ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

日高本線の鵡川・様似間の廃止は合意へ

2020年09月30日 00時17分10秒 | 社会・経済

 長らく運休が続いている日高本線の鵡川・様似間の廃止について、JR北海道と沿線7町が合意したようです。朝日新聞社が、2020年9月29日10時付で「日高線の鵡川―様似間廃止で大筋合意 沿線7町とJR」(https://www.asahi.com/articles/ASN9X73HQN9XIIPE017.html)として報じています。

 7町とは日高町、平取町、新冠町、新ひだか町、浦河町、様似町およびえりも町です(えりも町には鉄道路線がありません)。存廃問題が浮上してから、7町の首長が会議を繰り返してきました。9月28日に臨時の町長会議が新ひだか町で開かれ、JR北海道副社長なども出席して、沿線自治体とJR北海道が2021年4月1日の廃止ということで合意しました。勿論、廃止のみが合意されたのではなく、7町は18年間のバス運行費として20億円、地域振興費5億円をJR北海道から受け取ることも合意の対象でした。

 さらに、護岸の復旧費用もJR北海道が原則として負担するということですが、具体的な内容はまだのようです。

 なお、今回は大筋合意ということで、正式な合意は10月になされます。

 ただ、沿線自治体の首長が会議を繰り返すという方法については、住民から批判もあるようです。会議が非公開であったということで、情報公開が不十分であったということでしょう。勿論、会議の非公開が直ちに情報公開の不十分さにつながる訳ではありません。私自身も沿線で深くこの問題を追いかけた訳ではないので、決定過程が不透明であったか否かは即断できませんが、住民の生活に関わる問題であるだけに、住民間の異なる意見をどのように反映させるか、または調整するかという課題は常に存在します。

 また、廃線・バス化ということで、児童・生徒の通学の問題も出てきます。沿線には北海道立静内高校があり、登校時には混雑するようです。ダイヤ編成が重要で、バス路線の中には高校生の通学時間帯と合わないというものもあるようです。

 実際のところ、路線バスにどの程度の利便性があるのかはわかりません。現在の代替バスについては時間がかかりすぎるという声もあるようですし、鉄道路線を廃止してバス化したらさらに利用客が減り、廃止に至って公共交通機関が消滅するという地域も少なくないようです。

 さらに記すと、日高本線が苫小牧・鵡川間のみの路線として存続するとして、いつまで存続可能かという問題もあるでしょう。この区間もJR北海道単独では維持困難であるとされています。国や沿線自治体が支援するといっても、財政状況などによっては支援が打ち切られることもありえます。まずは留萌・増毛間が廃止され、残る深川・留萌間も廃止が議論される留萌本線と同じようなことになるかもしれません。

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アベノマスクの単価は

2020年09月29日 00時00分00秒 | 国際・政治

 Yahoo! News Japanに興味深い記事がありました。立岩陽一郎氏による「『アベノマスク』の単価は143円 黒塗り非公表の文書で黒塗りし忘れか」という記事です(https://news.yahoo.co.jp/byline/tateiwayoichiro/20200928-00200337/)。

 これは、今年の4月、神戸学院大学の上脇博之教授が厚生労働省および文部科学省に対して行った情報開示請求に係るものです。8月27日に文書が開示されたのですが、見積書に書かれた総額は2億1175万円と明示されているのに、数量および単価は黒塗りになっていました(これでは総枚数もわかりません)。また、詳しいことはわからないのですが別に総額を3億800万円とする見積書もありました。これも数量および単価が黒塗りになっていたそうです。この経緯は、やはり立岩氏による「安倍政権の『目玉政策』だったアベノマスクの単価をひた隠しにする政府」という記事(https://news.yahoo.co.jp/byline/tateiwayoichiro/20200927-00200259/)に書かれています。政府が公金を支出する以上、総額はもとより数量および単価も公開すべきであると考えられますが、情報公開法第5条の不開示事由のいずれかに該当すると判断されたのでしょうか。

 同条第1号から第6号までの不開示事由には該当しないと考えられます。第6号は「国の機関、独立行政法人等、地方公共団体又は地方独立行政法人が行う事務又は事業に関する情報であって、公にすることにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるもの」のうちイからホまでを不開示事由としています。考えられるのは「ロ 契約、交渉又は争訟に係る事務に関し、国、独立行政法人等、地方公共団体又は地方独立行政法人の財産上の利益又は当事者としての地位を不当に害するおそれ」です。実際に、あくまでも記事によるところですが、上脇教授に示された不開示の理由は、契約単価が判明すれば今後の価格交渉などに支障がおよぶおそれがあるというものです。

 しかし、本当にそうでしょうか。

 見積書が数社分あって、そのうちの最も安い価額を示したA社のものを採用したというのであれば、残りのB社、C社などの見積書を不開示とすることは考えられます。ところが、実際に選択された見積書に基づいて行われた契約の結果、単価がいくらで数量がいくらかということも開示されていません。しかも、今回の場合、2億1175万円の見積も3億800万円の見積もりも契約に結びついています。単価が同じで数量が違うのであればまだよいのですが、単価も数量も違うと「どういう契約なのか」と思われるでしょう。

 それでは、不開示のはずの単価が何故わかったのでしょうか。理由は単純で、消し忘れでした。

 文部科学省から開示された文書に、業者との交渉によって単価が143円(消費税・地方消費税込み)になるという連絡が厚生労働省(マスクチーム)から文部科学省に入り、4月17日に見積書が提出されたという趣旨の文言が記されていました。

 よくぞ見つけたという感じではあります。立岩氏は「安倍政権の『目玉政策』だったアベノマスクの単価をひた隠しにする政府」において「上司からの指示だろうが、必死で単価を隠そうと作業をした同省の係官には同情を禁じえない」と書かれています。皮肉か否かは別として、たしかにそう思わざるをえませんし、役所も無駄な労力を使うものだと感心せざるをえません。

 単価はわかっても、数量が不明である以上、総枚数もわからず、実際のコストもわかりません。結局、政策の妥当性も決定過程もわからないままです。情報公開法第1条は死文化したのかもしれません。

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「地方の腐敗は日本の腐敗」 同感せざるをえない

2020年09月28日 00時00分00秒 | 国際・政治

 朝日新聞社の「論座」という言論サイトがあります。よく見て、「これは」という記事は読めるように保存しています。今回は、9月25日付の「地方の腐敗は日本の腐敗 議員も市長も記者さえも『はりぼて』か」(https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020092300003.html?returl=https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020092300003.html&code=101WRA)という記事が目につきました。高知大学准教授の塩原俊彦氏によるものです。

 私も、7年間だけですが地方の国立大学に勤務していました。その間、時々ですが新聞社や放送局からコメントを求められることがありました。そのおかげで大分県の状況などをよく見るようになり、サテライト日田問題などに首を突っ込むことにもなりましたし、市町村合併問題にも取り組むことができました。住民のフリをして某市の合併問題に関する説明会に行ったこともあるほどです。コメントなどでは言いたい放題、と言うほどではないですが少々手厳し目の意見などは言ったつもりです。また、私は2003年に「リーダーたちの群像~平松守彦・前大分県知事」という論文を書いておりますが、これが掲載された月刊地方自治職員研修2003年10月号が職員研修所に置かれていて、職員の方が「読みましたよ」などと声をかけてきたこともありました。当時、職員研修所でも仕事をしていたので、内心はヒヤヒヤしていましたが、どこかで「おれは国家公務員だぞ」と開き直っていたかもしれません(2004年3月末日まで、国立大学の教員は国家公務員でした)。もっとも、そういう意識がなければ、新聞社や放送局などからコメントを求められても答えられません。

