「選ぶ余地はないではないか。俺とて今川と共倒れになるのはごめんじゃ」
「選ぶ余地などございませぬ。父の代より私は今川の目付でございます」
政次(高橋一生)の裏切り。
でも、あの場でああいうふうに問い詰められたら、誰だってこう返事をするよね。
そして政次は激しく苦しむことになった。
これはつらい。
少し前の井戸のシーンで、次郎法師(柴咲コウ)、直親(三浦春馬)と幼なじみの関係に戻れて笑い合えたから尚更。
三人は昔のように手を携えて井伊の家を盛り立てていくはずだった。
なのに現実は彼らを引き裂く。
初代の井戸は、三人を昔の関係に戻す場だったんですね。
この場に来れば、三人は現在の立場やしがらみを捨てられる。
この井戸は井伊の隆盛の源、パワースポットなのだ。
初代はここから井伊家を見つめている。
…………………
直親は三つの言葉を語った。
・謀(はかりごと)で追い詰められ、こうなったら今川と一戦交えるしかないと直平(前田吟)たちが言った時は、
「そのようにお願いします。しかし戦うのは虎松の時。
こたびのことはそれがしの失敗。それがしが申し開きすればいいこと」
・息子・虎松との別れのシーンでは、
「生きておれば必ず好機はある」
・次郎が、自分が男であったら、と自分を責めた時には、
「おとわがおなごでなければ、われのたったひとつの美しい思い出がなくなってしまう」
これらの言葉は遺された者たちの行動原理になっていくのだろう。
家臣たちは虎松のために戦い、虎松は「生きておれば好機はある」を信じて苦難に立ち向かっていく。
一方、次郎は?
次郎は自分が<男でないこと>を悔いていた。
その思いは次回、ますます強くなるのだろう。
そして、<男>になる。
直親が大切にしたいと思う〝美しい思い出〟を打ち捨てて。
直親、政次が失われてしまえば、過去は〝つらい思い出〟でしかない。
だから、そんなものは捨てて現実と未来に生きる。
次郎が<井伊直虎>になる理由がここに提示された。
「選ぶ余地などございませぬ。父の代より私は今川の目付でございます」
政次(高橋一生)の裏切り。
でも、あの場でああいうふうに問い詰められたら、誰だってこう返事をするよね。
そして政次は激しく苦しむことになった。
これはつらい。
少し前の井戸のシーンで、次郎法師(柴咲コウ)、直親(三浦春馬)と幼なじみの関係に戻れて笑い合えたから尚更。
三人は昔のように手を携えて井伊の家を盛り立てていくはずだった。
なのに現実は彼らを引き裂く。
初代の井戸は、三人を昔の関係に戻す場だったんですね。
この場に来れば、三人は現在の立場やしがらみを捨てられる。
この井戸は井伊の隆盛の源、パワースポットなのだ。
初代はここから井伊家を見つめている。
…………………
直親は三つの言葉を語った。
・謀(はかりごと)で追い詰められ、こうなったら今川と一戦交えるしかないと直平(前田吟)たちが言った時は、
「そのようにお願いします。しかし戦うのは虎松の時。
こたびのことはそれがしの失敗。それがしが申し開きすればいいこと」
・息子・虎松との別れのシーンでは、
「生きておれば必ず好機はある」
・次郎が、自分が男であったら、と自分を責めた時には、
「おとわがおなごでなければ、われのたったひとつの美しい思い出がなくなってしまう」
これらの言葉は遺された者たちの行動原理になっていくのだろう。
家臣たちは虎松のために戦い、虎松は「生きておれば好機はある」を信じて苦難に立ち向かっていく。
一方、次郎は?
