verse, prose, and translation
Delfini Workshop
Vernunftをめぐって
2006-07-26 / 言語
水曜日、。旧暦7月2日。
以前、ヘルツォークの映画の感想を述べたときに、ドイツ語のVernunftについて触れた。このときは、夕刊に載った、ある翻訳家のコラムからの孫引きだったのだが、ずっと気になっていた。仕事も一段落したので、少し、調べてみた。
手元にある語源が載っている独和辞典を3、4冊調べてみると、Vernunft(理性)は、すべてvernehmen(聞き取る、聞き分ける)という動詞と同根・同系であることがわかった。先の翻訳家の情報源はこのあたりなのだろう。Wahrigを引いてみると、Vernunftは中高ドイツ語のvernunft、古高ドイツ語のfirnunftが語源となっている。
ここでは、Vernunftの同根である動詞vernehmenにこだわってみたい。その前に、なぜ、ぼくが「語源」などと言い出すのか、その理由を説明したい。ある言葉は、すべて一定の言語ゲームの中で使われる。言語ゲームは社会的なものであるから、歴史に規定される。つまり、今のVernunftの使い方と過去の使い方は異なっている可能性が高い。過去の使い方がある程度理解できれば、その言葉をめぐる言語ゲームのありようが、垣間見える。言語ゲームが垣間見えるということは、つまり、当時の社会のありようが瞬間的に見えるということである。言葉の使われ方を通して、社会のありようを想像してみようというのが、語源にこだわる趣旨である。
【Vernunftの使われ方】
Vernunftを独和大辞典で引くと、3つの意味がある。1)理性、理知 2)判断力・思考力、分別、思慮、(道理をわきまえた)常識 3)(哲学)理性
1)と3)は重なる部分があるように思う。
用例としては、
keine Vernunft habenで思慮分別がない
Vernunft annehmenで正気に戻る
zur Vernunft kommen正気に立ち返る
Das ist gegen alle Vernunft. それは非常識きわまる。
次にWahrigでは、Vernunftを次のように定義している。
der bewusst gebrauchte Verstand(意識的に用いられた思考力)
Einsicht(理解、分別、洞察、認識;面白いことに「閲覧、閲読」という「文書を読む」という意味もある)
Besonnenheit(思慮深いこと、慎重、落ち着いていること)
用例としては
nimm doch Vernunft an!(落ち着け/よく考えろ)
er ist aller Vernunft beraubt.(あいつは自分を失っている/軽率だ)
あとは、だいたい独和大辞典と同じ。
■以上から、大きく分けてVernunftには2系列の意味がある。一つは、日常的に使われる「分別、常識、正気、思慮」といった意味、もう一つは、哲学史とも重なりながら使われてきた「理性」の意味。前者が身体全体の働きや反応を前提にするのに対して、後者は「読むこと(その意味で視覚)」が中心である。たとえば、日本語の「理性」を哲学辞典で引いてみると、「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう。人間は理性的動物である、といわれる場合の理性はこの意味である」となっている。概念は耳で聞くものではなく、テキストを媒介に読むものである。Vernunftを「理性」と日本語で理解したとたんに、「読むこと(視覚)」中心の用例に変換されてしまい、ドイツ語の言語ゲームの中にある「身体的な意味合い」が捨象されてしまう。
【vernehmen】
それでは、Vernunftと同根のvernehmenという動詞はどうか。これは、同根であって、語源ではないので、二つの言葉の共通の祖先があるということになる。しかし、注目したいのが、Vernunftの同根が「見分ける(underscheiden)」ではなく、「聞き分ける/聞き取る(vernehmen)」であるという点だ。言い換えれば、Vernunftの対象は、「読むもの、見るもの」ではなく、「聞き取るもの、聞き分けるもの=声や物音」に比重があるということだ。Vernunft→(翻訳による)理性→テキスト・文字→読むものといった流れの外に(その流れより古くから)、Vernunft→聞き取るもの、聞き分けるものという流れがあり、それがドイツ語の言語ゲームの中で「分別、常識、正気、思慮」といった意味を生じさせているように思える。
このことの意味は、単純に口語の歴史は文字より古いから、というだけではない。Vernunft(理性)は、本来、主張やモノローグではなく、他者の声や自然の物音を聞き取り、聞き分ける受動的な働きだったことが窺われるのである(それは、狩猟社会の中で生死にかかわる重要な能力でもあったろう)。また、他者や自然には聞き取るべき声や聞き分けるべき音があるとする世界は、前近代に固有の問題を孕みながらも、人間が謙虚な世界だったと言えるだろう。
以前、ヘルツォークの映画の感想を述べたときに、ドイツ語のVernunftについて触れた。このときは、夕刊に載った、ある翻訳家のコラムからの孫引きだったのだが、ずっと気になっていた。仕事も一段落したので、少し、調べてみた。
