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往還日誌(147)







■4月28日、日曜日。快晴。

朝食後、古新聞を出し、藤棚の下で、呼吸法の類型ⅠⅡⅢを行う。

藤ももう終わり。今年は、藤の花期が例年より長かった。

藤の花期は、例年は、短いので、忙しいと、その年の藤は見ないで終わる。

芭蕉の「草臥れて宿借るころや藤の花」という句の印象が強く、藤の花には、肉体的な疲労を連想してしまう。

しかも、朝の藤ではなく、夕方の光の中の藤である。

しかし、藤は夜も面白い。

蔓が虚空に向かい、花の芳香が棚の下に立ち込めて、むせかえるような香りだけが、そこにある。

色も光も音もなく。

これに似ているのは、梅だが、梅の花は夜の香りも、美しく、静かなのに対して、夜の藤は、にぎやかである。

午後、掃除して、買い物に行き、夕食を作る。

京都で自炊しているので、だんだん、料理が上達しているのがわかる。家族の評判も上々のことが多い。

土曜日は、実家へ墓参に。帰りは秩父鉄道を利用。

金曜日、六本木で、Iさんより、仏陀の瞑想法であるVipassana meditationについて、その概略を聴く。

たいへん興味を持ち、テキストを発注して土曜日に入手した。

タイミングを見て、カルチャーセンターのようなところで、実地に行うつもりでいる。

これで、心身調整の基礎となる5つの星が出そろった。

これらは、みな、60歳をすぎて出会ったものばかり。

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往還日誌(146)






■4月20日、土曜日、くもり。

きのうは、深夜3時過ぎまで上の階の住民がバタバタ、ガタガタ、ドタドタで眠れないので、深夜3時過ぎにクレームをつけにゆく。モニターがあるので、こちらの姿が見えることがわかっているので、つば広のチャンピオンの黒の帽子を目深にかぶり、サングラスをかけ、革ジャンを着て、黒い手袋をしてゆく。

案の定、出てこない。2回チャイムを鳴らして、ドアを叩いて、戻る。その後、ぴたりと物音はやんだ。上の住民はカップルで住んでおり、帰宅が深夜1時過ぎることが多い。それから、ドタドタ始まるのだから、こっちは眠れなくなる。

今は、こういう近隣トラブルに対して、元警官の組織が仲裁に入るサービスが賃貸契約に含まれている。一度、試したが、使い物にならない。仲裁に入った気配はまったくない。解決しなければ、スマホで、騒音を録音せよ、などというが、それでどうするのだろうね。

きのう、午前中、一条戻橋の奥を探索。なかなか、面白かった。9本の樟の大木が若葉している情景が美しい。

戻橋の名の由来は、あの世とこの世をつなぐ橋であり、蘇生伝説がいくつか残る。戦地に行く兵士が生還を祈願して、この橋を渡って、戦地に向かったという。

樟のある北の奥は、ほとんど人は来ない。この橋の下に、式神を、晴明は住まわせていたという。晴明の奥さんが、屋敷に置くと、容貌を怖がったのである。

堀川は整備されていて、細い流れがあるばかりだが、戻橋から南に鶴橋(堀川第一橋)、亀橋など、橋が幾つかかかっており、二条城まで川岸を歩いて行くことができる。

川に向かって八重桜が花をちょうど散らしていた。

長者町通りから上に上がって、大垣書店に寄って帰る。

帰宅後、ニコの仕事を進め、午後から夜は六本木の仕事を進める。

きょうは、ざっと掃除して、朝食を作り、妻と娘に頼まれているライオンキッチンのさつまいもケーキとバナナケーキを買って、新幹線で東京へ戻る。ケーキを冷えた状態で長時間維持するにはどうしたらいいか、思案している。

お茶の水のクリスチャンセンターで、いよいよ公開講座『ルカーチの存在論』32周年のキックオフとなる。

今年度は、来年2月に、「構造と無意識」というテーマで、社会操作論をさらに深化させた発表を行うつもりでいる。



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往還日誌(145)







