ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

ダニ・カラヴァンの憂鬱(3)

2018年04月13日 | 旅行

天文の塔

 公園全体のセンター部分には最も大きくて主要なモニュメントがある。円形に掘られた池の中心に「天文の塔」が立ち、それを「太陽のゲート」を乗せた一直線の橋が貫いている。
 このゲートの景観も極めて美しい。一見連続して立てられた鳥居を思わせるが、より幾何学的でシャープなイメージを持っている。「天文の塔」には階段が刻んであって、頂まで登ることができる。頂からは太陽の光が差し込んできて「時」を示すらしいが、あいにくの曇天でそれを見ることはできなかった。
 橋は北緯34度32分のライン上にあり、そこには室生寺、長谷寺、伊勢斎宮跡、箸墓古墳等が配置されていて、太陽信仰と関係があるというが、もちろんダニ・カラヴァンは「天文の塔」に古代の太陽信仰を象徴させているわけだ。
 ただしそれは、日本の古代のイメージを喚起しない。むしろメキシコのピラミッドのようなイメージで、日本の里山の景観と調和しているとは言えない。しかし、「太陽のゲート」を乗せた一直線の橋は、神の通り道のようであり、神聖なイメージを強く喚起する。その美しさは神的なイメージと結びついている。

太陽のゲート

 そこをすこし登っていくと再現された棚田が広がっている。建設当初は稲を栽培していたというが、イノシシが出て荒らすのでやめたらしい。現在は耕作放棄地となっている。しかしこの棚田もちんちくりんで、周囲の自然と調和しているかもしれないが、カラヴァンの作品にはどう考えてもそぐわない。そこに抽象化されたものが何もないからである。
さらに進むとかなり広い池があって、三つの島が浮かんでいる。そして「ピラミッドの島」と「ステージの島」が橋で連結され、「ステージの島」の両側には観覧席がつくられている。
 言うまでもなく祭祀の場である。これらのモニュメントは沢の一番高いところにあって、そこが神聖な場所であることを示している。またモニュメント群は左右対称に配置されていて、これも日本庭園にはあり得ない構造である。
 全体としてみたときに、里山の自然との調和を考えた作品ではまったくなく、むしろ里山の自然に対して抽象化された自然を対峙させようという意図を感じないわけにはいかない。また下から登っていった体験から、自然の領域から歴史の過程を経て、神の領域に至るという構成を読み取ることができるような気がする。

ステージの島からピラミッドの島を望む


 ところで、この公園は平成13年から17年にかけて国交省の支援を受けた公共事業として整備されたものである。構想は平成9年からあって、旧室生村(現在は宇陀市室生区)出身の彫刻家井上武吉の人脈から、ダニ・カラヴァンに依頼することになったらしい。
 パンフレットは「公共事業とアートの融合」を謳っているが、これもよくある話で、室生寺しか観光資源のない旧室生村が、もう一つの観光スポットとして構想し、実現させたものなのだ。
 しかし私が訪れたときは、京都美術工芸大学の学生たち十数人がいたが、普段はほとんど人が訪れることはないという。受付のおじさんは久しぶりに大勢人が来て興奮していたようで、熱心に解説を買って出るのだった。
 ダニ・カラヴァンの作品は日本では札幌ともう一カ所あるが、いずれも単体の作品で、これだけの規模のものは室生にしかないと、おじさんは自分の手柄のように話すのだった。
 それどころか、これだけの規模のものは世界中でも稀かも知れない。だが、いかんせんアクセスが悪すぎる。室生寺自体車でなければ来られないところで、そのために外国人観光客はまったくいない。この国際的に評価の高い芸術家の作品を、諸外国の人たちに見てもらえないことは宝の持ち腐れである。しかも室生寺を訪れる人でカラヴァンの作品を楽しめる人がどれだけいるかということも疑問である。
 私はカラヴァンの作品に魅せられながらも、「公共事業でこんなことやるもんじゃない。誰も人が来ないじゃないか。税金の無駄遣いだ。」という内心の声に鑑賞を妨げられっぱなしだった。
 ダニ・カラヴァンの憂鬱が思いやられる。
(柴野・この項おわり)


