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木の根明く(きのねあく)

土曜日、のち。午後遅くまで、仕事。その後、指圧・マッサージを受けに行く。帰宅して、しばし、眠り込んでしまった。マッサージの後の熟睡は至福ですね。その後、書店にコミック『墨攻』(4-8)を買いに行く。今は漫画文庫に面白そうな作品がずいぶん出ていますね。星野之宣の自選短編集歴史編というのが出ていたので、ついでに購う。



俳人の宮坂静生さんが、大変重要な仕事をしている。『語りかける季語 ゆるやかな日本』(岩波書店 2006年)俳句の季語は、古今集で成立した美意識を基礎に、連歌や江戸俳諧の言葉を吸収しながら、明治以降の近現代俳句に至っている。だが、俳句の季語・季題には、一つの空間的な前提がある。京都・江戸(東京)という文化圏である。列島は南北に長く、しかも、日本海側と太平洋側では文化的な色彩も異なる。地域の多彩な季節の言葉は、これまで歳時記に登録されてこなかった。されないままに、歳時記の言葉は、「日本人の」美意識と言われてきた。宮坂さんのこの本は、地方の季節の言葉を集めていて、大変興味深い。

「沖縄では一月に寒緋桜が咲く。沖縄の人にとっては、桜は染井吉野でも山桜でもない。寒緋桜が桜なのである。この一事のみでも、私には衝撃であった。山桜、あるいは明治以降は染井吉野を『花』と称して愛でてきたこの国の花の歴史に、寒緋桜は入らない。すると、花ばかりではなく、平安朝以来、『雪月花』を頂点に美しい季節のことばを集めて築かれてきたいわゆる『季題』『季語』の体系とはなんであったのかという、大きな問題に直面せざるを得ないように思われるのである」(同書viii)

この問題は、「日本」とは何か、という大きな問いに至らしめる。

タイトルに書いた「木の根明く」という季語は、雪国で使われている春先の挨拶ことばのようなものだという。ブナやクヌギなどの木の根元に積もっていた雪が丸くドーナツ型に溶け始め、地面が現れる。まだ雪深い早春の森で、木の根元だけぽっかりと地面が見える様子を言葉にしたものだ。

木の根明くなり草の根も明きにけり    宮坂やよい

日本や日本人はこれまでも多様であり、これからも多様でなければならないと思う。同一性の命題は、ある意味で暴力的とも言えるだろう。宮坂さんは、大変説得的に、「北の文化(北海道)」「中の文化(本州・四国・九州)」「南の文化(南島)」という図式を提示して、日本文化の多重性を前提に季語を考えようとしている。

いわゆる「地域季語」は普遍性がないから、一部の地域だけで通じるものだから、作品としての価値が低い。そうぼくは思ってきた。けれど、宮坂さんの、そもそも「作品の普遍性とは何なのか」という議論を読んで、俳句が連衆や土地の自然に対する挨拶であるという基本的な考え方を思い出した。地域の人々や地域の自然に地域の言葉で挨拶するのは、いってみれば当然で、それが、東京の俳人の作った、いわゆる「正統的な季語」を使った俳句よりも作品の価値が低いということにはならないのではないか。鑑賞という面についても、そもそも、俳人は、季語を勉強したのではなかったか。その本意を、そのいわれを、その古典文学的な背景を。それと同じように、雪国の季語を東京の俳人が学ぶということがあってもいいのではないか。沖縄の人の桜を、京都の俳人が学ぶことがあってもいいのではないか。季語の間に、いや、文化の間に、われわれは無意識に序列をつけてしまっていないだろうか。そんなことを思った。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown ()
2021-05-01 14:22:33
木の根明くなり草の根も明きにけり    宮坂やよい いただきました。 漫画はお読みですか? 四十年もまえの作品ですが 《度胸雲》《意気に感ず》原作・吉田悠二郎/作画・かわぐちかいじ// もし、ご興味がおありならググってみてください。
 
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