ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

世界文学全集短篇コレクションより(3)

2016年01月29日 | 読書ノート
「ラムレの証言」ガッサーン・カナファーニー(1936~1972)
9歳の少年の目を通して書かれた、半日ほどの出来事である。
パレスチナ人の住むラムレの街にユダヤ人兵士が侵攻してきた。住民たちは炎天の中で並ばされ、掠奪され、アブー・オスマン伯父さんの幼い娘が殺される。女性兵士によって、まるで玩具のように、気まぐれのように。次いで妻も殺される。その都度、まっすぐ前を見つめ続けて二人を埋葬に行った伯父さんが、妻の埋葬の後初めて少年をじっと見つめる。何かの意志を伝えようとするかのように。その後、彼は司令官の部屋で爆死する。爆弾を隠し持っていたのだった。伯父さんは、穏やかだが、信念のある人だ。少年の伯父ではなく、町のみんなにとっての伯父さんなのだ。
第一次大戦後、国際連盟によりイギリスに委任統治されていたパレスチナは、第二次大戦後、米英主導でユダヤ人に有利に分割され、1948年イスラエルが建国された。作者は12歳で難民となり、ダマスクスの難民キャンプで暮らす。1960年ベイルートに移住し、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)のスポークスマン、ジャーナリスト、作家として活動するが、1972年、車に仕掛けられた爆弾によって殺された。
短篇コレクションの中で最も衝撃的な作品だった。ユダヤ人兵士の残虐さがこれ程に描かれたものははじめてだ。もちろんどちらが正しい、ということではない。少なくともパレスチナ側から描かれたものを読む機会が圧倒的に少ない、ということだ。逆から見れば伯父さんはまさにテロリストだ。それはイスラエルのプロパガンダを利するものであり、世界の見方そのままなのだ。
だが伯父さんがみんなの伯父さんだった所以はそれだけではない。床屋をしながら語ってくれた伯父さんの思い出話の数々とは「ラムレの住人のすべてに特別な世界を作ってくれ」るものだったのだ。
パレスチナ出身の思想家、エドワード・W・サイードは言う。「パレスチナ人の生活は、分散し、連続性を失い、その特徴をなすものは、中断ないし局所化された空間の作為的かつ無理強いされた配列、かき乱された時間の転置と共時化されない律動といったところになる。」(『パレスチナとは何か』1986)
難民となることとは、共有する記憶や歴史を分断されることでもある。
 半世紀以上前に書かれたことが、今のこととして違和感なく読めてしまうのが恐ろしい。確かなことは大国の思惑によって、民族や宗教に名を借りた抗争が拡大再生産され続けているということだ。

「面影と連れて(うむかげとぅちりてぃ)」目取間俊(1960~)
女の一人語りである。女には不幸な死に方をした人たちの魂(まぶい)が見える。
 彼女は、学校でのいじめや、家族からの疎外を受けおばあと二人きりで暮らしていた。御嶽(うたき)の森の神女(かみんちゅ)であるあばあは、様々なことを語ってくれた。何でも詳しく。戦争のこと以外は。おばあの死後、スナックで働いていた女は海洋博の仕事で本土から来ていた男と心を通わすようになる。この男も魂が見えるのだ。しかし突然逃走する。皇太子殿下襲撃事件に関係していたらしい。女も警察の詰問を受ける。
 そんなある晩、家に誰かいるらしい気配に、あの男かも知れないと気を許した女は強姦され、心身の痛みをこらえながら森の奥の聖所に行き、男の首を括った姿や、おばあに出会う。家に戻ると瀕死の自分がいた。そして自らに言う。「もういいよ」と。
 女の魂の一人語りである。自分と同じように魂が見える少女に語っているのだった。
 主人公は戦後生まれである。戦争については語られていない。おばあにとっても戦争は「語り得ぬもの」だったのだろう。戦争でもない、基地でもない、だからこそ沖縄の構造的な問題が見えてくる。海洋博は、本土復帰記念というシナリオを取り繕うためのものだったのだろう。膨大な資本を投下し、建設工事に沸いた祭りの後は推して知るべしである。
それにしてもおばあは何とたくさんの話を聴かせてくれていたのだろう。現実も幻想も織り交ぜた、ちょっととぼけた語り口を想像させる。それを受け継いだ女の訥々とした語りは、自らの厳しい現実さえも寓話にしてしまうのだ。


