散してくれた。

私は、母屋のTVの前にすっ飛んだ。
画面は「これより三役…」といところで結び三番にかろうじて間に合った。

先ずは、琴光喜対千代大海。先日の朝青龍に対するのとは打って変わったような好い相撲で12勝目を手にした。

続く、魁皇対琴欧州。あっけなく又も琴欧州が無様な相撲で敗退した。

そして今場所の大一番、朝青龍対白鵬。

制限時間が迫る中で、解説の舞の海氏は、「そうですねー。外国人力士はここ一番となると、何としてでも勝とうとしますからねー。いまの横綱ではスタミナ切れで胸を合わせては勝ち目がないですからねー。…」と立会いの変化を予想した。
これに対して、正面解説の北の富士氏は、「いや、ここまでくれば横綱もここ一番受けてたってみせるのではないか…」と語った。

結果は、北の富士氏の言ったとおりだった。

まさに四つに組んでの大相撲。白鵬が堂々と寄り倒した。文句なしの全勝優勝。今日も土俵に座布団の雨がふった。懸賞は48本。
私は、年甲斐も無くTVの前で二回も、独りで拍手して満足した。

 表彰式。国家「君が代」の斉唱。白鵬の口元が大写しされ、歌っていることがよくわかる。日本国民でありながら、公立学校の卒業式で、何人の教師が歌わなかったとか起立しなかったとかで、大騒ぎするというのに、ここではそんな馬鹿騒ぎはない。

 しかし、先日の朝日の「声」欄では、外国人力士が増えたのに従い、外国人力士が優勝した場合、その国の国家を斉唱すればとの投稿が出ていた。

 私は、これを読んで、「何を馬鹿なことを言うか」と思った。

 大相撲は、まさに我々日本の伝統文化である。そこに向こう(外国)から、自分もやってみたいと髷を結うことを承知して、我々の文化に溶け込もうというのはいい。だが、大相撲は現在のところ、国際競技ではない。

 大相撲は単なるスポーツ競技ではなく、わが国の五穀豊穣と平安を祈願しての祭祀行事の延長であると承知している。千秋楽での国家斉唱は、オリンピックでの勝者を称えての讃歌ではなく、あくまでも無事15日間の相撲興業であり祭祀行事が終了したことへの神への感謝とわが国の弥栄(イヤサカ)を寿いでの讃歌ではないのか。
 
 表彰式では、モンゴル国総理大臣表彰もあった。今、モンゴルでは相撲の実況放送が始まると、官庁だろうとどこだろうと仕事の手をやすめてTVに見入るのだという。
 自国出身の二人が、モンゴルから見れば遥かな先進国日本の檜舞台で大活躍するのを見て、どれほど民族的な誇りと自信を感じることだろうか。
 そして、そんな二人に大声援を送る日本人観客と日本国家の大らかさについて、改めて思いを新しくしてくれるのではないだろうか。

 それは、イチローや松坂が、米国で大活躍し、観客がスタンディングオペレーションで称えるのを見るときの我々が感じる喜びとおなじではないだろうか。

 こうした体験を通して、我々は知らず知らずのうちに真の国際人になっていくのではないだろうか。そのことを通して、我々は、それぞれの文化の伝統とアイデンンティティとを尊重しつつ、その上で政治的な利害については冷静に一つ座に連なっての話し合いができる関係ができていくのではないだろうか。

  このところ、嫌なおぞましい話や事件が続く中で、久々の新横綱の誕生。それもこれから生命みなぎる夏に向かっての時期、何かこの国の幸先よき予兆に思えるのだが。

 それにしても、先日の細木何とか占い小母さんの予言は、当たるも八卦当たらぬも八卦、千代大海は、優勝どころか、10勝5敗に終わった。厚顔大臣の幅を利かす政府やお役人様のなさることと同じようではないか。

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。

 

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光市、「母子殺害事件」高裁差し戻し審―被告弁護団の許し難い詭弁!―

2007-05-26 07:56:47 | 時事所感
 5月25日(金)終日雨。肌寒い一日。

  昨日、ニュースで、この裁判の第1回公判の様子が報じられた。被害者の夫である本村氏は、被告が少しも反省なんかしている様子には見えない。被告弁護団の弁語には呆れて失笑するほかなかったと語った。