 塩原准教授は「地方にいると、その腐敗ぶりは目を覆うばかりである」という文章で記事を始めます。まさにその通りであると言えるでしょう。情報公開関係などで「これはないだろう」という事件を知ったりすることも少なくありません。一つ覚えているのは議員の視察旅行の話で、その日程表が旅行会社のパック商品に書かれているコースを逆にしただけというものでした。

 地方政治の腐敗といえば、記事に書かれている富山市議会の問題は最たるものですが、チューリップテレビがよく取り上げたと思っています。書籍も出版されており、青葉台のブックファーストで何度も見かけました(購入したかどうかは覚えていません)。地元の問題は地元のマスコミではなく、隣県のマスコミなどが取り上げたりすることもありますし、大手新聞社、雑誌社などのほうがよく取り上げるということもあります。

 塩原准教授があげる「とくに印象に残っている」問題は3つあります。これは地域によりけりかもしれませんが「なるほど」と思いましたし、私自身の経験からも納得できる部分があります。

 第一にプライヴァシーです。とくに情報公開請求なのですが、これが「追及を受けている側に筒抜けになっていた」という事例があります。先の富山市議会問題がそうであったようです。例のさくら問題で、野党が「桜を見る会」の招待者名簿の開示請求をした日に名簿が廃棄されたと報じられていましたが、仮に請求直後に廃棄されたとしたら立派な証拠隠滅です。富山市議会問題もさくら問題も根は同じということでしょう。国も地方も公文書の意味がわかっていないということになります。そればかりでなく、塩原准教授は情報公開(開示)請求者のプライヴァシーが保護されていないという点です。私自身はこの点を経験していませんが、ありえない話ではないと思います。

 塩原准教授は地方公務員法第34条第1項をあげて、筒抜けは同項に違反する旨を記しています。おそらくは御存知であっても記されなかったのではないかと推察されますが……。これ以上のことを記すのはやめておきましょう。

 余談ですが、地方移住を推進する地方自治体や地域は、プライヴァシーを理解する必要があります。そうでないと、東京などの都市から移住してきた人たちがいても、結局はまた離れてしまいます。この手の話は地方創生関連のサイトで時折見かけます。また、プライヴァシーと直接の関連があるかどうかはわかりませんが、閉鎖的であるという点も、UターンやIターンの定着に結びつきません。せっかく来てくれた新定住者に失望を与えてどうするのですか?

 本題に戻りましょう。第二に情報公開です。塩原准教授は「議会改革の不徹底ぶり」としてあげていますが、議会に限りません。これは地方行政、とくに市町村単位で当てはまることでしょう。勿論、都道府県によって、市町村によってかなりの差異があります。一概に、あるいは乱暴に傾向を記すこともできません。ただ、国のレヴェルでも情報公開や公文書保存の意味を理解していない政治家が存在するほどで、塩原准教授も「当のチューリップテレビでは、事件を追ったキャスターが辞職してしまう」と書かれているように、一部の首長を除けば情報公開には敵対的な人々が少なくないことは指摘しておくべきでしょう。そうであれば、正面から情報公開条例を廃止すると述べて欲しいものです。情報公開制度を設けていながら、情報公開を進めず、開示請求者のプライヴァシーも守られないのであれば、情報公開制度が存在する意味はありません。むしろ、敵対者の存在を見つけるための制度に成り下がっており、悪の存在にすらなります。それならば、情報公開制度を廃止するほうがよいということになります(私が情報公開制度の廃止を何度か記しているのは、その趣旨です。本心から情報公開制度の廃止を唱えている訳ではありません)。

 第三に、議員の居直りです。これは富山市議会問題のみならず、2019年の参議院議員広島選挙区買収事件にも共通します。「検察も弱腰である」という批判が妥当かどうかは別として(塩原准教授はこのような批判を書かれておりません)、何年も前にあった「みそぎは済んだ」のような話にもなっています。贈収賄、公職選挙法違反などの問題の当事者であっても、議員辞職をしないというような人が多いということです。まあ、昔から地方議会の議員には遵法精神の少ない人々が……。やはり、これ以上のことを記すのはやめておきます。ただ、歴史を遡って調べてみてください、とだけ書いておきます。

 そして、塩原准教授は議員報酬の問題を記しています。富山市議会問題をあげて書かれているので、一般的な議論かどうかはわかりませんが、NHKスペシャル取材班『地方議員は必要か:3万2千人の大アンケート』(文春新書。私は入手していません)から引用しつつ、世襲議員の存在をあげています。「政治が商売になるから世襲が成り立つのではないか。あるいは、議員という地位をビジネスに活用することで、全体として世襲しつづけることが可能になる『おいしい』商売なのではないか」。また、政務活動費の問題もあがっています。国、地方を問わず、政務活動費の使途が怪しいと言われます。実際に、どう見ても遊興費としか思えない出費もありますし、「どうして自宅に家賃を払うんだよ?」というようなものもあります。政務活動費として正当であると強弁するなら、詳細なリポートなり論文なりを書かせるのがよいでしょう。字数は1万字以上です。勿論、領収書などの添付も必要です。

 もう一つ、同感せざるをえないと思ったのが、女性議員の数の問題です。性差があるとすれば、物の見方も違うでしょう。男性議員しかいなければ、物の見方も偏ってきます。塩原准教授は次のように書かれています。

 「安倍晋三政権は富山市議会の延長線上にあった。菅義偉政権になっても、それはまったく変わらないだろう。最近でも、『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、『日本の国会議員に占める女性の割合は15%にも満たない。現職の女性国会議員102人中、安倍の保守的な自民党に所属しているのはその半数に満たない。20人の内閣のうち女性は3人にすぎない』として、日本の政治の後進性を慨嘆している。とにかく、ひどすぎるのだ。」

 勿論、女性議員を男性議員と同数にすればよいという訳でもありません。候補者がいなければ話になりませんし、候補者が当選するか否かは有権者の選択によります。強制的に女性議員を増やしてよいかどうかは疑問です。ただ、有権者の意識、というよりは一人一人の意識に左右されるでしょう。よく、日本は初等教育や中等教育における政治・経済関係の教育が不十分と指摘されます。結局は教育の問題に帰すると言えないでしょうか。

 ちなみに、日本でも女性議員の数が多い議会はいくつかあります。代表は神奈川県の大磯町議会でしょう。現在、大磯町議会の議員は14名で、女性議員は7名、しかも議長も女性です。また、葉山町議会は2018年の段階で女性議員が5割を超えていましたが、現在は14人中5人で約36%です。神奈川県では女性議員の割合が30%以上の市町村議会が多く、大磯町の50%、二宮町の42.9%、鎌倉市の37.5%、海老名市の36.4%、山北町および葉山町の35.7%、逗子市の35.3%、茅ヶ崎市の32.1%、綾瀬市の30.0%となっています。我が川崎市は25.0%です。市議会では北海道の江別市議会および東京都の東村山市議会がともに48.0%とのことです〔いずれも、内閣府の男女共同参画局による「市町村女性参画状況見えるかマップ」(http://www.gender.go.jp/policy/mieruka/government.html#mieruka)によります〕。

 