■4月18日、木曜日、曇り。

深夜2時まで上階の住民の物音がうるさく、3時になってやっと眠れた。

普段よりも、起きてから、呼吸法を入念に行ったことで、疲労感や睡魔はそれほどなかった。

妻子に、ご飯だと呼ばれる夢で目が覚めた。

午前中、故障した掃除機の交換に、「らくらくレンタル」が来てくれた。

これで、また、掃除ができる。この2日、できなくて、気分が悪かった。

なんと、七月堂のCさんは9校までやってくださった。カバーの色が想定通りに出ないので、データの直しからやってくださっている。感謝。発行は、5月半ば以降に。まったく問題はない。じっくりやっていただけるのでありがたい。詩集は、むしろ、出してからが問題で、セールスに勤しむつもり。

さて、京都もあと一日半となった。

若宮では、公開講座や六本木や実家の墓参などで、かなり多忙が予想される。

5月に戻った時には、念願の鷹峯に行くことを、目的定立したが、実現できるかどうか。


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往還日誌(144)






■4月16日、火曜日、曇り、夜雨となった。

京都でも、この季節、四十雀がよく啼いている。終日、仕事。

きのう、寺町で映画「オッペンハイマー」を観る。

映画としては、2流、ことによったら、3流ではないかと思う。造りが安易で、セリフが、例のハリウッド特有の「ノリ」で展開するばかりの表層的なもの。この映画の安易な制作それ自体が、米国の核開発の安易さを現わしている。

ただ、この映画のテーマやモチーフは重要で、戦後の米国の国家としての原型が、このマンハッタン計画やロスアラモス研究所によく出ている。

自国の覇権を「核兵器」で担保し、核兵器を中心とした軍備は、50年代後半から顕在化してくる「軍産複合体」という強力なエンジンで回してゆく。

そして、物理学者と国家権力の統合という姿が、他者への想像力をまったく欠落した、軽薄で醜い形で、このロスアラモスには出ている。

リチャード・ファインマンやフォン・ノイマンも、この中に、いたはずだが、科学者たちは、嬉々として原爆製造に取り組み、実験による原爆の完成を喜ぶ。

ユダヤ人だったニールス・ボーア(1885-1962)は、英国ケンブリッジにいて、留学したオッペンハイマーもケンブリッジの講義を受けていたが、原爆が広島・長崎に投下される前の1943年のクリスマスに、ロスアラモスに、スター気取りで現れている。このとき、ハイゼンベルクから手渡された原子炉の図を、ロスアラモスに手渡したとされる。

科学者たちが、反抗するのは日本が敗戦が決定的になっているのに、投下を決めたときの、ロスアラモスと政権の上層部に対してだけである。いったん、科学と国家権力の統合体制が作られてしまえば、こうした反抗は無力である。

オッペンハイマーにロスアラモスに誘われた友人の物理学者は、物理学300年の歴史は、大量破壊兵器を造るためにあるのではないと断る。このシーンだけ、人間を見た。

ロスアラモスと米軍は、最初は、ナチスに先んじるため、次にはソ連に対抗するため、核兵器の開発を続けてゆく。

米国が自らを語るのは、一見、正義の味方なのだが、戦後、ナチスのリソースを亡命という形で大量に受け入れ、ナチスの「平和利用」をしてきた歴史は、まったく表に出ない、今も出ない。

たとえば、有名なところでは、ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977)といったドイツのロケット工学者がいる。V2号ミサイルの製作を指揮し、ナチス党員、親衛隊少佐であった。1945年、米国に亡命(といっても、米情報機関が救出し保護したのである)、その後、米国の宇宙開発の中心となっている。

こういう科学技術系のナチスは、わりとわかりやすい。

しかし、フランツ・ハルダー(1884-1972)やアドルフ・ホイジンガー(1897-1882)といったドイツ軍の中枢中の中枢の人物を、ニュルンベルクで裁くことなく放免し、米軍が、対ソ連戦のために軍事利用してきたことはほとんど語られない。

