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一日一句(2995)







龍もゐて夏の天見る至福かな






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【五十嵐秀彦の俳句4】







息切れるまで夏楡のふもとまで


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦


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なだらかな丘陵地に夏楡が一本枝を広げて立っている。

夏の青葉の茂った楡が作り出すそこは、緑陰となって、きれいな影を作っている。丘陵をわたる風が心地いい。

この句によって、一本の夏楡とその周囲の広々とした丘陵地が眼前に現れる。

この景は、関東や京都では、なかなか、お目にかかれない。

夏の北海道のもっとも美しい情景の一つだろう。

「息切れるまで」の措辞で、読者は、作者と一緒に、この夏楡のふもとまで丘陵地を歩むことになる。

広い――広々とした丘陵と夏の雲が広がっている。鳥の聲も聞こえるだろう。

この夏楡の幹に触れたとき感じるのは「喜び」なのだと確信できる。




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一日一句(2994)







夕立にむかしのものの匂ひかな






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【五十嵐秀彦の俳句3】







一統の罪北辛夷高く高く


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦


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この句は、非常にアクチュアルな句である。「一統の罪」は、個人的な罪ではない。何らかの集団が前提されている。一族とも言えるし、日本国家まで拡大してもいい。

一統の罪の大きさが、北辛夷「高く高く」に現れている。見上げるように高いところに白い北辛夷が咲いている。償いまでの遥かな距離を表しているかのように。

北辛夷の花は、この句で初めて知った。

辛夷の分布域が北海道~九州・朝鮮半島南部とされるのに対し、北辛夷は北海道と本州中部以北の日本海側とされる。幹は直立し、高さ20m、太さ40cm以上になるという。花は葉の展開前に咲く。花弁6枚からなり径10~12cm、淡紅色をおびた白色で香気があるとされる。

還暦まで生きてわかってくることの一つに、どんな人間も、罪のない人はいない、ということである。誰に対して、何に対しての、違いはあるが、罪はある。

罪は、罪と意識されるから、そう呼ばれる。その時には、すでに罪は「償い」とセットになっている。

償いには、その心があっても、常にふるわれている客観的な力や外的な力に対する認識がないと、償いは正しく行われない。ここに、学問が要請されるゆえんがある。

逆に、学問をした人によくあるのは、意思がない、ということである。つまり、知識は意思とセットでないと、「当事者性」、言い換えれば「実践性」が出てこない。このため、知識だけでは、評論家のまなざしの中に留まってしまう。

自戒としたい句である。





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一日一句(2993)







寺町や奥の風鈴ものしづか






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【五十嵐秀彦の俳句2】






パンちぎるとき夕焼けが遠すぎる


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦






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パンをちぎる、遠すぎる夕焼け。このふたつには、本来なんの関係もない。しかし、詩人の感受性は、このふたつを結びつける。

「夕焼けが遠すぎる」という措辞は空間的なものだが、ここには、「時間的な遠さ」も含まれている。つまり、過去の夕焼けである。過去に見ていたあの夕焼けは今は遠すぎる、という感慨が含まれている。あの夕焼けを見ていたときと場所、そして自分にはもう戻れないという「失われたもの」への郷愁がある。

この郷愁が、この句を一行の詩にしているのだと思う。

パンをちぎる行為は、日常の食事の行為である。現在の日常とは、「つねに、失われた何か」なのだろう。

食事は一人でもするが、ここから、「社会」が始まる。家族や友人と食べれば、そこに言葉のやりとりがある。何気ない言葉であっても、それは社会である。そのとき、自然である夕焼けは遠い。

ここには、詩のもつ一つのパラドックスがある。遠すぎる夕焼けを、「夕焼けが遠すぎる」と詩にすることで、それは近づく。引き寄せる。

これは、詩の力と言っていいものだろう。

時間的に遠くなった「失われた夕焼け」も、ひとが社会をなすことで、「距離ある対象となってしまった夕焼け」も、詩によって、二重に救済されているのである。

「パンちぎるとき夕焼けが遠すぎる」

失われたものは詩にすることで蘇る。



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一日一句(2992)







石庭に時の影さす真昼かな






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【五十嵐秀彦の俳句1】






夏が淋しいジャングルジムを揺らす


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦






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誰しもジャングルジムを揺らした経験はあるだろう。子どものころの思い出の中の一コマに。掲句は、「夏が淋しい」という主観的な言葉がいきなり立ち上がってくる。リズムは、7・7・3である。この感情は、まぎれもなく、生と死の反復を経験してきた大人のものであり、いのちの盛りの夏に、「淋しさ」を感じるのは、滅びの予感があるからだろう。

