「ラムレの証言」ガッサーン・カナファーニー(1936~1972)
9歳の少年の目を通して書かれた、半日ほどの出来事である。
パレスチナ人の住むラムレの街にユダヤ人兵士が侵攻してきた。住民たちは炎天の中で並ばされ、掠奪され、アブー・オスマン伯父さんの幼い娘が殺される。女性兵士によって、まるで玩具のように、気まぐれのように。次いで妻も殺される。その都度、まっすぐ前を見つめ続けて二人を埋葬に行った伯父さんが、妻の埋葬の後初めて少年をじっと見つめる。何かの意志を伝えようとするかのように。その後、彼は司令官の部屋で爆死する。爆弾を隠し持っていたのだった。伯父さんは、穏やかだが、信念のある人だ。少年の伯父ではなく、町のみんなにとっての伯父さんなのだ。
第一次大戦後、国際連盟によりイギリスに委任統治されていたパレスチナは、第二次大戦後、米英主導でユダヤ人に有利に分割され、1948年イスラエルが建国された。作者は12歳で難民となり、ダマスクスの難民キャンプで暮らす。1960年ベイルートに移住し、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)のスポークスマン、ジャーナリスト、作家として活動するが、1972年、車に仕掛けられた爆弾によって殺された。
短篇コレクションの中で最も衝撃的な作品だった。ユダヤ人兵士の残虐さがこれ程に描かれたものははじめてだ。もちろんどちらが正しい、ということではない。少なくともパレスチナ側から描かれたものを読む機会が圧倒的に少ない、ということだ。逆から見れば伯父さんはまさにテロリストだ。それはイスラエルのプロパガンダを利するものであり、世界の見方そのままなのだ。
だが伯父さんがみんなの伯父さんだった所以はそれだけではない。床屋をしながら語ってくれた伯父さんの思い出話の数々とは「ラムレの住人のすべてに特別な世界を作ってくれ」るものだったのだ。
パレスチナ出身の思想家、エドワード・W・サイードは言う。「パレスチナ人の生活は、分散し、連続性を失い、その特徴をなすものは、中断ないし局所化された空間の作為的かつ無理強いされた配列、かき乱された時間の転置と共時化されない律動といったところになる。」(『パレスチナとは何か』1986)
難民となることとは、共有する記憶や歴史を分断されることでもある。
半世紀以上前に書かれたことが、今のこととして違和感なく読めてしまうのが恐ろしい。確かなことは大国の思惑によって、民族や宗教に名を借りた抗争が拡大再生産され続けているということだ。
「面影と連れて(うむかげとぅちりてぃ)」目取間俊(1960~)
女の一人語りである。女には不幸な死に方をした人たちの魂(まぶい)が見える。
彼女は、学校でのいじめや、家族からの疎外を受けおばあと二人きりで暮らしていた。御嶽(うたき)の森の神女(かみんちゅ)であるあばあは、様々なことを語ってくれた。何でも詳しく。戦争のこと以外は。おばあの死後、スナックで働いていた女は海洋博の仕事で本土から来ていた男と心を通わすようになる。この男も魂が見えるのだ。しかし突然逃走する。皇太子殿下襲撃事件に関係していたらしい。女も警察の詰問を受ける。
そんなある晩、家に誰かいるらしい気配に、あの男かも知れないと気を許した女は強姦され、心身の痛みをこらえながら森の奥の聖所に行き、男の首を括った姿や、おばあに出会う。家に戻ると瀕死の自分がいた。そして自らに言う。「もういいよ」と。
女の魂の一人語りである。自分と同じように魂が見える少女に語っているのだった。
主人公は戦後生まれである。戦争については語られていない。おばあにとっても戦争は「語り得ぬもの」だったのだろう。戦争でもない、基地でもない、だからこそ沖縄の構造的な問題が見えてくる。海洋博は、本土復帰記念というシナリオを取り繕うためのものだったのだろう。膨大な資本を投下し、建設工事に沸いた祭りの後は推して知るべしである。
それにしてもおばあは何とたくさんの話を聴かせてくれていたのだろう。現実も幻想も織り交ぜた、ちょっととぼけた語り口を想像させる。それを受け継いだ女の訥々とした語りは、自らの厳しい現実さえも寓話にしてしまうのだ。