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2003年8月23日、別府駅東口

2020年09月27日 20時46分35秒 | 旅行記

 今回は、私の「川崎高津公法研究室」に設けていた「待合室」の第64回「別府駅東口の現状」(2003年8月30日〜9月5日)の再掲載です。掲載当時は大分大学教育福祉科学部助教授で、大分医科大学医学部医学科および別府大学文学部人間関係学科の非常勤講師も務めていたため、別府市は旅行先ではなかったのでした。そのため、カテゴリーを旅行記とするかどうかは迷いました。なお、以下の内容については修正などを加えておりませんので御注意ください(ダイエー別府店など、既になくなっている店もあります)。

 

 皆様は、別府(勿論、大分県別府市のことです)について、 どのようなイメージをお持ちでしょうか。おそらくは温泉という答えが最も多いと思われます。中には、競輪、サテライト日田問題、などというものも出てくるでしょう。それはともあれ、別府市は、日本でも温泉を基盤とする観光地としては最大の規模を誇る所でしょう。東日本であれば静岡県熱海市や神奈川県箱根町、西日本であれば大分県別府市が、大温泉地帯として有名です。

 箱根はともあれ、別府と熱海には、類似する点がいくつかあります。まずは地形です。熱海市も、山が海のすぐ近くにまで迫り、平地が少ないのですが、別府も同様です。国道10号線が海のそばを通り、そこから日豊本線のほうに向かうと、すぐに登り坂になります。さらに西へ向かうと、勾配がきつくなり、大分自動車道は山の中を通っています。そのため、同じ市内でも天候が違うということが度々生じます。

 もう一つ、別府と熱海の共通点は、観光地としては長期低落傾向にあるということです。熱海の場合は、東京に近いということもあって、バブル期には東京の通勤圏内になりました(それにしては、東京駅から100キロメートル以上離れているのですが)。しかし、別府の場合は、1980年前後から低落傾向が続いています。例えば、修学旅行客の動向を見ると、1980年代に入ってからは減少の一途をたどっています。一般の観光客もそうで、ワールドカップなどで一時的には増加したものの、根本的な解決には程遠く、最近も、ホテルの閉鎖などが相次いでいます。また、地価の下落率も大きく、中心地の北浜の下落率は、今年、熊本国税局管内で最大の幅を記録しました。

 別府駅東口です。首都圏や関西圏で高架駅は珍しくないのですが、大分県では別府駅と中津駅のみです(大分駅は、現在、高架化工事中。微妙なのは豊後竹田駅)。時期について詳細はわからなかったのですが、昭和42年、つまり1967年には、別府駅は高架化されていました。上の写真の手前側1番線に停車している普通列車(C57牽引)の写真が、手元の本に掲載されていますが、昭和42年8月6日撮影となっていました。おそらく、昭和42年か前年に高架化されたのでしょう(中津駅は、まだ高架化されていなかったようです)。

 この写真は、この夏、8月23日土曜日の昼に撮影したのですが、客待ちのタクシーは何台も見られたものの、肝心の人があまりいません。別府駅は、バス路線の関係なのか、いつも西口のほうにお客が多いようです。また、高架駅の中には、ファーストフード店、ダイエー、数件の食堂などがありますが、利用客はそれほど多くありません。

 先ほどの場所から、東側、つまり海側に歩きます。北浜の ほうに出る別府駅前通りです。この通りには、かつて、大分交通別大線の支線が通っていましたが、昭和30年代には廃止されています。なお、別大線は1972(昭和47)年に廃止されました。

 それほど多くの回数ではないのですが、私がこの通りを歩く時は、だいたい、このような感じです。観光地とは言え、閑散としていて寂しいものです。例外は、2000年12月9日です。この日は、サテライト日田設置反対デモが行われました。この時だけは、別府駅前通りは、日田市民、別府市民、そして報道関係者などであふれかえっていました〈サテライト日田(別府競輪場の場外車券売場)建設問題・第8編を参照〉。こんな皮肉な話もないものです。地元の温泉まつりですら、あの時ほど多くの人がいないのですから。ただ、不思議なことに、通りに10件近くあるパチンコ屋だけは、そこそこお客が入っています。

 この写真を御覧になって「何でこんな空き地を撮影してるんだ?」とお思いの方もおられるでしょう。実は、ここが近鉄百貨店の跡地なのです。私が大分大学に着任した1997年には既に閉店しており、建物だけが残っていました。そして、2000年には建物も壊されました。ここに場外馬券売場(だったと思います)を設置する構想などもあるようですが、実現に至っておりません。

 また、写真の右上のほうに、かすかですが「コスモピア」が見えます。北浜の交差点付近にある、トキハ別府店に隣接する商業施設です。実は、このコスモピアは第三セクターが運営していたのですが、1990年代初頭に経営が破綻し、地元の百貨店であるトキハに譲渡されました。

 坂を下ってすぐのところに、やよい商店街があります。土曜日の昼間、御覧のように、歩いている人はほとんどいません。平日の夕方などもそうです。以前聞いた話では、別府国際観光港の埠頭が北浜付近から現在地(別府大学駅のほうが近い)に移転したことが影響しているとのことでしたが、車社会の進展でこうした商店街が衰退した、と考えるのが自然でしょう。ここもシャッター通りで、何件もの店がシャッターを閉めていました。また、営業してはいるのですが、店の中が見えにくいなど、いかにも入りにくそうな店も見受けられます。私も、商店街の何処かで昼食をとろうとしたのですが、中がよく見えないので入りづらく、結局、入るのをやめました。改善を訴えたいところです。

 問題のある写真かもしれませんが、別府市中心街の現状を紹介するため、あえて掲載します。大分県内各地の中心街では、よく見られる光景です。

 一般的に、道路網の発達と自家用車の普及により、中心街は寂れる一方で、郊外のスーパーマーケットにお客が流れています。ただ、別府市を周ってみても、国道10号線沿いなどに郊外型のスーパーマーケットやディスカウントショップがあるものの、それほどお客が多い訳ではありません。大分市や挾間町にみられるような大規模な店舗は、別府市に存在しません。おそらく、少なからぬ買い物客が大分市に流れているものと思われます。実際、別府在住の学生などに尋ねると、普段の買い物はともあれ、衣服や本などであれば大分市内で買うし、遊びに行くのも大分市内の中央町や郊外の大規模店舗などがあげられます。

 おそらく、別府で公営カジノ構想が真剣に議論されているのも、こうした商店街の現状に由来するのでしょう。

 また、別府駅前通りを北浜のほうに歩きます。坂を下りきり、もう少しで北浜の交差点という所に、ソルパセオ銀座という商店街があります。ここもアーケードです。大分県内に限ったことではないのかもしれませんが、少なくとも県内で、アーケード商店街は衰退する傾向にあります。中津市新博多町もそうですし、臼杵市の商店街もそうでした(現在はわかりませんが、数年前の臼杵市のアーケード商店街は惨憺たるもので、空いている店が10件に満たず、しかも、お客が入っている店舗はさらに少なかったのです)。佐伯市のアーケード商店街も寂れていました。大分市の竹町商店街もアーケードになっていて、ここも衰退しています。幼い頃、私が生まれ育った川崎市の某所(溝口ではありません)の駅前もアーケード商店街でしたが、今はかなり廃れています。大分市中央町商店街は、結構人通りが多いのですが、それでも、衰退傾向にあることは否定できません。そう言えば、直方駅前のアーケード商店街も寂れていました。九州のアーケード商店街で活気があるのは、小倉の魚町と熊本の上通、下通くらいでしょうか(鹿児島の天文館や長崎の浜町はどうでしょうか)。

