Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

マリアの首 ―幻に長崎を想う曲―

2017年05月24日 | 演劇
 30代の演出家3人が昭和30年代の戯曲を演出する「かさなる視点 ―日本戯曲の力―」シリーズの最終回。小川絵梨子が演出する田中千禾夫(ちかお)の「マリアの首 ―幻に長崎を想う曲―」。1959年(昭和34年)の作品だ。

 原爆によって廃墟となった浦上天主堂を保存すべきか、取り壊して建て直すべきかで揺れていた時代を背景に、長崎の底辺で生きる人々の苦しみを描いた作品。原爆が人々に濃い影を落とす。戦後日本はこれらの人々にどう向き合ったのか。それとも、放置したのか、という問いが、今これを観るわたしの中で堂々巡りする。

 鈴木杏(あん)が演じる鹿(しか)は、苦しみを抱えて悶々とする女。伊勢佳代が演じる忍(しのぶ)は、鋭利な殺意(=復讐心)を秘めた女。撚り合された2本の糸のような主人公たちだ。

 乳飲み子を抱いて夫(あるいは同棲者)の桃園(ももぞの)の前に現れる忍の姿は、幼子イエスを抱いた聖母マリアのように見えた。計算された効果だったのだろうが、わたしはハッとした。この芝居の象徴的なイメージが焦点を結ぶのを感じた。

 深夜に真っ白な雪が降り積もる浦上天主堂の廃墟の前で、地面にうずくまって黒く焼け焦げたマリアの首にすがろうとする鹿は、苦しみの限界を超えて、狂気のような目をしていた。そのときマリアの声が聞こえる。鹿を慈しむマリアの声。わたしは思わず涙が溢れた。久しぶりのことだった。

 原爆で苦しむ人々を見ているうちに、本作は、図らずも、今の時代への警告の意味を帯びているように感じた。近隣国でブラフ(脅し)合戦がエスカレートしている状況にあって、3度目の核が使われない保証はない。それはどこか。今度もまた日本だという可能性もないではない。

 「かさなる視点 ―日本戯曲の力―」シリーズは、前2作が日本の保守層・支配層を描いた作品だったのに対して、今回は庶民、それも社会の底辺で生きる人々を描いた作品である点で対照的だ。わたしは今回初めて感情移入ができた。

 小川絵梨子の演出は、しなやかで、しかも芯の強い感性が感じられた。以前の「OPUS/作品」もよかった記憶がある(もっとも「星ノ数ホド」には魅力を感じなかった。でも、それは作品のせいだろう)。新国立劇場演劇部門の次期監督に選ばれたときには(まだ30代の若さなので)驚いたが、案外したたかな人かもしれない。
(2017.5.23.新国立劇場小劇場)

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1 コメント

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仰天しました (さすらい日乗)
2017-06-01 14:49:43
田中千禾夫の戯曲をお読みでしょうか。これは詩劇なのです。それが土方の怒鳴りあいになるのはあんまりです。
小川は、田中を全く理解していないと思います。
一部では宮田慶子はひどいという噂もありますが、小川絵梨子は、それどころではないと思います。明らかに才能に疑問があります。
今回のシリーズについては、雑誌『ミュージック・マガジン』の「ポイント・オブ・ビュー」に書きましたので見てください。
6月20日ごろ出るでしょう。
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