ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

游文舎開館十周年記念 田原氏講演会「日本語で詩を書くということ」 

2018年07月29日 | 游文舎企画


八月四日(土)午後2時より、游文舎十周年記念講演会が行われます。田原氏は1965年中国河南省出身。現在は日本に住み、日本語の詩を書く一方で、谷川俊太郎氏をはじめとして日本の詩の翻訳や研究を手がけています。

 大地が千年に一度の大暴れをした後
 突然現れた反逆者 それはお前
 山あいを
 悲しみながら流れる川を押し黙らせ
 山々を揺り動かし震え上がらせた
 
詩「堰き止め湖」のはこのように始まります。2008年中国四川地方を襲った大地震の後、詩人は「涙を拭いながら書いた」と言います。悲しみと怒りを湛えながらも、骨格のしっかりとした詩は次のように結ばれます。

 一万年後 お前はそのときの人々に
 感嘆され賞賛される景色になっているかも知れない
 しかし 私はこの詩を証として書き残したい
 西暦二〇〇八年五月のお前は
 何億もの人々の涙が溜まってできたものであることを


書き留めることが詩人の責務であるかのようです。初出は「現代詩手帖」2008年8月号。この詩を含む『石の記憶』は自身2冊目の日本語詩集で、第60回H氏賞を受賞しました。


藤蔓に導かれるように――たかはし藤水展 22日まで

2018年07月20日 | 游文舎企画
たかはしさんにとって藤=Fujiとは特別な存在なのではないか、改めてそう思わせられた。
入口正面には、何年、いや何十年経たのだろうか、太く、暴れ狂った、もはや人の手には負えない、そんな蔓を、自然そのままに置く。
一方、ギャラリー内には原野を覆い尽くさんばかりに野放図に我が物顔にはびこる蔓を、大きな円環のように組んで手なづける。それでも伸び続ける蔓との対話を楽しむかのように。いやむしろ蔓に導かれるように世界が作られていく。
今展ではギャラリーの二つの向かい合う壁面それぞれに異質の、大きなオブジェを吊し掛ける。円環のように組まれたそれは、吸い込まれるような空洞を保ちつつ、蔓をさらにはびこらせ伸ばそうとしている。野生そのもの、暴力的でさえある。一方向かいには裂け目を見せる蔓の塊。裂け目は異様なほどつややかで白く、なまめかしくもある。吸い込まれようとしているのだろうか、さらに膨張していくのだろうか。地底や海底や宇宙を思わせる。 
折々手がけ続けてきた藤=Fujiの、ひとつの集大成であり、新たな展開の契機と見た。

身体化された〝ひも〟――「茅原登喜子」展

2018年07月15日 | 游文舎企画
2018年6月2日~10日

会報「游」21号より No.4



 会期中、折あるごとに茅原さんは游文舎ホールのコンクリート床にチョークでぐるぐると〝ひも〟を描き続けていた。
 今展で茅原さんは、大学卒業制作という一八〇㎝×一八〇㎝のパネル三連作も展示した。以来十年、大作を中心に並べた会場で、様々な技法を試み、表現の変化を伴いながらも〝ひも〟という一貫したテーマを追求してきたことを改めて知ることになった。
 卒業制作のタイトル「眇める」とは目を細めてものを見る様を言う。それぞれ赤系、白系、緑系で描かれた三作品は、強く短い線が波打つように繰り返され、わずかな歪みと揺らめきが見る者を幻惑し、思わず「眇め」て見直しそうになる。この時の〝ひも〟
はつながりや経路を見せず、まるでオブセッションのように画面を埋め尽くしていたが、次第に解きほぐされ、緩やかに絡み、重なり合いながら、画面を自在に巡るようになる。同時に空気をまとい、何かを孕むように有機的になり、ほとんど物質化、身体化していく。それは茅原さんにとって、〝ひも〟を描き続けることとは、日常の時間を流れるままにせず、立ち止まり、確かめ、蓄積していく行為に他ならないからではないだろうか。
 だから最新作の、天井から吊した三連作が「人体をイメージした」というのも納得がいくし、風景写真に〝ひも〟を描き加えた「たぶんいる」シリーズが、日常の中にふっと現れるもう一人の自分であっても不思議ではない。
 コンクリート床の〝ひも〟は、作家のみならず来場者の呼吸や体温までも吸収しながら日々増殖し、最終日、約五十平方メートルの床全体を覆う、巨大な生物のような作品となって出現した。この夏、游文舎に棲みつくらしい。    (霜田文子)