 なるほど、本村氏のコメントの後で、被告弁護団の代表とかの安田(?)弁護士が語った。「本件はあくまでも傷害致死罪である。被告には最初から殺意はなくて、後ろから母親に甘えるように抱きついただけだ」と。(ニュースを聞いただけの記憶で書いているので、正確な言い回しは若干異なっているかもしれないが、私は、そのように聞いた。)

 聞いていて腹がたった。被害者を冒涜するのもいい加減にしろと言いたい。母親を強姦殺害しあまつさえ生まれたばかりの赤ちゃんまで冷酷無惨に殺しておいて、何が、「子どもが母親に甘えるように…」なんて、ぬけぬけといくら勝つためには詭弁を弄するのも仕事のうちとはいえ、よくもこんなことが言えたものである。

 まして、この被告、法廷で遺族に謝罪の言葉を述べたあとで、まさにその舌の根も乾かないうちに拘置所から友人に、「男が女を求めるのは自然の理だとか、俺を裁けるものはこの世に誰もいないだとか…」書き送ったという。
 TVの画面でその書面の一部が写されていた。

 まさに、本村氏が「安田弁護士は死刑廃止論者として、この事件を自分たちの主張のプロパガンダに利用しようとの意図しか見られない。それは加害者はもとより、被害者とその遺族をもいっしょに利用しようとするほかの何ものでもない」と、コメントしていたように、まさにそのとおりであろう。
 
その二三日、前に、神戸の小学生殺害犯の更生の記事が出ていた。こちらは、少年院での関係者の特別メニューによる指導で、加害少年は表面的には、生まれ変わったように贖罪の日々を過ごしていると報じられていた。
 しかし、果たして、これからの長い人生でそれがどこまで貫きとおせるのだろうかと、思わずにはいられない。

 まして、この光市事件の犯人は、犯行当時すでに成人同様ではないか。そんな固まった人間が、果たして死刑を免れたところで、どんな意味があるというのだろうか。
 このような犯罪者にこそ、その死刑執行の瞬間に自分のしたことの真の意味を悟るのではなかろうか。

 人間は、自分も同じ目にあわないと、その怖さ、苦痛を感じることができない生き物でしかないのではないか。
 そういう存在である人間に対して死刑廃止なんてきれいごとが、どんな意味をもつのだろうか。

 さらに言うならば、故意で殺人を犯したものをすら許すというのであれば、戦争で多くの人を殺すことの意味を死刑廃止論者は、いかに説明するのだろうか。
 
 人、一人を殺害しても死刑が科せられてこそ、戦争で人が殺されることの意味がより大きなものとして迫るのではないだろうか。
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大関・千代大海が爆発した!

2007-05-24 22:39:43 | 日常雑感
5月24日(木) 晴れ。初夏の陽気の一日。 庭先の水鉢に小さな睡蓮が一輪咲いた。林の中では郭公の澄んだ声を聞いた。

夕方、5時半過ぎTVの前に座った。琴欧州が白鵬に無様に引っくり返された。
このところの琴欧州、怪我する前の、あのまさに一気に天に駆け上がらんかとする雄姿は毛ほども無い。腰はふらつき顎は上がり気味、立てば勝ち急ぐことばかりしか、頭に無いようなケチな相撲ばかりだ。
 なまじ大関になんかに、なったばっかりに、8勝していればの楽ちんさに、すっかり味をしめて、故国ブルガリアを出てきた時の初心(ハングリー精神)をどこかえ見失ったようにしか思えない。 
 それに比べて、このところ相手に合わせて柔軟に取り組みを変える幅が出てきた白鵬の堂々とした落ち着きぶりはどうだ。

 そして本日結びの一番、朝青龍に千代大海。いつもとおりに、千代大海が申し訳程度二、三発短く突き出したところで、両まわしを取られて苦もなく寄り切られるのかと見ていたら、あにはからんやこれは驚いた。
 土俵の下に突き転がらされたのは、天下無敵の朝青龍の方だった。紫の座布団が土俵の周りに乱舞した。

 先日の5月7日のTBSズバリとかで細木数子という占い小母さんが今年5月、11月場所では優勝して、今年中か来年には横綱になると予言したとか…。

 確かに今日の一番を見れば、あながち見当違いともみえないようだ。解説の元横綱北富士勝昭氏が語った。「千代大海のファンには、謝らなければならない」と。
そう、北富士氏はいつも言っていた。「千代大海はろくに稽古もしない…」と。

