石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

43 日本石仏協会主催「日和田高原石仏巡り」二日目

2012-11-16 05:49:24 | 石仏めぐり

2012年10月22日、朝、旅館の部屋の窓を開ける。

快晴。

空気が冷たい。

眼前にのしかかるように紅葉の山。

 

 

朝日の、横からの射光で明暗がくっきり。

この写真では写っていないが、右下の高根第一ダムは、山影の中に沈み込んでいた。

 

午前8時半、ツアー二日目スタート。

ダム湖沿いに日和田集落へ。

集落から背後の山に向かうと広場に出る。

そこが最初の目的地、血取場だった。

血取場。全景には、バスがどうしても入ってしまう。

 

2日目①血取場(岐阜県高山市高根町日和田)

山裾の木々の根元に数十基の石仏が点在している。

ひときわ目立つ大きな石碑は、三十三変化観音碑。

 

最上段の中央に弥陀三尊がおわす。

他は、ほとんどが馬頭観音。

馬頭観音が多いのは当然で、ここは馬の血取場だったからです。

「血取り」とは、文字通り馬の血を流し出すこと。

馬の首の静脈に「刀針」を刺し、血を噴き出させる。

そうすることで馬は丈夫になると言われてきた。

血取りは、春先の恒例行事。

同時に、冬の間に伸びた蹄を削って整える。

大変なのは、上あごと尾の先端を焼きごてで焼く作業。

馬にとっては、拷問に等しいから、暴れる。

それを抑えるのは、屈強な若者達。

血取りが終われば、恒例の酒盛りが始まる。

馬の出産、病気、仔馬の評定などなど、馬の話題は尽きなかった。

 

血取場の石仏群から離れて、ポツンと石碑が1基立っている。

 

「日本魂神平霊神」は、この地域の御嶽教覚明講普及に努めた空明行者の霊神碑。

覚明講では、覚明を讃える念仏を唱えた。

そもそも覚明行者と申るは、しじやうさいど(衆生済度)の、がんあつく、えんの行者のあとをつぐ。(中略)ここに志なのの御嶽山、とうとき神がましませどたいて(絶えて)もうずる人もなし。ひとたび山をも開かんとふかくきせい(起請)をたてければ、志んちょくあらたにゆるされて、大せんたつ(先達)ともなられけり。あまたのとうぎやう(同行)ひきつれて、じやうげ(上下)することかずしれず」(『開田村史』より)

しかし、明治34年、空明の死とともに御嶽講も自然消滅する。

ところが、御嶽講と一体化していた念仏講だけは、二十一世紀直前まで続いていた。

葬儀に念仏は欠かせないが、寺が遠く、僧侶を呼べないので念仏講中を必要としたからです。

現在は、車で僧侶が来て、葬儀を執り行うので、念仏を唱えられる人も少なくなっているという。

 

血取場の裏山に立派な馬頭観音があるという。。

猪よけのフエンスの一部を開けて、山へ登る。

 

心臓が悪いから山登りは苦手だ。

しんがりを務めて行ったら、割り込む隙がない。

3体の石仏が人気のようだ。

中央が、安政6年(1859)の馬頭観音。

左は高王白衣観音(大正7年)、右は、釈迦如来(大正8年)。

馬頭観世音を主尊とする三尊仏であるかのようだ。

日和田の人たちの、馬頭観音信仰の深さが分かるような気がする。

馬が産気づく、元気がない、病気だろうか。

家に祀ってある馬頭観音に手を合わせるだけでは気が休まらない。

ここまで駆け上ってきて、安産や快癒を祈願したのだろう。

安政6年に馬頭観音だけが建てられた。

60年後に、白衣観音と釈迦如来が付けくわえられたが、このような三尊形式は、義軌にはない。

 

 三尊の周りに馬頭観音群がある。

中に数体、三面馬頭観音ならぬ三頭馬頭観音がある。

  

      三頭馬頭観音

まるで3本のきのこが生えたみたいだが、馬の頭。

御嶽山麓特有なものとして注目に値する、とは大護八郎氏(故人・前日本石仏協会会長)の見解。

 

2日目②牧の祭場(岐阜県高山市高根町日和田?)

