「かわいそうな本」展

 今日の神奈川新聞の読書欄に、北海道恵庭市立図書館で、1月に「かわいそうな本」展が開かれたとの記事。かわいそうな内容の本を集めた展示ではない。いじめられ、傷つき、除籍にせざるを得なくなった「本」が展示されたのである。

 

カッターナイフで切り抜かれたアイドル(が掲載された)雑誌やファッション誌、落書きのある絵本、水に濡れてカビが生えた文庫本など10冊ほどの「かわいそうな本」が展示され、彼らが無言のうちに利用者のマナー向上を訴えたとのこと。

 

それだって許されることではないけれど、しおり代わりに思わずページを折ってしまったとか、ノートに書き写す代わりに線を引いてしまったとか、そんな程度ではなくいじめられ、傷付けられた本たちの悲しい声が聞こえて来る、何とも切ない記事であった。

 

 

例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、恩田の森上空を飛ぶモーター・パラグライダー(パラモーターとも云うらしい)。昨日、森を歩いていたら聞きなれないエンジン音が。セスナでもないし草刈り機でもない。上を見上げるとなんとモーター・パラグライダー。気持ちよさそうではあったけれど、こんな市街地上空を飛んで良いのだろうか。大体がだ、整備不良らしく、時々エンジンが咳込んでいたぞ。

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「土門拳の格闘」読了

 昨年末から読み始めた「土門拳の格闘」(岡井耀毅著成甲書房 2005 413 ページ)をようやく読み終えた。私の中にある、「筑豊のこどもたち」と「古寺巡礼」とギャップを埋める手掛かりのようなものは、著者の岡井耀毅氏が丹念に集めた事実の中から多少は得られたような気がするけれど、知識としては理解できても、真の理解に至るためにはまだしばらく時間がかかりそうだなぁ。

 

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新明解国語辞典第七版を買う

今どき、紙に印刷された辞書を買うなんてと思われる方も少なくないと思うけれど、郷秋<Gauche>は発売になったばかりの新明解国語辞典(以下、新明解)第七版(三省堂)を買ってみた。郷秋<Gauche>は辞書が好きなのだ。辞書は必要な事だけを調べればそれで終わりではなく、実は読み物としてもなかなか面白いから。特に新明解は面白いのだ。

 

郷秋<Gauche>がこれまで愛用していた新明解は1989年発行の第四版であるが、その後1997年に第五版、2005年に第六版そして今回の第七版と、新明解は7-8年毎に改版している。広辞苑も第二版以降は新明解と同様のペースで改版していたが、最新の第六版出版には10年をかけている。取り分けIT関係の新語が多い事、日本語が手で書かれるよりもキーボードとディスプレイで書かれることが多くなったこと、これらの事により日本語の変化のテンポが速くなったこと、紙に印刷された辞書の存在意義が薄れてきたことなどにより発刊に時間がかかったものと思われる。日本語の変化のテンポが速くなったのならが、辞書改版のテンポも速くしなければならないはずなのに、逆に時間がかかってしまう辺りに、紙による出版の限界が見え隠れして面白くはある。

 

さて、今回買った新明解第七版で「ツイッター」を引いてみると、ちゃんと出ている。2011年の日本語として多くの人に使われながら、けれども多くの人にその意味を正しく理解されていない可能性のある言葉だから、第七版に収録されたのだろう。ついでに「フェイスブック」を引いてみたが、残念ながらと云うべきか、フェイスブックは出て来ない。日本ではツイッターにやや遅れて普及が始まったフェイスブック故に収録に間に合わなかったものと思われるが、第八版が出るまでの7-8年、新明解に「フェイスブック」が無いのはイタイかも知れないな。

 

 

今日の一枚は、新旧(第四版と七版)新明解。白い方が七版だが、これは箱と表紙が白い「特装版」。白いだけで中身や価格は通常版とまったく同じ。レンズの特性により白い七版が大きく見えているが、見た目ほどではないけれど実際に七版は僅かに大きくなっている。

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日本で電子書籍が普及しない理由

 アメリカでは随分と一般的になっているらしい電子書籍だが、日本ではなかなか普及しないのだと報じられている。その論調には「電子書籍が普及するのが良い」と云うニュアンスが多分に含まれているような気がして、郷秋<Gauche>としては大いに不満なのだが、それはさて置き、ソニーが12月10日に「リーダー」発売することにより「電子書籍“後進国”(の汚名を)返上?」するのではないかと云う記事が今週の「日経ビジネス」に掲載されていた。

