平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「小心者的幸福論」 雨宮処凛~生きることは無条件に肯定されるべきものだ。許可制であってはいけない

2023年08月06日 | エッセイ・評論
『小心者的幸福論』(雨宮処凛・著 ポプラ社刊)にこんな文章がある。

 私は「ダメ」な自分も「ダメ」な他者も心の底から肯定したいと思っている。
 なぜなら、今の世の中は「とにかく常に競争に勝ち抜いた上に生産性が高く、いつもスキルを磨く努力を怠らずに即戦力になれる人間であれ」的な市場原理に過剰に適応しろというメッセージを発しているわけで、そんな圧力こそがいわゆる「生きづらさ」のひとつの原因になっているからだ。
 誰も「常に生産性が高い」状態なんかで生きられない。
 というか、競争に勝ち抜いて勝ち抜いて勝ち続けないと「生きる」ことさえ認められないなんてこと自体がおかしい。
「生きること」とか「ここにいること」は条件つきで誰かに認められたりする種類のものではない。
 なのになんとなく「ダメ」だったり「役に立っていない」と思うと「こんな自分が生きてちゃいけないのでは?」なんて思いが頭をもたげてしまう。
 しかし、当たり前だが、生きることは無条件に肯定されるべきものだ。
「生存」は「褒美」であってはならないし、「許可制」であってもいけない。


 生産性の高い人間は素晴らしい。
 社会のお荷物は要らない。
 そんな風潮が世間に蔓延している。
 市場原理主義。
 これが「生きづらさ」の原因だと雨宮さんは語る。

「生きることは無条件に肯定されるべきものだ」
「許可制であってはいけない」

 そのとおりだと思う。

 雨宮処凛さんはこの本の中でこんなことも語っている。

 優しさを見せることは「つけ込まれる」ことと同義とされ、子供の頃から「そんなに優しかったら社会に出てからやっていけないぞ!」などと恫喝される。
 そんなふうに、人間本来が持っている当たり前の「優しさ」や他者に対する「思いやり」が奪われてきたことと、「生きづらさ」のようなものには深い関係があると思うのだ。
 優しくない社会は、誰にとってもつらい。


 優しさを見せることはつけ込まれること。
 確かにそうなんだよな……。
・優しい人間は食いものにされる。
・正直者はバカをみる。
 これは真実だ。
 でも……。

 僕は基本、合理主義者で、時折、他人に新自由主義的発言をしてしまうのだが、
 その後で反省する。
 自分自身も生きづらさを感じているのに。
 他人に無限に優しくなれれば、心の凝りがほぐれて楽になれるのに。

「生きることは無条件に肯定されるべきものだ」
「許可制であってはいけない」

 この言葉を噛みしめたい。
 
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本日は澁澤龍彦大人の33回目の命日~「快楽主義の哲学」をあらためて読み返す!

2020年08月05日 | エッセイ・評論
 本日8月5日は、「ドラコニア忌」。
 澁澤龍彦大人の命日らしい。
 澁澤龍彦の本は結構読んだなあ。
 僕の本棚には大人の本がこんな感じで並んでいる。
 どりゃっ!

 

 そんな澁澤大人の著作に「快楽主義の哲学」(文春文庫)がある。

 「快楽」とは何か?
 「幸福」とは何か?
 その違いについて、大人はこう書いている。

 絶世の美女を手に入れたいと思うのは、歴史はじまって以来、すべての世の男性の、永遠の夢であります。
 そして、事実、うまいものを食えば、「ああ、うまかった!」と思わないわけにはいかないし、思いかなって美女の肌に触れれば、たちまちにして、口では言えない快美の極、陶酔境に運ばれます。
 たとえ一瞬の陶酔であっても、その強烈さ、熱度、重量感、恍惚感は、なまぬるい幸福など束にしてもおよばないほどの、めざましい満足を与えます。
 こう考えると、快楽とは瞬間的なものであり、幸福とは持続的なものである、といえるかもしれません。
 幸福とは、静かな、あいまいな、薄ぼんやりした状態であって、波風のたたない、よどんだ沼のようなものです。
 哲学者のスピノザがいったように、せいぜい幸福とは、「人間が自己の存在を維持するしうることに存する」なのかもしれません。
 いっぽう、快楽とは、瞬間的にぱっと燃えあがり、おどろくべき熱度に達し、みるみる燃えきってしまう花火のようなものです。
 それはたしかに夢のようなものですが、それだけに、はげしい起伏があり、人間を行動に駆り立てる美しさ、力強さがあります。(P25)


