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【五十嵐秀彦の俳句9】







マネキンがつぎつぎ死んで萩となる



「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦






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詩や俳句の最大の武器の一つが、現実と幻想の「関係性」をテーマ化できるという点である。

掲句は、「萩」が実在で現実、「つぎつぎに死んでゆくマネキン」が幻想になっている。

現実の「萩」に、作者は、触発されて、そうした幻想を見た、と一応は言えるだろう。

これは、自分の心の「内なる幻想」とも言えるし、萩に投影した「外なる幻想」とも言える。

俳句に限らず、テクストは、読み手の「今」が置かれた歴史的な文脈に、その読みが規定される。

だから、常に、新しい読み方が現れる。

この句の読み方は、さまざまできるだろう。

私は、つぎつぎ死んでゆくマネキンの幻想に、ガザと言う天井のない監獄にとじ込まれ、逃げ場がない女性たちや子どもたち(ガザの人口の45%は14歳以下である)、老人たち、失業している男性(失業率47%、若者に関して言えば64%)たちが、イスラエル国防軍に無差別に空爆されていく現実を重ねて読んだ。

この経済状態は、イスラエルによって人為的に作り出されてきた。つまり、ガザは、「絶望」再生産工場なのである。

マネキンは人間の形をしているが、人間ではない。人形である。ここにも、マネキンに、人間扱いされてこなかったガザの人々の哀しみが木霊していると感じる。

この圧倒的な現実が、「萩」によって、可憐で、風にゆれる繊細な紅白の萩によって救済されている。

この罪なく力のない「花」のありようが、まさに、歴史の中の庶民のありかたと重なってくる。

そうして、もう一度、この句を読んでみると、幻想と思っていたマネキンのあり方こそが「現実」であり、「萩」のあり方こそが、人類の実現されない幻のように思えてくる。



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【五十嵐秀彦の俳句8】







殺伐といふ字に秋の薔薇を置く



「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦



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まず、置かれたのが「秋の薔薇」である。夏の薔薇や冬の薔薇に比べると、精彩さと力を欠く「秋の薔薇」――これが、「殺伐」という字の横に置かれた。本来、秋の薔薇は、殺伐と拮抗しない、対抗しない、ましてや、打ち消すことなどできない。

だが、どうだろう。一読して、拮抗している。

それは、「殺伐といふ字」という措辞にある。ここに、「字」が一文字入っているだけで、「秋の薔薇」は、存在として――文字ではなく――立ち上がってくるのだ。その秋の薔薇のオレンジ色まで。

本物の秋の薔薇には、いくら殺伐でも勝てっこないのだ。

弱い力が、言葉の魔力で、逆転して強い力に転じる――ここに「詩の力」が働いている。

それは、存在と言葉の間にズレと一致の弁証法があるからにほかならない。

※萩が咲いて、名月があがったので、鑑賞の第二期を始めます。断続的に鑑賞文をアップします。





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【五十嵐秀彦の俳句7】






土塀より湧きて還らず黒揚羽


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦


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黒揚羽の動きは、ふいであり、鋭角的であり、直線的である。「湧きて還らず」という二つの動詞が、黒揚羽の動きを象徴している。