 その記事の中に、郷秋<Gauche>がこれまで気づかなかった切り口の情報があった。日米の(紙に印刷された)書籍を巡る状況だが、まず、人口比で見た書店の数が違うのだと云う。「日経ビジネス」によれば書店1店舗当たりの人口はアメリカの27,000人に対して日本は8,000人なのだとそうだ(ただし、日本でも村内に書店が一軒もないことから村営の書店を作った村もあることは知っておく必要があるだろう)。

 さらに書籍の価格もハードカバーが2千数百円に対して千数百円と、日本ではアメリカの半額に近いし、数百円で買える文庫本や新書も豊富に揃う等、書店と書籍とが身近にあり、かつ低価格であることなどが電子書籍普及の「阻害要因」としてあげられている。確かに日本人にとっての書籍は身近で手軽ものようではある(注:「数百円で買える文庫本や新書」との指摘は筆者の我田引水に過ぎる。もはや文庫も新書も、千円札を出しても返されるつり銭は僅かである)。

 これまで著作権の問題や複雑な流通経路の問題ばかりが「阻害要因」として論じられていたが、本を廉価で手軽に買うことができる環境がアメリカに比して整っているのだとすれば、電子書籍がなくても困らないわけだから普及速度が遅いのも頷ける。

 郷秋<Gauche>はもちろん紙に印刷された本が好きである。「本」は情報ではなく「物」である。物には重みや臭いや感触があり、そこに込められた作り手の想いがある。だから、大切にした小説は作者のものだけではない、その本に込められた編集者や装丁作家の想いもまた感じながら、その感触を楽しみながら読みたい。一方、情報だけを得られればそれで良い本もまた存在する。こういった本の場合には検索も自由にでき保管場所の必要がない電子書籍が便利だろう。

 郷秋<Gauche>の好みや想いは再びさて置き、ソニーの「リーダー」が日本にも「新しい本」の時代をもたらすのか、更に長い時間を必要とするのか、しばらくの間、目を離せない本の世界である。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、土曜日に訪れた湯布院での一コマ。
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村上春樹氏、落選

 今年のノーベル賞各賞が発表されつつある。鈴木章、根岸英一両氏の化学賞受賞が決まった。ここ数年来文学賞の候補に挙がっていると云われている村上春樹氏の事が気になっていたファンも多かったことと思うが、今年の文学賞はペルーの作家、マリオ・バルガス・リョサ氏が受賞することとなった。つまり、村上春樹氏は落選である。

 かつて井上靖氏が、毎年この時期になると受賞を知らせる電話を待っていたと聞いたことがある。そして仲間と一緒に、残念、残念と、きっと「選考委員の連中は文学の何たるかを知らんのだよ」などと云いながら悔し紛れの酒をあおっていたのだろうと郷秋<Gauche>は思う。

 さて、村上氏。郷秋<Gauche>に云わせれば氏の作品は、実に大変非常に手の込んだ(創り込んだ)飛び切り上等な娯楽小説だと思っている。つまり、郷秋<Gauche>的には彼の作品は純文学じゃないんだな。それじゃ、娯楽小説と純文学作品の定義は何かと聞かれると困るのだが、郷秋<Gauche>的には村上氏の作品は純文学作品には分類されていないということだ。

 過去に日本人でノーベル文学賞の候補になったと云われている作家には谷崎潤一郎、井上靖、三島由紀夫、安部公房、遠藤周作などがいるが、実際に受賞したのは川端康成と大江健三郎の二人のみである。先に挙げた5氏がいずれも受賞できないまま没したことを考えた時、果たして村上氏に受賞のチャンスが巡って来るかどうか、郷秋<Gauche>は大いに疑問である。

 つまりだ、村上作品が全世界的に売れているからと云って、だからノーベル文学賞はないだろうと云うことである。彼の作品に人が人たり得る根本的な問題に対する問いかけ、回答もしくは一定以上のヒントを提示した作品があるのか、云ってしまえば、谷崎、三島、遠藤と云った作家が到達し得た、人間性の根幹を問う、純文学作品としての高みに至った作品があるのかと云うことである。

村上氏の諸作品が、あるカテゴリの中でその高みに達したことを郷秋<Gauche>は大いに認めるが、果たしてそれがノーベル文学賞選考の時に語られるべきカテゴリなのかどうか。村上氏の才能はノーベル文学賞とは違った次元で語られ、かつ賞されるべきであろうと郷秋<Gauche>は思うぞ。