ダニ・カラヴァンの憂鬱(2)

2018年04月12日 | 旅行

「波形の土盛」

 北側ゲートから入って、施設棟で400円の入場料を払い棟を抜けると、ジグザグの登坂があって、登ったところに「波形の土盛」というモニュメントがある。両側にレッド・ロビン(よく生垣に使われる春赤い葉っぱをつける植木)が植えられている砂利の道が奥へと続いている。
 その先には「弘法の井戸」があるらしいが、それよりもレッド・ロビンがドーム型に刈り込んであること、そして砂利の道が波状にうねっていることに特徴がある。植物を幾何学的な形に刈り込むのはヨーロッパの庭園でよく見られるスタイルであり、波状の道もまた幾何学的に正確なパルスを刻んでいる。
 いわばそこには〝抽象化された自然〟とも言うべき空間があって、周囲の山林と対照をなしている。日本庭園は自然を模倣するが、ダニ・カラヴァンの庭園は自然を抽象化するのである。
 次に見えてくるのは「螺旋の竹林」。螺旋状のスロープを降りて地下に入り、地上への階段を上って外に出る仕掛けなのだが、私は逆コースをたどることになった。鉄製で臙脂色の三角形のオブジェがあり、そこに矩形ならぬ台形(縦長の)の闇が口を開けている。
 これはポルトボウの記念碑の入り口にそっくりではないか。しかも階段を下りていくと先の方に矩形の光が見えてくる。これもポルトボウの降りていく階段の先に見える矩形の外光の仕掛けをなぞっている。私はだからここで、ベンヤミンの記念碑を別の時空で体験しているような錯覚に陥るのであった。


ぴんっぼけですが

 ベンヤミンの記念碑でもそうであるように、ダニ・カラヴァンは自然光を効果的に使う作家である。暗闇からかいま見える太陽の光は、歴史への希望を象徴しているのに違いない。ポルトボウではそれは明瞭に効果を上げているわけだが、ここ室生ではどうか。
 とにかく正規のルート、螺旋の竹林から降りていくのではなく、逆に出口の方から入っていく方が、降りていく階段の先に矩形の光が姿を現すという点で、カラヴァンのコンセプトを忠実に示すことになるのではないかと思う。ところで竹林は(ちんちくりんな)は必要なのか。そこには日本庭園的構想との妥協があるように思えてならない。施主の無用な意向を感じないではいられない。

「螺旋の竹林」

 その隣に私が一番気に入った「螺旋の水路」というモニュメントがある。渦を巻いたような白いコンクリートで造られた水路が蛇行を繰り返しながら、先へ先へと続いていく。その先にはきちんと刈り込まれた「ドリームツリー」なる木が植えられているが、その木がなんの木なのか、入り口で解説してくれたおじさんが言っていたのに忘れてしまった。

「螺旋の水路」

 このモニュメントは文句なしに美しい。消失点に向かっていく遠近法が、直線ではなく蛇行する曲線によって表現されているかのようだ。いわば時空の歪みがそこに驚くべき遠近法的表現を実現させている。消失点にある木が何を象徴しているのかと言えば、それは紆余曲折を経て蛇行するかのように展開していく歴史の終局の到達点が、木に象徴される〝自然〟であるということなのではないか。
 このモニュメントにも自然の抽象化という構成力が働いている。ダニ・カラヴァンの庭園は、自然を歴史的に抽象化し直すのだと言ってもよい。彼の抽象化が最もドラマティックに示されているのはこの「螺旋の水路」ではないだろうか。
「螺旋の竹林」のように下手に和風を装ってはならない。カラヴァンはカラヴァンなりのコンセプトを貫くべきであって、それが日本の里山と調和するかどうかということはそれほど重要な問題ではない。
 和風におもねるのではなく、里山の自然に抽象化された自然(それは自然に対する解釈であると同時に、歴史に対する解釈でもあるわけだ)を対峙させることが、カラヴァンの使命であったのではないか。