 大人はこんなふうに「快楽」を論じ、ヒューマニズムを否定し、東洋と西洋の快楽主義の違いを語り、性器だけに頼らない全身の性感帯化を勧め…(笑)、古今東西の快楽主義者の巨人たちを紹介する。
 登場する巨人たちは──
「樽の中のディオゲネス」
「酒の詩人李白」
「行動家カサノヴァ」
「サド」
「反逆児ワイルド」
「奇人ジャリ」 らだ。

 そして現代日本の小市民たちを挑発する。

 小心翼々とした人間や、けちな占有欲のある人間、反抗精神や破壊精神に欠けた、優等生のエリートだけが、家庭だとか、会社だとか、──あるいはもっと広くいって、国家だとか、社会だとかといった欺瞞の秩序に、必死になって、かじりついているわけです。
 なんの意味もない、くだらないものでも、しっかり手を握っていないと、不安になるのかもしれません。
 そもそも、しあわせな家庭などというものを築いたら、もう若者のエネルギーは、行きどまりだということを知るべきです。
 妻子ある家庭を思えば、冒険もなにもできやしません。
 大学をうまく卒業し、一流会社に就職し、課長の媒酌できれいな奥さんをもらい、一姫二太郎をこしらえ、モダンなアパートに住み、車を買い、ステレオを買ったら、まあ、せいぜい、女の子のいるバーで、奥さんの目を盗んで、ちょっとした浮気をするぐらいが関の山でしょう。
 まことになさけない。(P192)


 挑発的な本です。
 刺激的な本です。
 僕は小心者なので、実践には至りませんでしたが、市民社会を見る時のひとつの指標にはなっています。
 もし、心がザワザワした方は「快楽主義の哲学」をぜひ手にとって読んでみて下さい。

 今の時代、澁澤龍彦みたいな人がいたら、叩かれたりするんだろうなあ……。

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「小心者的幸福論」 雨宮処凛~生きることは、条件つきで誰かに認められたりするものではない

2016年09月17日 | エッセイ・評論
 デモなどに参加していると、時折、雨宮処凛さんを目撃する。
 僕はミーハーなので「おおっ、雨宮さんだ!」と感動したりする。
 でも、〝小心者〟なので、話しかけたり、本にサインを求めるなんてことは絶対に出来ない。

 そんな雨宮処凛さんの著書の中で、僕が愛読しているのが、『小心者的幸福論』(ポプラ社)だ。
 とても心にやさしい本で、落ち込んだ時や迷った時に読むと、癒やされる。

 たとえば、次のような文章。
 雨宮さんは、〝何も生み出していない〟自分のダラダラした生活を振り返って、こう語る。

『このように、昨日から今日にかけての行動を列挙しただけで、少なくとも1円にもなっていないし、何も生み出していないし、社会や人の役に立つようなことは何もしていない。
 そんな日々が続くことを人は「ダメ」というわけだが、私は「ダメ」な自分も「ダメ」な他人も心の底から肯定したいと思っている。
 なぜなら、今の世の中は「とにかく常に競争に勝ち抜いた上に生産性が高く、いつもスキルを磨く努力を怠らず即戦力になれる人間であれ」的な、市場原理に過剰適応しろというメッセージを発しているわけで、そんな圧力こそが「生きづらさ」のひとつの原因になっていると思うからだ』

 社会に入れば「生産性が高い」ことが要求される。
「生産性が低い」人は「ダメ」の烙印を押される。
 その烙印を押されたくなくて、人はがんばる。
 雨宮さんはそれが人を「生きづらくしている」と説き、こう展開する。