 白鵬が今場所こそ優勝して、横綱になるのが濃厚となるなかで、国粋主義者のつもりではないが、やはり日本人の横綱が一人も居ないというのは寂しいかぎりではないか。

 是非、ここは一番奮起して、日本男児の心意気を満天下に示してもらいたいものである。

 それにしても、朝青龍のガラの悪さはどうだろうか。先日の安美錦に際どい一番で負けた腹いせに、下がる花道飛んできた座布団を足で蹴飛ばして、歩み去った。

 場所前には、他所の部屋へ押しかけて、豊の島に大怪我させる乱暴さ。勝ち名乗りを受けながら持ちきれないほどの懸賞金の束を、右手で鷲つかみ、「どんなもんだい俺様の強さは、今日もこんなにいただきだー」と、言わんばかりの捨て目流しの、いまいましさ。

 そんな小憎らしい横綱が、すってんごろごろ転がり落ちるとは!。
こんな愉快は、近頃なかったなー、と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。
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“さるさる日記―佐藤立志のマスコミ日記”の痛快さ!

2007-05-22 02:49:04 | 日常雑感
 5月21日(月)快晴。初夏の陽気の一日。

  夜、寝酒の連々、ネットサーフィン。お気に入りに登録の“さるさる日記―佐藤立志のマスコミ日記”をクリックする。
 
  私の冗漫なブログと違って、さすがこちらは物書きのプロ。短い文章に寸鉄なんとかをも穿つコメントの鋭さには、いつも感服、脱帽のほかない。

  今日も、三本の記事の大サービスだ。これが、痛快極まりなかった。

  一つ目。今を時めく宮崎県知事そのまんま東知事が、何故、県産品のセールスに力を入れるのか、まかり間違えば、贈収賄事件に発展しかねない疑惑を示唆している。
  今の時代、一時は時めくお偉方の、ある朝、目覚めてみれば突然の失墜の憂き目を見ることの早さよ!の思いである。さて、今後どんな展開となるのか、目が離せないところではある。

  二つ目。昨年、12月場所での白鳳の優勝に纏わる八百長疑惑の動かぬ証拠、愛人が録音していた録音テープの起爆力。朝青龍、琴欧州などへ各200万円を渡して勝負を買ったと言う宮城野親方。愛人へ身も心も許した末のチョイと漏らしたとかの一言が録音されて動かぬ証拠とか。
  怖い話ではないか。そして分かった。そんな話にうかうか乗って勝負を投げるような根性の琴欧州の相撲のケチさ加減だ。ここのところの飛んだり跳ねたりみっともないことおびただしい。期待していたのにがっかりだ。こんな相撲とっているのなら、とっととブルガリアへでも何処へでも帰ってしまえと言いたくなるではないか。

  三つめ、愛知県警本部長の頓馬さ、無責任加減が弾劾されている。記者会見にも出てこない無責任さ。こんな程度の男が市民の治安維持の要を握っているとは、本当に嘆かわしいことではないだろうか。
  ピストル1丁の自分の妻を人質にしているような輩に、大切な前途有為な自分の部下を二人も銃殺されたり、重症負わされたたりしているにも拘わらず、まるで犯人に捕まっていただくことを懇願するような説得口調の対応。聞いていて呆れてものも言えないではないか。
  24歳だかの、妻子ある優秀な警察官を意味もなく撃ち殺した犯人を、これから何年国民の税金で結構な刑務所暮らしをさせようというのだろうか。
  
 この国の物事に対する分別のなさ、けじめのなさも極まれりではないか。

 と、思うのも寝酒が効いての山家の隠居の戯言と、皆様、定めし思しめさるでしょうか。



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17歳少年、母親殺害?、首持ち歩き事件に思う。

2007-05-17 14:14:55 | 日常雑感
 5月17日(木)雨。肌寒し。
 
 先日来、報道されている17歳少年による母親殺害容疑事件。単なる殺害容疑だけでなく首を切り離したとして持ち歩き、警察に自首するという異常さ。何ともおぞましく、私には理解不能である。

 東京の多摩での少女誘拐連続殺人事件とか、神戸でのサカキバラ事件とかは、肉親ではなかった。
 だが、最近の歯科医の息子の妹殺人バラバラ事件とかにみるように、肉親でありながら、殺害して切り刻むとは、どういう神経なのだろうか。
 その行為に没頭している加害者の姿を想像すると、まさに身の毛のよだつ思いがする。
 しかも、いずれの事件でも、加害者(容疑者)は貧しい環境に育った者たちではないようだ。
 特に、今回の事件の被害者の母親は保育士だという。それも年齢から察するにヴェテランのようである。
 だとすれば、我が子の育て方にも普通以上の心配りであったことと思われる。
 そうしたなかにあっても、このような行為をしたのでは、とされる子になってしまったというのは、一体、どう考えればいいのだろうか。