注:ノーベル賞は最終的な受賞者だけが発表され、候補となった方の氏名などは50年間公開されないこととなっているようである。従って村上氏はもちろんの事、先に挙げた谷崎潤一郎以下5人の作家も、あくまでも候補であったことが推定される、と云う話である。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、恩田の森、白山谷戸の稲刈り。一昨日ご覧いただいた写真とほとんど同じ立ち位置での撮影ですが、レンズの画角と絞りを変えることで全く違った絵を創ることができます。これが写真の醍醐味ですね。
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マルガリータ

 久しぶりにじっくり腰を据えて読むに相応しい本に出会った。

 1582(天正10)年に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信によってローマへ派遣された天正遣欧少年使節の四人の少年の内、帰国後に唯一棄教した千々石ミゲル(棄教後は千々石清左衛門)のその後を、妻となった「珠」を通して語らせた小説である。キリシタンとして殉教した他の三人とは異なり、千々石ミゲルの棄教後の史料が少ないことから、著者の自由な創造により長編小説となったものである。

 厳しいキリシタン弾圧の史実を紐解きながら書かれた長編ではあろうが、最も肝心なミゲルの棄教の経緯が十分に描ききれていないのが残念である。またキリシタン弾圧の歴史について予備知識のない読者にとってはやや説明不足な点があるなど、物語の組み立てや描写の甘さが散見される。とは云え、遠藤周作の独擅場であったキリシタン物に取り組みながら、清左衛門の妻、珠を通して語らせる物語は大方成功したものと思われる。

『マルガリータ』
村木 嵐(むらき らん)
文藝春秋社
ISBN 978-4-16-329510-7
発行年月日 2010年6月25日
四六判上製カバー装/304頁
1,500円(税別)
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本には表情がある

 新潮社から、毎月『波』が届く。パラパラとめくり目に付いた記事を拾い読みする。ひと月かけて結局は全部読んでしまうこともあるし、ホンの数ページしか読まないこともある。

そんな『波』7月号に気になる記事があった。『波』は勿論、新潮社の新刊本のPRを目的と した月刊誌である。売りたい本のPR記事が掲載される。とは云っても、いつもいつも郷秋<Gauche>の食指を動かす本の紹介記事が掲載されているわけではない。と云うより、偏屈な郷秋<Gauche>の興味をそそる本は、少ない。

 そんなかなで目に留まったのが今日のタイトルにもした「本には表情がある」と云うわずか1頁の記事である。編集者である柴田光滋氏が自著『編集者の仕事 本の魂は細部に宿る』についた書いた小文であるが、特に郷秋<Gauche>の気を惹いた箇所を以下に引用する。

「本とはモノなのである。モノである以上、機能に優れ、美しくなければならない」
 本だけではない、「モノ」全てについて云い切った、簡潔にして名言である。

「私は明るそうな未来より、確かなる過去を大事にしたい。温故知新と呼べるほどではないにしても、あえて古きに徹したいのである。」(下線は筆者)
 「明るそうに」見えてはいるが、未来が確かに明るく良きものであるのかどうかはわからない。確実なのは実績ある過去のみである。然り。

 しかし、柴田氏もiPadの存在については、「今年は電子書籍元年などと言われ、iPadの登場は華々しく報じられている。ここでその議論に立ち入るつもりはないが、」と、無関心ではいられないのである。急ぎ書くだけのゆとりはないが、いずれ書かねばなるまいと云わんばかりではある。現状ではiPadの存在を認めたくない柴田氏は「一つだけ言っておきたい。モノとして本ではない電子書籍に表情というものがあるのだろうか。」と云う。然り。

 iPadの登場以来、書籍は常に「データ」として語られている。データならばその表現(再生 or 再現)方法の違いによって価値が変わることはないだろうと云うスタンス一辺倒で語られているが、この議論の立ち位置を「情報としての本」から「モノとしての本」に移せば、まったく違った展開になることは確かである。

 実物を読んでもいないのに書評めいたことを書いてしまった。さっそく明朝、注文して読んでみなければならないな。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、真夏の花、臭木(くさぎ)の花。気の毒な名前は葉を千切ると悪臭がすることからの命名だが、その花は凛として美しい。
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月に12冊以上本を読むオトーサンって

 今日の神奈川新聞に「子の読書量、親に比例」と云う記事が掲載されていた。しかしだ、この記事のタイトル、なんか変だぞ。だって、子の読書量が、親に比例って、親の何に比例しているのかが書かれていない。親の体重にか?親の歳にか?親の兄弟姉妹の数にか?親の職業にか?親の出身地にか? って、これは揚げ足取りか。