『誰も「「常に生産性が高い」状態なんかで生きられない。
 というか、競争に勝ち抜いて勝ち続けないと「生きる」ことさえ認められないなんてこと自体がおかしい。
「生きること」とか「ここにいること」は条件つきで誰かに認められたりする種類のものではない。
 なのに、なんとなく「ダメ」だったり「役に立っていない」と思うと「こんな自分が生きてちゃいけないのでは?」なんて思いが頭をもたげてしまう。
 しかし、当たり前だが生きることは無条件に肯定されるべきものだ。
「生存」は「褒美」であってはならないし、「許可制」であってもいけない』

 すごい主張だ。
 やさしいメッセージだ。

★「生きること」とか「ここにいること」は条件つきで誰かに認められたりする種類のものではない。
★当たり前だが、生きることは無条件に肯定されるべきものだ。
★「生存」は「褒美」であってはならないし、「許可制」であってもいけない。

 以前、神奈川で障がい者の方が連続殺傷される事件が起こったが、これらのメッセージをそのまま犯人に伝えたい。
 その他にも、『小心者的幸福論』には、生きていることを肯定する、やさしいメッセージがいっぱい書かれている。
 日々の生活で生きづらさを感じている方、疲弊している方に、この本をお薦めします。

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「電波男」(本田透・著)~恋愛資本主義への反抗。二次元キャラの優しさに触れろ! 癒やされろ!

2016年08月27日 | エッセイ・評論
 オタクを経済の視点から論じた『電波男』(本田透・著/三才ブックス)にこんな記述がある。

『オタク界は、男だけで成立しており、女は脳内の萌えキャラで代替されている。オタクにとっては、三次元の面倒くさい女よりも、二次元キャラの方が「萌える」のだ。故に、たいていのオタクは三次元の女に対し、恋愛資本主義のお約束になっている奉仕活動を行わないし、彼女たちの機嫌も取らない。男だけ、自分だけで自足している』

<恋愛資本主義>
 かつて月9に代表されるテレビドラマは<恋愛>の素晴らしさを描いてきた。
 おしゃれなレストランでの食事、車にファッション、プレゼント、豪華リゾート。
 女の子を喜ばせるための数々のイベントやサプライズ。
 男は女に貢ぎ、女はそれで男を評価する。
 現実で恋愛するにはお金がかかるのだ。
 これを本田透さんは<恋愛資本主義>と呼ぶ。
 すべては電通を始めとする広告代理店が、恋愛でお金を使わせるための作り出した幻想であるとも。

 しかし、オタクはそれにダマされない。
 二次元の脳内彼女をつくる。
 脳内彼女は不平不満も言わないし、サプライズも高価なプレゼントも要求しない。
 たとえ要求されたとしても、想像の中だからタダだ。

 これは、資本主義に関する反抗であり、<革命>だ。
 だから、『電波男』には、こんな記述がある。

『恋愛資本主義に対して「NO」と叫び続ければ、革命は成就されるはずなのだ。オタクが人口の半分を超えた時、日本は革命される。恋愛資本主義が瓦解し、オタク本位主義が三次元世界をも支配することになる。
 そうなのだ。三次元世界に愛を取り戻すために、必要とされている勇者ども、それが「アナログ女にNOと言えるオタク」なのだ』(笑)

 恐竜絶滅を例にして、こんな表現もある。

『負け犬女(=月9のような恋愛を求める女性)は、肥大する恋愛資本主義社会に勝ち残るために<無意味に巨大化した恐竜>のようなものだ。
 それに対してオタクたちは、かよわいように見えるが、実は新たなデジタル環境に適用すべく<大脳を発達させ続けるほ乳類>なのだ。
 NHKスペシャル「大進化」を見れば明らかなように、どちらが生き残るか言うまでもあるまい』(笑)

 広告代理店が作り出した<恋愛資本主義>が幻想なら、<二次元の彼女>も幻想。
 同じ幻想ならどちらを選ぶか?
 本田さんはこう叫ぶ。
「二次元キャラの優しさに触れろ! 癒やされろ!」

『電波男』が出版されたのは2005年。
 保守系の人たちが、二次元の表現を規制しようとするのは<二次元による革命>が起こったら困るからだろう。それは資本主義の問題だけでなく、皆が二次元に走れば、子供が出来ず、国が滅びる。
 一方、広告代理店の電通や経産省。
 さすがに彼らはこの流れに気づいたらしく、数年前から二次元世界に注目し、金にしようとしている。