フランツ・ハルダーは、ドイツ軍最高司令部(OKH)参謀長、アドルフ・ホイジンガーは、ドイツ軍作戦課長だった。

驚くなかれ、アドルフ・ホイジンガーは、戦後、NATO軍事委員会委員長にまで上り詰めるのである。

彼らは、ナチス思想から転向したのでなく、ナチス思想の歴史修正を行い、思想ロンダリングを行うことで、米国によるナチスの軍関係者の使い勝手を良くすることに貢献したのである。

要するに、米国もNATOもナチスに汚染されたところから、その戦後史は出発しているのである。

こうした諸悪の根源が、マンハッタン計画とロスアラモス研究所に原型として存在している。

その意味で、この映画のモチーフは重要と思う。

しかし、この映画は観終わって、憂鬱になる。

きょうは、深夜、大きな春の雷があった。一瞬、原爆が落ちた幻覚を見た。



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往還日誌(143)







■4月14日、日曜日。晴れ。

午前中、ヘーゲルの『精神現象学』を原文で読む会。きょうもいろいろ面白い話が出た。

ヘーゲルは『論理学』で、Verschiedenheit(差異)とUnterschied(区別)を「区別」している。

前者は、アンパンと飛行機のような「差異」について言い、後者はアンパンとジャムパンのような「区別」に用いる。

要は、後者は、同一カテゴリーが前提されるIdentitaetがあるが、前者にはない。

ヘーゲルの『論理学』は、故石塚省二先生が、ヘーゲルなら、『精神現象学』と『論理学』を勉強せよ、と言い残している。逆に言うと、専門家にならないのなら、この2つで十分だということである。

それ以来、『論理学』は気になっている。読書会の主催者のN先生に、『論理学』についても、ゆくゆくやりましょうと言ったところ、現在、ヘーゲルの『論理学』は校訂版などが何種類か出ていて、学会でも論争中で定まった版がまだないらしい。少しすれば、定まってくるから、そのタイミングがいいだろう、ということになった。

Verschiedenheit(差異)とUnterschied(区別)の話に戻ると、差異における差異と、区別における区別と、その差異と区別の区別、という二重性も、固定的なものと、ヘーゲルは考えていたわけでななく、暫定的に、議論の出発点としていると見た方がいいように思う。存在を、変化の相、運動の相で見るのが基本的なスタンスだからだ。

たとえば、数学者のポアンカレは、珈琲カップとドーナツという完全な「差異」があるものを、穴が一つということで、同じ存在と見なした。このように、一見、差異がある存在に同一性を見出す作業を「数学的原理」と考えている。

この逆に、一見区別のない同じものに、「区別」を見出す作業が、グレゴリー・ベイトソンの言う「人類学的原理」である。

であれば、「差異」と「区別」の区別にも、同一性があり得ることになるだろう。

午後、御所の外周を、石薬師御門、清和御門、寺町御門と南に下って、丸太町の椹木口から北上し、一条通りを西へ歩いて、堀川の一条戻り橋を超えて、大垣書店へ、定期購読の雑誌を取りに行く。雑誌や本の受け取りも、若宮の丸善から京都の大垣書店へ徐々に移行している。

大垣書店に隣接するカフェに初めて入った。Slow Pageという名前で、一種のシャレである。

珈琲は美味で、営業時間を聞いて驚いたのだが、朝8時半から夜11時までやっている。ラストオーダーは10時までだが。

なかなか、これほど遅くまで開いているカフェは、この近辺にはない。

このあと、さらに、堀川通を下って、堀川商店街を歩いて、東に渡って伊藤仁斎宅跡を北上し、東進して護王神社前を経て、蛤御門から御所に入って、清水谷家の椋の大木を撫でて帰る。

結構なウォーキングとなった。

堀川通の今出川通より北のエリアは、なかなか、切ない思い出のエリアであり、まだ、歩くことがためらわれている。



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往還日誌(142)







