goo blog サービス終了のお知らせ 

平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

八重の桜 第30回「再起への道」~こづゆって、こんなに美味かっただべか!

2013年07月29日 | 大河ドラマ・時代劇
 今回は生き残った会津の人たちの思いがさまざまな形で描かれた。
 大蔵(玉山鉄二)らは切腹する萱野権兵衛(柳沢慎吾)の言葉を受け、生きて<会津が受けた逆賊の汚名を晴らすこと>を誓う。
 頼母(西田敏行)は、生きて<わしらの会津を踏みつぶしていったやつらがどんな世の中を作るのか見届けてやる>と誓う。
 米沢の商人に囲い者にされているお千代は、心の奥底で憎悪をたぎらせ、<仇を討つこと、恨みを晴らすこと>を秘めている。
 八重(綾瀬はるか)も表面上は穏やかで、何とか前に進もうと思っているが、戦場が頭から離れず、きっかけがあれば、お千代のように憎悪に火がついてしまうことを怖れている。
 八重はお千代に「生き抜くことがいくさだ」と語ったが、残された会津の人たちは、いまだに<いくさ>の状態なのだ。
 だから大蔵は『斗南』の『斗』を『闘う』ことと理解した。

 そんないくさの状態とは対照的なのが、皆で『こづゆ』を食べるシーンだ。
「美味えな」「美味えな」「こづゆって、こんなに美味かっただべか」
 食べながら涙が溢れてくる八重たち。
 そこには、<ふるさとの記憶><平和だったかつての生活の記憶>がある。

 しかし、人は過去を振り返るのではなく、現在、そして未来を生きなければならない。
 一部の会津藩士たちは、三万石の斗南に行くことを言い渡された時、怒りで「斬り込みにいく!」と熱くなったが、大蔵は「斗南の地を豊かにすること」を説いた。
 破壊よりも創造だ。
 そう、生きることは<創造>なのだ。
 破壊からは何も生まれない。

 これから八重を始めとする、会津の人たちの真価がいよいよ問われてくる。


コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ドリアン助川さんの豊かな生活 | トップ | TVタックル~憲法9条改正論議... »

7 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
敗者が生きることの残酷さ (TEPO)
2013-07-29 21:41:24
>生きることは<創造>なのだ。

そこが明治編のテーマとなるのだろうと予想しますが、それはもう少し先のことのように思います。

私にとって今回最も印象的だったキャラはお千代です。
夫を失い幼い息子を抱え、屈辱に耐えながら商人の「囲い者」として生きるほかはない。
「このおなご、抱いても体が刃のように冷たい」という田村屋の台詞-それを言う田村屋の心も、言葉の内容も-はいささかショッキングでした。

米沢藩士のもとに身を寄せていた-「紀行」で紹介されたようにそれは史実らしい-八重をはじめ山本家の人々は貧しかったにせよまだ恵まれていました。
敗軍の武士という境遇を共にし、尚之助に砲術を教わった学恩に応えようとする好意的な人物のもとにいたわけですから。
しかし、夫、男兄弟、息子を失った女性たちは多かれ少なかれお千代のような思いを忍びながら生きていたのではないか、と思います。
日向ユキの家族たちも農家から拒絶される場面がありました。
詳細は描かれていませんでしたが、すでにあの段階でそれまでとは打って変わった「落ちぶれ者」の境遇が始まっていたのでしょう。

>「生き抜くことがいくさだ」

敗者にとって生きることはけっして綺麗事ではない。

会津戦争編の中での「自刃の連続」は現代人には違和感の大きいものでしたが、こうした「生きることの残酷さ」とセットにして理解すべきことなのでしょうね。
今回も萱野権兵衛が死んでゆきましたが、お千代の生き地獄に比べれば本当に幸せそうにさえ見えました。

お千代は今回限りのキャラなのか、それとも今後何回か登場して、いつか「創造としての生」へと救われてゆくのかが気になっています。
返信する
生きる残酷 (コウジ)
2013-07-30 09:03:45
TEPOさん