 ポケモンGOの大ヒットなどもこの流れのひとつ。
 もはや人々は三次元でお金を使わない。
 高級なスポーツカーだって、ヴァーチャルなゲームの世界で簡単に手に入れられる。

 本多さんの言う<革命>は着実に進行しているのだ。

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江戸川乱歩論~死や孤独は、そのままでは読者の絶望を誘う毒だが、薄めれば快楽的な刺激剤になる

2016年08月16日 | エッセイ・評論
 江戸川乱歩についての的確な文章を見つけた。
 中条省平氏の「反=近代文学史」(中公文庫)だ。
 引用すると、

『死や残虐や孤独は、そのままの濃度では読者の絶望を誘う毒だが、適度にうすめれば、香水の残り香のように、読む者の感覚と気分をたかめる快楽的な刺激剤となる。
 乱歩の小説の希薄さは、純粋な文学としては徹底性に欠ける弱点だったかもしれないが、その絶妙な濃度のさじ加減は、いまだに数多くの読者を引きつける小説づくりの秘法である』

 死や残虐や孤独を描いた乱歩。
 でも、それは探偵小説、怪奇小説という形式をとることで薄まっていたんですよね。
 もちろん、「芋虫」や「蟲」など、濃密な死や残虐や孤独を直接的に描いた作品はあるが、それらはごくわずか。
 乱歩の狂気は短編小説に凝縮され、長編小説になれば薄まり、明智探偵や怪人二十面相の登場によってさらに薄まる。
 そして、そんな薄まった作品が日常に生きるわれわれには適度な刺激で心地よい。
 中条氏の見事な比喩をもちいれば、〝香水の残り香〟のように。
 香水の残り香はいい匂いだが、香水そのものを嗅げばきついし、香水の原液になれば嗅げなくなるのと同じ。

 江戸川乱歩作品は、コミック・アニメ・映画など、たくさんのクリエイターがさまざまな形でリメイクしている。
 では、なぜ、こんなにリメイクされるのか?
 おそらく乱歩作品が<死や残虐や孤独といった原液を薄めたもの>だからだろう。
 乱歩作品を読んだクリエイターは、「何か薄口で物足りないな。自分ならこんなふうに味つけするのに」と考える。あるいは、乱歩作品を自分なりに掘り下げてみたくなる。
 これが乱歩作品が多くリメイクされる理由だろう。

 死、残虐、孤独……。
 これらは人間の本質であり、ルーツ。
 日常生活をおくるわれわれは、これらから目を背け、なるべく見ないようにしている。
 直視すれば、いたたまれないし、怖いですからね。
 だが、これらこそが作家が追及しなければならない文学的テーマである。

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深夜特急 沢木耕太郎~何の意味もなく、およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことをやりたかったのだ

2013年03月13日 | エッセイ・評論
 ひさしぶりに沢木耕太郎「深夜特急」を読む。
 すると、こんな文章があった。
 バスでユーラシア大陸横断をする理由について語った文章だ。

「ほんのちょっぴり本音を吐けば、人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、真実をきわめることもなく、記録を作るためのものでもなく、血湧き肉躍る冒険活劇でもなく、まるで何の意味もなく、誰にでも可能で、しかし、およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ。
 もしかしたら、私は「真剣に酔狂なことをする」という甚だしい矛盾を犯したかったのかもしれない。」

 これが若さであり、青春なんですね。
「人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、真実をきわめることもなく、記録を作るためのものでもなく、血湧き肉躍る冒険活劇でもなく、まるで何の意味もなく……」
 つまり意味のないことにエネルギーを消費できること。
 バカげたことに時間を費やせること。
 そういう自分を、<酔狂>=少し恥じらいを込めてカッコイイと思えること。

 これはオトナ社会に対する反抗でもある。
 なぜならオトナ社会は、企業を見てみればわかるとおり、<意味のあること><有益なこと><効率のいいこと>を求めるものだから。
 オトナの目から見れば、ユーラシア大陸をバスで横断なんて、「何バカなことをやってるの?」「それで何の意味があるの?」となってしまう。
 だからこそ、敢えてオトナ社会に背を向けて、バカなことに真剣に取り組むことが粋でカッコイイ。