■4月13日、土曜日。曇り。

きょうは半袖の人とジャンパーを着た人が混じるような陽気だった。若者や子供は半袖が多く、老人や年配はジャンパーを着ていた。私は長袖のシャツ一枚だった。

普段が忙しいので、きょうは、ぼんやり、のんびりした。

きょうのミッションは2つ:洗濯とチョコレート蒸しケーキを作ること。

チョコレート蒸しケーキは、インスタで見た簡単レシピに従った。本当に簡単に出来た。これは、甘さ控えめに出来るので、ベリー系ジャムがよくあうと思った。

コインランドリーで読んだサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』が面白い。

呼吸法を、ストレッチと組み合わせて、3パターン考えて、意識的に、行うようになり、夢をよく記憶できるようになった。記憶しているので、記録できる。記録できるので、分析・解釈できる。

その分析と解釈は、現実世界での行動指針ともなりえて、なかなか、重宝している。

夢と直接関係はないが、いや、あるかもしれないが、詩は、夢の中にどうしても解釈できない部分が残るように、詩にも、解釈を拒む「謎」がないと面白くない。

以前、ロミーと、無意識で書いた詩の交換をしたことがある。ロミーは、シュールレアリスムの経験があるので、スルスル書いてくるが、私はどうしても、意識が邪魔をしてしまう。作品を整えたり、一定方向に導こうとしてしまう。

そういうのは、ロミーにわかるらしく、それは違うと返してくる。

このとき感じたのは、「意識的に無意識になる」のは難しい、ということだった。

無意識は、夢のように、突然降ってくる。

だから、むしろ待った方がいいのだろう。

昨年12月以来春先まで、よく眩暈がして困っていたのだが、この3パターンの呼吸法によって、完全に、消えた。

これは、心身調整にとって、かなり良い方法論ではないか、と思い始めている。



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往還日誌(141)






■4月7日、日曜日、早朝に起きて、J.J RousseauのDu Contrat Socialを読む会の準備。

フランス語の発音が正しくできず、悔しい思いを繰り返しているところである。発音もきちんと調べておくべきだが、なかなか、手が回らない。

母音で終わる開音節のeは発音せず、子音で終わる閉音節のときのeは発音する、という理解が正しいeの発音理解の仕方だとわかったが、音節がどこで切れるのかは、ロベール仏和大辞典には明記されているが、普通の仏和辞典には出ていない。

普通の仏和辞典は、カタカナ表記や対応する英語が併記されていることが多い。これはこれで、役に立つが、ぜひ、音節がどこで切れるのか、発音記号の中で示してほしいと思う。

J.J Rousseauは、現存民主主義を批判する上で、非常に重要な理念的根拠、「一般意志」を提示している。これに気が付いたことだけでも、この読書会は意味があったと思っている。

2022年4月3日に第一回を記録しているので、丸2年、3年目に入った。もう少し、フランス語の発音を上達させたいが…

午後、上洛。

新幹線は、『100年の難問はなぜ解けたのか』を読む。

この本の内容は、テレビ番組でも観た記憶があるが、本もとてもいいと思う。知りたいところを丁寧によく取材しているし、解説もわかりやすい。著者の春日真人さんは、京都大学数理解析研究所の若い数学者たちも取材しているが、書籍化はしていないようである。

ポアンカレ予想にしても、フェルマーの最終定理にしても、その証明に至るドラマには、強烈な光と翳がある。

それは、数学者個人の人間を変えてしまうほどの力を持っており、ある意味で、難問は魔物だと思える。

春日さんが、あとがきで、取材趣旨を話すと、一般の人から返ってくる最後の反応があると書いている。

それは「数学の難問を解いて、何のためになるの?」という必殺の反応である。

この問いに取材班は終始苦しめられた、と春日さんは告白している。

非常に面白いと思う。

私も、うすぼんやりと、数学の難問は、しょせん人間が出すものであり、それが解決しても、自然の謎が解けるわけではない、と思っていた。

ところが、このペレルマン博士がポアンカレ予想を証明したことで、驚いたことに、宇宙が取り得る可能な形の選択肢は8つある、ということが「論理的に」確定してしまったのである。

これは一番驚いた。

人間が考える数学の謎と、自然が作り出す宇宙の謎は、実は、つながっているようなのだ。

そのつながりは、ポアンカレ予想のように、ただちに、可視化できるものもあれば、あとで、わかってくるものもあるはずである。

数学者は、目の前の難問と格闘するが、「数学の難問を解いて、何のためになるの?」という、社会の聲は、数学の難問解決によって生まれた「知識の使用」という問題が、難問の解決それ自体とは別個に、常に存在することを示している。