夏祭りの祭場に立派な石仏、石碑が並んでいるのが、高根町の特徴と云えよう。

                  牧の祭場

ここ牧の祭場も例外ではない。

地元では「田の神様」と呼んでいるのは、中央に保食神があるからだろう。

保食神文字塔の大きさが目立つが、カメラが集中したのは、その隣の秋葉神像。

           秋葉神像

狐に乗る烏天狗の威風堂々たる神像だが、カメラを構えながら皆ブツブツ、不平を鳴らしている。

像のまん前の電柱の影が、縦に太く入り込んで、いい写真が撮れないのだ。

「こんな所に電柱を建てるなんて、気が利かないわね」と女性陣の声が1オクターブ高くなる。

女の声が高くなると、ろくなことはないから、そっと場を外す。

その右隣の不動明王坐像は、石工・宮下鉄弥の作品。

 

    宮下鉄弥作不動明王               カタカナ六字名号

秋の強い日差しで、私のコンパクトデジカメでは陰影のない真っ白な像にしか写らないのが残念。

「ナムアミダブツ」とカタカナの名号塔もあるのだが、私のカメラでは「ナム」が辛うじて読めるくらいだ。

7基の大型石造物の背後に馬頭観音が24体並んでいる。

丁寧に保存してあるのはいいが、びったりとくっついて、前後の間隔がないから、像容がまるで見られない。

石仏を観光資源にするのなら、馬頭観音群の正面を道路から見られるように配置を変えたらいいのに。

日和田の馬頭祭は、毎年八十八夜の日に行われた。

この牧を始め、下村、留之原祭場で、馬頭観音に各家の馬の二世安楽を祈願して念仏をあげる。

祭場での供養祭を終えると血取場に集まり、鉦を叩きながら念仏和讃を唱え、終わると団子を播いた、と『高根村史』にはある。

フアインダーを覗いていたら、石碑と石碑の間に黄色いものが見えた。

 

何だろうと近づいて見たら、家の入り口に黄色いハンカチが掲げられている。

聞けば、「今日も元気ですよ」という独居老人の合図のハンカチだという。

「過疎」を通り越して今や「限界集落」になりつつある高根町の最大課題は、独居老人世帯。

(*限界集落とは、65歳以上の人口が50%以上の集落。高根町全体で48%だから、限界集落はいくつもあることになる)

こまめに民生委員が見て回ることなど夢のまた夢。

集落全体でケアしなければならない。

そこで捻りだされたアイデアが、黄色いハンカチだった。

2010年の秋から実施に移されている。

ヒントは、映画「幸福の黄色いハンカチ」。

限界集落らしい見事なアイデアだが、信号機の黄色は、赤の予告灯でもある。

集落全体が発信する「SOS」であるかのように見えてならない。

日和田高原の石仏の魅力は、昔のまま損なわれずに、そこにある、ことだろう。

それは、開発に値しなかった地域ということでもある。

未開発は、人口流出の誘発要因でもあるから、人口減と石仏の数は反比例の関係にある。

消滅集落(誰もいなくなった村)に石仏だけ残って、その石仏巡りを楽しむという、のほほんとした構図を、私は好まない。

であるが故に、NPO法人YIKの村おこし住民運動が結実することに期待したい。

観客席からの、第三者的発言で、気が引けるが、心からそう思うのです。

 

2日目③森越神社(岐阜県高山市高根町小日和田)

 日和田から、バスは小日和田へ。

小日和田は、 13世帯、26人の小規模集落。

道路際に一面ススキの白い穂がなびいている場所は、住居跡らしいが、原野化していて判然としない。

小日和田の産土神社は、森越神社。

           森越神社

 13軒で神社を維持してゆくのは、大変だろう。

参道沿いに石仏群。

左端の馬頭観音は、三面八臂の忿怒相。

一面二臂慈悲相の馬頭観音ばかりの当地には珍しい像容だ。

神社脇にも石仏、石碑が並んでいるが、コケで判然としない。

左から、保食大神、不動明王(宮下鉄弥作)、天照大神?像、秋葉神像、と配布資料にはある。

境内から100mほど離れた所にぽつんと墓地があるので、行って見た。

行って見るものである。

掘出し物があった。

一神二仏の小石仏が墓標の最前列に座していた。

中央は神像、右に地蔵、左に馬頭観音を配してある。

神像が何かは不明だが、願うは「五穀豊穣」だろう。

地蔵には、家族の、馬頭観音には、馬の、二世安楽を祈願する石仏である。

馬小作の農家として、これ以上の望みはないだろう。

類型のない、独自の石仏を発注した施主は、どんな農家の親父だったのだろうか。

会ってみたい気がする。

私には、今回の石仏巡りでの、これが最大の収穫物(仏)であった。

 

神社の左から山へ道が伸びている。

道と云っても、通る人もいないから、草茫々の荒れ放題。

ここは、日和田と小日和田を結ぶ前坂峠。

 

