日本の中世史を研究する大学の先生と、辺境をめぐるライターが、実は室町時代と辺境にはあまりにも共通点が多いぞということを話す対談。(高野秀行は大好きな作家で、特に面白かったのは、「ワセダ三畳青春記」、「謎の独立国家ソマリランド」、「腰痛探検家」、「アヘン王国潜入記」、「幻獣ムベンベを追え」 )
抜群に面白い。これは読んで良かった。(辺境にも室町にも特に興味はないのだけれど、そんなこととは無関係に面白かった)
室町と辺境(特にソマリランド)の丸かぶりしている部分も興味深いのだけれど、それ以外の様々な蘊蓄やそれぞれの持論がまた面白くて、前のめりに読んでしまった。
本筋とは必ずしも関係はないのだけれど、個人的に興味を持った部分を。
・綱吉の生類憐みの令はかぶき者対策だったのでは。戦国時代が終わったのに、(今でいうとヤンキー?)なかぶき者たちは格好をつけて犬を食べていた。辻斬りしたりして治安を乱すものだから取り締まらなければならなかった。江戸時代の平和は綱吉によって造られた、かも知れない。
・「サキ」と「アト」という言葉。「先日」だとサキ=過去になるし、先を読むだと未来のことになる。しかし中世ではサキは過去、アトは未来のことしか意味しなかった。
・昔は古米の方が新米よりも高価だった。アジアで今も古米の方が高いところがある。古米の方が炊いたときに嵩が増える(水分が飛んでいるので、1合当たり食べられる量が増える)から。またじっとりと湿ったご飯を好まない文化では古米の方が美味しい。(我々の生きている今なんて普遍的なものじゃないということがよく分かる)
・伊達政宗が恋人に男の子に書いたラブレターが残っている。
・中世の資料はちょうどいい。一人の研究者が一生をかけてざっと見ることができる。古代史は少なすぎる。近世は多すぎる。画期的な研究は中世史で興ることが多い。
・戦国大名では誰が好きかときかれるけれど、答えられない。伝説をそぎ落として事実だけで判断すると、好きになれるほどのデータがない。(限られたデータだけで人を好きになるのはアマチュアで、データが揃ってから好きになるのがプロの恋愛人だということも言えるかも)
先日、「昔の自分は情報を得られなかったので進路の選択に失敗してしまった。今のようにITがあればもっと情報を得られてよかった」という発言を聞くことがあった。以下のこの清水教授の言葉を読んだとき、そのことを思い出した。
確かに生徒がそう思ったとすれば教えている方は「なんだかなー」と思うだろう。中世はあれもないこれもないだから不幸。今はなんでもあって幸福だ感じてしまう、そんな薄っぺらな考えを覆すべく教えているのだろうから。以下若干脱線します。
自分が持っている武器で闘いなさいと格闘技の師匠に教わったことがある。言われてみれば、自分には出来ない左のトリプル(ジャブ、アッパー、フックのコンビネーション)で勝負しようと思っても無駄なわけである。左のトリプルが出来たらなーと夢想しても仕方ないわけである。自分はナイフしか持ってないのならピストルがあればなーと妄想しても意味がないのである。同様に、昔は情報を得られなかったから不幸だったと語ってしまうと、今ITという武器があっても有益な情報を得ることはできないということになってしまうのではないだろうか。今現在の自分に必要な情報を得られる人(=今現在の自分の武器で勝負できる人)はどこにいてどの時代でも自分の必要なものが得られるだろう。そうでない人は永遠に何も得られない。まさに「思考停止しているし、自分が今いる場所から出ようとしない」からなのだ。(今のITがあればあれこれも出来ると考えること≒中世は不幸で現代は幸福だと考えること。)現状を肯定しようとする「反知性主義」や、近年大流行しつつある「ナショナリズム」にも、実は同じ根っこがあるような気がする。何かを肯定しようとして、ちっちゃい部分しか見ていないということなのかな…結論に性急に飛びついて、後で都合のよい理由を見つけること。後で見つかった都合の悪いことは見なかったことにすること。それじゃ、バランスのとれた見方はできないぜ。(いやいや、大幅に脱線していまいました)
昔はよかったとばかり言う年寄りの話も、今がいいねと言う若者の話も深みがないという意味では共通していると思う。どちらにしても、ここではないどこかへは行けないのだ。
今を肯定するでもなく、我々の国ばかり肯定するでもなく、過去ばかり肯定するでもなく、外国ばかり肯定するでもない。そんな風に生きたい。そしてここではないどこかへ行きたい。行きたくない?