 親の読書量に比例して子ども(小学校2年生)の読書量が多くなると云う厚生労働省の調査結果を報じる記事である。月に1冊しか本を読まない母親の子どもで月に12冊以上本を読むのは13.3%だが、月に12冊以上の本を読む母親の子どもの場合、月に12冊以上の本を読む子どもの割合は55.7%である。同様に月に1冊しか本を読まない父親の子どもが月に12冊の本を読む割合は14.5%だが、月に12冊以上の本を読む父親の子どもで月に12冊以上の本を読む割合は41.8%であると云う調査結果である。

 この記事を読んで郷秋<Gauche>は思ったぞ。第一にこの調査をしたのがどうして文部科学省ではなく厚生労働省なんだと。まっ、それは置いておくとしても、月に12冊以上の本を読むオカーサン、オトーサンがこの日本にいったい何人いるのだと。

 第一、一冊の本と云ってもそのボリュームはまちまちだろう。郷秋<Gauche>の書棚にある本の中で一番ボリュームの少なそうな本を探したら、それは「星の王子さま」だった。これなら1時間で読めるから月に12冊も可能かも知れないが、逆にボリュームの多そうな本、例えば以前にこのblogでもご紹介したこともある「百年小説」(ポプラ社)は1330頁である。これを月に12回読める人は多くないだろう。そうそう、「長い本」の代表である新旧約合わせて2000頁の「聖書」を忘れていたぞ。このボリュームの本を月に12冊読む人がいるか?

 同様に「長い本」、郷秋<Gauche>も数年前に夏の読書計画として取り上げたはよいものの、恥ずかしながら第2巻に入ったところで頓挫してそれっきりの、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」は全7巻つまり7冊だが、これをひと月で読める人は少ないだろうと、郷秋<Gauche>は思うぞ。ことほどさように、一言に「一冊」と云ってもその差は大きい。

 同じ類の疑問としては、「本」の定義が定かではない。小学校2年生の子どもが読む本としては「児童書」や「絵本」と例示されているが親が読む本にはその定義がされていないのだ。雑誌ではないとしても、果たして単行の「漫画本」が含まれるのか、「ムック」(Mook。Magazine の mと book のookからの造語で雑誌の体裁をした本)が含まれるのか。何ページ以上の本を「1冊」と勘定するのか、その辺が明確になっていなければ判断のしようもない。郷秋<Gauche>がいつも書いている「数字のマジック」「統計のインチキ」の好例だな。まっ、面白い記事ではあるのだから、これを掲載するのであればその辺りをちゃんと書いて欲しいものだぞ、神奈川新聞。

 更に云えば、小学校2年生約39,000人に調査票を配布して35,000人から回答があったということは書かれているが、月に12冊以上の本を読むオカーサンとオトーサンが何人いたのか、地域による有意な差があったのか無かったのかについても書かれていない。ま、このあたりは神奈川新聞の問題というよりも厚労省のプレスリリースの問題なのかも知れないが、そこそもこんな調査なんかしなくても両親が多読であれば子どもも多読、暇があればゲームに興じる親の子どもはやはりゲーム三昧の毎日であることは想像に難くない。厚労省がこの調査にいったいいかほどの経費をかけたのかは知らないが、まったく無駄な調査であることは間違いないな。


 春に花を咲かせた「えご」が結実した。花に劣らず可愛らしい実だが、更に時が立つと表皮が茶色く縮れて割け、なかから褐色の「種」が顔を見せる。昔はこの種をお手玉や枕に入れたという。お手玉はともかく、枕にするにはかなりの量の種を集めなければならないことだろう。
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『1Q84』は比喩の見本帳もしくは『水戸黄門』

 村上春樹氏の『1Q84』BOOK1&2を読んだ時にすぐに書こうと思いながら書きそびれ、BOOK3が出た時に今度こそと思いながら書きあぐねていた「1Q84読後感想文」だが、大上段に構えるから書けないのだと気付いた。郷秋<Gauche>は職業評論家じゃないんだからと。いつもの好き勝手、云いたい放題、書きたい放題、指から出まかせである。

 表題を「『1Q84』は比喩の見本帳もしくは水戸黄門」としたが「比喩の見本帳」であるのは1Q84だけの特徴ではなく村上氏の作品全てがそうである。例えば語彙に乏しい郷秋<Gauche>が「彼女は軟らかそうな布地の淡いブルーのワンピースを着ていた」と書くところを、村上氏ならば「彼女はブルーのワンピースを身につけていた。その色は1月のイル・オ・セルフの海の色を写し取った画用紙を、インド洋を渡って来た風に18日程当て後のようにやや緑がかっていた。その色は私に遠い記憶を呼び覚まさせようとしたが、私は思い出すべき記憶が何であったのかさえ思い出す事が出来ずにただ彼女の姿を見続けていた」などと書かも知れないが、郷秋<Gauche>にはとてもその真似のカケラすらできないなぁ。もっともそれが出来たら郷秋<Gauche>も村上氏の次の次の次くらいには売れる作家になれるかも知れない。