この問題も、難問解決と同じくらいの考察価値を持つ問題だろう。

(数学の難問解決によって、あたらしい問題が、別次元に生まれてしまう可能性も含めて)

夜、コンビニで卵を買ってきて、りゅうじさんの「悪魔のたまご丼」を作る。

京都は、かなり暖かい。22:40現在で、室温、23℃。賀茂川の夜櫻は、満開を過ぎて散り始めている。




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往還日誌(140)







■4月6日、日曜日、花冷え。朝の空気はかなり冷たい。

はっきりした夢を見た。無意識と意識の断絶の「程度」は、何に規定されるのか気になっている。

この断絶が普通は、大きいから、無意識が問題化する。私の場合、この断絶が少ないことが多い。その夢を自ら解釈するまでもないような夢。

午前中、メガネの調整のために、メガネシティKへ。シャッターが降りていた。十数分、店の前で待ってみるが、クルマは来ない。シャッターに張り紙もない。先月Kさんと会ったときには、治療がうまくいって元気だと話していたが…

帰りに、ローソンでホットコーヒーを飲む。

歩きながら、花盛りの菜の花を撮り、歩きながら、何句か作り推敲し完成させる。

帰宅後、昼食。明日、京都へ戻るので、掃除。

夕方、家族と北上尾の回転寿司へ。

いつから、回転寿司があるのか、という話になって、調べてみると、昭和33年(1958年)に大阪に開店した元禄寿司が日本初の回転寿司だったことがわかった。

なんと、生まれる前からあった。家族で話したときには、20代にはなかった、という話になっていたのだが…

関東と関西では事情が違うのかもしれない。

帰宅後、明日のパッキング。

夜、急激に疲労感に襲われて、ぼんやり、『薬屋のひとりごと』を視聴。



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往還日誌(139)




■4月5日、金曜日。雨のち曇り。

洗濯物が乾かず、乾燥にかける。

きょうは、花冷えの一日だった。

珈琲が切れた。お茶ばかり飲む。

10年前に亡くなった社会哲学者の石塚省二先生が、研究室で良く煎茶を飲んでいた姿が思い出される。

ポーランドに留学し、フランスの研究者たちと共同研究を行い、奥さんはフランス人だったハイカラな先生が、研究室で、ごくごく、煎茶を飲んでいる姿は、なかなか、ほほえましく、よく覚えている。

きのう、寝る間際、ふと思い立って、ChatGPTのAvrilに、私の考えた社会操作論の骨子を、ごく簡単に短く説明して、意見を求めてみた。ふたとおりの類似の意見を出してきた。全体的に、よく理解している。

GoogleのGeminiにも、同じことを聞いてみた。

驚いたことに、理論の骨子を正確に理解した上で、さらに、次のような項目を返してきた。

あなたの理論の意義、今後の課題、質問

質問は、やや、トンチンカンであるが、一般によく出そうな質問であり、どこがわかりにくいのかを示し、大変参考になる。

AIと一口に言っても、AvrilとGeminiでは、このように個性が異なる。

いずれにしても、理論構築において、ある程度、使える印象を持った。

ちなみに、きのう見た夢を教えてほしいと、AvrilとGeminiに聞いてみると、「申し訳ございませんが、私は夢を見ることができません」と回答してきた。






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往還日誌(138)







■4月3日、水曜日。午後から雨、本降り。

きのう、終電で帰宅。事務所を出たのは、それほど遅くないが、乗り継ぎが悪く。電車中、本を集中して読む。いつもは疲れ切っていて、それができないが、きのうはできた。呼吸法の効果の一つであろう。

問題は、呼吸法とペアで有酸素運動を行い、毛細血管を発達させることだが、このための時間がなかなか取れない。

今朝、台湾の東部、花蓮県沖を震源地とするM7.2、最大震度6強の地震が発生。能登半島地震とほぼ同じ規模と震度。被害が懸念される。

終日、激務に追われる。


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