今日の一曲
GLAYで「ここではない、どこかへ」
では、また。
抜群に面白い。これは読んで良かった。(辺境にも室町にも特に興味はないのだけれど、そんなこととは無関係に面白かった)
室町と辺境(特にソマリランド)の丸かぶりしている部分も興味深いのだけれど、それ以外の様々な蘊蓄やそれぞれの持論がまた面白くて、前のめりに読んでしまった。
本筋とは必ずしも関係はないのだけれど、個人的に興味を持った部分を。
・綱吉の生類憐みの令はかぶき者対策だったのでは。戦国時代が終わったのに、(今でいうとヤンキー?)なかぶき者たちは格好をつけて犬を食べていた。辻斬りしたりして治安を乱すものだから取り締まらなければならなかった。江戸時代の平和は綱吉によって造られた、かも知れない。
・「サキ」と「アト」という言葉。「先日」だとサキ=過去になるし、先を読むだと未来のことになる。しかし中世ではサキは過去、アトは未来のことしか意味しなかった。
・昔は古米の方が新米よりも高価だった。アジアで今も古米の方が高いところがある。古米の方が炊いたときに嵩が増える(水分が飛んでいるので、1合当たり食べられる量が増える)から。またじっとりと湿ったご飯を好まない文化では古米の方が美味しい。(我々の生きている今なんて普遍的なものじゃないということがよく分かる)
・伊達政宗が恋人に男の子に書いたラブレターが残っている。
・中世の資料はちょうどいい。一人の研究者が一生をかけてざっと見ることができる。古代史は少なすぎる。近世は多すぎる。画期的な研究は中世史で興ることが多い。
・戦国大名では誰が好きかときかれるけれど、答えられない。伝説をそぎ落として事実だけで判断すると、好きになれるほどのデータがない。(限られたデータだけで人を好きになるのはアマチュアで、データが揃ってから好きになるのがプロの恋愛人だということも言えるかも)
先日、「昔の自分は情報を得られなかったので進路の選択に失敗してしまった。今のようにITがあればもっと情報を得られてよかった」という発言を聞くことがあった。以下のこの清水教授の言葉を読んだとき、そのことを思い出した。
清水 僕は授業で学生にアンケートを書いてもらうんですけど、一番残念なのは「今の時代に生まれてよかったと思いました」という感想なんです。中世史を学んで「あんな時代に生まれなくてよかった」と思ってしまうのは、思考が停止しているということですよね。過去への共感もないし、自分が今いる場所から出ようともしていない。
確かに生徒がそう思ったとすれば教えている方は「なんだかなー」と思うだろう。中世はあれもないこれもないだから不幸。今はなんでもあって幸福だ感じてしまう、そんな薄っぺらな考えを覆すべく教えているのだろうから。以下若干脱線します。
自分が持っている武器で闘いなさいと格闘技の師匠に教わったことがある。言われてみれば、自分には出来ない左のトリプル(ジャブ、アッパー、フックのコンビネーション)で勝負しようと思っても無駄なわけである。左のトリプルが出来たらなーと夢想しても仕方ないわけである。自分はナイフしか持ってないのならピストルがあればなーと妄想しても意味がないのである。同様に、昔は情報を得られなかったから不幸だったと語ってしまうと、今ITという武器があっても有益な情報を得ることはできないということになってしまうのではないだろうか。今現在の自分に必要な情報を得られる人(=今現在の自分の武器で勝負できる人)はどこにいてどの時代でも自分の必要なものが得られるだろう。そうでない人は永遠に何も得られない。まさに「思考停止しているし、自分が今いる場所から出ようとしない」からなのだ。(今のITがあればあれこれも出来ると考えること≒中世は不幸で現代は幸福だと考えること。)現状を肯定しようとする「反知性主義」や、近年大流行しつつある「ナショナリズム」にも、実は同じ根っこがあるような気がする。何かを肯定しようとして、ちっちゃい部分しか見ていないということなのかな…結論に性急に飛びついて、後で都合のよい理由を見つけること。後で見つかった都合の悪いことは見なかったことにすること。それじゃ、バランスのとれた見方はできないぜ。(いやいや、大幅に脱線していまいました)
昔はよかったとばかり言う年寄りの話も、今がいいねと言う若者の話も深みがないという意味では共通していると思う。どちらにしても、ここではないどこかへは行けないのだ。
今を肯定するでもなく、我々の国ばかり肯定するでもなく、過去ばかり肯定するでもなく、外国ばかり肯定するでもない。そんな風に生きたい。そしてここではないどこかへ行きたい。行きたくない?