世界文学全集短篇コレクションより(2)

2016年01月17日 | 読書ノート
「タルパ」フアン・ルルフォ(1917~1986)
短篇集『燃える平原』所収。ルルフォの登場人物はよく歩く。てくてくと、とぼとぼと、あるいは地を這うように。灼熱の太陽と乾いた土、暴力と血の匂いにまみれて。
生涯で2冊しか著作を刊行しなかったルルフォであるが、ラテンアメリカの文学に与えた影響は計り知れない。メキシコ革命のさなかに生まれ、引き続く内戦で父や親族を失い、母も早逝したルルフォにとっては、書くべき現実はそのまま小説世界でもあったはずだが、それらを凝縮させ、昇華させることに類い希な想像力を発揮した。生者と死者が交錯し、時間の流れも自在に逆転する幻想的な作品『ペドロ・パラモ』(1955)は、中篇と言うべきであろうが、フォークナーの『アブサロム・アブサロム』を思わせる長編の密度がある。
『ペドロ・パラモ』の2年前に刊行された『燃える平原』は、それに比べるとリアリズムに近く、とりわけて凝った構成ではないが、こうして単独で読んでみると、その重量感に改めて驚かされる。『燃える平原』は、このような傑作がぎっしりと詰まった短篇集なのだ。
病に冒されたタニーロを伴い、病を癒やすタルパの聖母への巡礼行をする妻と弟。もともとはタニーロの願いだったとは言え、旅は確実に死へと向かっている。いや、向かわせている。タニーロの死を望む二人は、彼を励まし、強引に先へと進ませるのだ。タニーロはようやくたどり着いた聖母像の前で、大粒の涙を流し、祈り、息絶える。妻と弟はタルパの墓地の土深くに兄を埋めるが、悔恨の情に囚われ、互いをも恐れるかのように無言で帰途に就く。どろりと粘り着くようなタニーロの腐臭と共に、タルポの聖母が執拗低音のように彼等を苛ますことだろう。ひたすら何かに追われ、歩き続けねばならないかのように。
タルパにたどり着いたタニーロが、がらがらを握り、人々の踊りの輪に加わり、倒れた後も体をしきりに波打たせているという光景が鮮烈だ。いかにも土着的な踊りと聖母信仰とが結びつき、瀕死の人間の壮絶さを浮き彫りにする。珍しく革命や内戦はテーマになっていないが、底知れない闇に引きずり込まれるようだ。

「呪い卵」チヌア・アチェベ(1930~2013)
ニジェール川沿岸の町・ウムルは椰子油出荷港として急成長し、市場は大変な賑わいを見せている。町の成長はまた古き良き伝統を途絶えさせ、疫病をもたらす。そしてキティクパ(天然痘)が猛威を振るい、あれだけの賑わいを一網打尽にしてしまう。
ミッション・スクールを出てヨーロッパ系貿易会社に務めるジュリアスには婚約者がいるが、界隈に天然痘が発生し、会うことができなくなる。婚約者の母は熱心なキリスト教徒でエホヴァの神が事態を鎮めてくれると考えている。そんな中、ジュリアスは神に捧げられた卵を踏みつぶしてしまう。直後に「夜の仮面」―キティクパの猛威の比喩か―が村を破壊してしまう。婚約者も、その母もキティクパに斃れてしまう。
ナイジェリアの作家、アチェベはコンラッドの『闇の奥』の、被植民地の人間に対する人種差別的な描き方を強く批判したことで知られている。本作は、キリスト教文化によって、土着の文化が毀されていく様を描くが、民話的な比喩を多用し、理屈では割り切れない茫漠とした世界を描き出す。それにしても代償は大きい。近代的な教養を身につけた青年さえも、邪悪な神=キティクパの力を思い知らされることになるのだ。土地の神々をないがしろにした住民への、報復行為として。(霜田文子)