いつもありがとうございます。
そうですよね、美しく死ぬことと生きて地獄を見ることとどちらが幸せなんでしょうね。
ご指摘のお千代がいい例。
差別され、虐げられた境遇の中、彼女の唯一の生きる支えは、復讐。
こんな悲惨で残酷なことはありません。
次回の斗南での苦境も、それを描くことになりそうですね。

でも、それを乗りこえた時、きっと桜は美しく咲くんでしょうね。
何となく物語のラストが見えてしまった感じですが、新島襄の登場で、八重は大きく変わるのかということに興味があります。
返信する
疑問と言うか不満と言うか… ()
2013-07-31 17:39:57
 今回は、斬首された萱野権兵衛以外は、心内は違えど、「生きる」という意志を際立たせた回でした。
 それはそれで良いのですが、会津戦争終結の半年後に飛んでしまったことは、ストーリー進行はスムーズで見やすいのですが、ドラマとして見る場合にはどうなのでしょう?
 八重は郷土愛や尚之助への思いはあるものの、一言で言ってしまうと「鉄砲第一」の半生でした。
 それが会津戦が終結してしまい、鉄砲の価値は激減、また、会津を守る必要もなくなってしまいました。(あるとすれば、三郎の仇を討つということですが)その時、八重の虚無感、そして、そこから立ち直るまでの葛藤などは描かれていません。
 それを描くとなると、重苦しいものになってしまい、正直、私も観たくありませんが、ヒロイン八重を描くには、必須の要素(場面)だと考えます。
 一家が生活するための選択だったかもしれませんが、米沢に移り反物を売って家計を支えます。その表情はやむを得ない選択によるものではなく、「恨みを支えにしていては、後ろを向くばかりで、前には進めない」という前向きなものでした。
 戦中、「復讐心」に囚われ、「会津を守る」強い意志故、去っていく頼母を責めた八重とは違いすぎです。

 また、スナイパーとして活躍、砲弾を不発化させ、敵の鉄砲の弾を再利用、凧を上げて士気を高めるなど、スーパーな活躍。また、降伏の際の容保の言葉を、直後に全否定するヒロイン特権と、ここしばらくの脚本には疑問を感じています。

 コウジさんに、私の不満をぶつける形になって申し訳ありませんが、ブロガーとして私が一目も二目も置いているコウジさんのお考えをお尋ねします。
返信する
スルーでも ()
2013-07-31 20:06:52
再びおじゃまします。

 『TVタックル』の記事で、濃密な議論(コメント)が展開されているようですね。
 なので、私へのレスは後回し、もしくは、スルーで結構です。
返信する
過去の清算 (コウジ)
2013-08-01 11:29:00
英さん

いつもありがとうございます。
TVタックル、やっと終わりました!

八重に関しては、おっしゃるとおり、物足りないんですよね。
たとえば、
以前、英さんとやりとりさせていただいた<銃で人を殺すこと>に何のためらいも後悔もなく(鳥を殺した過去のシーンを挿入しただけ)、そのまま進行してしまったこと。
爆弾処理が間に合わなくて登瀬が死んでしまったことに言及がないこと。
八重が容保に言った言葉。

八重という人物や当時の会津の人たちがそう考えていたのなら仕方がない、そうなのか、と思いますが、もう少し作家さんの主観や意見が入ってもいいとも思います。(たとえば、名誉のために死んだり生きたりするのは本当に正しいのか、など)

ご指摘の変貌に関しても、何か八重が変わる出来事がほしかったですよね。
今回の復讐にとらわれたお千代の姿が、反面教師として八重に映ったのでしょうか。
いずれにしても八重には<過去の自分を清算する>行為が必要ですよね。
その清算がないから、お千代の方が存在感がありますし、別天地に未来を求める大蔵の方が主人公に見える。

