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『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

2013-03-10 | books
「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 朝日出版社 2011年

人間とは何か。人間はどう生きるべきか。「暇」と「退屈」について徹底的に考えることによってその問いの答えに少しでも近づこうとする本。

著者がラジオに出演しているのをたまたま聴いて、すごくいいことを言う人だなと記憶したのにすっかりそれを忘れていて突然思い出して、読んでみたら、顎に強く突き上げるアッパーを貰った。心の奥底の鈍感な部分が刺激を受けてビンビンしてくる。

好きなことは何か?を考えてみると、消費者が自由に決定で来ているのではなく、生産者の都合で作られているのではないか(ガルブレイス) あらかじめ持っているいくつかの概念にあてはめている(カント) カントが当然としていた主体的に人間が受け取るということはもはや可能ではない(アドルノ、ホルクハイマー) 革命が到来すれば自由と暇を得られる。どうやって暇をつぶせばいいのか?(モリス)という考えを織り込みつつ、そうか、じゃあ好きなことってなんだろうななんて思ってしまう。それが書かれているのは序章。この序章だけでも読んでよかったと思った。

一見分かり易そうな言葉なのに語っていることは深く、一読してもすぐには意味が掴めない。でもじっくり読めば、宝の山がザクザク。読む人によって全然違う受け取り方(自分の生活や人生へのあてはめ方、自分以外の者へのあてはめ方)をするだろうと思うのだけれど、それがいい本の条件な気がする。

読む人の興を削がないように、一部だけを自分用メモっぽく以下に書かせて貰う。

第一章暇と退屈の原理論では、パスカルの欲望の原因と対象の区別。ニーチェは、退屈した人間は苦しみが欲しいと苦しむと言う。バートランド・ラッセルは現代(1930年)では食べものがたっぷりあっても幸福ではないと説く。スヴェンセンは退屈とは、18世紀にヨーロッパに広がったロマン主義(人生の充実を求める)のせいだと言う。

第二章暇と退屈の系譜学では、定住革命という見慣れない言葉が出て来るが、これにもまた後頭部を殴られたような衝撃が。退屈について近代のことばかり考えていてもダメで、もっと長いスパンで考えてみる。(おっとそうきたか。)西田正規という人の「定住革命」という考え方は、人類400万年の歴史のうち、定住生活は最近のたったの1万年だけ。それ以前ずっと遊動生活をしていた。氷河期の終了とともに草原が森林化したため、大型動物を捕獲することが出来なくなったので「仕方なく」定住することになった。その過程で、スリルのある生活→退屈でつまらない生活をもたらしたというもの。(あとがきで、大学の授業で著者がこの話をしたら、いつも寝ていた女子学生が突然真剣に聴くようになり、立派なレポートも書くようになったそうだ)

ゴミとかトイレと人類がうまく折り合いを付けられないのは、遊動生活の名残だとする。(確かに。だって移動していればそこら辺に捨てておけばいいのだものね。)また、遺体もそこらに放っておけば良かったのに、定住すると、遺体をどうするか(埋葬?)考えるようになり、そして宗教も生まれた、と「定住」が多くの生活習慣や規範を生み出したと考えることが出来る。(これは面白いなーと何度も思った。)定住したので、「暇」が出来てしまったので、(仕方なく?)文化が生まれることになったとも言える。遊動生活のストレスはむしろ人間の潜在能力にとって強い充実感を与えた…著者はだから遊動生活の方が良いなどとは決して論じてはおらず、それは読者が考えるべきことであり、また文化は必ずしも良い意味で生まれたものではないように解釈できるが、善悪も同様に著者が論じてはいない。その辺りの、著者の「ここまでは言うけれど、それ以上は言わない」という姿勢が非常に心地いい。

…定住生活が退屈と文化をもたらした。遊動生活で存在した「水に流す」というサッパリした気質が、定住生活ではネチネチした気質を生み出したと言えるだろうか…

ストレスを求めるのが人間であるとすれば、ネガティブな意味で使うストレスと達成する過程で生じる苦労という意味でのストレスは別の言葉で表現すると分かり易そうだ。わざわざ苦労をするのに苦労しているとは何と人間は愚かな愛すべき生き物なのだろうか…暇があるということは幸福ではないのだろうか…


第三章暇と退屈の経済史は、モデルチェンジを頻繁に繰り返すという生産体制が強い労働の形について論じる。(それだけじゃなくて他にもたくさん論じている。)頻繁なモデルチェンジ→大型の設備投資が難しくなり、機械化が出来ない・安定した雇用することが出来ない。消費者が主権を持ってモデルを変えることを要求しているかのように見えても、結局労働者にとってデメリットとなることが分かる。モデルを変えないと買わないという消費のあり方を根本から変えないと我々の暮しは楽にならないわけである。なるほど。

第四章暇と退屈の疎外論では自然状態が取り上げられていて、これにも大いに考えさせられた。ホッブズは自然状態を=人間の力は大差ない→みな同じものを求める→あいつも持っているなら自分が持っていて当然だ→競争、不安を取り除くための攻撃→闘争状態、無秩序。これが自然状態だとする。ルソーはこの自然状態は、社会が形成された後の状態なのだから、それ以前の状態こそが自然状態だとする。ルソーは自分を縛り付ける絆が存在しなければ隷従も支配も存在しないはずだと言う。しかし「所有」がそれらを作り出したとも。またルソーは自己愛と利己愛を区別していて、前者は自己保存の衝動であり、後者は自己を他人よりも高い位置に置きたい衝動だとする。(ふーむ。なるほど)例えば強い者に奪われるのが当然だとすればそこには発生しないはずのに、みなが平等であって強い者が奪うのはいけないという否定的な衝動のことを利己愛と呼んでいる。(なるほどなるほど)

…自然状態とは何か。理想状態というものがあると仮定すると、そこからずれた状態は、理想からずれた分だけ良くないということになるが、そういう考え方で良いのか?…

以降、第五章は暇と退屈の哲学、六は暇と退屈の人間学、七は暇と退屈の倫理学で最後に結論。マルクスやハイデッガー、キルケゴールなど多くの思想家の「枝葉末節を取り去って必要な部分だけを抽出」しながら、滑らかに論理が展開していく。上に書いたことは、本書の半分にも満たない部分についてだけなので、いわゆるネタバレにはなっていないはずである。

長々と書いてしまったが、本書を読めば分かることの5パーセントも伝わっていないだろうと想像する。拙い文で失礼。

しかし、哲学って面白いもんなんやね。

では、また。


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