4月19日(日)、游文舎開館七周年記念企画として映画「異境の中の故郷」上映会などを行います。会場は游文舎から徒歩5分、柏崎駅から徒歩7分ほどの市民プラザです。午後1時半開場、午後2時開演です。
映画は、作家・リービ英雄さんが幼少期を過ごした台湾・台中の“その場所”を52年ぶりに訪れる姿を追ったドキュメンタリーです。気鋭の映像作家・大川景子さんが、幾重にも積み重なった記憶の層を丹念にめくり、その度に揺れ動くリービさんの心の襞さえも映し取るように、繊細で、しかもきりりとした52分の映画に仕上げました。
当日は上映後、リービ英雄さん、大川監督、そして旅に同行した作家の温又柔(おんゆうじゅう)さんの鼎談も予定しています。会場の皆さんとの質疑応答の時間の他、游文舎に移ってサイン会、懇談の時間もあります。ぜひお出かけ下さい。
1950年にアメリカで生まれたリービさんが、父の赴任先・台中で過ごしたのは1956年から1960年までのことでした。1967年に初めて来日し、新宿歌舞伎町でアルバイトをしながら日本文学に目覚めます。その後は日米を往還し、アメリカの大学で日本文学の教授として、『万葉集』の研究や翻訳などをしながら、1987年、新宿時代の体験をアメリカで書いたのが「星条旗の聞こえない部屋」です。日本語を母語としない欧米人による、初めての日本語の小説でした。以降、「天安門」「千々にくだけて」など多くの小説を書く一方、「大陸」=中国を頻繁に訪れ、中国、アメリカ、日本についての紀行やエッセイも、日本語で書き続けています。それらの文章からは、たとえ日本の「私小説」のような形式をとっていても、日本語に対して極めて自覚的で、鋭敏で張り詰めた空気を感じないではいられません。そして複数の言語の渦をくぐりながら日本語で書くことによって、複眼的な思考や、生まれた国・アメリカを相対化する視線も獲得しています。
昨年の講演については舎友通信などで紹介しましたので割愛しますが、熱のこもった、密度の濃いお話に会場も大変な熱気に包まれていました。そんな講演の前後の、スタッフとの懇談の中で、映画「異境の中の故郷」が制作されたことを伺い、いつか柏崎で上演しようと約束したのでした。
それにしてもあれほど頻繁に「大陸」を訪れながら、なぜ対岸の国の“その場所”を訪れようとはしなかったのでしょうか。“その場所”とは、リービさんにとって、どのような場所なのでしょうか。 (霜田文子)
映画は、作家・リービ英雄さんが幼少期を過ごした台湾・台中の“その場所”を52年ぶりに訪れる姿を追ったドキュメンタリーです。気鋭の映像作家・大川景子さんが、幾重にも積み重なった記憶の層を丹念にめくり、その度に揺れ動くリービさんの心の襞さえも映し取るように、繊細で、しかもきりりとした52分の映画に仕上げました。
当日は上映後、リービ英雄さん、大川監督、そして旅に同行した作家の温又柔(おんゆうじゅう)さんの鼎談も予定しています。会場の皆さんとの質疑応答の時間の他、游文舎に移ってサイン会、懇談の時間もあります。ぜひお出かけ下さい。
1950年にアメリカで生まれたリービさんが、父の赴任先・台中で過ごしたのは1956年から1960年までのことでした。1967年に初めて来日し、新宿歌舞伎町でアルバイトをしながら日本文学に目覚めます。その後は日米を往還し、アメリカの大学で日本文学の教授として、『万葉集』の研究や翻訳などをしながら、1987年、新宿時代の体験をアメリカで書いたのが「星条旗の聞こえない部屋」です。日本語を母語としない欧米人による、初めての日本語の小説でした。以降、「天安門」「千々にくだけて」など多くの小説を書く一方、「大陸」=中国を頻繁に訪れ、中国、アメリカ、日本についての紀行やエッセイも、日本語で書き続けています。それらの文章からは、たとえ日本の「私小説」のような形式をとっていても、日本語に対して極めて自覚的で、鋭敏で張り詰めた空気を感じないではいられません。そして複数の言語の渦をくぐりながら日本語で書くことによって、複眼的な思考や、生まれた国・アメリカを相対化する視線も獲得しています。
昨年の講演については舎友通信などで紹介しましたので割愛しますが、熱のこもった、密度の濃いお話に会場も大変な熱気に包まれていました。そんな講演の前後の、スタッフとの懇談の中で、映画「異境の中の故郷」が制作されたことを伺い、いつか柏崎で上演しようと約束したのでした。
それにしてもあれほど頻繁に「大陸」を訪れながら、なぜ対岸の国の“その場所”を訪れようとはしなかったのでしょうか。“その場所”とは、リービさんにとって、どのような場所なのでしょうか。 (霜田文子)