 もちろん、こうしたことが出来るのも若さゆえである。
 若者には溢れるばかりのエネルギーがあり、時間がある。
 人生の残り時間が少なくなってくると、少しは人様の役に立つことをして、自分が生きた爪痕を残したいなどと考えてしまう。
 しかし、いくら歳をとっても、「真剣に酔狂なこと」が出来る人は永遠に青春である。
 有益なことや効率に囚われている若者よりはずっと若い。

 沢木さんは、この作品の別のところで、「自分はまたひとつ自由になった」みたいなことを書かれていたが、<意味><有益>に囚われた時点で、その人は不自由になる。
 つまり社会に取り込まれるという点において。
 社会は、人に「意味のある行動をせよ」「賢明であれ」「金を稼げ」「記録を作れ」「効率よく時間を使え」と要求してくる。

 『深夜特急』は永遠の青春の書である。

 
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東海林さだお・椎名誠という生き方~新日本三大料理は何か?

2011年06月23日 | エッセイ・評論
 東海林さだおさんと椎名誠さんの対談集「太っ腹対談」(講談社)を読んだ。
 今回の話題は、放送作家の小山薫堂さん(「料理の鉄人」「カノッサの屈辱」台本、最近では「おくりびと」の脚本)がゲストで加わっての「新日本三大料理は何か?」。

 日本三大料理。
 これまでは、寿司、すき焼き、てんぷらだった。
 日本を代表する料理だから、世界的にも認知されていなければならない。
 この点で、この三料理は妥当だろう。

 では今の三大料理は?
 東海林さんと椎名さんは、ラーメン、カレーをあげる。
 なるほど。
 いずれも中国発、インド発の料理だが、既に日本オリジナルに改良され、本家を凌いでいる。
 僕も香港でラーメンを食べましたが、日本の方が断然美味しかったですし。
 このふたつを新三大日本料理とするのに誰も異論はないだろう。
 問題なのは三番目の料理だ。

 対談は、この三番目の料理について議論される。

・トンカツ
 椎名「トンカツは割りと地位高いよ」
 東海林「有力だね、堂々としている」
 小山「ジョエル・ロブションが来日した時、恵比寿の『かつ好』というトンカツ屋さんに行って、えらく感動したって話を聞いたことがある」

・コロッケ
 東海林「何か不憫なんだよね。健気でしょ。救ってあげたい」
 椎名「でも、ラーメン、カレー、コロッケと続くとレベルが低くなっちゃうね」
 小山「お子ちゃまみたい」
 東海林「可哀想だけど、コロッケには泣いてもらおう」

・メンチカツ
 東海林「インチキっぽいだよね。堂々としていない」
 小山「コロッケとハンバーグ、どちらにもなりきれていないような」
 東海林「世間の様子を窺っているような感じだよね」
 椎名「課長どまりだな」

・オムライス
 椎名「オムライスをオジサンがひとりで食べるのって難しいんだよね」
 東海林「オムライスは何で恥ずかしいだろうね」

・牛丼
 椎名「あれ、ただ、ひたすら食ってるっていう感じがするね」
 東海林「もちろん(笑)。牛丼食いながら何するの?」
 椎名「カレーなんかは時々水を飲んだり、ふと食べるのをやめて、ものを考えたりするよ」
 東海林「牛丼は頭をあげちゃダメ(笑)。牛丼屋はテーブルがU字型で、向こう側の人も食ってるから、目が合うとマズいんだ」

 といった感じで語らいが続く。
 僕が面白かったのは、小山さんのメンチカツの評価→「コロッケとハンバーグ、どちらにもなりきれていないような」(笑)
 牛丼の食べ方に関する話も「そうだよな」と思ってしまう。