もうそこにはいないが、黒揚羽の残影は残っている。

掲句の中心は黒揚羽の動きにあるが、それが生かされているのが、「土塀」である。灰色っぽい土塀が、その質感とともに、蝶の消えた後に残っている。

この土塀は、その蝶がそのとき現れそのとき消えた土塀であり、単に土塀としてだけ、そこにあるのではない。

一瞬だけ、蝶とともにあった。いわば、蝶の記憶を宿した土塀である。

「湧きて還らず」という二つの動詞は、黒揚羽の動きを表すだけでなく、この蝶を次第に幻の存在に変えていく。なぜなら、そこからたえず消え去るからである。

同時に、「黒揚羽」という言葉によって、その存在を呼び戻される。

ここに書かれた「黒揚羽」は、言葉によって幻になり、言葉によって、そこに現出される、そういう二重の「黒揚羽」なのである。

このような黒揚羽のありかたを支えているのが、この土塀の質感なのである。

※第Ⅰ期の鑑賞をこれで終了します。第Ⅱ期はまたしかるべきときに。





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【五十嵐秀彦の俳句6】







一条の藤にとりのこされてゐる


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦




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この句は、一読して気になった。

「一条の藤がとりのこされてゐる」ではないのである。

「が」が「に」になっていることで、取り残されている主体=作者が明確に表現されている。

この句は、藤と作者の、万葉集にあるような強い感情的なつながりを詠んでいる。

「一条の藤がとりのこされてゐる」でも、情景がはっきりと浮かび個人的にはいい句だと思う。こうであれば、この「一条の藤」に作者は重ねあわされていると、普通は理解する。

だが、作者はこうは詠まなかった。詠めなかったのだと思う。

「一条の藤にとりのこされてゐる」は、取り残された「我」が非常に強調されているのがわかる。

「一条の藤」に取り残されるとは、ほかの藤はみな散っている。「自分だけが残されている」という感覚がある。

残った「一条の藤」と同じように、自分もまた、残っている。強い嘆きが感じられる。そして、残った一条の藤もまた散るのである。
散った藤は、多くの友人知人家族たちだろう。

これは、静かな優れた追悼句である。泣ける。

「一条の藤」が風に揺れている。その周りの空気全体が喪に服しているかのようである。






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【五十嵐秀彦の俳句5】







きーんと音して蛾が潰されてゐる


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦



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電灯は電圧の関係で、「きーん」と音を立てることがある。ここは、戸外の灯の下だろう。

その明かりの下だけスポットライトのように、光りが丸く落ちているが、そのほかは闇である。その闇は、天から降りてくる、そういうスケールの大きな闇である。夏の星も瞬いているだろう。

この「きーん」という音である。明かりの電圧の音だろうか?
 
私は違うと思う。

路上に踏みつぶされた蛾の死体を見て、とてつもない孤独を感じた。

その孤独の音だろう。

潰された蛾が孤独なのではない。それを見た作者の孤独である。

孤独という観念は、自然的存在にはない。社会的存在である人間固有のものだろう。

「蛾が潰されてゐる」

あたりは宇宙とつながっている闇である。

一人ということが
潰された蛾によってせりあがってくる。

「きーん」は、そんなときに聞こえてくる。

宇宙の耳鳴りなのである。




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【五十嵐秀彦の俳句4】







息切れるまで夏楡のふもとまで


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦


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なだらかな丘陵地に夏楡が一本枝を広げて立っている。

夏の青葉の茂った楡が作り出すそこは、緑陰となって、きれいな影を作っている。丘陵をわたる風が心地いい。

この句によって、一本の夏楡とその周囲の広々とした丘陵地が眼前に現れる。

この景は、関東や京都では、なかなか、お目にかかれない。

夏の北海道のもっとも美しい情景の一つだろう。

「息切れるまで」の措辞で、読者は、作者と一緒に、この夏楡のふもとまで丘陵地を歩むことになる。

広い――広々とした丘陵と夏の雲が広がっている。鳥の聲も聞こえるだろう。

この夏楡の幹に触れたとき感じるのは「喜び」なのだと確信できる。




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【五十嵐秀彦の俳句3】







一統の罪北辛夷高く高く


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦


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この句は、非常にアクチュアルな句である。「一統の罪」は、個人的な罪ではない。何らかの集団が前提されている。一族とも言えるし、日本国家まで拡大してもいい。

一統の罪の大きさが、北辛夷「高く高く」に現れている。見上げるように高いところに白い北辛夷が咲いている。償いまでの遥かな距離を表しているかのように。

北辛夷の花は、この句で初めて知った。

辛夷の分布域が北海道~九州・朝鮮半島南部とされるのに対し、北辛夷は北海道と本州中部以北の日本海側とされる。幹は直立し、高さ20m、太さ40cm以上になるという。花は葉の展開前に咲く。花弁6枚からなり径10~12cm、淡紅色をおびた白色で香気があるとされる。