9歳の少年の目を通して書かれた、半日ほどの出来事である。
パレスチナ人の住むラムレの街にユダヤ人兵士が侵攻してきた。住民たちは炎天の中で並ばされ、掠奪され、アブー・オスマン伯父さんの幼い娘が殺される。女性兵士によって、まるで玩具のように、気まぐれのように。次いで妻も殺される。その都度、まっすぐ前を見つめ続けて二人を埋葬に行った伯父さんが、妻の埋葬の後初めて少年をじっと見つめる。何かの意志を伝えようとするかのように。その後、彼は司令官の部屋で爆死する。爆弾を隠し持っていたのだった。伯父さんは、穏やかだが、信念のある人だ。少年の伯父ではなく、町のみんなにとっての伯父さんなのだ。
第一次大戦後、国際連盟によりイギリスに委任統治されていたパレスチナは、第二次大戦後、米英主導でユダヤ人に有利に分割され、1948年イスラエルが建国された。作者は12歳で難民となり、ダマスクスの難民キャンプで暮らす。1960年ベイルートに移住し、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)のスポークスマン、ジャーナリスト、作家として活動するが、1972年、車に仕掛けられた爆弾によって殺された。
短篇コレクションの中で最も衝撃的な作品だった。ユダヤ人兵士の残虐さがこれ程に描かれたものははじめてだ。もちろんどちらが正しい、ということではない。少なくともパレスチナ側から描かれたものを読む機会が圧倒的に少ない、ということだ。逆から見れば伯父さんはまさにテロリストだ。それはイスラエルのプロパガンダを利するものであり、世界の見方そのままなのだ。
だが伯父さんがみんなの伯父さんだった所以はそれだけではない。床屋をしながら語ってくれた伯父さんの思い出話の数々とは「ラムレの住人のすべてに特別な世界を作ってくれ」るものだったのだ。
パレスチナ出身の思想家、エドワード・W・サイードは言う。「パレスチナ人の生活は、分散し、連続性を失い、その特徴をなすものは、中断ないし局所化された空間の作為的かつ無理強いされた配列、かき乱された時間の転置と共時化されない律動といったところになる。」(『パレスチナとは何か』1986)
難民となることとは、共有する記憶や歴史を分断されることでもある。
半世紀以上前に書かれたことが、今のこととして違和感なく読めてしまうのが恐ろしい。確かなことは大国の思惑によって、民族や宗教に名を借りた抗争が拡大再生産され続けているということだ。
「面影と連れて(うむかげとぅちりてぃ)」目取間俊(1960~)
女の一人語りである。女には不幸な死に方をした人たちの魂(まぶい)が見える。
彼女は、学校でのいじめや、家族からの疎外を受けおばあと二人きりで暮らしていた。御嶽(うたき)の森の神女(かみんちゅ)であるあばあは、様々なことを語ってくれた。何でも詳しく。戦争のこと以外は。おばあの死後、スナックで働いていた女は海洋博の仕事で本土から来ていた男と心を通わすようになる。この男も魂が見えるのだ。しかし突然逃走する。皇太子殿下襲撃事件に関係していたらしい。女も警察の詰問を受ける。
そんなある晩、家に誰かいるらしい気配に、あの男かも知れないと気を許した女は強姦され、心身の痛みをこらえながら森の奥の聖所に行き、男の首を括った姿や、おばあに出会う。家に戻ると瀕死の自分がいた。そして自らに言う。「もういいよ」と。
女の魂の一人語りである。自分と同じように魂が見える少女に語っているのだった。
主人公は戦後生まれである。戦争については語られていない。おばあにとっても戦争は「語り得ぬもの」だったのだろう。戦争でもない、基地でもない、だからこそ沖縄の構造的な問題が見えてくる。海洋博は、本土復帰記念というシナリオを取り繕うためのものだったのだろう。膨大な資本を投下し、建設工事に沸いた祭りの後は推して知るべしである。
それにしてもおばあは何とたくさんの話を聴かせてくれていたのだろう。現実も幻想も織り交ぜた、ちょっととぼけた語り口を想像させる。それを受け継いだ女の訥々とした語りは、自らの厳しい現実さえも寓話にしてしまうのだ。