 郷秋<Gauche>の下手な比喩を読んでも面白くもなんともないので実際に村上氏が書いたものを幾つか引用してみる。実は思いっきり奇を衒った比喩でありながらも、そんな云い回しは平安時代から使われている、面白くもないごく普通の云い方でもとても云うようにさらりと読ませる技はさすが村上氏である。例えばこんな具合である。

 「雲はパテでこしらえられたもののように、それぞれ不定形に堅くこわばっていた」(BOOK3 282頁)
 「ウィスキーでほどよく暖まった身体は、今では海の底の孤独な丸石のように堅く凍えていた」(同 284頁)
 「遥か北方の地にそれらの雲を無尽蔵に供給する源があるに違いない。頑なに心を決めた人々が、灰色の厚い制服に身を包んで、そこで朝から晩までただ黙々と雲を作り続けているのだ。蜂が蜜を作り(注)、蜘蛛が巣を作り、戦争が寡婦を作るように」(BOOK3 284頁)
 「受話器を耳に当てると風の吹く音が聞こえた。流れに身を屈めて透明な水を飲む、美しい鹿たちの毛を軽く逆立てながら、谷を拭き抜けていく気まぐれな一陣の風だ」(同BOOK 424頁)
 「その光は窓ガラス越しに部屋に射し込んで、二人の足もとに寡黙な日だまりを作りだしていた」(同 482頁)

 村上氏は、比喩の天才なのである。

注:蜂は蜜を「集める」のであって「作る」のではない。村上氏も時には間違うのだ。

 さて、表題の『水戸黄門』はと云えば、こう云うことである。
『1Q84』はどこまでも限りなく一点の疑いもなくこれまで通りの村上春樹作品であり、これまでの村上ファンを裏切ることをしない。つまり、例えば氏がこれまでの作品にはない新たな挑戦をしたのだと主張したとしても、幸か不幸かその試みは「村上春樹的世界」を脱してはいない。「村上春樹的世界」が拡張されたとは云えるかも知れないが。

 『1Q84』はまったく別のところで起きつつある二つの物語が同時進行的に交互に描かれる。まったく別の物語が絡み合いいつしか収斂する構成は1985年に出版された『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で既に村上氏は我が物としている。当然のこととして『1Q84』と『世界の終わり〜』には多くの共通点があるが、その最大はこれから向かう世界についてまったく語られないことであるが、あるいは村上氏自身にもわからないのではないとさえ思えるのである。

 これまでの村上作品に登場する「僕」が1Q84においては川奈天吾という「実名」であること、職業がこれまでの作品には登場した事のなかった予備校講師であること以外は、川奈天吾はこれまでの村上作品の「僕」そのものである。BOOK3に出てくる看護婦、安達クミは『ノルウェイの森』の出てくる小林緑である。出て行くべき「猫の町」は『世界の終わり〜』の一角獣の住む街そのものである。空気さなぎやリトル・ピープル、マザ、ドウタなどのスパイスや華麗で巧妙かつさり気ない「比喩」で飾り立てられ、一見複雑に見えるストーリーもこれまでの村上作品の枠の中にある。

 しかし、金太郎飴のようにどこを切っても同じと云う訳ではない。読者を楽しませてくれる趣向が随所にちりばめられ物語にも変化がある。しかしながら読後感(あるいは読み味)は既刊の村上作品のほとんどと同じなのである。一見毎回違ったストーリーではあっても勧善懲罰、最後お葵のご紋の印籠を差し出して「控えおろう」。それでも読者の期待を裏切らないと云う点では「水戸黄門」あるいは「男はつらいよ」に勝るとも劣らない、氏の佳作である。

 村上氏は毎年ノーベル文学賞の候補者にノミネートされているようだが(ノーベル財団からの公式発表ではない)、郷秋<Gauche>は氏の作品の商品性、エンターテイメント性の高さは大いに認めるところだが、同じようにノーベル文学賞にノミネートされながらついに受賞には至らなかった遠藤周作の作品における精神性・芸術性を村上氏の作品が上回っているのかと云う点においては、郷秋<Gauche>は大いに疑問を感じる。まっ、遠藤周作の作品においてはそのキリスト教理解(表現)がヨーロッパでは受け入れられにくい側面があった事が受賞の大きな障害になったのだろうけれど。