今日の一曲
GLAYで「ここではない、どこかへ」
では、また。
ある時代が本当はどんな時代だったのかは、その時代に行ってみなければわからないし、
その時代に生きていても、全体像というか歴史の流れはわからない。
でも、想像することや共感すること、そのための知識を得ようとすることはできると思います。
安定した平和な環境で子どもを育てたいという〝母親の気持ち”に同化しすぎて、
〝ここ”から出ても、そこが〝ここ”以上の場所である保証はない。
だったらここから出なくていい。平和でそこそこ食べていける今の日本。
どうしたら、日本の若者たちが、「ここではないどこか」に行こうと思うようになるのでしょうか。
そして、その「若者たち」のITへの依存ぶりを見ていると、ローマ時代の「パンとサーカスを」という言葉が思い浮かびます。
「ここではないどこか」でも生きていくことができるだけの、武器を知性を備えたいものだと思いつつ、どこにも行けずに約半世紀が過ぎた私が一番情けないなと思います。
「ここではないどこか」とは、必ずしも物理的に今いるのとは違う場所だと考えなくてもよいのかも知れません。
毎日ノルマに追われ取引先でペコペコする苦行のような生活をしているサラリーマン(最近はビジネスパーソンと呼ばないといけないらしいですが)でも、通勤電車ではワーグナーを聴いて、ここではないどこかへ行っているかも知れませんし、ママ友たちとの「だよね~」だらけの会話に飽き飽きしたお母さんも、家では古典落語を暗誦して、ここではないどこかへ旅しているのかも知れません。
今が一番だとか日本が一番だと「近いもの」を肯定し過ぎていると、今話題になっていることや、今テレビでやっていること、今YouTubeで再生回数が多いことばかりに目が行ってしまいます。それは自分が選択したものではなく、ただ目の前を通り過ぎているものを見ているだけに過ぎません。(現状肯定的生き方=受動的生き方)
遠い室町時代やアフリカに思いを馳せれば、今自分が「正しい」とか「得だ」と感じることがいかに正しくないか得ではないかが分かるのではないかと想像いたします。
日常に埋没しそして身に付けた「常識」から脱却すること。それが旅の醍醐味でもあり、また精神的に「ここではないどこかへ」行けるチケットなのではないでしょうか。
ヒトもまた、領土を拡張し飛行機を飛ばし、顕微鏡下へ素粒子へと次へのドアを開ける…そして例えば本のページをめくり、違う世界を旅する…
今の日本人はどうなのかなと思います。
そこ(いろんな意味で)に留まること を積極的に選択する種となる、生命史上初のいきものではないかと、近頃思っておりました。
遠い時代や遠い国へ想いを寄せる一歩は、本ではないかと思います。若いうちに本を読め!と思うのは、私が年寄りだからでしょうか?
>そこ(いろんな意味で)に留まること を積極的に選択する種となる、生命史上初のいきものではないかと、近頃思っておりました。
ハッとしました。そうなのかも知れません。例えばLOHASな生き方は、ある意味そのに留まることではないかと思いますが、そういうことは生物の歴史では稀有なことなのかも知れませんね。
>若いうちに本を読め!と思うのは、私が年寄りだからでしょうか?
結婚する前に合意書を交わしておいたほうがいいと言う人はたぶん離婚経験者であり、運動する前にストレッチしたほうがいいと言う人はたぶん怪我をしたことがあり、事前にカップを温めたほうがいいと言う人はそのほうが美味しいことを体験から知っているわけです。
若いうちは本を読んだほうがいいと思うのは年をとったからではなく、その方いいと体験から知ったからなのでしよう。年を重ねても何も知ろうとしない人は少なくないわけですから、必ずしも何かを知るということと年齢とは関係はないかと思います。