ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

田端優子展ブログ展

2022年04月21日 | 游文舎企画

希望のトルソ(ブロンズ)

田端優子さんの彫刻展、好評開催中です。
心和む空間です。ゆっくり時間をかけてお楽しみください。4月24日午後4時まで。


風の天(乾漆)


花の詩(乾漆)


WOMAN2021(乾漆)


BOSATSU(FRP)

田端優子展「HANA」 4月16日より

2022年04月13日 | 游文舎企画






田端優子展の準備が整いました。シンプルでなめらかなフォルムと、穏やかで優しい表情をした女性像は、共に祈り、共に記憶を振り返る、まさに心に寄り添う像です。そして太古や宇宙に思いを馳せた子供の頃に立ち帰らせてくれるようなオブジェたち。一貫した「心地よさ」とは、確かな技術があってのこと。そう再認識させてくれる作品でもあります。そんな田端さんの世界をどうぞお楽しみ下さい。

ブルーノ・シュルツ――揺らぐ国境の町で(2)

2022年04月09日 | 読書ノート
ところでナチス・ドイツによるホロコースト以前、ポーランドにはヨーロッパで最も多くのユダヤ人がいたことは案外知られていないかもしれない。その数三〇〇万人はアメリカに次いで多く、一割強という全人口比率は世界最大であった。ちなみにウクライナは一五〇万人、ドイツは五〇万人である。また二〇世紀に入ってアメリカが急増したのは、旧ロシア・旧ソ連での相次ぐポグロムで移民した人が多いからだ。
 なぜポーランドにユダヤ人が集まったのだろうか。野村真理著『ガリツィアのユダヤ人』(人文書院 二〇〇八年刊)によれば、ローマの圧政で紀元一世紀から始まっていたユダヤ人への迫害は、十字軍以降さらに激しくなり、その移動先もより遠方へ、東方へと拡がった。そんな中でユダヤ人に対して、ポーランド王たちが手厚い保護政策をとったのだという。そしてユダヤ人の間では「ポーランド」という地名は、「ここにとどまれ」を表わすヘブライ語「ポ・リン」に由来すると伝えられているという。以下、同書が紹介するハイコ・ハウマン著『東欧ユダヤ人の歴史』の一部を引用する。

 イスラエルの民は見た。苦難がたえず新たに繰り返され、悪しき定めがいや増し、迫害が増大されるさまを。(中略) かくして彼らはポーランドへ行き、王に黄金を丸ごと贈ると、王は礼をつくして彼らを受け入れた。(中略) この国の名もまた、聖なる源、すなわちイスラエルの民の言葉に由来すると信じる者がいる。というのもイスラエルの民がこの地にやって来たとき、彼らが「ポ・リン」と言ったからである。これは「ここにとどまれ」という意味で、彼らは、神が散り散りになってしまったイスラエルの民を再びお集めになるまで、われらはここに宿ることにしようと考えたのだ。

まさに今、ウクライナから難民を受け入れているポーランドの光景と重ねたくなる。もちろんポーランド王が厚遇した背景には利害の一致があったからであり、大国に挟まれ、不安定な政治に翻弄されていたポーランド人やウクライナ人にとって、ユダヤ人は必ずしも好ましい隣人でなかったのは事実だ。不完全ながらもユダヤ人の法的平等を謳っていたハプスブルク帝国時代から民族自決の時代に入ったとき、それは先鋭化する。ここからはポーランドにもウクライナにも耳の痛い話になる。それは翻って我々日本人にもそのまま当てはまるのだが。
ドロホビチの生家を第一次世界大戦時にロシア軍によって焼き払われたシュルツであるが、彼らガリツィアのユダヤ人を悩ませたのは、むしろその後独立ポーランドと、独立をはかるガリツィア=西ウクライナとの帰属を巡る闘争の渦中で、どちらからも敵視されたことだろう。それはちょうどシュルツの生きた時代のことだ。ポーランドによるポグロムや暴行や排斥が続き、一方ウクライナ民族主義者たちは次第にナチスに接近し、独ソ開戦後にはドイツ軍と共にポグロムを引き起こしている。シュルツは、一九三九年ソ連占領下で教職を続け、社会主義リアリズムの絵を描き(もともと美術教師であった)、一九四一年にドイツに占領されたドロホビチで、翌年、ゲシュタポによって路上で射殺された。
随分前置きが長くなってしまった。これらは背景状況でしかない。早く作品について語らなければならない。“悲劇的な運命”というバイアスをかけてはいけない。こうしたことはシュルツにとって決して本意ではないはずだ。シュルツの作品には、驚くほど時代性や政治性が見られない。私もまた、日常性からかけ離れたひたすら妄執的な世界にどっぷりと浸ってきたのではなかったか。それもこれもロシアのウクライナ侵攻というショッキングな事件のなせるところだと思いたい。ただ、それでは狂気の時代であっても作品に影響はなかったのか、といえばそれはあり得ないだろう。戦争の狂気を眼前にした今、ポグロムやホロコーストの恐怖に脅えながらなお「ポ・リン」――ここ・ドロホビチにとどまり続けたことが作品解釈に反映されてもよいと思っている。





