頭の中は魑魅魍魎

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『邪悪なものの鎮め方』内田樹

2014-11-25 | books
「邪悪なもの」を鎮める方法。「どうしていいかわからないときに、正しい選択をする」ためには「ディセンシー(礼儀正しさ)」、「身体感度の高さ」「オープンマインド」が必要だと説く、ウチダセンセイの本。

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々はいささか警戒心を書いているように私には思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。(中略)
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的は想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。

統合失調症に至らなくても、「統合失調症的」な固着に囚われることはあるはず。その際にどう自分の気持ちを変えればよいのだろうか。

私たちの社会のたいへん深刻な問題のひとつは「人を見る目」を私たちが失ってしまったということである。
誰にでも見えるものなら「人を見る目」があるとか「ない」とかいうことは言われない。ごく例外的に見識の高い人にだけ「見えて」、そうでない人には「見えない」からこそ、「人を見る目」という熟語が存在するのである。
というのは、「人を見る目」というのは、その人が「これまでにしたこと」に基づいて下される評価の精密さのことではなく、その人が「これからするかもしれない仕事」についての評価の蓋然性のことだからである。

人を見る目か。なるほど。

夏目漱石も山県有朋も明治大正の紳士たちは様々なお稽古ごとに励んだ。なぜか?

私はその理由が少しわかりかけた気がする。
それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。

おっと、そうか。私がキックボクシングなるお稽古ごとで、先生に何度も何度も同じ注意を受け続け、自らの下手さに呆れ、蹴られた腿の痛みに下を向いてとぼとぼとと家に帰る、ことにも意味があるのかも知れない。そうか、本務のためか。ふむふむ。ちょっと救われる。(救われてる場合か?)

歴史主義には悪いところもあるが、いいところもある。
特にいいところは、「私たちが今生きているこの社会は、テンポラリーなものであって、始まりがあった以上、いずれ終わりが来る。」という考えである。こういう考え方をつねづねしていると、今ある「このような社会」はいつ、どんなかたちで「それとは違う社会」になるのかということが気になるようになる。そういうことをいつも気にしている人間は、「今ある社会がこれからもずっと続く」と思っている人間よりも、社会が大きな変動期に入ったときに慌てない確率が高い。

確かに確かに。たとえ今、いじめにあっているとしても、それがテンポラリーなことであってと、考えることができるかも知れない。そして、歴史を学ぼうとしない人は、常に「事態が起こってから対処」しようとする。(アメリカは、そういう国ではないだろうか)

「公正で人間的な社会」を「永続的に、法律によって確実なものにする」ことは不可能である。それを試みる過程で100%の確率で「不公正で非人間的な政策」が採用されるからである。

どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。それを涵養せねばならない。「異性が一〇人いたらそのうちの三人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「一〇人いたら五人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「一〇人いたら、七人はいけます」というのが「達人」である。Someday my prince will comeというようなお題目を唱えているうちは子どもである。

これには、大きく頷いてしまった。昔は、「この人とじゃなきゃ結婚できない」と納得できないと結婚してはいけないと思い、一〇〇人の中の一人とすらうまくやっていけるか不安だったけれど、今では一〇人いれば、うち四人とはオッケーと思えるようになった。(ほんとか?)少しは大人になったのだろうか。

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

今日の一曲

邪悪、と言えばBad、と言えば踊りがキレッキレなMichael JacksonでBad



では、また。
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