次郎は自分が<男でないこと>を悔いていた。
その思いは次回、ますます強くなるのだろう。
そして、<男>になる。
直親が大切にしたいと思う〝美しい思い出〟を打ち捨てて。
直親、政次が失われてしまえば、過去は〝つらい思い出〟でしかない。
だから、そんなものは捨てて現実と未来に生きる。
次郎が<井伊直虎>になる理由がここに提示された。
おそらく今回は前半最大の山場だと思います。
子役時代から営々と描き重ねてきた三人の絆が一挙に引き裂かれることになったのですから。
以前、史実調べをするA型視聴者と、素直に物語についてゆくB型視聴者とを区別しましたが、「いわゆる史実」をここに紹介しても構わない時期に来たと思います。
たとえばWikiでは、「直親は永禄5年(1562年)に小野道好(=政次)の讒言によって今川氏真に殺された」とあります。
最近「B型の方がよかった」と思うようになったのは、A型だと政次がいつ「いわゆる史実」の道に走ってしまうのか、という目で見てしまいがちになるからでした。
直親の「検地の危機丸投げ事件」、政次自身の奥山朝利殺害事件がありましたが、いずれも違いました。
たしかにこれらは危でしたが、三人はそれらを乗り越えて「絆」を大切に保ってきたことを前回、そして今回の前半までは示していました。
そこに襲いかかってきた「今川の計略」。
それゆえに、今回の話は悲しくつらい。
>少し前の井戸のシーンで、次郎法師(柴咲コウ)、直親(三浦春馬)と幼なじみの関係に戻れて笑い合えたから尚更。
しかしながら、「三人の絆」と「いわゆる史実」との断絶を整合的に示した構成は見事だと思いました。
政次は「誰だってこう返事をする」他はない「究極の選択」を迫られる直前までは、「三人の絆」の信頼関係の中に生きようとしていたでしょう。
しかし、事情を完全に知るのは直親のみであり、彼の行動は誰の目にも「いわゆる史実」の筋書きで解釈されざるを得ないでしょう。
今後、次郎法師と政次との関係はどうなるのでしょうか。
いずれにしても、以前のまま、というわけにはゆかないでしょうね。
やはり、政次も「失われてしまった」ことになるのでしょう。
いつもありがとうございます。
僕も「B型視聴者」ですね。
史実を知ってしまうと、「あれ? 史実と違う」と思って、素直に物語に入れなくなる。
あるいは
史実の行間を、正確に捉えようとするのが<歴史家>でドラマにしようとするのが<作家>。
この点では、今作は<三人の絆>という切り口でドラマにしていますよね。
次郎が直虎になる理由にも深みが生まれました。
政次はこの文脈ですと、死に向かっていますよね。
史実はどうなんでしょう?
完全にB型視聴者の視点ですが、次回、三人の絆の最終章が見られそうです。
私は、A型視聴者なので不満や悶々が産まれ易いのです。
それ故に、非常に困っています。
史実が確かかどうかすら怪しいのに、やはり史実とされているものに引っ張られてしまいます。
ファンタジーもしくはフュージョン時代劇として楽しめばいいのに。
先日、昭和63年放送の大河「武田信玄」の再放送の最終話がありました。
本放送も含めて3回も全話視聴するほど好きです。
武田家臣団の描き方も好きです。
余談ですが
今夜、「カルテット」が終わります。
好きじゃないのに見続けて疲れました。
こうじさん、 早めのリタイアは賢明でしたよ。
実に意味不明なドラマでした。
好きな人たちの「絶賛の狂気」には引いてしまいます。
megumiさんはA型視聴者でしたか。
歴史物としては、ご紹介いただいた『ソウル1945』はよくできていますよね。
主人公たちは実在の人物ではないのでしょうが、大戦末期から朝鮮戦争までの歴史がしっかり描かれていました。
『ソウル1945』を見れば、現在の韓国の政治や対日感情、北朝鮮との関係がよくわかる。
ドラマとしても波瀾万丈でしたし、見事な作品でした。
『カルテッド』の最終回は、補完しつつ見ようと思っています。
『直虎』でも高橋一生さんが退場しそうですし、ファンとしては寂しくなりますね。
「ソウル1945」を視聴して頂いたのですか。
ありがとうございます。
ちょっと感激しています。
あの作品は、スター俳優が出ていないし話は地味だし、
見てくれる人があまりいなかったんですよ。
まさか、こうじさんがご覧になっていただなんて!
私は、あれを凌ぐ韓国ドラマは無かったと今でも思っています。
無名に近い俳優を起用したことも成功だったと思います。
「大地の子」の陸一心役を郷ひろみや本木雅弘でなく上川隆也が演じたように
市井の人っぽくてリアリティを感じます。
高橋一生さん、売れ過ぎて食傷気味になってきました。
私って、天邪鬼なんでしょうかねぇ。(笑)
あの作品を紹介していただいたこと、本当に感謝しています。
北朝鮮は現在ではあんな国になってしまいましたが、建国当時は理想があったんですね。
韓国の製作作品ですが、「北にも一部の理がある」「すべては権力闘争である」「政治に翻弄されるのは名もない市民である」という描写で、自国を正当化することをしなかったのもよかったです。
歴史を描く上でのお手本ですね。
>高橋一生さん、売れ過ぎて食傷気味になってきました。
何となくわかります。
まだブレイクしていない人を自分だけが知っていて応援しているっていうのがファンの喜びなんですよね。
さて、これから「カルテッド」を見に行きます。