わたしがもっとも惹かれるは、「ジャングルジムを揺らす」という「無意識の行為」との間にある「間」である。「夏が淋しい」だから「ジャングルジムを揺らす」のではない。この二つの間には、俳句の「切れ」が厳然と存在している。この「間」が、この句のポエジーなのである。

この句自体が説明を排除しているように、鑑賞者も、説明は野暮である。一つ言えるとすれば、ジャングルジムを揺らした遠い日々の中に「夏の淋しさ」はすでにあったということである。それは言葉以前のいのちの淋しさだったはずである。「ジャングルジムを揺らす」という大人の行為は、そうした言葉以前のいのちの淋しさとも響きあっているのである。





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一日一句(2991)


※pic. by Marianne Chopard





戦場の真昼はしづか罌粟の花






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往還日誌(57)





■0時半に眠れたので、6時半起床。だいたい0時に寝られると、もっとも、活動の時間が有効に使える。寝るのが遅いと、長く寝ないと、仕事ができなくなる。断食14時間。

午前中、ルーティーンのempowerment & self care、忙しいと、これがなかなかできないが、仕事の時間をタイマーで区切って、コンマのようにして、これらを行うと比較的できることがわかってきた。

その後、ヘーゲル読書会。帰洛を延期したので、テクストを京都に置いたままで、十分な準備ができなかった。ヘーゲルの「物」の力のとらえ方が、社会的生産物という視点がないので、力の概念を議論する部分で、違和感が残った。箱にしても黒曜石にしても、その機能をヘーゲルは力ととらえるが、それらが我々の目の前に現れるのは、不可視の社会関係の媒介なしにはありえない。芸術の素材にしても、社会関係が媒介している点では同じことである。

機能=力は、物にアプリオリに備わっているのではなく、人間が、目的定立して箱を製作した結果(あるいは自然からそういうものとして黒曜石を選び出した結果)であり、物の機能=力の起源は人間活動にある。ヘーゲルの議論では、この点が隠れてしまう。あたかも、物が単独で、いきなり力を持ってに出現する議論になってしまう。

いつも、帰洛する朝はあわただしく、家人が用意してくれた朝食を急いで食べて、自室を整理・掃除して、ひとの通り道を作る。笑い話のようだが、そうなのである。本と資料に埋もれて、ほとんど半ごみ屋敷状態になっている原始林を切り開いてひとの通れる道を作る。そうしないと、ベランダまで、プラごみや燃えるごみを家人が捨てにいけなくなる。私は、この原始林の創造主であるから、ここを動物的バランスで進めるが普通のひとはそうはいかない。

ここから、京都までの移動の時間は最近の楽しみの読書に専念。東京まではジンメルを読み、京都まではNEWTONを読んだ。ジンメルは、エッセイそのものよりも、解説の清水幾太郎にたいへん驚かされた。ジンメルには愛人がいた。しかも女の子までもうけている。その良し悪しは、ここでは置くが、その経験が、彼の社会学の主要部分を構成した可能性がある。たぶん、そうだろう。愛についての思索や、秘密についての議論、社交、異邦人などに、そのモチーフが垣間見える。

NEWTONは、「虚数」についての別冊を読んだ。「虚数」への関心から、数一般の関心へと徐々に拡張してきている。この別冊でとりわけ驚いたのは、数字表現に「実体」があるという議論だった。0.99999...(無限に続く)と1.0000...(無限に続く)は、実体は同じだというのである。つまり=で結ばれる。その2種類の証明は明晰で隙のないものだが、私が驚いたのは、その証明ではない。その数字の実体が「数直線上の点」だということに、である!

数直線は、負の数を視覚化するために発明された「モデル」にすぎない。その原型は、日常生活の中の「ものさし」のような長さを測る道具の発明であろう。つまり、数の実体というのが、「モデル」としての「数直線上の点」のなのである。つまり、実体、それ自体がモデルなのである。

なにが言いたいかと言うと、数学における現実とは「モデル」であり、「そのモデル操作の整合性や一貫性、精密さ」を求めて数学が発展してきたという点である。

数学的才能の華やかさは、モデルを創造しそれを首尾一貫して操作する才能に起因する。

では、なぜ、モデルにすぎない数学が現実を変えるほどの力を持ち得るのか? どのようにして、モデルが現実を変えているのか?

この点は、数学書をぼちぼち読みながら考えていければと思っている。

今の仮説は、数学モデルが、科学(社会科学も含む)および科学技術を通じて、社会制度に組み込まれ、教育を通じて再生産されるからだというものである。

京都に着くとすぐに、水とドリップポットとベッドシーツ2枚を発注した。気温、28.3℃、湿度58%。

ライオンキッチンで恒例のオムライス大とバナナケーキ、帰りに、アイハートで珈琲とトマト、ゑびす屋で牛乳を買って帰る。



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