 アーケードに限らず、中心街の衰退は大分県内の至る所にみられます。私が実際に歩いた経験から言えば、大分県内でとくに衰退が著しいと思われるのは、別府の他、中津、臼杵、津久見、佐伯、竹田です(津久見市と竹田市は過疎地域に指定されています)。

 上の写真は、デジタルカメラの望遠機能を使い、道路の反対側から撮影したものです。最初見た時には「珍しく人通りが多いぞ!」と思ったのですが……。

 ソルパセオ銀座に入ってみると、人が多いように見えたのは錯覚でした。この写真でも、奥のほうには人通りが多いように見えますが、実際は違います。通りの真中に、写真にあるように商品が並べられていることが多く、これが錯覚を起こす原因にもなっています。

 大分県内では大分市に次ぐ人口規模(約12万人)で、大分県では唯一、市町村合併をせずに単独で残ることが決まっている別府市ですが、人口も減少しており、温泉などの観光面でも、湯布院などに水をあけられています。今回は、こうした現状の一環を取り上げました。

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これは心配

2020年09月26日 10時18分15秒 | 社会・経済

 今朝、ニュースを確認していたら、うちの近所にある高津警察署が報じられていました。朝日新聞社、神奈川新聞社のサイトなどに記事が掲載されています。

 高津警察署でクラスターが発生しており、およそ230人いる署員のうち、署長を含めて85人が自宅待機となったようです。10人の感染者が確認されています。

 職務上、感染しやすい環境に置かれているのかもしれません。そして、住民も警察署を利用する機会があります。

 

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9月24日付朝日新聞朝刊の「経済気象台」

2020年09月26日 07時00分00秒 | 国際・政治

 2020年8月11日13時16分00秒付で「看板だけはたくさん掲げても」という記事を掲載しました。今回は或る意味でその続きです。

 「経済気象台」というコーナーが、朝日新聞朝刊の経済面にあります。今回は、24日付朝刊12面13版に掲載された「キャッチフレーズの行方」を紹介しておきます。

 これを書かれた「穹」氏は、三本の矢、新三本の矢をあげ、これらと並行するものとして地方創生、一億総活躍といったような政策、女性活躍、生産性革命、働き方改革などというようなキャッチコピーをあげて、全体をイメージ戦略と捉え、「SNS時代の潮流に合致し、大いに当たった。国民に清新な印象を与え、度重なる選挙の勝利に貢献した」としつつも、「国民受けを狙うあまり、実現を裏づける根拠に乏しい目標も多かった。名目GDPや出生率の実績は目標に遠く及ばない。アベノミクスの中核と目された日本銀行の金融政策も、物価目標2%を実現できないまま、7年半が過ぎた」と評価しました。

 表現は違いますが、看板をたくさん掲げ、掛け替えてきたということです。そして、結局、根本のところで目標は未達成のままであったということです。今年8月に地方自治総合研究所から刊行された「地方自治関連立法動向第7集」に掲載された「地方税法等の一部を改正する法律(平成31年3月29日法律第2号)<月刊自治総研2019年12月号より>」において、私は「2012年12月に第二次安倍内閣が発足してから現在に至るまで、内閣および与党は『デフレ脱却と経済再生』を『最重要課題』と位置づけている。このこと自体、『デフレ脱却と経済再生』があまり進んでいないことを物語っている」と記しました(8月6日10時17分10秒付の「景気動向 2018年10月で景気拡大は終わり 与党税制改正大綱が暗示していた?」もお読みください)。また、私は別の論文で「具体像が十分に示されないままに「改革」、「革命」などの語が多用される点に違和感を禁じえず、『働き方改革』と『給与所得控除・公的年金等控除の制度の見直し』との具体的な関係について、十分と言える程に明確にされているとは言い難い」とも記しています。

 そう、「改革」、「革命」はイメージなのです。閉塞感に囚われている国民に変化を期待させるための言葉です。過激であることは否定できませんが、そのくらいでなければインパクトがないのでしょう。具体性は必要ないのです。

 イメージ戦略は、成功すればよいのですが、少しの失敗が大きく響きます。その例として「穹」氏があげたのが、星野源さんの歌に乗せた形での「首相が自宅でくつろぎ、外出自粛を呼びかける投稿動画」です。私もその動画を見ましたが、すぐに「これはないだろう」と思いました。星野さんの歌と自宅でくつろぐ姿が全く合っていません。テンポも何をも無視したものにしかなっていなかったのです。マラカスを振る、カスタネットを叩く、というようなことをすれば合うし、受けたことでしょう。他国の首相や大統領は、本を朗読する、じっくりと熱を込めてメッセージを送る、というようなことをしていました。センスの問題だろうとすぐにわかります。まさに、「穹」氏がお書きのように「身近で切実な問題では人は標語や印象に惑わされない」のです。

 「穹」氏は「『根拠と結果』重視の政策に戻れるか。新政権の真価が問われる」という文を最後に記しています。その通りであると思います。これを前提として、真に必要であるのは検証でしょう。或る意味でイメージ戦略と逆の方向にあるものです。その意味で、もりかけさくらのうちのさくらについて再調査はしないと表明されたことは、検証の重要な機会が失われたことであり、残念なこととしか言い様がありません。

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油断は禁物

2020年09月25日 10時07分35秒 | 受験・学校

 軽い風邪をひいたためなのか、調子が悪く、朝の8時まで10時間以上も寝ていました。7月は雨ばかりで気温が上がらず、8月から9月の中頃までは猛暑が続いたと思ったら、秋の彼岸を過ぎて急に気温が下がったからかもしれません。

 さて、今日(2020年9月25日)の9時付で、朝日新聞社のサイトに「大学生らのコロナ感染、学内外が半々 授業再開で注意」(https://www.asahi.com/articles/ASN9S5S6XN9GPLBJ005.html)という記事が掲載されていました。気になるので読んでみました。

 調査を行ったのは東北大学総務課で、大学や地方自治体のウェブサイトなどの情報を収集したということです。未公表の場合もあるでしょうし、公表はされていても「詳細が伏せられている」場合もあるので、完全な情報収集という訳ではないようですが、これは仕方のないところでしょう。感染事例は今年の7月1日〜9月10日までのもの、人数はおよそ950人です。このうち、感染経路が特定できたのは349人でした。半分以上は特定できなかったということになります。また、感染者は学生に限らず、教職員なども含まれます。

 349人中、学内での感染者は166人で、寮での感染者が最も多く94人、ついで課外活動(サークルなど)での感染者が65人、授業での感染者は3人でした。「やはり」という結果であったと考えられます。授業での感染者が少ないのはオンライン授業が多かったためですが、実習科目では前期でも対面授業が行われていたものもありました。気になるのは、これら以外の感染原因です。

 学外での感染者は183人でした。これも「やはり」という印象です。最も多かったのは会食(飲み会など)で64人、旅行や外出が26人、アルバイトが7人、などとなっていました。家庭内感染もここに含まれるのでしょう。

 最近はあまり見かけなくなりましたが、会食がなくなった訳ではありません。マスクを外さないで飲食をすることはできませんから、油断は禁物です。飲み屋などでは入店の際に店員さんが検温をしてくれるところが増えていますが、そうでないところもあるでしょう。

 また、うちの近所では時々見かけるのですが、誰かの家に若者数人が集まって飲んだりしていることもあります。とくに、緊急事態宣言で多くの飲食店が休業した時期に多かったのです。これは会食に入るのか入らないのか、感染源になったりしないのかと思いながら見ています。