 一番安易な解釈は、本人が持って生まれた特異な資質のためとすることだろう。
 しかし、こんな事件、少なくとも新聞報道というものが始まって以来、どれほど起きているのだろうか。
 過去には聞いたことも無いように思う。

 だとするならば、このような人間が次々のように生じるということは、やはり近年の日本社会のどのような多様な要因の相乗の結果なのだろうか。

 こうした犯行に対しては、少年法の厳罰化を言ってみたところで、何の処方にもならない気がするだけである。

 被害者の身になってみるとき、その場、その時の「何故!どうして?」という戸惑いと言い知れぬ恐怖はいかばかりであっただろうか。

 今は唯、人間という生きものの不可思議さと、恐ろしさに改めて考え込むほかないのだろうか。

 今日の国会での”衆議院教育再生特別委員会質疑”でも、この事件が話題にのぼったが、果たしてそれがいつの日にどのような効果を、あげられることとなるのであろうか。
 
母親の右腕も切断 部屋の植木鉢に 容疑の高3(朝日新聞) - goo ニュース
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“藤沢周平ドラマ 清左衛門残日録(2)「白い顔」残日録(2)白い顔”を視るー好もしい老年の佇まい!ー

2007-05-16 01:23:54 | 日常雑感
 5月15日(火)晴れ。暖。

 夕食後、何気なくチャンネルをBS2に替えたら、仲代達也のなんともいえない好い顔と落ち着いた声が聞えてきた。番組表で確認したら藤沢周平ドラマ 清左衛門残日録(2)「白い顔」とあった。   

 話の筋は、こうである。

 隠居で閑暇を楽しんでいる 清左衛門のところへ、若い頃からの友人で今は町奉行をしている佐伯熊太が尋ねてくる。そして言う。「元上役の娘が嫁いだ先の夫が酒乱で耐えかねて離縁して実家に戻ってきているが、未だに元の夫が酔ってはやってきて復縁を迫る。娘は恐れて家に引きこもったままでいる。
 父親は、母親である妻を早く亡くして独りで育ててきたそんな娘が不憫でしょうがない。誰か好い相手がいないかと捜している。清左衛門に心当たりはないか」と問う。

 清左衛門は、自分が通っている道場で一緒になる、平松を思い浮かべる。平松も病気の妻を亡くし今は独りなのだ。剣の腕がたって人柄も申し分ない。

 清左衛門は早速、熊太と時々呑みにいく小料理屋涌井へ平松を呼び出し、「どうか」と意向をただす。
 平松は宜しくと同意する。清左衛門が娘の父に会い、その旨を告げると、大いに喜ぶ。
 ところが、佐伯がやってきて、突然娘の方から破談にしてくれとのこと。聞けば、元の夫が暴れこんできてそれに恐れをなし、娘は男というもがつくづく恐くなり、一生このままでいたいとのこと。

 そんなある日、どうしたものかと思案しつつ散歩している清左衛門に、酒乱の元夫が待ち伏せして切りかかる。清左衛門は間一髪、日頃の道場での鍛錬が功を奏して、男を取り押さえ二度とこんなことはするな、と叱りつけて追い返す。

 そして、再度、娘を説得しに娘の家を訪ねる。二人だけで対座した清左衛門は、娘に静かに語りかける。「なぜ、私が、この話に熱心になるか。それは先日、あなたと道ですれ違ったとき、遥か昔若い日に逢った、貴女の母上とのことがあるからだ。
 私は、ある日、藩の命で近くの港町に出張し、たまたまその帰り道、嫁入り前の貴女の母上を同道して戻ってくることになった。その途中、雷雨に逢い、とあるお堂で雨宿りすることとなった。
 雷鳴がするたびに貴女の母上は私に身を寄せられた。私は若くて息がつまるようなおののきを覚えた。だがそれだけであった。城下の入り口の橋の袂で、お互いにこのことは誰にも口にすまいと誓って別れた。
 それから二人は再び逢うことも無く、別々の人生を歩んできたのだと。そのことを思い出して、貴女の不幸を亡くなった母上が悲しんでおられると思うと、だまっていられなくなったのだ」と。娘は翻意し、結婚を承諾する。