夏祭りには、この峠道を神輿が行き来した。

更に往時に想いを馳せれば、多くの旅人が馬とともに、この道を通り過ぎていたはずである。

飛騨と木曽を繋ぐ鎌倉街道でもあったのだから。

道路わきに石像が転がっている。

松の木の根元に置かれていたものが、転げ落ちたようだ。

よく見ると覚明霊神像。

大型の丸彫り像ばかり見てきたので、コンパクトサイズは新鮮だ。

そのちょっと先には、彩色の馬頭観音。

上半身の色が失せているのが惜しい。

行けども行けども、上りは続く。

今日二度目の山登りで、足が進まない。

断念して引き返そうかと思ったら「この上には、日和田で一番数多くの石仏があるよ」と地元の人が言う。

「数多い石仏」に魅かれて、再び、上り出す。

先行していた人たちが、小屋を覗いている。

 

やっと、目的地に着いたようだ。

小屋の中には,三十三所観音。

この小屋から緩いスロープの左側に石仏が点在している。

最初のグループは、六字名号塔。

左は、百番巡礼塔、真ん中は徳本名号塔。

次が文字馬頭観音群。

ひょろ長いのは、覚明霊神碑。

ただし、左から2番目は、妙見大菩薩。

どうして細く長いのだろうか。

隣の小堂には、妙見菩薩がおわすが、桟があって全身が撮れない。

 

足元に亀がいるから、妙見さまだとは分かるのだが。

峠からの眺めが素晴らしい。

御嶽山が紅葉の中にゆったりと構えている。

昔の人は、あの山の頂上まで登り、その日のうちに帰って来たという。

前坂峠を上るだけで、くたばってる者としては、信じられない話だ。

登るのは最後尾だったくせに、下るのは早い。

先頭を切って降りてきた。

参道の馬頭観音群を撮る。

背後に廃屋が入り込む。

人去って、石仏だけが残る!

 

皆はまだ下りてこないので、あたりを散策。

廃屋が、もう一軒あった。

墓だけが新しい。

廃屋とのコントラストが強烈だ。

 

かつて、この家の屋根からも竈の煙が立ち上っていた。

放し飼いの犬が吠える。

子どもたちが遊び、鶏が駆けまわる庭を横切って、戸をあける。

入り口の左に厩。

馬が、首をこちらに向ける。

馬糞と尿が沁み込んだ敷き藁の臭いが鼻をつく。

囲炉裏の火に照らされて、煙の中に家人の顔がぼんやりと見える。

(*小日和田に電灯がついたのは、昭和28年)

そんなイメージが、、廃屋にだぶって浮かんでくる。

庭の片隅に、この家の馬頭観音はないかと探してみたが、見つからなかった。

 

「安くて美味い蕎麦です」と地元の案内人が言う。

NPO法人YIKは、地域おこしとして、荒廃農地の蕎麦作りを推進している。

希望者には安く販売する、ということでバスが停まったのは、日和田小学校。

鉄筋コンクリートの真新しい校舎だが、生徒はいない。

高根町が高山市と合併したのは、2005年のことだった。

10人の子どもたちは、合併後、隣町の朝日町小学校へバス通学をすることになったが、今は5人に減った。

合併9年前にできたばかりの校舎は、今、アスリートの為の高地トレーニングセンターとして利用されている。

診療所もあるが、今年の4月から常駐医師はいなくなった。

昼食は、新蕎麦の「火畑(日和田)そば」。

蕎麦屋の窓からは、北に乗鞍岳、南に御嶽山が見える。

 

   蕎麦屋「望嶽庵」               「望嶽庵」から乗鞍岳を望む

午後、最初の石仏スポットは、池ケ原登り口。

2日目④池ケ原登り口(岐阜県高山市高根町留之原)

池ケ原は昭和の開拓地。

開拓の初期から、馬ではなく、牛がメインだったと村史には書いてある。

本州の戦後開拓地の大半は、離農者が続出して、原野にかえってしまった。

わずかな世帯ではあるが、存続しているのは珍しい。

主な生産物は、トウモロコシとほうれんそうだとか。

道路沿いの林の駆けあがりに15,6体の馬頭観音群。

         池ケ原登り口

その左奥の岩の上に5体の石仏。

前面に丸彫り馬頭観音を配し、後列に御嶽信仰の霊神碑が並んでいる。

      

覚明霊神像  覚明霊神像 馬頭観音 日本魂神  普覚霊神像
                          平霊神

この地域の特色ある石仏配列といえよう。

2日目⑤開拓の祭場(岐阜県高山市高根町留之原)

