ところでナチス・ドイツによるホロコースト以前、ポーランドにはヨーロッパで最も多くのユダヤ人がいたことは案外知られていないかもしれない。その数三〇〇万人はアメリカに次いで多く、一割強という全人口比率は世界最大であった。ちなみにウクライナは一五〇万人、ドイツは五〇万人である。また二〇世紀に入ってアメリカが急増したのは、旧ロシア・旧ソ連での相次ぐポグロムで移民した人が多いからだ。
なぜポーランドにユダヤ人が集まったのだろうか。野村真理著『ガリツィアのユダヤ人』(人文書院 二〇〇八年刊)によれば、ローマの圧政で紀元一世紀から始まっていたユダヤ人への迫害は、十字軍以降さらに激しくなり、その移動先もより遠方へ、東方へと拡がった。そんな中でユダヤ人に対して、ポーランド王たちが手厚い保護政策をとったのだという。そしてユダヤ人の間では「ポーランド」という地名は、「ここにとどまれ」を表わすヘブライ語「ポ・リン」に由来すると伝えられているという。以下、同書が紹介するハイコ・ハウマン著『東欧ユダヤ人の歴史』の一部を引用する。
イスラエルの民は見た。苦難がたえず新たに繰り返され、悪しき定めがいや増し、迫害が増大されるさまを。(中略) かくして彼らはポーランドへ行き、王に黄金を丸ごと贈ると、王は礼をつくして彼らを受け入れた。(中略) この国の名もまた、聖なる源、すなわちイスラエルの民の言葉に由来すると信じる者がいる。というのもイスラエルの民がこの地にやって来たとき、彼らが「ポ・リン」と言ったからである。これは「ここにとどまれ」という意味で、彼らは、神が散り散りになってしまったイスラエルの民を再びお集めになるまで、われらはここに宿ることにしようと考えたのだ。
まさに今、ウクライナから難民を受け入れているポーランドの光景と重ねたくなる。もちろんポーランド王が厚遇した背景には利害の一致があったからであり、大国に挟まれ、不安定な政治に翻弄されていたポーランド人やウクライナ人にとって、ユダヤ人は必ずしも好ましい隣人でなかったのは事実だ。不完全ながらもユダヤ人の法的平等を謳っていたハプスブルク帝国時代から民族自決の時代に入ったとき、それは先鋭化する。ここからはポーランドにもウクライナにも耳の痛い話になる。それは翻って我々日本人にもそのまま当てはまるのだが。
ドロホビチの生家を第一次世界大戦時にロシア軍によって焼き払われたシュルツであるが、彼らガリツィアのユダヤ人を悩ませたのは、むしろその後独立ポーランドと、独立をはかるガリツィア=西ウクライナとの帰属を巡る闘争の渦中で、どちらからも敵視されたことだろう。それはちょうどシュルツの生きた時代のことだ。ポーランドによるポグロムや暴行や排斥が続き、一方ウクライナ民族主義者たちは次第にナチスに接近し、独ソ開戦後にはドイツ軍と共にポグロムを引き起こしている。シュルツは、一九三九年ソ連占領下で教職を続け、社会主義リアリズムの絵を描き(もともと美術教師であった)、一九四一年にドイツに占領されたドロホビチで、翌年、ゲシュタポによって路上で射殺された。
随分前置きが長くなってしまった。これらは背景状況でしかない。早く作品について語らなければならない。“悲劇的な運命”というバイアスをかけてはいけない。こうしたことはシュルツにとって決して本意ではないはずだ。シュルツの作品には、驚くほど時代性や政治性が見られない。私もまた、日常性からかけ離れたひたすら妄執的な世界にどっぷりと浸ってきたのではなかったか。それもこれもロシアのウクライナ侵攻というショッキングな事件のなせるところだと思いたい。ただ、それでは狂気の時代であっても作品に影響はなかったのか、といえばそれはあり得ないだろう。戦争の狂気を眼前にした今、ポグロムやホロコーストの恐怖に脅えながらなお「ポ・リン」――ここ・ドロホビチにとどまり続けたことが作品解釈に反映されてもよいと思っている。