 最後になったが、村上春樹ファンに誤解されないよう書いておこう。

郷秋<Gauche>が書いた村上春樹に関する記事
1Q84
村上春樹氏、記者会見に登場
ノーベル文学賞
物事には順序ってものがある
東京奇譚集
本というよりは、読書について

 実は郷秋<Gauche>、村上春樹作品の(かなり)熱心な読者なのである。

追記:この小文は数日前から寝る前の僅かな時間を使って少しずつ書いたものであるが、未定稿である。今後断り無しに加筆・訂正(多分誤字・誤変換もかなりある)される可能性がある事をご承知おきいただきたい。

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昨日の記事のネタ本

 読まないときには一ヶ月間雑誌以外には読まないこともある郷秋<Gauche>だけれど、このところ結構本を読んでいるなぁ。ハードカバーじゃなくて新書ばかりだけれど。

 今日ご紹介するのは「新聞社も知りたい日本語の謎」。昨日書いた小文の「ネタ本」です。一つの話題がトイレの中で読むのにも電車やバスの中で読むにもちょうどいい、せいぜい5〜6ページにまとめられていますので、ちょっと空いた時間に面白そうなところから拾って読んでいく事が出来きます。昨日がそうであったようにblogのネタ(と云うよりもヒントですね)にするのにも最適で。

 以前、ブロガー(blogの書き手のこと)の一番の悩みは「何を書いていいのか判らない。書くべき話題が無い」だと書かれたものを読んだ事があります。そう云う方にとっては強い味方になると思いますが(書くべき事がないならblogやらなくてもいいんじゃない?とも思うけれど、これって禁句?)、著作権の問題がありますからくれぐれも丸写しにしたりはしないでください。駄文であっても駄写真であっても著作物に変わりはありませんので、日々、駄著作物生産に励んでいる郷秋<Gauche>としてはこのことがすごく気になるんですよね。

『新聞社も知りたい日本語の謎』(ベスト新書)
監修:橋本五郎 著者:読売新聞 新日本語取材班
KKベストセラーズ
ISBN 978-4-584-12263-1
発行年月日 2010年4月10日
新書判/285頁
900円(税込)
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雑草大好き

 郷秋<Gauche>は雑草が大好きである。幾種類かの雑草をわざわざ庭に植えたりしている。さすがに大葉子(おおばこ)や姫女苑(ひめじょおん)や春紫苑(はるじおん)をわざわざ植えたりはしないが、桃色昼咲き月見草は種を買ってきて蒔いた。

 ドクダミ、露草(つゆくさ)、母子草(ははこぐさ)、庭石菖(にわぜきしょう)、捩花(ねじばな)はひとりでに生えてきた。二輪草(にりんそう)は許しを得て頂いてきた。姫蔓蕎麦(ひめつるそば)、赤花夕化粧(あかばなゆうげしょう)、花韮(はなにら)、大甘菜(おおあまな)は道端に生えているものを採って来た。

 しかし、雑草と言われる草花の多くは名前が良く判らない。散歩に行く時にちょっと持って行けるコンパクトな図鑑はないかと探していたのだが、ようやく適当なものが見つかった。330種掲載されていると云うから、大概のものは知る事が出来るだろうか。

 先に我が家に生息する雑草(野草)を幾つかあげたが、実はそのほかにも欲しいものがある。例えば藪蘭(やぶらん)、芋片食(いもかたばみ)、勿忘草(わすれなぐさ)なんかも育ててみたい。春先に大犬の陰嚢(おおいぬのふぐり)の愛らしい花が一面に咲いたら素敵だとも思う。

 誰かが「名も無い野の草」と書いたのを見つけた、植物学者でもあった昭和天皇が「名の無い草は一つとしてない」と云ったと、何かで読んだ事がある。ニューギニアやアマゾンの奥地じゃあるまいし、日本の都会の道端で生息している草花は確かにすべて研究され尽くしているのだろう。

 時として帰化植物は悪者扱いされるけれど、日本の秋を代表する花と云われるほどのコスモスだって帰化植物である。帰化植物であっても郷秋<Gauche>は気に入ったものは道端から採って来て、種を買ってきて育ててみたい。雑草の花は小さく地味かも知れないが、良く見るとどれも個性的で美しいから。