 二人の婚儀も終わった春先の縁側で盆栽に鋏を入れる清左衛門、嫁の里江がお茶を入れにくる。
 その里江に向かい清左衛門が静かにつぶやく。「歳をとると今まで見落としていたり忘れていた小さなことを思い出すものだ…」と。
 「それはお歳のせいではありません。人が生きていくということは、そのような小さなことを大切にしていくことではないでしょうか」と。それを聞いた清左衛門は莞爾として微笑む。45分のドラマは終わった。

  一場面一場面が落ち着いているなかに、登場人物の間の会話が一言一言が味わい深く好いドラマだった。
  仲代達也の憂いを帯びた眼(瞳)の表情が何とも言えず好い。こんな眼(瞳)だけで、こんなに豊な演技ができる俳優がまたといるだろうか。人間としての温かみが滲みでてくるのだ。
  また、合役の佐伯熊太を演じる財津一郎もその武ばった中にもひょうきんさを漂わせた演技が好い。
  そして里江を演じる南果歩が、何とも言えず可愛らしい。舅であるにも拘らず実の父に対する以上にあれこれと、妻を亡くしている清左衛門に優しく厳しく自分の感じたことは率直に口答えもするところが、好いのだ。
  さらに、涌井のおかみ役の、かたせ梨乃のしっとりとした過去に分けありげないろっぽさというのだろうか。

  とにかく、このドラマ、今から思うとそれぞれの俳優が一番旬の時だったのが、その良さを相乗効果となって発揮されているのではないだろうか。
  私は、もうどのくらい前になるのだろうか、このドラマが初めて放送されたとき、毎週欠かさず見た覚えがある。
  そのとき以来、いつかまた見たいという思いが離れなかった。

  そして、このドラマで初めて、藤沢周平という作家の素晴らしさを知ったのではなかったか。
  清左衛門の縁側でお茶を飲む姿一つ見ても、己の人生を力一杯歩みきった男の満足感と一種の犯しがたい重みが漂っているのだ。
  果たして、これは仲代の名演技のせいなのか、それとも原作者藤沢周平のこうありたいという老年の姿への願いが、仲代をしてそのように演じさせたのであろうか。

  いつか、仲代が奈良岡智子との二人芝居に挑戦している日常をドキュメントで追った番組を視たが、そこで、自宅食堂で独りお茶を飲むところが、写った。
 が、それほど特別な感銘をおぼえるほどではなかった。むしろ、薄暗く殺風景な食堂テーブルで、黒い大きな湯呑でお茶を啜る姿には、失礼ながら孤独な寂しさをみたようで意外な印象を受けた覚えがある。

  とにかく、このドラマを視て強く感じたのは、今の私たちの年齢でこのような姿でお茶を啜れる男がどれほどいることだろうか、ということであった。
  不幸なことに立派な人物に縁の薄い私などは、一人も逢ったことが無いような気がしている。

  それは、このドラマの中での終わりで、清左衛門と嫁の里絵が交わす『「歳をとると今まで見落としていたり忘れていた小さなことを思い出すものだ…」と。「それはお歳のせいではありません。人が生きていくということは、そのような小さなことを大切にしていくことではないでしょうか」』という、真に人生を慈しみ楽しむことを、私たちの多くが忘れてしまっているからではないだろうか。

  さて、このドラマのエンディングでの仲代のナレーション、「日残りて、暮るるに未だ早し…」。
  私も、この思いだけは同じだが、改めて今一度小さな喜びを見つけて、我が残りの日々を味わっていきたいもの…。
  と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。
  
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“国民投票法案参院通過!”―日本丸の梶が大きくきられた!。果たしてどこへ向かうのか?―

2007-05-15 00:37:38 | 時事所感
 5月14日(月)晴れ。暖。

  夜のニュースで、“国民投票法案参院通過!”と報じられた。安倍総理大臣以下各党の党首・代表がいつもどおりのコメントを発した。
  これで三年後には、いよいよ憲法改正が現実のものとなった。自民党は、結局、改めて新憲法を自分たちの手で作り上げて、これからの世代の日本人を、自分たちがこれこそが日本人と考える鋳型にはめ込んで安心したいらしい。

