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一日一句(2982)







青天に五体よろこぶ新茶かな






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往還日誌(51)

(写真)双ヶ岡のいちのおかを登りきる直前の頂上のきたのひろばの光






■朝、7時に起きて、ヘーゲル読書会の準備を行う。ヘーゲルを原典で読む会も、3年目に入った。難解なヘーゲルのドイツ語と毎回悪戦苦闘しているおかげで、ルカーチの難解なはずのドイツ語が、さほどでもない、と感じられるけがの功名がある。ヘーゲルに比べれば、というわけである。実際、文体は、影響関係があるため、似ている、というせいもある。

ヘーゲルを3年読んで思うのは、ヘーゲルは観念論者だというマルクス主義者たちの主張は、恐ろしく雑駁だということである。そんな安直なレッテルでは括りきれない。場合によっては、ヘーゲルは、ヘーゲル左派が受け継いだように、唯物論的なところもある。また、ヘーゲルの言語観は、初めにロゴスありき、であり、言語の本質に社会関係がある、という社会的な見方とは根本的に異なっている。ここが、マルクスの後の社会理論の洗礼を受けた現代人には、逆によく見えない点かもしれない。

きょうは、「力」の概念について議論になったが、ヘーゲルは、リンゴが木から落ちるときに働く力と、支配者が被支配者に命令するときの力を統一的に議論しようという志向がある。しかし、これは、前者の力は自然法則で変えることができないが、後者の力は革命で変えることができる。さらに、後者の力は、一方向的とも言えない。被支配者が支配者の力を規定している面もある。

つまり、自然的存在の力と社会的存在の力には非連続性があり、その非連続性が、自然と社会の間の物質代謝によって連続するという関係になっている。この点をどのように萌芽的にヘーゲルはとらえていたのかが、今の、私の問題意識となっている。いずれにしても、ヘーゲルは、乗り越えられた死せる哲学者と簡単にカテゴライズするには大きすぎる。

午後、出町のコインランドリーで洗濯。7番の洗濯機が空いていた。7番は、1月に最初に洗濯したとき、故障した因縁の洗濯機なのだが、その後は、トラブルなく動いている。7番という数字自体は好きなので、きょうは、少しうれしかった。

出町では、新鮮な魚が手に入りにくい、と家人に言ったところ、缶詰を使うといいと助言してくれた。そこで、上洛したその日に、好物のさんまの蒲焼の缶詰をパックで発注しておいた。それを2缶開けて、炊き立てのご飯の上に載せて、生姜を刻んでトッピングとした。さらに、きのう、千本通りの手前の丹波園で、丹波の黒豆味噌を半額で入手したので、これで、じゃがいもの味噌汁を仕立てた。実に美味だった。これに加えて、新玉葱を一個を八等分に切り、フライパンで両面焼いて、めんつゆ、ニラ、酢、砂糖、白ごま、鷹の爪、にんにくのすりおろしを入れただし汁に4時間以上漬け込んだものを食した。次回は、砂糖は抜いて、豆板醤を入れてみたい。

2021年の劇場公開版「きのう何食べた? 」をプライムvideoで観た。このシリーズは、食のレシピが楽しい上に、なかなか、考えさせられる。シーズン1の12話と2020年の正月スペシャル3話をすべて観た。西島秀俊さんの笑顔はとてもいい。相方の内野聖陽さんも、山本耕史さんも、ジルベール航役の磯村勇斗さんも、みなさん、芸達者で笑わせてくれる。とくに、磯村勇斗さんの我儘なジルベール役は実に上手い。

夜は、ニコの仕事を行う。




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一日一句(2981)







経読めば刻々として夏天あり






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一日一句(2980)







老鶯や双ヶ岡に雲ひとつ






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往還日誌(50)