ブルーノ・シュルツ――揺らぐ国境の町で(1)

2022年04月07日 | 読書ノート
(1)ポ・リン/ここにとどまれ

年明けからポーランド語の作家ブルーノ・シュルツを読み始めたのは、昨年末ヴァルター・ベンヤミンを読み込みながら、同じような境遇だと改めて思ったからだった。シュルツの小説についてはすべて再読、再々読になる。というのも残されているのは『肉桂色の店』『砂時計サナトリウム』という二冊の短編集と、未収録の四つの短篇があるだけだからだ。とはいえ、過剰なまでの比喩と修飾語に彩られた濃密でグロテスクな世界は、しばしば読者を幻惑し、迷宮に誘い込み、時間を見失わせるから相当の集中力を要する。「大鰐通り」という短篇は、ブラザーズ・クェイの映画「ストリート・オブ・クロコダイル」の原作である、と言えばご存じの方もいるだろうか。象徴に満ちたこの映画は、何度見ても非常にわかりにくいが、シュルツのイメージはよく捉えられている。
1892年に生れ、1940年に亡くなったベンヤミンも、やはり1892年に生れ、1942年に亡くなったシュルツも共にユダヤ人であり、戦争とファシズムの犠牲者である。しかしどうやらお互いについて言及していることはなく、それがこれまで特に意識してこなかった大きな理由だ。最近、書簡や評論なども収録した『ブルーノ・シュルツ全集』(工藤幸雄訳 新潮社 1998年刊)を入手したので、小説以外も読むつもりでいたのだった。
そうこうしているうちにウクライナとロシアの関係が悪化してきた。それでも世界中が注視しているこの時代に、そんなに大それたことができるはずはないと思っていた。だから半信半疑のまま、呆然と侵略の日の報道を見ていた。いったん侵攻が始まると、堰を切ったように暴力は歯止めがかからなくなった。早々に民間人の犠牲者が伝えられる。ベンヤミンやシュルツが巻き込まれた暴力が、急に身近に感じられるようになった。
「冬の日2022年2月24日、ロシアが攻めてきた。信じられないけれど、本当のことだった。」
10歳くらいの少年が日記を読み上げる。私もまた、この日を一生忘れることはないだろう。
「私は2回避難した。一回目はファシストから、2回目は同国の兄弟から」
85歳の女性が語る。市民の声は時に詩人の言葉になる。増え続ける避難者たち。4月4日の報道では国外避難者は424万人。その約6割、246万人がポーランドに避難しているという。先の言葉はいずれもポーランドにたどり着いた人たちの声だ。
ウクライナからの報道の多くが西部リヴィウから伝えられている。ハルィチナー地方リヴィウ州の州都である。ロシアからの攻撃が比較的少ないこの都市は、ポーランドへ向かう拠点ともなっている。ブルーノ・シュルツはリヴィウから80km程離れた同州ドロホビチに生れ、リヴィウ工科大学建築科に進んだが、生涯のほとんどをドロホビチから離れることなく、小説もまた連作のように繰り返しこの地と思われる町を舞台にしている。
 ところで冒頭でシュルツをポーランド語の作家と言った。シュルツの国籍を説明するのは簡単ではない。リヴィウやドロホビチを含むハルィチナー地方東部は、第一次世界大戦まではオーストリア・ハンガリー帝国領で、第一次大戦後は、独立したポーランドに編入され、1939年ドイツのポーランド侵攻後、ドイツとソ連のポーランド分割に伴い、ソ連のウクライナ共和国に併合され、さらに1941年には独ソ戦により、ナチス・ドイツの支配下となった。つまりシュルツは生れたときはオーストリア・ハンガリー帝国人で、次いでポーランド、ソ連、ナチス・ドイツということになるのである。ウクライナ語のリヴィウは、ポーランド語ではルヴフ、ドイツ語ではレンベルクと、全く違った響きを持つ。
 二つの戦間期、ハルィチナー地域東部ではユダヤ人が人口の十二%を占めていたということだが、ユダヤ人は都市部に集住していたこと、リヴィウでは三〇%を占めていたということから、ドロホビチでもかなりのユダヤ人がいたことと思われる。この地域のユダヤ人の多くがイディッシュ語やヘブライ語を日常語としていたが、シュルツ家ではポーランド語を使用し、ブルーノ・シュルツ自身はドイツ語も堪能だったが、イディッシュ語やヘブライ語は解しなかったという。本文では以降、シュルツに合わせてリヴィウをルヴフ、ハルィチナーをガリツィアと表記する。(霜田文子)