  どんな代物が飛び出してくるのやら。先般の、離婚後300日以内の父親の親権についてすら時代遅れのこだわりをみせる先生方だ。
  国民の義務として、この美しい国を、命を捨てて守ること、なんてことが金科玉条として鎮座ましますのではないだろうか。

  最初は淑女のごとく、あとは脱兎のごとくとか。
  60年間、おとなしくさせられて何を言われても黙っていなければならなかった、積年のうらみつらみをこのときとばかり、文句が在ったらいつでも相手になるぞと、勇ましい条文が槍ふすまときらめくのではなかろうか。
  何でも極端から極端へはしらないとおさまりのつかない我々である。

  そして、もう一つこれに合わせて飛び出してきたのが成人年齢をどうするか。国民投票権に合わせて18歳とするのか。或いは、関係法令が100もあるとかで、それぞれによって違えるとか、これから委員会を立ち上げて急遽検討にはいるとのことだ。

  こちらは、18歳でいいではないか。高校出て職場に入ったら、歓送迎会に始まって飲酒なんかあたりまえではないだろうか。
  お相撲さんだって、あれだけ土俵で力一杯の汗をかいたあとで、成人前だからといって、お前はウーロン茶で我慢しろなんてことでは、とてもおさまっていないように思うのだが。

  働いて、税金払えば社会の立派な一員でいいではないか。凶悪犯が20歳に何日か足らないだけで少年法が適用されて、物議を醸す愚も無くなると言うことだ。私は、これには大賛成である。

  おまけに、深謀遠慮の与党の議員先生には、いざ戦争となった暁には、それだけ若手の動員数が増える計算もあるのではなかろうか。

 後になってこの2007年5月14日という日がどのような思いで、これからの国民に振り返られることとなるのだろうか。
 それは、今、誰にも分からないのだ。

 私たちの親たちが、満州でなんか変なことが始まったらしいぞと、ひそひそ噂しあっているうちに、小火(ボヤ)のつもりがいつか中国大陸はおろか、神州不可侵のはずの足元まで、焦土と化したのにどれだけの時間がかかったというのだろうか。

 「まあ、まあ、そんな馬鹿なことになんかなりわすまい」、それが賢明なる(?)この国の為政者に、何べん騙されても懲りない我々の恒(ツネ)というべきではないのだろうか。

と。思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか。
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「子育て指南」を巡る喧々諤々!?、これ如何に…

2007-05-13 08:17:40 | 時事所感
5月12日(土) 晴れ。日中、暑し。

  先日、8日(火)付け朝日紙面(11面)の片隅に“ウオッチ”なる小さな囲み記事が目に付いた。『時計の針戻す委員主張』とあった。
  これは何だろうと思って目をとおしたら、こんなことだった。

『「ワークライフバランス(仕事と生活の調和)というスローガンは問題」「(男は仕事、女は家庭という)性別役割分担は合理的」。「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議の分科会で、一部委員がこんな発言をしている。…冒頭の発言をした長谷川三千子埼玉大教授は著書で、母親以外が主に育児する文化は一部の狩猟民族を除いてまれだとし、女性の労働力活用が少子化を深刻化させた「元凶」とまで書いている。多様な意見を否定するつもりはない。だが時計の針を戻すような主張には違和感を覚える。…(高子福子)』と。

そして、今朝(12日付け)の天声人語では、『「橋のない川」を著した住井すえさんは、「子育て」という言葉を嫌った。子どもの管理に通じる意識を、そこに見たからである。▼「子どもこそいい迷惑。彼等にとって、親という名の権力の下請け人によって管理される毎日なんて、たのしかろうはずがない」と20年前の随筆に書いている。もうなくなったけれど、政府の教育再生会議が準備してきた「子育て指南」の緊急提言を知ったら、何を思っただろう▼「子守歌を歌い、おっぱいを与える。」「食事中はテレビをつけない」「早寝、早起き、朝ご飯を習慣付ける」「うそをつかないなどの徳目を教える」…。驚くような中身ではないが、国の提言となれば話は違う。それはたちまち価値観を押し付け、下請け人たることを親に求める言葉になってしまう▼…▼…「世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子どもは立派に教育される」(エミール)、ルソー著(フランス啓蒙思想家)ー岩波文庫▼分別ある父母を望むのは、教育現場をはじめ、多くに共通した願いだ。そうした願いを、薄っぺらな説教の羅列で果たせると考えているなら、再生会議は能天気にすぎるだろう。』と、あった。