 さて、三番目の料理とは何なのか?
 東海林さんたちは「牛丼」に決めるが、それはどうだろう? いろいろ異論が出て来るに違いない。

 それにしてもこの会話……。
 小山さんはこんな感想を漏らしている。

 小山「こうやって下らないことを一生懸命考えるのが大人なんだなぁ(笑)」

 僕もこの意見に賛成である。
 <下らないことを一生懸命、真剣に考える>
 これぞカッコイイ大人である。
 日本経済がどうだとか、国際政治がどうだとか、世の中には意味のある会話(おそらく)はたくさんあるが、東海林さんたちは意味のないことに真剣に取り組む。
 僕はそこに<粋な軽さ><かっこよさ>があると思うのである。


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深夜特急 メナムから

2009年10月01日 | エッセイ・評論
 深夜特急「メナムから」

 旅は恋愛に似ていると言った人があったが、旅の根本的な目的とはその場所を好きになるということであろう。
 でも、心に響かない場所もある。
 沢木さんの場合はタイ・バンコク。
 これまでの香港・マカオとは違い、沢木さんにとってバンコクは「どこを歩いても、誰に会っても胸が熱くなることがない」街。

 沢木さんはバンコクについて次のような言葉を綴っていく。
 「いつまでたっても、バンコクという街は曖昧で、とりとめがなかった」
 「何かが足りない。同じように露店が群れてはいるが、香港の廟街に比べると、何かが足りないのだ」
 「どこをどう歩いてもここだという場所にぶつからない。私は毎日ただ惰性のようにバンコクの街を歩き廻ったが、しだいに退屈するようになってきた」

 バンコクの街から拒絶されているように思っている沢木さん。

 沢木さんの旅の姿勢とはこうである。
 それをこんな文章で表現している。
 「たまに笑顔を向けられ、ようやく関わり合えても、なぜか深いところで理解できたという確かな感じが持てない」
 「バンコクではどこかちぐはぐで、うまくいかない。バンコクの街の奥深いところに入り込めそうな糸ができかかると、突然、プツリと切れてしまう」
 沢木さんは<深い所で理解><奥深いところに入り込めそうな糸>という言葉を使っている。
 これが沢木さんの旅の姿勢なのだ。
 それは有名な観光地を見てまわるだけのうわっ面の旅ではない。
 <深い所で理解し共感しようとする姿勢>
 まさにノンフィクションライターならではの姿勢だが、数々の名作ノンフィクションを書いてきた沢木さんの力を以てしてもバンコクの街は理解不能だったらしい。
 それは相性の問題なのか、バンコクが何もない街だからなのか、その辺は分からない。
 ただ、この<深い所で理解し共感しようとする姿勢>は大事。
 われわれは観光地の名所めぐりをしてその街を理解したつもりになっていないか?
 考えてみると、この<深い所で理解し共感しようとする姿勢>って<恋愛>なんですね。
 だから「旅は恋愛に似ている」と言われるのかもしれない。


 過去記事
 「深夜特急 賽は踊る」はこちら
 「深夜特急 黄金宮殿」はこちら






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深夜特急 賽は踊る

2009年09月09日 | エッセイ・評論
 深夜特急 「賽の踊り」

 マカオで大小というギャンブルにのめりこむ沢木さん。
 このマカオでの圧巻は次のシーンだ。
 博打で失敗すれば持っているお金をすべて失ってしまう。旅が続けられなくなる。
 そこで沢木さんはこう思う。

「やめて帰ろうという判断は確かに懸命だ。しかし、その懸命さにいったいどんな意味があるというのだろう。大敗すれば金がなくなる。金がなくなれば旅を続けられなくなる。だが、それなら旅をやめればいいのではないか? 私が望んだのは賢明な旅ではなかったはずだ。むしろ、中途半端な賢明さから脱して、徹底した酔狂の側に身を委ねようとしたはずなのだ。ところが、博打という酔狂に手を出しながら、中途半端にのまま賢明にもやめてしまおうとしている。賽は死、というのに死は疎か、金を失う危険すらもおかさず、わかったような顔をして帰ろうとしている。どうして行くところまで行かないのか。博才の有無などどうでもよいことだ。心が騒ぐのなら、それが鎮まるまでやり続ければいい。賢明さなど犬に喰わせろ」