地霊との出会いを求めて 稲澤美穂子 日本画展 「有象 uzomuzo 無象」

2018年07月12日 | 游文舎企画
2018年5月1日~13日

会報「游」21号より No.3


《有象無象の落し物》


 神奈川県小田原市在住の日本画家、稲澤美穂子さんの個展。ホールには四曲一双の大屏風「游・弦」が重々しく置かれ、十三メートルの反物に描いた「有象無象の落し物」が天井から空中を舞った。ギャラリーには二〇一〇年の内モンゴルへの旅をきっかけに生まれた「?々」という大作をはじめ、今回の展示の中心となる和紙に土を使って描いた小品多数が展示された。
 稲澤さんは「?々」から「游・弦」まで描いてきて、制作に行き詰まり、描きたいという気持ちはありながらも、描く意味が見つからず苦しんだという。画材屋で買う岩絵の具では自分の表現ができないと思い、「土か!」と直感して奄美大島まで土を採りに飛んで行った。それからは日光、福島、津軽、隠岐の島にも行って土を採取した。
 もう一つの出会いは高柳町の門出和紙。稲澤さんは何度も高柳を訪れているが、昨年三月に門出和紙の小林康生さんと出会い、「ほんとうの和紙は楮に聞いて紙を漉く」という話を聞いて、本格的に和紙に土で描いてみようと思ったという。
 今回展示の作品はすべて、それから一年ちょっとで描いたものだ。稲澤さんの作品には日本画のセンスと、長く続けてきたデザイナーとしてのセンスが融合しているが、土の作品ではとりわけそれが強く出ている。「?々」に描かれた岩石を見ても分かるように、稲澤さんの作品は悠久の時間との出会いをきっかけにしたものが多い。土の作品はそんな時間の中ではぐくまれていく〝地霊〟との出会いを求めての模索のようなものかも知れない。 (柴野毅実)

《振り子の太陽》

無意味の淵に誘い込むような  関根哲男 最後のVS 乱闘展

2018年07月10日 | 游文舎企画
2018年4月14日〜22日

会報「游」21号よりNo.2


 出品者は十五人。これまでの九年間、関根哲男さんが毎年相手を替えて戦ってきたVS展の九人、乱入組五人、本人を合わせた十五人による「最後のVS 乱闘展」である。游文舎のギャラリーとホールをすべて使って目一杯の展示となった。
 ホールの空間には立体作品が、ギャラリーには主に平面作品が並んだ。ジャンルも現代アート系の作品から、油彩、彫刻、版画と多岐にわたった。そこに統一的な緊張感を与えていたのは「VS乱闘」の精神だった。
 九回の半分くらいを観てきたが、「格闘技のノリで始めた」というVS展だから「勝敗」ということにこだわる面もある。もとより美術に格闘技のようなはっきりとした「勝敗」があるはずもないが、それでも「どっちが勝っているか?」との判断を迫られる緊張感には独特のものがあった。それは関根さんの作品が持っている攻撃性や暴力性、あるいは不謹慎などに対して、相手がどのように立ち向かうのか、どう戦術を立てるかに関わっている。
 しかしこれまでの九人と乱入組の五人の作風を観ると〝現代アート系〟の作家が意外と少ないことに気づく。つまり必ずしも〝同じリング上で〟戦うのではない作家が多かったのだ。それはやはり、ジャンルは違っても関根さんと戦ってみたい、〝同じリング上で〟勝負してみたいという願望を掻き立てられるからなのだろう。
 関根さんの挑発に乗るということは、普段では決してあり得ない緊張感のもとで制作してみたいという願望そのものであり、関根さんはVS展という形で、県内の作家たちに大きな緊張感をもたらし、作家たちを刺激し続けてきたのである。それはVS展の果たした大きな功績であり、「一応の区切り」と言わず、これからも続けてほしいものである。
 関根さんの今回の作品は〈原生―赤ふんベロベロ〉。このところ続けているボードに穴を開けて、無数の荒縄をとおし、表と裏で結びつけ、泥を塗ったくった作品である。中央部におなじみの赤ふんが見えている。
 関根さんの作品については「無意味な行為の集積としての作品」と言われることがあるが、それだけでなく、私には他の作家達が作品を作る行為の本質的な無意味性を暴き出し、表現者達を無意味の淵へと誘い込む魔力を持った作品のように思えるのだが……。(柴野毅実)

作品リスト
猪爪彦一〈夜のトルソ〉、荻野弘一〈英雄の死〉、佐藤秀治〈VS廃木〉、佐藤美紀〈二〇一八―一、二〉、信田俊郎〈光の場所二〇一八 四月十一日〉、霜田文子〈遡行〉、霜鳥健二〈再生―線―二〇一八〉、関根哲男〈原生―赤ふんベロベロ〉、高橋洋子〈最初で最後の自由〉他、玉川勝之〈顔出し仏壇〉、藤井芳則〈不死身のモンスター〉、星野健司〈パイロン〉シリーズ、堀川紀夫〈Tensegrity∪Strut 三〇〇㎝×五〉、前山忠〈壁の視界〉、吉川弘〈空白の存在〉