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2009年3月21日と22日の朝、すすきの

2020年09月24日 00時00分00秒 | 旅行記

 2009年3月20日から22日まで、学会の関係で札幌市を訪れました。その時に撮影した写真などを掲載しておきます。

 なお、札幌市電の営業区間は、長らく西4丁目〜すすきの(電車事業所前経由)でしたが、2005年に西4丁目〜狸小路〜すすきのが開業したことにより、完全な環状運転を開始しました。

 街の中、しかもビルの上に観覧車があるというのは、考えてみると変な話なのですが、所々にあるものです。2008年9月に訪れた鹿児島市にもありましたが、上の写真は、私が宿泊していた札幌東急インの部屋から撮影したものです。

 2009年3月20日の夜、およそ8年4か月ぶりに札幌駅を利用しました。すぐに地下鉄南北線に乗り換え、すすきので降りました。前回の訪問時には札幌駅前のホテルに宿泊し、麻生(あさぶ)や真駒内(まこまない)、新札幌を歩いたにも関わらず、繁華街のすすきのを歩いていません。地下鉄で通過しただけなのです。そこで、今回はすすきのを歩いてみようと思い、ホテルを選びました (実は割引券を持っていたからでもあるのですが)。

 翌朝、上の写真を撮影してみました。観覧車は、このホテルの北側、狸小路というアーケード街の中にあるビルの上に設置されているようです。

 ホテルから出て、すすきの駅まで歩きます。すすきのと言えば、日本中で有名な歓楽街であり、駅から中島公園に向かうほう、つまり南側には風俗営業の店がたくさん並んでいます。しかし、土休日の朝は、自動車の通行量が少なくないのに、人通りは少なく、眠っているかのようです。

 私は、20日の夜、ホテルのチェックインを済ませてすぐにこの周辺を歩いたのですが、何故か博多ラーメン、もつ鍋など、九州の料理を扱う飲食店が多かったことに驚きました。観光客より地元の客が足を踏み入れる地帯を通ったのかもしれませんが、九州料理を扱う店が多い一角があるのです。勿論、北海道料理店もたくさんあります。しかし、地元の人間がどれくらい利用するのでしょうか。故宮脇俊三氏は、『最長片道切符の旅』という名著の高山駅周辺の箇所で「土地の人間相手ですから珍しいものはない、とは意義深い。土地の人は『高山料理』など食べないのである。それはどの町だって東京だってそうだ。お上りさんの入る店に京都の人は見向きもしない」と書いています(新潮文庫版226頁)。札幌市在住の方々に、この宮脇氏の記述はどの程度まであてはまるのでしょうか。

 以前に札幌を訪れた時にも感じたのですが、気候などを別にすれば、札幌駅周辺からすすきのまでを歩いていても、東京近辺を歩いているのと変わりません。東京の延長とすら思えてきます(この街の一部だけしか触れていないのですが)。首都圏に本拠を置く百貨店やスーパーマーケットの支店が多いこと(例、西武百貨店、イトーヨーカドー、東急ストア)、逆に札幌市に本拠を置くドラッグストアや家具屋などが首都圏に多いこと(例、ニトリ、ツルハドラッグ)が、東京の延長という印象を強めるのでしょう。また、街を歩いている人たちに訛りがないようで、そのことも影響しているのかもしれません。

 札幌市には市電が走っています。奥に電車が止まっていますが、そこがすすきの電停です。地下鉄整備が進んだことなどによって、市電は廃止されることになっていたようですが、西4丁目~すすきのの路線は残りました。20日の夜に乗ってみたのですが、意外に利用客が多く、存在意義は十分にあるようです。地下鉄南北線のすすきの駅は、交差点の下にあり、市電と連絡しています。

 ところで、私は、ここで「すすきの」と平仮名で書いています。これは札幌市交通局の駅名表記にならっているのですが、本などによっては「薄野」、「ススキノ」と書かれていることもあります。そもそも、すすきのはこの辺りの通称とも言うべきものでして、札幌市の地図を見ても正式な住居表示などとしては登場しません。私が宿泊した札幌東急インの所在地は札幌市中央区南4条西5丁目となっています。この辺りでは、大通を基準としてその北にあれば北何条といい、南にあれば南何条といいます。そして、東西を何丁目と言い分けます。そのため、交差点には、たとえば「南4西5」と書かれています(同じ交差点でも信号機によって表示が異なることがあります)。従って、歩くのには最も楽でしょう。これまで私が歩いた中で、京都市と大阪市の中心部における道路のわかりやすさには感心したのですが〔京都市は東西に伸びるメイン(?)の道路が「四条」などとなっています。大阪市の場合は、南北に伸びる道路が「筋」、東西に伸びる道路が「通」となっています)、札幌市はさらにわかりやすいのです。

 〔追記:さらに記せば、わかりやすさでは札幌市、大阪市の順でしょう。〕

 ラッピング広告車となっている市電です。札幌市電は、今ではどこの地方にも普及しているVVVF制御を日本で2番目に採用しました(最初の採用は熊本市電)。以前から進取の精神に富んでいたと言えます(ローレル賞を受賞した連接車を導入したり、ディーゼルカーを導入したりもしています)。

 この市電の走行区間は実に面白いものです。方向幕に「西4丁目~すすきの」と書かれていますが、すすきの電停から西4丁目電停までは数百メートルしか離れておらず、地下鉄南北線の真上の道路を歩いても数分で着きます(地下鉄ですと大通駅の次がすすきの駅です)。しかし、この市電は45分ほどかけて両電停を結びます。すすきのを発車すると西に向かい、資生館小学校前電停の所で左折して南に向かいます。幌南小学校前を出て右折して西に向かいます。この辺りは完全に住宅地となっており、郊外型店舗も見受けられます。電車事業所前の手前でまた右折して、今度は北に向かいます。そして、西15丁目で右折して東に向かいます。そして西4丁目に到着します。すすきのと西4丁目がつながっていれば完全な環状線になりますから、どうして残しておかなかったのかとは思います。

 さて、地下鉄のすすきの駅に入りました。この地下鉄がまた独特です。札幌市営地下鉄は南北線、東西線、東豊線の3本から構成されていますが、そのいずれも中央案内軌条式を採用しています。

 上の写真では少しわかりにくいかもしれませんが、線路のように光っている部分が案内軌条といい、真ん中に敷かれています。車両は、この案内軌条を真ん中に抱え込むような形で走ります。つまり、東京モノレールや多摩モノレールなどの跨座式モノレールとよく似た構造になっているのです。そして、通常なら鉄製の線路が敷かれているはずの部分には線路が敷かれておらず、道路のような舗装が施されています。上の写真ですと、黄色い帯が2本見えますが、そこが舗装の部分です。車両の台車には、通常の鉄道車両で使われる金属の車輪ではなく、ゴムタイヤが付けられています。そのため、レールから発せられる騒音はほとんどありません。

 但し、道路の上を走っているようなものなので、自動車が道路を走る時に感じるような振動があります。いや、振動という点では自動車以上に激しいというべきでしょう。これは、やはり案内軌条式を採用する新交通システムと共通する点で、舗装状態やゴムタイヤの状態が悪いと上下左右の振動が激しくなります。私は、新交通システム路線では 東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)、東京都交通局日暮里・舎人ライナー、大阪市交通局南港ポートタウン線、神戸新交通ポートアイランド線、神戸新交通六甲アイランド線を利用したことがありますが、いずれも振動が激しく、しかも速度が出れば出るほど振動が複雑になり、乗り心地が非常に悪かったことを覚えています。ほとんどの新交通システムが赤字を抱えているといいますが、原因の一つは振動にあるかもしれません(運賃が高いことも難点です)。