 身につまされる文章だ。
 日常生活を送っていると保身というものがあって、どうしても安心、安全な方に走ってしまう。
 しかし、そこから一歩踏み出すことで新しい世界が見えてくる。
 徹底してやり切ることで見えてくるものがある。
 この文章の博打を自分の夢とか他のことに置き換えてみてもいい。
 夢を追いかけて、思うようにうまくいかなくて、貯金も底をついて撤退を考える。
 実に<賢明>だ。
 でもまだ心が騒ぐのなら……。
 
 沢木さんはこうも書いている。
「恐らく、私は小さな仮の戦場の中に身を委ねることで、危険が放射する光を浴び、自分の背丈がどれほどのものか確認してみたかったのだと思う」
 <仮の戦場>とは博打場のこと。
 賢明さを選ぶということは、安全安心な市民としての生き方を選ぶこと。
 その生き様が問われているというのだ。

 その是非は別として、沢木さんの他の著作を読むとそうした市民の生き方を否定していないことがわかるが、沢木さんは自分自身に言い聞かせると共に読者を挑発している。
 あなたはどちらの生き方を選びますか?あなたはどちらの人間ですか?と。

 「深夜特急」は特に若い人に読んでもらいたい。
 ある意味、青春のバイブルだ。
 僕が若い頃にこれを読んでいたら、別の生き方をしていたかもしれない。
 あるいは再びこれを読んで、沢木さんに挑発されたと感じた僕はまだ十分に若い?


 深夜特急 黄金宮殿はこちら


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深夜特急 黄金宮殿

2009年09月06日 | エッセイ・評論
 沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読み返している。
 まずは香港。

 僕も香港には二度ほど行ったことがあるが、やたら蒸し暑くてというのが印象。
 その他に強い印象はない。
 ところが沢木さんの目にかかると……。

★まず沢木さんは<黄金宮殿迎賓館>という宿に泊まる。
 この宿、名前は立派で、その紹介文には「環境優美 冷気設備 高級享受」と書かれてるが、要は連れ込み宿。
 フロントでは麻雀をしている男たちがいる。
 窓を開ければ向かいのアパートが見えるし、冷房がガタガタ、壁に貼られた女性のヌードポスターには落書きがしてある。
 壁からは男女の営みが聞こえる。
 普通の観光を期待している人間には気が滅入るような安宿だが、沢木さんはこう考える。
 「これは面白くなった。ゾクゾクしてきた」

★沢木さんの香港探訪は続く。
 衣類や食べ物などが並ぶ香港の露店街は観光客でも足を運び、目にするものだが、僕には雑多なだけで少しも面白くなかった。
 でも沢木さんはこう描く。
 「電球の柔らかい光、カーバイトの匂い、駄菓子の毒々しい色、そして道行く人々のさざめき……香港中の人間が全部集まってきているではないかと思えるほどの壮大さに、私はいつしか体の芯まで熱くなっていた」
 「そこではありとあらゆる香具師が出て、商売をしている。人相見、蛇使い、薬品売り、ガン治療法伝授、詰将棋……」
 「次の日から熱に浮かされたように香港中をうろつきはじめた。私は歩き、眺め、話し、笑い、食べ、呑んだ。どこに行っても、誰かがいて、何かがあった」
 「そんな馬鹿ばかしいひとつひとつが面白かった」
 「人と物が氾濫していることによる熱気が、こちらの気分まで昂揚してくれる」

★そして様々な人に出会う。
 人生の哀切を漢詩で描く物乞いの老人。
 面倒見のいい黄金宮殿の女主人。
 世界中の港に女がいて「ペナンの女は最高」という船乗り。
 たかられていたと思ったいたら実はおごってくれていたペンキ屋。
 黄金宮殿にやって来て沢木さんに関心を持っていた21歳の女性など。

★沢木さんは香港の街と一体になっているのだ。
 そんな状態を沢木さんはこう表現している。
 「香港の街の匂いが私の皮膚に染みつき、街の空気に私の体熱が溶けていく」

 同じ香港に行っても持って帰るものが僕と沢木さんとはこんなに違う。
 僕の心は何て硬いのだろうと実感してしまう。
 もう一度旅に出ようと心から思った。


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