この二つの記事を一読して思うことは、じゃあー「朝日の記者さん方にお聞きしますが、どうすればいいのですか?」と言うことである。

この1年間、朝日新聞が折りにふれて、給食費の未納問題をやいやい取り上げてみても、格別未納が減ったとも聞いたような覚えはない。払える資力がありながら、あれこれ勝手な理由を付けて払わない親が改心したとも聞かない。

政府が、どんな委員会を作って、朝日の記者さん方が、「これはよくできている」と膝をたたいたものが出来上がったところで、実際にその有り難いご託宣を拳拳服膺してもらいたい、できそこないの分別のない親にとっては、所詮、馬耳東風の画餅ではないだろうか。

所詮、こんな親は刑務所にでも入れて、みっちり言って聞かせるかしなければ、まともに子育てなんて考えてもみはしないのではなかろうか。

 そして、前段の囲み記事の高橋記者は、長谷川三千子先生の主張を、どうして時計の針を戻すことになるなどと、それこそ高いところから見下ろすような決め付けができるのだろうか。
私には、長谷川先生のおっしゃることは、至極自然の理にかなったことのように思えるのだが…。むしろ、今の世の中の諸々の事情が、そんな自然界の摂理として当然な営みをすら許さなくなっているところに、この問題の深い根があるのではないだろうか。

 人間も万物の生物の一つの種である以外の何物でもないはずである。全ての生命体において、種を残す以外に他に何ほどの生存目的があろうか。己が種を残すことこそが全ての生命体にとっての唯一絶対のもではないか。

  反対に、人生なんて、人間だけが、己が生を何か特別のようなものに意味づけ、己が種を残す以外に何か崇高な使命があるかのように、仕事だ、学問だ、芸術だとのたまうが、生命体の本然のあり方からすれば、本当のところそんなものにどれほど価値があるというのだろうか。
 
 その結果、今や人間を創造した神をすら、その正体を暴かんとする一方で、他の生命体を自己の増殖で根絶やしにしかねない勢いである。そして今や我々自身の生存をもである。
 
 今の人間の生き方は、まさに生命体の次元に還元してこれを見れば、本末転倒もいいところなのではないだろうか。

 仕事だとか、学問だとかそんなものは、本来ならば、子育てが終われば、生命体にとっては、その生存自体が地球資源の無駄でしかない筈でしかないのに、必要以上に持ちが良くなった人間という種だけに、仕方なく許されている暇つぶしでしかないのではないか。

 我々は、この冷厳なる生命体として真理をどれほど、自覚しているだろうか。そして、今、かく言う私自身もその一分子ながら、何かといえば少子化対策と競うが如き高齢者対策の声の大きいことはどうだろうか。
 一昔前には哀しくも姥捨て伝説に涙してきたというのにである。

 幕末、初めて来日した西欧人が、先ず驚いたのは、日本の子供たちがおおらかにそこらじゅうで元気いっぱい跳ね回っていることだったいう。そして、男親も母親もいつも子どもを大事そうに抱いている姿にだった、という。
しかし、そんな子どもが7、8歳になるや、今度は一人前に厳しく大人同様働く姿だったという。

 今の世の中だって、多くの人は、子どもが小さなうちは、女親、男親を問わず一緒に戯れ睦みあっていたいだろう。
 だが、今、男親自身の一つの口さえ安心して食べていくことができにくい仕組みの中で、どうやってそんな夢のような、生命体本来の暮らしができるというのだろうか。

 政治とは、聞く耳すら持たない輩に、お題目を並べてみせて自己満足するのではなく、人間が人間らしく、生命体が生命体らしく生きていける仕組みを取り戻すことが、肝心要の国民から託された選良閣下としての崇高なるご使命なのではないのだろうか。

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。

―追記―

 なお、天声人語の引用について言えば、「子育て」という言葉に、子どもの管理、権力の下請けなんて、一面的で大げさな意味づけを、何故しなければならないのだろうか。他にどんな言葉をつかえとおっしゃるのだろうか。
 住井すえ先生がどのような文脈の中で、そのようなことを言及されたのか、直にあたってみたいものだ。

 また、ルソー氏は、その著書では、他人には立派なことを説いておきながら、ご自身の子育ては、無責任、無茶苦茶だったとも昔読んだような気がする。

 どんなご立派な業績を残されたお方でも、おっしゃることとご自身のなさることはなかなか一致しないところも、人間という種の妙というべきか。


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