 札幌市営地下鉄は、横浜市営地下鉄などと並び、赤字額が大きいことで知られています。南北線を利用している限りでは、どうして赤字額が大きいのかわかりかねる部分もあるのですが、このような特殊なシステムでは設備維持費が多いのではないでしょうか。鉄の車輪よりゴムタイヤのほうが磨耗しやすいでしょうし、鉄製のレールより道路の舗装のほうが早く傷むからです。

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2008年8月4日、方南町駅周辺

2020年09月23日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初のお断りです。今回は、「待合室」の第279回「方南町駅周辺(その1)」(2008年8月10日〜17日掲載)、第280回「方南町駅周辺(その2)」(2008年8月17日〜23日掲載)および第281回「方南町駅周辺(その3)」(2008年8月23日〜30日掲載)を一本化して再掲載します。なお、文章の内容は2008年8月当時のままとしています(丸ノ内線は2020年に大きく変わりました)。

 

 (その1)

 神奈川県の北東部、川崎市に生まれ育った私は、現在までの約40年間、何かと言えば多摩川を渡り、東京都内に行き続けました。そのためなのか、東京都内で、地下鉄などで行ける場所であれば、取り上げてみたくなります。

 もっとも、東京都内の地下鉄の全路線を利用したことがあるとは言え、その全ての駅を利用した訳でもありませんから、知らない駅もあります。また、周囲を歩いてみても面白くもなさそうな駅も少なくありません。そのような中で、今回取り上げる、杉並区にある小駅の周辺は、なかなか味わいのある場所です。私はおよそ10年ぶりに訪れましたが、あまり変化がなかったのがうれしく感じられました。

 今年の4月から、大東文化大学大学院法学研究科博士課程前期課程(修士課程)には、私を指導教員とする院生が数名おります。その院生諸君と、この小駅の近くにある租税資料館(中野区にあります)へ行きました(ちなみに、この小駅に集合ということにしておりました)。その折、少し早く着いたので、駅の周りを歩いてみることにしました。

 東京メトロ丸ノ内線については御存知の方も多いでしょう。池袋から、後楽園、御茶ノ水、東京、銀座、霞ヶ関、新宿を通り、荻窪へ走る路線で、東京で2番目に開業した地下鉄です。しかし、この路線に、途中の中野坂上から方南町までの支線があるということを御存じない方は少なくないのではないでしょうか。知っていても利用したことがないという方も多いはずです。

 中野坂上で本線の電車を降りると、真ん中に3両編成の電車が止まっています。これに乗ると終点の方南町に到着します。途中駅は全て中野区にありますが、この方南町駅だけは杉並区にあります。もっとも、この駅から東へ5分ほど歩けば、中野区に入ってしまいますが。

 上の写真は、方南町駅の東口(中野富士見町側)を撮影したものです。地下鉄の駅なのに、通りに面しておらず、路地裏に入ったような場所に入口があります。このような駅は、東京都内では珍しいでしょう。少なくとも、類例を知りません。日比谷線の広尾駅も小さく、しかも改札口は地上にありますが、外苑西通りという道幅の広い道路に面しています。しかし、方南町駅のこの入口は、方南通り(この通りの下に改札口やホームがあります)に面しておらず、商店間にある細い空間が路地裏のようになっているのです。

 少し離れて歩道から撮影してみました。上の写真ではわかりにくいかもしれませんが、手前の右側には写真店、左側には立ち食いそば屋があります。歩道がアーケード商店街になっていて、商店と商店の間から入る、まさに路地裏的な雰囲気となっています。

 このところ、首都圏では駅のバリアフリー化が進んでいます。つまり、駅の中にエレベーターやエスカレーターなどが設置されています。東急東横線は100パーセント、東急田園都市線では95パーセントほどであると記憶しています。東京メトロの多くの駅もバリアフリー化が進んでいます。その中で、この方南町駅は例外的です。そもそも、御覧いただければおわかりと思いますが、この東口にはエスカレーターもエレベーターもありません。車椅子を乗せて階段を上り下りするためのリフト装置もないようです。東口の改札口は天井が低い上にかなり狭く、自動改札機を抜けるとすぐに階段がありますが、そこにはエスカレーターがありません(エレベーターを設置 できる構造にもなっていません)。ホームをさらに進むと方南町交差点側の改札口がありまして、こちらはホームの延長のような形になっているのですが、改札口を抜けると地上までのエスカレーターもなければエレベーターもありません。トイレについても「だれでもトイレ」のようなものはないはずです。

 但し、ホームドアはあります。丸ノ内線の全駅にホームドアがあるためです。もっとも、方南町は、丸ノ内線では唯一、6両編成が入れない駅ですが。

 東口から方南通りの歩道を歩いてみます。朝の9時過ぎですが、いくつかの商店は開いています。手前に八百屋があります。肉屋、魚屋などもあります。こうした個人商店は、今、首都圏でも郊外では見られなくなりつつあります。私が現在住んでいる所でも、かつては商店街に何軒もの肉屋、魚屋、八百屋などがありましたが、現在はほんの数軒しかありません。元々は八百屋などであった店がスーパーマーケットに発展したりしているからです。

 このように、歩道がアーケードとなっているという商店街も、最近では少なくなりつつあります。三軒茶屋の商店街もこのようになっていますが、再開発で規模が縮小しました。あとは巣鴨駅前などが、このようなアーケード商店街になっています。

 この方南通りを真直ぐ進むと中野区に入り、さらに新宿のほうに出られます。逆に進むと環状7号線との交差点があり、さらに直進すると西永福に出られます。

 方南通りと環状7号線との交差点である方南町交差点です。ここは立体交差となっていて、環状7号線の本線はこの交差点の真下を通っています。さらにその下に方南町駅があるという訳です。

 この交差点のそばにも方南町駅の入口があるはずですが、上の写真には登場しません。はたして、どこにあるのでしょうか。それは、また別の機会に。

 

 (その2)

 東京都杉並区の南東のほう、東京メトロ丸ノ内線方南町支線の終点、方南町駅の周辺を歩いています。

 この駅の東口を出て、方南通りを西に進み、方南町交差点に来ました。ここに駅の西口があるというのですが、どこにあるのかわかりません。通常、地下鉄の駅というと、通りに、非常に目立つ標識があるものです。しかし、方南町駅の場合は違うようです。

 世田谷区の新代田駅(京王井の頭線)前など、渋滞箇所が多い環状7号線は、方南町交差点の辺りでも通行量が多いようです。この交差点に立つと、いかに往来が激しいか、音ですぐにわかります。

 実は、都内を車で走ることも多い私は、環状7号線をあまり使いません。単に、目的地などの関係で利用する機会がないだけですが、よく利用する目黒通りを走っていると、環状7号線の情報を東急都立大学駅付近で知ることができまして、それによるとたいてい、 電光掲示板に示される高円寺までの矢印が真っ赤に染まっています。それだけ渋滞が激しい道路でもあるということなのです。

 方南町交差点の東南に立っています。環状7号線の本線が水色のフェンスの下に通っています。奥のほうに行くと高円寺ですが、その手前のほうに、夜スペで有名になった杉並区立和田中学校があるようです。 また、立正佼成会の本部も、この交差点からそれほど離れていない所にあります。