 さて、「花と葉で見わける野草」を持って歩いて、幾種類の雑草を見つけ、どれ程の名前を覚える事が出来るだろうか。

『花と葉で見わける野草』
監修:近田文弘 写真:亀田龍吉 編著:有沢重雄
小学館
ISBN 978-4-09-208303-5
発行年月日 2010年4月10日
四六変/272頁
1,995円(税込)
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「スイングジャーナル」、休刊

 月刊のジャズ専門誌「スイングジャーナル」が6月19日発売の2010年7月号をもって休刊との情報。と云う事は今日、最後から2番目の「スイングジャーナル」が書店に並んでいるということである。

 「スイングジャーナル」を買わなくなって何年が経つだろうか。って、何年じゃなくて何十年である。学生時代には、本屋での立ち読みか新宿や吉祥寺のジャズ喫茶!に行った時にすみからすみまで、それこそ舐めるようにして目を通して資金の目処がついた時に買うべきLP、エアチェック(お若い方はご存知ない言葉だろうな)すべき曲をメモったものだ。大学を卒業してからは時々買えるようになったけれど、やっぱり「スイングジャーナル」で次に買うべきLPの目星を付けたものである。「スイングジャーナル」は僕らのジャズの教科書であったのだなぁ。

 「スイングジャーナル選定ゴールド・ディスク」に至っては、飯に味噌を付けて食べる超貧困生活をしてでも買わないではいられなかったものであった。「スイングジャーナル選定ゴールド・ディスク」で一番インパクトが大きかったのはコルトレーンの「至上の愛」だな。最初は「何だ、これは」と思ったものだが「ジャズ友」に云えば馬鹿にされること必至であったから必死で聞き込んで「良かった、凄い!」と云ってはみたものの、ホントに良いと思えるようになったのは、恥ずかしながら30歳を過ぎてからであった。コルトレーンは然程に深く偉大なのである。

 買わなくもう何十年も経っているから、はっきり云えば「スイングジャーナル」が休刊しようがしまいが郷秋<Gauche>の日々の生活には何の影響もない。残念ながら。でも高校時代まではジャズなんか聴きもしなかった田舎者(郷秋<Gauche>のことだ)をジャズの世界に導く大きな力となった「スイングジャーナル」がなくなってしまうというのは、郷秋<Gauche>の生き方にまで影響を与えた恩師が亡くなるようなものであり、やはり淋しい。

 NAVIの休刊の際にも書いたが、雑誌の休刊は、イコール廃刊である。いくらスイングジャーナル社が「今後、支援企業が見つかれば復刊を検討したい」と語ってみたところで、支援企業が見つかるのならばこれまでに見つかっているわけで、これかから見つかる訳もない。残念ではあるが、やはり、休刊は即、廃刊なのである。

 しかしだ、ここで「スイングジャーナル」が廃刊となったとしても、「スイングジャーナル」のこれまでの仕事が否定されるわけでは勿論ない。むしろ、「スイングジャーナル」が廃刊になってこそ、「スイングジャーナル」がいかに偉大であったのかを多くの人が知ることになるんだろうな。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、谷空木(たにうつぎ)。恩田Nowでご紹介した箱根空木(はこねうつぎ)は、咲き始めは白色で時間の経過と共に紅色となるが、谷空木は最初から紅色で、枝に対する花の付き方も箱根空木とは異なる。
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それは勘違いでしょう

 連休前に届いていた『波』(新潮社の月刊PR誌)を、竹の子の土佐煮をつまみながら、ビールを飲みながら読んでいて、現在発売中の『考える人』2010年春号の紹介記事の中にこんな件(くだり)があるのを見つけた。

 「はじめて読む聖書」特集の『考える人』最新号(春号)がお陰様で好評です▼キリスト教徒が総人口の1%を超えたことのない日本でも、聖書は1年間に50万冊も売れているそうです。日本人の多くは、聖書を聖典としてではなく、生き方を考える手がかりとして、あるいは広い意味での文学として読んできたのではないでしょうか。(『波』2010年5月号65頁から転載)

 この記事の筆者は、毎年50万人が自分でお金を出して聖書を買って読んでいると思っているようだが、それは大きな間違い。勘違いである。郷秋<Gauche>は知っているのです。毎年新学期になると日本聖書協会(郷秋<Gauche>の記憶が正しければ、以前は日本聖書普及協会と名乗っていたはずだ)からキリスト教に対して理解があると思われる学校に、新入生用にと大量の聖書が送られてくるのを。そして、卒業期になると一度も開かれた事のない聖書が大量にゴミ箱に捨てられていることを。