(写真)出町橋のたもとの柳の木の上空を舞う鳶





■上洛。すっかり京都は夏の空である。出町の鳶も元気に啼いている。

「のぞみ」の車中は、いつも数学の基本書を読むのだが、きょうは、眠くて、ゲオルク・ジンメルのエッセイ『愛の断想 日々の断想』(岩波文庫)を読む。途中、名古屋の手前で熟睡してしまった。このエッセイは、学生時代に最初に読み、その後、何度か手に取っている。きょう読んでみて、まったく初めて読むような気がした。内容を忘れていることもそうだが、還暦すぎて、わかることが増えた、ということが大きいと思う。読書は、「再読」こそが、重要だとは、詩人の野村喜和夫さんの言だが、そのとおりだと思う。いずれにしても、きょうよくわかったのは、ジンメルの凄さだった。彼の社会学的な分析も、「形式社会学」とか「生の哲学者」とかいう、安直なレッテルを取り外して、フラットに読んでみたいと思った。

8月には、公開講座で、京都合宿を行う。その宿泊施設と会議室を安く押さえることができた。問題は、なにを読むかだが、故石塚省二先生のテクストか、今、再びのルカーチの『歴史と階級意識』か。

そういえば、きょう、出町柳商店街を歩いていて、この商店街を舞台にしたアニメ(京アニ)「たまこまーけっと」があるのを知った。Youtubeで調べて残念だったんは、セリフが、アニメ語であり、京都弁やないことやね。



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往還日誌(49)

(写真)御茶の水駅にて





■毎日多忙で、ライフワークの一つにしているジェルジ・ルカーチの『社会的存在の存在論』の翻訳原稿が、今回はできなかった。残念である。次回はリベンジしたい。

もう一つのライフワークである詩の方は、進展している。実質的な第2詩集(通算で第4詩集になるが前2作は習作)の編集を終え、あとは、出版社に原稿を送る段階となった。タイトルで難航したが、気取らず、そのままのものとした。詩人は、ひとりだけで詩を書いているというイメージは根本的に間違っており、他者や事物、トポス、自然との深い出会いが詩を書かせていると言える。

土曜日は、『ルカーチの存在論』31周年のキックオフ集会。京都とZOOMで結んで、国際金融論のT教授にご講演をお願いした。Tさんは、マイケル・ハドソンのように、マルクス主義者でありつつ、現実の国際金融理論に精通しているので、非常に有意義な時間となった。経済学の強力さを改めて実感している。とりわけ、米国の国際政治力の源泉の一つ、ドル基軸通貨制度に代わる提案を、ケインズから、ロバート・トリフィンまで、指摘されたことは、興味深く、必ずしも、この提案はすべて実現されていないものの、逆に、この実現を阻んできた諸力が何のか(米国に決まっているが。イラク戦争の原因はドルからユーロに石油の決済通貨を替えたことだという指摘さえある)、また、どのように、それを阻んできたのか、興味を持った。

ケインズの系譜は、新自由主義とイコールのニュー・ケインジアン・エコノミクスではなく、ポスト・ケインジアン・エコノミクスに、注目してみたい。ただ、ポスト・ケインジアンの中には、たとえば、『ゆたかな社会』で有名なJohn Kenneth Galbraithの子息の、James K. Garbraithのように、詐欺の一種であるMMTを高く評価する人もいるので、慎重な吟味が必要だろう。

ケインズは、知識社会学的に見ても、興味深い人物で、社会科学的知識の実践性を、その学問的営為の特徴として持っている。しかも、その知識は、すでに制度化され自明化されているがゆえに、その実践性が不可視化されているという特徴がある。この点は、ニコ・シュテール教授が常々強調している点である。

このところ、元気が出ないときには、ローザ・ルクセンブルクの『獄中からの手紙』の一節を味読している。

「あなたもご存じのように、わたしはこの身がどのように成り行こうと、そのたびに自分はどうしてもこうならずにはいられなかったのだというふうに、きわめて明るい気持ちであっさりと受け流すことができるのです」(『同書』p.69)

あやかりたいものである。



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一日一句(2979)







緑の夜舞殿をめぐる清めの火






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一日一句(2978)







大力の巴かなしき夏の月






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一日一句(2977)







たうたうと夜に夜継ぐ薪能






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一日一句(2976)







母の日の欅古木のありがたさ






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