 上の写真の手前のほうに進めば代田橋駅、新代田駅、上馬、そして大森のほうに行くことができます。交差している道路が方南通りで、方南町駅のホームはこの方南通りの真下にあります。

 ようやく、方南町駅西口を見つけました。最初の写真で言えば左側にあるのですが、とにかく目立たない出入口です。エスカレーターもなければエレベーターもありません。車椅子を乗せるためのリフト装置もありません。

 いつの頃からか、東京の地下鉄の各駅にはナンバリングが施されています。これがどの程度まで意味を持っているのか、私にはさっぱりわかりません。わざわざZ01(半蔵門線渋谷駅のこと)とかI24(都営三田線西台駅のこと)などと言いませんし、たとえば大手町駅の場合は丸ノ内線がM18、東西線がT09、千代田線がC11、半蔵門線がZ08、都営三田線がI09となっていて、これら5つの番号が同じ駅を指しているとはすぐに気付きませんので、かえってわかりにくいと思うのです。従業員のために付けられたものであっても、乗客のために付けられたものでないということがわかろうというものです。

 それはともあれ、方南町駅はm03です。mが路線記号で、03が駅番号です。丸ノ内線の路線記号はMですが、方南町支線はmとなっているのです。丸ノ内線の駅番号は荻窪がM01で、そこから順番に付けられています。中野坂上がM06です。これに合わせているため、方南町駅がm03となっているのですが、m01およびm02という駅はありません。

 方南町交差点の西側は杉並区堀ノ内です。交差点を西永福のほうに少しばかり歩きます。すぐに、いい感じのする路地が見えてきます。時間に余裕があると、こういう道を歩くのも楽しいものなのですが、あいにく、私自身が設定した集合時刻までそれほどの間がありません。

 東京には、このように道幅の狭い道路がたくさんあります。上の写真の道路は、まだ広いほうでしょう。しかし、一方通行になっていないとはいえ、とくに緊急の際に双方向から自動車が来たら大変だろうというものです。しかし、ブロック塀の内側には狭い庭に木が生えていて、突き当りにも緑が見えますし、車の通行量も少ないので歩きやすいのです。ブロック塀ではなくて生垣などであればもっと風情がありますが、それを求めるのは贅沢ですが、歩いてみるとその街(町)の雰囲気がよくわかりますし、意外な発見もあるのです。

 世田谷区や目黒区などにも、上の写真に似ている場所がいくつもあります。時々歩きますし、車で走ることもあります。時々、方向感覚を失いそうになりますし、一方通行の道路が多いと大変な目にあうこともありますが、それもまた楽しいというものです。

 ただ、この辺りの路地を歩いて、勘が働くかどうかが問題です。実は、地理的な意味で私が東京23区地域で最も苦手としているのが杉並区と中野区です。どこをどのように通るとどこに行けるのか、ということがよくわかりません。何しろ、大学生になるまで、中央本線の新宿から国立までを利用したことがなかったくらいですし、荻窪を歩いたのは学部生時代の1回だけ(しかも、中央本線ではなく、丸ノ内線で行きました)、中野駅を利用したのは院生時代の1回だけです。小学生時代と高校生時代に吉祥寺に行ったことがありますが、吉祥寺は武蔵野市にありますし、京王井の頭線を利用しましたので中野区を通っておらず、杉並区の久我山、浜田山、永福などを通過しただけです。

 鉄道路線を使うのであれば何とかなりますが、車で走るとなるとさらに大変です。メインストリートですら、あまり通ったことがありません。方南町、永福、高井戸などであればまだわかりますが、久我山で道がわからなくなったことがあるくらいで、杉並区や中野区では抜け道もよくわかりません。とくに西武新宿線の沿線のどこかまで車で行けと言われたら、地図を使って念入りに調べてから出ないと不安が募ります。

 あれこれと書いてきましたが、機会があれば、また歩いてみたいものです。

 堀ノ内から東へ歩き、方南町交差点を渡って方南町に戻り、歩道の商店街(方南銀座)を歩きます。こちらのほうには、私などがなじんでいるようなスーパーマーケットらしいものがありません(西口のほうにはあります)。個人商店が目立ちます。午前10時をまだ過ぎていませんが、既に開いている店も少なくありません。

 方南町駅東口に戻ってきましたが、どこに駅があるかおわかりでしょうか。

 上の写真でも、すぐにはわかりにくいかもしれません。アーケードの屋根から「地下鉄方南町駅入口」という丸い案内板が吊り下げられていますが、小さなものですし、少し暗いと見落としそうです。ヒカリ堂とそば屋との間を入っていくと、前回登場した東口なのですが、本当に商店街の路地を入るような形になっています。この道路の下に地下鉄の駅があるとは思えないような商店街が、もう少し続きます。

 

 (その3)

 生まれてから現在に至るまで、東京都内の地下鉄は、買い物のため、通学のため、仕事のため、その他と、何かと言えば利用しています。副都心線が今年(2008年)の6月14日に開業するまでの時点で、いつの間にか、全路線全区間の利用を済ませていました。副都心線も、東松山校舎からの帰途に利用しています 。そのほうが、高坂から渋谷までの運賃が安いからです。ただ、予想されていたこととはいえ、副都心線の利用客があまりに少ないので「大丈夫かな?」と思ってしまいますが。

 しかし、私が租税法の研究をしていなければ、方南町へ行くことはなかったでしょう。そのため、方南町支線を利用することもなかったでしょう。丸ノ内線の本線を利用することは少なくないのですが、方南町支線となると機会が減ってしまいます。今年(2008年)8月4日に租税資料館へ行くために利用するまでに、方南町支線を利用したのはたったの1回(1往復)でした。もっとも、今後は利用する機会が増えることでしょう。

 さて、これまで2回にわたって朝の方南町駅周辺を歩いてきました。3回目となる今回で方南町の街を歩き終え、本来の目的地へ行こうと思いますが、まだ時間に多少の余裕がありました。

 方南町駅東口を抜け、東に少し歩きます。そして右に入りますと、上の写真のような商店街に入ります。買い物時の夕方にはどのくらいの人がここを通るのでしょうか。

 歩いていると、何となくですが戸越銀座駅前に似ているような気もしますし、戸越公園駅付近や大岡山駅周辺に似ているような気もしますし、三軒茶屋駅周辺(一丁目の)などに似ているような気もします。あるいは鵜の木駅周辺でしょうか。

 この商店街がどの程度の長さをもつのか、歩き通した訳ではないのでよくわかりませんが、たいした距離ではなさそうです。もっとも、1キロメートルを超える商店街というのは、それほど多くはありません。私が知っている限りでは戸越銀座、その近所の武蔵小山、そして川崎市中原区の元住吉くらいです。戸越銀座は東京で最も長い距離の商店街ですし、武蔵小山と言えば日本最初のアーケード商店街です。元住吉は、西口と東口を足すと2キロメートルを超えますし、西口のブレーメン商店街だけでも1キロメートルを軽く超え、時間帯によっては自転車で通り抜けるにも30分以上かかります。

 1980年代までは、このようにトタンの波板による壁や屋根の小屋がよく見られましたが、最近では珍しくなりました。 波板に貼られている広告の看板も色あせていて、かなり年月の経っているものであることがわかります。先ほどの商店街からまた路地に入り、見つけたものです。すぐ近くには団地か社宅の建物が並んでいました。