手元にある語源が載っている独和辞典を3、4冊調べてみると、Vernunft(理性)は、すべてvernehmen(聞き取る、聞き分ける)という動詞と同根・同系であることがわかった。先の翻訳家の情報源はこのあたりなのだろう。Wahrigを引いてみると、Vernunftは中高ドイツ語のvernunft、古高ドイツ語のfirnunftが語源となっている。
ここでは、Vernunftの同根である動詞vernehmenにこだわってみたい。その前に、なぜ、ぼくが「語源」などと言い出すのか、その理由を説明したい。ある言葉は、すべて一定の言語ゲームの中で使われる。言語ゲームは社会的なものであるから、歴史に規定される。つまり、今のVernunftの使い方と過去の使い方は異なっている可能性が高い。過去の使い方がある程度理解できれば、その言葉をめぐる言語ゲームのありようが、垣間見える。言語ゲームが垣間見えるということは、つまり、当時の社会のありようが瞬間的に見えるということである。言葉の使われ方を通して、社会のありようを想像してみようというのが、語源にこだわる趣旨である。
【Vernunftの使われ方】
Vernunftを独和大辞典で引くと、3つの意味がある。1)理性、理知 2)判断力・思考力、分別、思慮、(道理をわきまえた)常識 3)(哲学)理性
1)と3)は重なる部分があるように思う。
用例としては、
keine Vernunft habenで思慮分別がない
Vernunft annehmenで正気に戻る
zur Vernunft kommen正気に立ち返る
Das ist gegen alle Vernunft. それは非常識きわまる。
次にWahrigでは、Vernunftを次のように定義している。
der bewusst gebrauchte Verstand(意識的に用いられた思考力)
Einsicht(理解、分別、洞察、認識;面白いことに「閲覧、閲読」という「文書を読む」という意味もある)
Besonnenheit(思慮深いこと、慎重、落ち着いていること)
用例としては
nimm doch Vernunft an!(落ち着け/よく考えろ)
er ist aller Vernunft beraubt.(あいつは自分を失っている/軽率だ)
あとは、だいたい独和大辞典と同じ。
■以上から、大きく分けてVernunftには2系列の意味がある。一つは、日常的に使われる「分別、常識、正気、思慮」といった意味、もう一つは、哲学史とも重なりながら使われてきた「理性」の意味。前者が身体全体の働きや反応を前提にするのに対して、後者は「読むこと(その意味で視覚)」が中心である。たとえば、日本語の「理性」を哲学辞典で引いてみると、「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう。人間は理性的動物である、といわれる場合の理性はこの意味である」となっている。概念は耳で聞くものではなく、テキストを媒介に読むものである。Vernunftを「理性」と日本語で理解したとたんに、「読むこと(視覚)」中心の用例に変換されてしまい、ドイツ語の言語ゲームの中にある「身体的な意味合い」が捨象されてしまう。
【vernehmen】
それでは、Vernunftと同根のvernehmenという動詞はどうか。これは、同根であって、語源ではないので、二つの言葉の共通の祖先があるということになる。しかし、注目したいのが、Vernunftの同根が「見分ける(underscheiden)」ではなく、「聞き分ける/聞き取る(vernehmen)」であるという点だ。言い換えれば、Vernunftの対象は、「読むもの、見るもの」ではなく、「聞き取るもの、聞き分けるもの=声や物音」に比重があるということだ。Vernunft→(翻訳による)理性→テキスト・文字→読むものといった流れの外に(その流れより古くから)、Vernunft→聞き取るもの、聞き分けるものという流れがあり、それがドイツ語の言語ゲームの中で「分別、常識、正気、思慮」といった意味を生じさせているように思える。
このことの意味は、単純に口語の歴史は文字より古いから、というだけではない。Vernunft(理性)は、本来、主張やモノローグではなく、他者の声や自然の物音を聞き取り、聞き分ける受動的な働きだったことが窺われるのである(それは、狩猟社会の中で生死にかかわる重要な能力でもあったろう)。また、他者や自然には聞き取るべき声や聞き分けるべき音があるとする世界は、前近代に固有の問題を孕みながらも、人間が謙虚な世界だったと言えるだろう。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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また、先日は私のブログにコメントをありがとうございました。俳句には以前より関心を持っておりましたので、今後も拝読させていただきます。
なるほど、風刺も掛けてあるかもしれませんね。
ベルリンの生活は面白そうですね。貴部ログを拝見するとカオスと創造性が同居している印象を受けます。
今後も、ブログ、楽しみにしております。
最近、ドイツ語の勉強をはじめましたが、語源にも興味があり文法と同時進行でやりたいと思ってます。そこで、独和辞典である程度語源ものっている辞典で使いやすいものがあれが教えていただきたいです。よろしくお願いします。
私が時々参照するのは、同学社の『ドイツ語語源小辞典』ですが、小辞典ですので、語彙はさほど多くありません。