 考えてもみて欲しい。年に50万冊が売れる本なら、どこの書店でも平積になっていて良いはずなのに、そんなことはない。中程度の規模の書店でさえも聖書を探すのが難しいほど聖書が店頭におかれていることは少ない。このことに件(くだん)の記事の筆者は気がついていないのである。

 日本において聖書が毎年50万冊売れていると云うのは、大方、日本聖書協会あたりが発表した発行部数を見てそのすべてが実際に販売されていると筆者が思い込んだ結果である。<Gauche>は聖書そのもの、そこに書かれ事柄について「難癖」をつけているのではない。ただ、毎年50万人の日本人が、この書物を身銭を切って買い、そして読んでいると云うのは明らかな事実誤認であると云っているのである。為念。


 例によって記事本文と何の関係もない今日の一枚は、昨日に続いて三春の枝垂れ桜。三春にはホントに枝垂れ桜が多い。ちなみにこれは三春町沼沢(字舘か?)にある「弘法桜」。昨日ご紹介した「雪村庵」よりも更に知名度の低い桜であるが、なかなか見事であったぞ。
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1Q84

 2週間前に予約した村上春樹の『1Q84』Book3が発売初日の昨日、郷秋<Gauche>の手元に「届いた」。前にも書いたことがあるが、店頭まで取りに行かなくても郷秋<Gauche>のデスクまで届けてもらえる便利なシステムなのである。しかも10%引きだから、まったくありがたい。と云う訳でさっそく昨晩から読み始めたのだが、読めるのはベッドに入ってからのせいぜい15分、どんなに長くても30分だから読み終えるのはかなり先のことになりそうではある。

 Book1と2を読んだ時にも「郷秋<Gauche>的書評」を書かねばと思ったし、ひょっとするとblogにも予告していたかも知れないが、結局書かないまま今日に至っている。特にBook2の終わりが余りにも唐突と云うのか中途半端というのか、いかにも「尻切れトンボ」であった事から、これは間を置かずにBook3が出るぞと書こうと思った矢先に、新聞に先を越されたことあり、結局書かず終いになってしまったのであった。

 今日のところは、取り合えず読み始めましたと云うご報告まで。しかしいつ読み終える事が出来るのか。青豆の読む『失われた時を求めて』のように1日20ページだとすると読み終わるのは一ヶ月後と云うことになるな。

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養老孟司にもの申す

 あんな偉い、著書が何百万冊も売れている先生に「もの申す」とはお前は何を考えているのだ。お前はそれ程偉いのかと云われそうだが、郷秋<Gauche>はそれでも、あえて、養老孟司に云いたい。

 今日、郷秋<Gauche>の手元に届けられた『考える人』2010年春号の特集は「はじめて読む聖書」である。だからなのか、養老氏の連載「万物流転」のうお題は「日本人と宗教」であった。その冒頭にこんな件があった。

 「(前略)板切れにキリストだかマリアだか知らないが、その種の像を描いて、それを踏めという。私なら踏む。だってただの板切れだからである。それを踏まないとは、どういう了見か。ただの板切れを踏む、踏まない、そんなことにこだわるやつは、皆の迷惑だ。(日本は)狭い島国なんだから、お互いに住みにくくなるだろうが。」

 自分を愛してくれている人の顔が、自分が愛している人の顔が描かれたものが、果たしてただの「板切れ」なのだろうか。もし、自分の父や母の顔が、妻や子の顔が描かれた板を、「父母を、妻子を愛していない証として踏め」と云われた時、養老氏はなんの迷いも無くその板を踏むのだろうか。踏み絵とは、ただ知らぬ誰かの顔が描かれた板を踏むのではない。その誰かを愛していない証として踏む、踏まされたものなのである。

 そんなことを、博学聡明なる養老氏が知らぬ訳はなかろう。その上で氏は書いているのだ。だがしかし、こんなことを書くことこそが「皆の迷惑」なんじゃないかと、郷秋<Gauche>は思うぞ。氏ほどの思考能力と文章力があるのならば、万人に判るように、なぜ踏み絵を踏まぬ行為が馬鹿げているのか書けばよい。もっとも「考える人」の読者ならば、それくらいの事は理解でくるだろうと云う「了見」なのか。

注:養老氏は踏み絵を、「板切れにイエスだかマリアだかを描いたもの」と書いているが、その多くはマリアやイエスの顔や姿を彫った銅版(レリーフ)を板に埋め込んだものである。板に描いたものではあっという間に摩滅してしまうからである。それ程多くの人が幾度も踏まされたのである。

季刊『考える人』(2010年春号)
新潮社(雑誌コード:12305-05)
発行年月日 2010年4月3日
B5版 279頁
1,400円(税込)
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