 このような波板は、ホームセンターで売り物としてよく見かけるのですが、トタンよりは塩化ビニールのほうが多いでしょうか。 川崎市宮前区や横浜市青葉区・都筑区にいくつもあるホームセンターでは、トタンなどをあまりみません。塩化ビニールのほうが加工しやすいということもあります。また、トタンですと、金属ですから雨などに弱いということもあるでしょう。

 商店街から一歩でも脇に入ると、急に閑静な住宅地になるというのは、東京23区地域ではよくあります。勿論、新宿駅前や渋谷駅前のような場所を除きます。典型的には私鉄の駅前にある商店街の話です。「当たり前だろ?」と言われるかもしれませんが、川崎市では当たり前のことと言えません。駅前の商店街が何本かあり、三角形や四角形を構成するようになっているという地域が少なくないのです。溝口がその例です。従って、商店街を突き抜けないと住宅地に入らないのです。

 左腕のデジタル時計(ちなみに、G-SHOCKです)を見て時刻を確認しながら歩きます。集合時間は10時です。私が設定したのですから、遅れたのでは話になりません。まして、こうして方南町駅周辺を歩いているのですから。

 9時過ぎから開いている書店(都内では個人経営らしい書店などでよく見かけます)に立ち寄って岩波文庫を何年ぶりかに買い、またデジタル時計を見ながら歩きます。

 先ほどの商店街を出て方南通り に戻ります。新宿方面に向かうかなり自動車が多くなっています。上の写真ではわかりにくいかもしれませんが、奥のほうにある信号(トラックの屋根のすぐ上に写っています)の手前に白地の案内板が見えます。「中野区」と書かれています。歩いてみてもわかりにくいのですが、その案内板の辺りで杉並区から中野区に変わります。さらに歩き続けると、左側に丸ノ内線の中野検車区が見えてきます。

 ここは新宿から永福までの京王バスも通る道路ですから、それなりの交通量があるのは当然です。しかし、昼頃の通行量はかなり少ないようです。 目的地である租税資料館は、この道を真直ぐ進むと中野検車区の真向かいにあります。

 中野区との境に近い場所で、方南通りから脇に入った通りです。商店街ではないのかどうかがよくわかりませんが、商店が並んでいます。もう少し時間があれば、こういう所も歩いてみるのが散歩の面白さにつながるのですが、時計は集合時間まであと何分という時刻を示していました。そろそろ駅に引き返さなければなりません。それでも、この道を真直ぐ進み、街をぐるぐると周ってみると、何かの発見があるだろうと思います。

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大山街道ふるさと館

2020年09月22日 00時00分00秒 | まち歩き

 2017年3月4日0時20分21秒付の「高津区民祭(2010年7月25日撮影)」において、溝口三丁目にある大山街道ふるさと館を取り上げましたが、今回、改めて取り上げることとします。

 国道409号の高津交差点から神奈川県道14号鶴見溝ノ口線が分岐します。県道は高津交差点から南西の方向、溝口神社や溝の口駅のほうへ伸びています。かつて、二子橋から高津交差点までの道路と合わせて大山街道の一部であり、国道246号の一部でもありました。

 高津交差点から県道14号に入り、次の交差点を直進して少し歩くと、御覧のような建物が見えます。川崎市大山街道ふるさと館です。所在地は溝口三丁目13番3号となります(川崎市の川崎市大山街道ふるさと館条例第2条)。

 

 大山街道の宿場町であった溝口は、元々、大山街道を中心としていました。1927(昭和2)年3月に南武鉄道の武蔵溝ノ口駅が、同年7月に玉川電気鉄道溝ノ口線の溝ノ口駅が開業し、廃れていくこととなりましたが、現在も灰吹屋薬局の本社、糀ホールで有名な岩崎酒店、お茶と秤の田中屋などがあり、蔵造りの建物も残されています。実際に歩いてみると、かつては大山街道沿いが中心であったということを実感できます。

 なお、玉川電気鉄道は1938(昭和13)年に東京横浜電鉄に合併されました。続いて、東京横浜電鉄は1942(昭和17)年に京浜電気鉄道や小田急電鉄などを合併して東京急行電鉄となります(小田急電鉄については救済合併だったという話です)。さらに、1943(昭和18)年、溝ノ口線は改軌されて大井町線の一部となります。これは、溝口周辺に多かった軍需工場への輸送力を強化するためでした(その後も溝口周辺には工場が多く、現在もミツトヨの本社などがあります)。一方、南武鉄道は1944(昭和19)年に国有化され、運輸通信省南武線となり、日本国有鉄道を経て現在はJR東日本の路線となっています。南武線は、国鉄時代には数少ない黒字路線の一つでした。

 溝口の中心が大山街道沿いにあったことは、上の写真からも明らかです。大山街道ふるさと館の所在地は、高津町役場があった場所です。

 高津町は、1889(明治22)に成立した高津村が1928(昭和3)年に町制施行したことによって誕生しましたが、町としての存続期間は短く、1937(昭和12)年に川崎市に合併されています。高津区にお住まいの方は御存知であると思いますが、高津区は高津地区と橘地区とに大別されており、厳密ではないのですが概ね高津町と橘村に対応しており、これもまた厳密ではないのですが概ね高津区役所所管区域と橘出張所所管区域とに対応していると考えてよいでしょう。

 「高津区民祭(2010年7月25日撮影)」にも登場する道標です。日野市にある高幡不動尊への案内表示と考えればよいでしょう。府中街道の案内表示と理解することもできます。実際に、現在も川崎市では府中街道と言い慣わされている国道409号および神奈川県道・東京都道9号川崎府中線(幸区の幸町交差点から、国道409号と国道246号との交差点である溝口交差点までは国道409号と重複)を溝口から走り続け、稲城市の新大丸交差点から東京都道41号稲城日野線を走れば、高幡不動尊に着きます。

 「大山道の道標」の案内板も「高津区民祭(2010年7月25日撮影)」に掲載しました。今回はあまり写りがよくないので「高津区民祭(2010年7月25日撮影)」のほうを御覧ください。

 川崎市大山街道ふるさと館のホームページは、この施設がいつ設置されたのかについて明示していないのですが、川崎市大山街道ふるさと館条例が1992(平成4)年3月30日条例第20号として公布され、同年8月1日から施行されていることからすれば、1992年8月1日にオープンしたということになるのでしょう。

 1970年代後半、高津図書館がこの近所(現在の溝口南公園の場所)にあった頃、小学生であった私は何度も図書館やその付近を訪れています。1980年代も同様です。しかし、現在の大山街道ふるさと館に何があったのかは全く知りません。

 最後に。「高津区民祭(2010年7月25日撮影)」にも記しておりますが、高津区役所所管区域と橘出張所所管区域を紹介しておきます(五十音順)。

 高津区役所所管区域:宇奈根、梶ヶ谷(1〜6丁目)、上作延、北見方(1〜3丁目)、久地(住居表示未施行地区)、久地(1〜4丁目)、坂戸(1〜3丁目)、下作延(住居表示未施行地区)、下作延(1〜7丁目)、下野毛(1〜3丁目)、諏訪(1〜3丁目)、瀬田、久本(1〜3丁目)、二子(1〜6丁目)、溝口(1〜6丁目)、向ヶ丘。

 橘出張所所管区域:明津、蟹ヶ谷,北野川、子母口、子母口富士見台、新作(1〜6丁目)、末長(1〜4丁目)、千年、千年新町、東野川(1〜2丁目)、久末

 川崎市のホームページは、高津区および宮前区の野川において実施されている住居表示に対応していません。

 
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