Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

魔笛

2018年10月05日 | 音楽
 ウィリアム・ケントリッジは著名な現代美術家で、京都賞を受賞したこともあるが、そのケントリッジが初めてオペラ演出を手掛けたのが2005年のモネ劇場(ブリュッセル)での「魔笛」だった。その「魔笛」が新国立劇場で上演されている。大野和士体制のスタートを飾る演目だ。

 ケントリッジは、9月30日に行われたスペシャルトークで、次のように語っている。「今回の東京公演におけるプロダクションに関しては、そもそもの初演当時のものに比べて大々的に映像に手を入れて、すべて撮り直し、そして最先端の技術に合うように組み立て直しています。」(新国立劇場のHPより)。

 わたしは初演当時の演出を観ていないので、比較はできないが、今回観たかぎりでは、シンプルな印象を受けた。ドローイングの震えるような線描は、ケントリッジの魅力をよく伝えているが、その使い方は意外にシンプルだと思った。

 そう思ったのは、2017年のザルツブルク音楽祭で「ヴォツェック」を観たからかもしれない。「ヴォツェック」はケントリッジのオペラ演出の最新作だと思うが、そこでは舞台いっぱいにゴミ屋敷のようなセットが組まれ、オペラの進行とともに、その一角に多数の首(戦死した兵士たちの首)が転がる山腹が現れたり、マリーが殺される池が現れたりする。そして徐々に、そのゴミ屋敷は戦争で破壊された家であることがわかる。

 そのような凝った仕掛けは「魔笛」にはなかった。前記のスペシャルトークによれば、「魔笛」の舞台装置は「カメラの内部」で、それはポジとネガ(=光と闇)が容易に入れ替り得ることを暗示する。またザラストロが「この聖なる神殿では」を歌うとき、背後では帝国主義時代のヨーロッパ人が(おそらくアフリカで)狩りをしている映像が映し出される。それはザラストロ(=啓蒙主義)が孕む暴力的なものを暗示する。

 そういった興味深い着眼点があるのだが、それらのテーマが発展せずに、提示されるにとどまった感がある。

 ローラント・ベーアが指揮する東京フィルの演奏は、反応が鈍く、重かった。最後の頃には疲れた。

 ザラストロ、タミーノ、パパゲーノの外人歌手3人はそこそこの出来だったが、パミーナの林正子は、第2幕の悲しみのアリアが、まるでロマン派オペラのように大仰だった。夜の女王の安井陽子は、日本人的なメンタリティーが壁になっていた。
(2018.10.3.新国立劇場)
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