「街場の教育論」内田樹 ミシマ社 2008年
膨大な数の著作を次々と世に出す、ちょっといそうでいなかった論断おじさん、内田樹。この人の書くものは、「すごくいいこと言ってるんだけど、翌日には内容を忘れる」傾向にある。私は。「ためらいの倫理学」もすごく面白かったのにもう何も覚えていない。なぜかと考えつつ読んでみた。
大学の講義をMDに録音してそれを起こしたのがこの「街場の教育論」 まちば、と入力すると待場と変換されるが、待場ってなんだ?意味は分かるがそんな言葉使ったことない。大学の講義らしい内容なので、読みやすいわりに、アカデミック。
教師は言うことなすことに首尾一貫してはいけないと内田氏は言う。なぜかと言うと、生徒たちは葛藤することによって成熟するから。ふむふむ。これはなるほどと思う。考えてもみなかってけど、確かにそれって言えている。これが内田樹の真骨頂なのだ。これは親についても言えるのではないだろうか?一貫性なんて親にとっては必要なく、揺れ動く生き物であると子供に伝える(伝わる)ことに意味がある。上司の一貫性のなさが部下にとって良いことなのか、若輩者の私にはまだ分からない。
また昨今言われる「教師の教育力の低下が、教育の現場の崩壊を生んでいる」という議論について、内田氏は「教師が反体制的でなくなったのが、教師の教育力低下をまねいたのではないか」と言う。確かに教師、特に小学校の教師なんて権力とか体制に対して強い反感を持ってた。日教組のことはよく知らないのだが、「現体制はとっても良いのよ」とか「お金持ちになることが幸せなのよ」とか「良い学校行って良い会社に入りましょうね」なんてことを教師は絶対言わなかった。そんなことを思うような人間は教師になっていなかった(と私も思うし、内田氏もそう言う)
大人になれば、自然と体制的・権力的思考が世を仕切っていることを知るはずなので、それ以前の教育ではそれと違う考え方を子供たちに学ばせるべきである(というようなことを内田氏が書いていたかどうか忘れたが)その通りだと思う。
教師に特別な資質が要求されるわけじゃなく、教壇に立てば教師になってしまうという話や、彼の大学のゼミに入るための面接では、必ずしも個人の能力ではなく他の人のパフォーマンスを上げることが出来る人間かどうか見てるとか、頷けるし、ふむふむと考えさせる箇所が多い。
内田氏はこの本を教師に読んで欲しいと書いていたが、教師はきっとこんな本を読まないだろう。いや、たいてい○○に読んで欲しいと思って書いたモノは○○以外の人に読まれるのである(このブログもそう) 物事を筋道立てて考える方法論とか、学ぶ(大人になってもね)とか教えるとか、教師以外が読んで意味があることを何かつかめる本だと思う。内田氏の本で読んだことは間違いないのだが、この「街場の教育論」じゃない別の本だったか忘れてしまったが、やればできる子と親は言うけれど、「やることのできない子」が巷に溢れているという記述を読んで、うまいこと言うのお、このおじさん、と思った。
相変わらず、内容が深い割りに文章がすごく軽いので、頭の中にメモを取りながら読んだら、多少は記憶に残った。中公文庫の世界の歴史全何十巻を読んで、それで大体の歴史を理解できた高校時代の某友人Kと、読んで面白かったのに何にも記憶に残らなかった私、高校時代の差が今に至るわけである。
しかし、これで1680円は安い。
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今日の一曲
吉幾三+キング・クリムゾン
2曲を合体させると出来上がる曲はこうなるのか。すごいすごい。
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