この作品は<客観描写>だと、ここでコメントをいただくTEPOさんたちとやりとりをするのですが、<客観描写>も行き過ぎると、作品として何をいいたいのかがぼやけて来ますよね。
徹底して資料や史実に基づいて書き、作家の主観を挟まない津本陽さんの作品のような感じ。
特にぼくは作家の意見、主観が随所に出て来る司馬遼太郎作品が好きなので尚更です。

追記
容保の心の中を描いた作品としては、池波正太郎さんの短編小説「壮烈なる孤忠」(「若き獅子」講談社文庫所収)が面白かったです。
返信する
Unknown (高木一優)
2013-08-01 21:43:38
TVタックル、お疲れさまでした
私も少々火に油を注いでしまいまいたが・・・

今回の八重を私はけっこう評価してるんですよ。
会津戦争の後の八重はあの戦争を振り返ることはできても、そこに何らかの結論を下すことはできないままなのです。そして希望も見えないまま、平穏だけれど退屈な日常を生きなければならなかった。
そうした時間のなかで八重はたくさんのことを考えたんだと思います。「恨みを支えに生きていけば、後ろを向くばかりで前へは進めない」という八重が大蔵に言った言葉は、決して歯切れの良いものではないし結論でもありません。なんともピシッとしないヒロインですが、そこにはゆっくりではあるがパワーの強い思考の跡がうかがえます。

TVタックルもそうなのですが、私たちは結論のようなものを急ぎすぎているのではないか?右だとか左だとか簡単に決め付けることによって思考を放棄しているのではないか?

私がこう考えるのは元ネタがあります。ある水俣行の患者さんが臓器移植について語った言葉です。「私は人の体を切り刻んで、臓器を他人に移植することには反対です。でもその臓器がなければ生きていけない人がどれだけ待ちわびているかかんがえると、どうしていいか判らなくなります。」この言葉にたいして社会学者の見田宗介さんがこう批評しています。
「たくさんのことを考えてきた人の言葉だ」

こづゆを食べるシーンは、その暖かさが八重たちの恨みを融かしてゆくように描かれていました。先週までの八重の活躍と比べれば実に地味なシーンですが、こんな些細なことが人が生きるうえで大切なことなんだと気づかされる名シーンだったと思います。

返信する
ビシッとしないヒロイン (コウジ)
2013-08-02 09:36:31
高木一優さん

いつもありがとうございます。

「恨みを支えに生きていけば、後ろを向くばかりで前へは進めない」
今回のポイントはこのせりふですよね。
この八重のせりふに説得力があるかどうか。
先のコメントにも書きましたが、かつての<恨みにとらわれていた八重>から、このせりふに至るようになった何らかのきっかけ、理由がほしいんですよね。
前回の落城時の八重の心理から言えば、今回のお千代や斬り込みに行くと息巻いた会津藩士のようであってもおかしくない。
年月が八重を変えたのかな、などと勝手に補完しながら見ていました。

このことを視点を変えて見てみると、要は、高木さんが的確に書いていらっしゃった<なんともピシッとしないヒロイン>の部分なんですよね。
『八重の桜』を見た後に、『半沢直樹』の<ビシッとしたヒーロー>を見てしまうと尚更それを感じてしまう。

善と悪、右と左、おっしゃるとおり、これを明確に区分けしてしまうことは、わかりやすくて楽なんですよね。
善と悪がはっきりしている『半沢直樹』がまさにそう。
一方、『八重の桜』は会津にも理があるけど、薩摩にも理があるという描き方をしているから、わかりづらい。
まさに我々の現実を見ているよう。

これがTVドラマとして面白いかどうかは人に拠って意見のわかれる所でしょうが、おそらく、『八重』の脚本・山本むつみさんは、戊辰戦争という史実を前にして「たくさんのことを考え」、会津=善、薩摩=悪という単純図式を避けたんでしょうね。
それが主人公の八重にも現れている感じがします。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

大河ドラマ・時代劇」カテゴリの最新記事