世界文学全集短篇コレクションより(1)

2016年01月12日 | 読書ノート
2007年から2011年にかけて刊行された池澤夏樹個人編集の「世界文学全集」(河出書房新社)を読んでいる。100巻前後もあって、古典を読むだけで挫折しそうだったこれまでの文学全集とは異なり全30巻、20世紀に限られている。これなら読破できそうだと思い折々買い求めて全巻揃った。とにかく「今」を知りたいと思っていたからだ。今春移転オープンする游文舎に収めるつもりでいる。しかし寄り道したり、手に取りながらどうしても、今読む気分ではないと後回しにしたりで、まだ3分の1近く読めないでいる。
中にはなぜこれが選ばれたのか、と思うものもなくはないが、現在の世界文学の状況がよくわかる。世界と、その描かれ方の多様性、西欧中心だったこれまでとは文学地図が大きく異なっている。作家の世界観にぐいぐいと引き込まれながら読んだ作品の一方で、読み残されている巻の多くが、かつて文学の王道だったイギリス、フランスの作家であることを告白しなければならない。
その多様性が凝縮されているのが全集最後にあたる第3集第5,6巻の短篇コレクションⅠ,Ⅱだ。もちろんそれぞれの作家を短篇だけで判断することはできないが、長篇では取り上げられないであろう辺境の作家もいて、編者の気配りと苦労―選択から外すということ―は想像に難くない。
私は短篇集をあまり好きではない。なかなか入り込めないままに終わってしまったり、印象に残ったいくつか以外は記憶に残らないことが多いからだ。だが、さすがにこの2巻にはそれはほとんどない。バラエティーに富み、それぞれの味がよく出ている(のだと思う)。読み終わったとき、とりわけ印象に残った作品を振り返ってみたくなった。編者によって厳選されたものからさらに選び直そう、ということではない。私は文学史的知識や、短篇作品としての巧みさといった判断基準を持ち合わせていないので、とにかく斬新な手法を見せてくれたり、未知の世界を開示してくれたり、これまでの世界観を解き放ってくれる作品が並びそうだと思ったからだ。

短篇コレクションⅠより
「南部高速道路」フリオ・コルタサル(1914~1984)
コルタサルについては代表作『石蹴り遊び』で、技巧に振り回されてつまずいて以来読んでいなかった。しかしこれは文句なしに面白い。2巻のコレクション中でも屈指の作品だと思う。コルタサルは短篇の名手だったのだ。
8月のうだるような暑さの中、郊外からパリへと向かう高速道路で渋滞が始まる。ありふれた光景だ。しかし当初の楽観的観測はことごとく覆され、異常な、原因不明の、先の見えない渋滞となる。わずかながらも動く車から、遠く離れるわけにはいかない。見えない壁に取り囲まれた閉鎖空間でもある。自然発生的にあちこちに共同体が組織され、互いを車種で呼び合う。一体どれだけの時間が過ぎたのか。次第に気温が下がり始め、雪が降り始め、雨と風の季節になっているのだ。自殺者や病死者も出る。ところが突然、これまた理由もなく渋滞が解かれ、車は動き始め、ぐんぐんとスピードが上がっていく。同時にあの濃密な共同体―恋も生まれた―はみるみるうちに解体していくのだ。時間と空間移動の緩急の振幅の大きさ、描写の巧みさに唸りながら、現代文明の落とし穴、そして難民のような状況を思い浮かべずにはいられない。(霜田文子)