ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

游文舎コレクション展始まる

2021年03月17日 | 游文舎企画
雪の心配もなくなり、花の季節がすぐそこに来ています。游文舎の今年の企画展が始まりました。まずは游文舎企画委員のコレクションから。



小品ながら存在感抜群の菅創吉の作品で始まります。







上野憲男さんのみずみずしく感性溢れる作品と、水野竜生さんの一瞬で情景を切り取った作品、さらに抽象を追求し続ける野中光正さんの版画。



若月公平さんの銅版画と星野美智子さんのリトグラフは柏崎では初公開です。他に舟見倹二さん、原陽子さん、佐藤伸夫さんの作品も。
今日は県内のコレクターの方が来られ、コレクションにまつわるいろいろなお話で盛り上がりました。作品を観るだけでなく、所蔵することでまた別の物語が始まるようです。そんな背景も想像しながらお楽しみ下さい。菅創吉、上野憲男、水野竜生、佐藤伸夫、星野美智子さんの画集も揃えました。ゆっくりとお過ごし下さい。


「芸術は呪術である」――「岡本太郎展――太陽の塔への道」

2021年03月01日 | 展覧会より


万代島美術館で「岡本太郎展――太陽の塔への道」を観た。入ってすぐに太陽の塔内部と「生命の樹」の模型が展示されている。まばゆいばかりの光の中、大きな樹を見上げると、生命の進化を表わす生き物がびっしりと実っている。万博閉幕後に扉を閉ざして放置され、ほとんど廃物同様になっていたのだという。
会場はその後、単独の絵画、立体、写真と続き、再びエスキースなど太陽の塔制作に関わる展示となり、塔地下の復元展示で締めくくられている。



「地底の太陽」は圧巻だった。「いのり」という呪術空間の中心だったが、万博後行方不明になったままで、当時の記録を元に復元されたという。黄金の巨大な仮面と、それを取り巻くような世界の仮面や神像たちが不敵に、大胆に、時にユーモラスな表情を見せる。生き生きとしている。実は岡本の最も好きなものたちが集められたのではないかと思ってしまった。そして胎内巡りをするかのような瞑想空間である地下展示のジオラマは、随分縮減されているにも拘わらず、地底で蠢くエネルギーを想像させた。ここは畏れと神秘の中で、戦いも信仰も一続きのうちにある古代の生の場そのものなのだろう。
1970年大阪万博から半世紀、すでにしてこれほどの空間アートが達成されていたとは――。もうこの時点で現代アートは出尽くしていたのではないか、とさえ言いたくなる。塔内部も展示空間(パビリオンの一つ)であったと知ったのは最近のことだ。観た人もたくさんいたはずなのに、それを聞く機会がなかったのは迂闊だった。あるいは覚えていなかっただけかもしれない。大阪万博は、地方の高校生になりたてだった私には遠いことだった。1964年の東京オリンピックは素朴に楽しんだけれど、その勢いに乗って地方を置いてきぼりにしたまま大はしゃぎでお祭り騒ぎしているようで、ほとんど目を向けていなかった。だから「太陽の塔」は「お祭り広場」という白々しい祝祭空間にふさわしいキッチュなこけおどしのモニュメントにしか思えなかったのだった。
岡本太郎に目を向けるようになったのは縄文の発見者としてである。縄文土器と言えば、東京オリンピックと同じ1964年に開催された新潟国体の炬火台のデザインが新潟県で発掘された火焔土器であり、子供心にも「美」とは違う、感動させるものがあると思っていた。だからずっと後に、それを言葉で表現した文章に出会った喜びは大きかった。パリで文化人類学を学んだ岡本は、体系づけられた芸術論や美術史が西欧の目だけから見た世界であり、彼らの「時間」で捉えられた流れにしかすぎないことをいち早く看破している。同時に日本の美の基準も、急速な近代化の中で西欧文化へのコンプレックスから急ごしらえされたものでしかないことも指摘する。縄文土器を初め、世界各地のプリミティブアートに向ける目は、日本も西欧も相対化出来る視線から生まれたものだ。
今展で観ることができたのは、もちろん岡本のほんの一部でしかないが、それでもそのスケールの大きさは十分に感じ取ることが出来た。岡本についてのプロフィールではよく、絵画、彫刻、陶芸、文章など“幅広く多才”と紹介されているが、それらはジャンル分けするのではなく全てがつながっていて、充満した変幻自在の一つの球体のように思う。だがそんな中で絵画にどこか窮屈さを感じてしまった。欠点をあげつらおうというのではない。批判のためではない。岡本の作品を技術の巧拙とか一般的な美の基準で捉えようなどとも思っていない。それだからこそむしろシュルレアリスムとも抽象表現主義ともつかない油彩画を観ていると、そこだけ借り物のようで違和感がある。


      <エクセホモ>1963年

1960年頃のいくつかの作品の前には「芸術は呪術である」と書かれたパネルがあり、まるで何かが降りてきてそのままキャンバスに描きつけられたような作品が並んでいたが、あれほどに原始から未来までの長大な時空間の中で美術を捉えているにも拘わらず、それから見ればほんの僅かな歴史しか持たない油彩画の、しかも直近の美術潮流の中に絡め取られている矛盾を見たような気がしたのだ。そこには直接西欧の美術潮流に浸かった者として、単に西欧に追随する――戦前も戦後も自己批判することなく――日本の美術界へのもどかしさもあったかもしれない。葛藤もあっただろう。しかし「残ったものよりも消えた世界の方がどの位い大きく無限の広がりをもって躍動していたか」「惜しみなく消えていった文化の巨大さ、高貴さ」(『美の呪力』1971年)という岡本のことである。前衛とは、直近のものを超える程度のものではないことは自身が最もよく知っていたはずだ。作品タイトルにもなっている「明日の神話」こそ、逆説的な前衛性を物語ってはいないだろうか。


      <いのり>

ところで私は地下展示のジオラマの中でも、無数の仮面が吊されている<いのり>というスペースが特に好きだ。仮面について岡本は次のように述べている。
「人間というのは根源的に矛盾的存在なのである。自分と自分を超えたものとを、いつも自分の内にもち、そしてその双方をしっかりとつかんでいなければ本当には生きられないのだ。・・・・・・矛盾を克服するためにさらに矛盾した様相で身をよそおい、一だんとそれを深める。仮面――。人間存在の矛盾律、その言いようのない二重性を克服するために仮面が存在しているとしか思えない。」(『美の呪力』)
仮面は神や祖霊など超自然的なものと結びつく手段であると共に、岡本自身が密かに身につけ、自己の内部の矛盾を克服するためのものでもあったのだろう。そうして様々な仮面をつけながら自分ではない、自分以上のものを創り出し、別の次元へと引き上げていこうとしたのではないだろうか。
「芸術は呪術行為である」とは岡本が崇敬するピカソの言葉にもある。絵を描くのは美的行為ではなく、世界と自分とを取り次ぐ一種の魔術であるとピカソは捉えていた。しかし西欧美術の行き詰まりの中で原始美術に目を向けたピカソは、原始の人々の、世界との交信・対峙の手段としての遺物を、換骨奪胎して自身の芸術創造に生かしたのではなかったか。ピカソの技術に及ばないことを自覚していた岡本は、しかし、ピカソよりもはるかに古代の精神を引き継いでいたと思う。だから岡本にとっての<ゲルニカ>である<明日の神話>は、メキシコの壁画のような巨大な壁画でなければならなかったし、それと対をなす「太陽の塔」の太陽は、彼を惹きつけてやまないオルメカ時代(メキシコの古代文明)の巨石の顔と重なって見えるのである。(霜田文子)