 木曽から日和田にかけて、馬と牛の数は、昭和25年(1950)を境に逆転した。

馬の市にハム業者が出入りするようになったのが、きっかけだった。

あっという間に牛の値が馬の倍になったという。

留之原開拓地では、それ以前から、牛が多かった。

開拓の祭場には、だから、牛頭天王の文字碑ばかりが立っている。

               開拓の祭場

「南無牛頭天王」、「大悲牛頭天王」にまじって、「牛頭観世音菩薩」がある。

   

 南無牛頭天王              大悲牛頭天王          牛頭観世音菩薩

「馬頭観世音菩薩」は仏教の教義にあるが、「牛頭観音」は民間信仰の造名である。

牛頭天王は疫病や病虫害を防ぐ神で、京都の祇園祭が有名だが、ここ留之原でも同じ日に祭を行ってきた。

自然石に穴を開け、牛の鼻に見立てて、鼻輪が付けてある。

 開拓の祭場で、二日間の日和田高原石仏巡りは終了。

バスは塩尻を目指して、一路、帰途に着くが、途中、開田高原で一か所寄り道をした。

2日目⑥西野下ノ原(長野県木曽町開田高原)

荷物を整理していて、バスを降りるのが遅くなった。

メインの御嶽大権現と覚明神を祀る霊場は、既に人で一杯。

右にぽつんと座す地蔵に向かう。

        平次郎地蔵

「平次郎地蔵」と木曽町教育委員会が建てた解説板にはある。

以下、解説文。

享保3年(1817)の春、野焼きの火が延焼して、徳川尾張藩の倉本巣山(鷹狩の鷹の巣を守るための、入山禁止の山)を焼いてしまった。その失火の責任を一人で背負い、投獄され、庄屋や村人を助けた平次郎を供養する地蔵」。

平次郎地蔵の前には十数基の馬頭観音群。

三面ならぬ三頭馬頭観音がいくつもある。

  

    3頭馬頭観音

2頭や1頭もあるから、うれしくなってしまう。

 

   2頭馬頭観音             1頭馬頭観音

霊場には、覚明霊神像が何基もある。

 

覚明霊神がなぜ流行ったのか、そのヒントが『木曽福島町史』にあった。

覚明講は、寒行の結願の日に行われた。先達が水をかぶって行をし、神様を呼ぶ。神様には覚明とか御嶽がある。中座(御嶽講でのシャーマン)が、無我の境地になり、神が乗り移ると、先達が『何の神がきた』と聞く。中座が『覚明だ』と答えると、村の衆は今年の天候や農作の具合を尋ねる。中座は『油断なきよう信仰に及ぶこと』と前置きをして『稲作、ワセ七分、中テ六分五厘、オクテ八分』などと答える。家族の不幸や病気のことなど、個人的な願い事があれば、お加持をしてもらう」。

神のお告げという「現世利益」が、そこにはあったことになる。

これで、「日本石仏協会主催日原高原石仏巡り」は、無事、終了。

案内と説明役を務めてくれた、日本石仏協会中津川支部の方々、高根町NPO法人YIKの人たちとここでお別れ。

日本石仏協会の坂口会長が謝辞を述べ、案内の方々からお別れの挨拶があった。

 

塩尻駅までのバスのなかで、参加者全員が二日間の感想を述べた。

「日和田では、庚申塔を見かけなかったが、それは何故なのか、今後の研究課題」とは、坂口会長の話。

そういえば、双体道祖神もなかった。

どこでも見かける如意輪観音像も見かけなかった気がする。

馬頭観音はあふれるようにあったが、徴用軍馬供養塔は見かけなかった。

限定されたコースだから、確定的なことは言えないが、明らかにローカル色があることは 否めない。

大護八郎氏はこう書いている。

御嶽山北麓の高根村には、道祖神や庚申塔その他の民間信仰の石仏はほとんどなく、わずかの地蔵や妙見のほかはすべて馬頭観世音である。木曽では馬の無病息災はもちろん、人間の病気平癒から一切の願いごとが馬頭観世音にささげられており、そこに人と馬との区別はないのである。総じて、木曽駒と密着した馬頭観世音像の、これほど量的に集中したところは、南部駒の産地であった南部領にも見ることはできなかったし、頭上に幾つもの小馬頭を戴いた木曽独特の二臂像は、最も特筆に値するものである」。

バスは、16時半、塩尻駅着、散会となった。

 

参考図書

○高根村史(1984)

○開田村史(昭和55年)

○木曽福島町史(昭和58年)

○伊藤正起「木曽馬とともに」平成8年

○黒田三郎「木曽馬ものがたり」昭和52年

○大護八郎「木曽の馬頭観世音」『日本の石仏6-甲信・東海篇』1983年

 資料提供 高山市高根支所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 


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