還暦まで生きてわかってくることの一つに、どんな人間も、罪のない人はいない、ということである。誰に対して、何に対しての、違いはあるが、罪はある。

罪は、罪と意識されるから、そう呼ばれる。その時には、すでに罪は「償い」とセットになっている。

償いには、その心があっても、常にふるわれている客観的な力や外的な力に対する認識がないと、償いは正しく行われない。ここに、学問が要請されるゆえんがある。

逆に、学問をした人によくあるのは、意思がない、ということである。つまり、知識は意思とセットでないと、「当事者性」、言い換えれば「実践性」が出てこない。このため、知識だけでは、評論家のまなざしの中に留まってしまう。

自戒としたい句である。





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【五十嵐秀彦の俳句2】






パンちぎるとき夕焼けが遠すぎる


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦






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パンをちぎる、遠すぎる夕焼け。このふたつには、本来なんの関係もない。しかし、詩人の感受性は、このふたつを結びつける。

「夕焼けが遠すぎる」という措辞は空間的なものだが、ここには、「時間的な遠さ」も含まれている。つまり、過去の夕焼けである。過去に見ていたあの夕焼けは今は遠すぎる、という感慨が含まれている。あの夕焼けを見ていたときと場所、そして自分にはもう戻れないという「失われたもの」への郷愁がある。

この郷愁が、この句を一行の詩にしているのだと思う。

パンをちぎる行為は、日常の食事の行為である。現在の日常とは、「つねに、失われた何か」なのだろう。

食事は一人でもするが、ここから、「社会」が始まる。家族や友人と食べれば、そこに言葉のやりとりがある。何気ない言葉であっても、それは社会である。そのとき、自然である夕焼けは遠い。

ここには、詩のもつ一つのパラドックスがある。遠すぎる夕焼けを、「夕焼けが遠すぎる」と詩にすることで、それは近づく。引き寄せる。

これは、詩の力と言っていいものだろう。

時間的に遠くなった「失われた夕焼け」も、ひとが社会をなすことで、「距離ある対象となってしまった夕焼け」も、詩によって、二重に救済されているのである。

「パンちぎるとき夕焼けが遠すぎる」

失われたものは詩にすることで蘇る。



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【五十嵐秀彦の俳句1】






夏が淋しいジャングルジムを揺らす


「暗渠の雪」(2023年)#暗渠の雪 #五十嵐秀彦






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誰しもジャングルジムを揺らした経験はあるだろう。子どものころの思い出の中の一コマに。掲句は、「夏が淋しい」という主観的な言葉がいきなり立ち上がってくる。リズムは、7・7・3である。この感情は、まぎれもなく、生と死の反復を経験してきた大人のものであり、いのちの盛りの夏に、「淋しさ」を感じるのは、滅びの予感があるからだろう。

わたしがもっとも惹かれるは、「ジャングルジムを揺らす」という「無意識の行為」との間にある「間」である。「夏が淋しい」だから「ジャングルジムを揺らす」のではない。この二つの間には、俳句の「切れ」が厳然と存在している。この「間」が、この句のポエジーなのである。

この句自体が説明を排除しているように、鑑賞者も、説明は野暮である。一つ言えるとすれば、ジャングルジムを揺らした遠い日々の中に「夏の淋しさ」はすでにあったということである。それは言葉以前のいのちの淋しさだったはずである。「ジャングルジムを揺らす」という大人の行為は、そうした言葉以前のいのちの淋しさとも響きあっているのである。





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五十嵐秀彦句集『無量』句評



十三夜女ばかりのバスに乗り #五十嵐秀彦(句集『無量』)「女性専用列車」に間違って乗り込んだことがある。女性ばかりということにすぐには気がつかなかった。気がつくとすぐに降りた。専用列車だったからではなく、やや怖くなったからである。この怖さ、説明すると長くなる。自分が男だからである


赤とんぼ無数失踪者無数 #五十嵐秀彦(句集『無量』)警察庁によると、平成24年中の行方不明者総数は、81,111人である!ここから>>>http://bit.ly/19oCu29  柳田國男は『山の生活』で日常生活を捨て山に逃れた人々の記録を残している。日常は時として耐えがたい。


園丁になりたし薔薇の首を剪る #五十嵐秀彦(句集『無量』)薔薇の首を剪る。園丁のほかに誰ができるだろうか。作者ができる。薔薇の首はすでに剪られて、やわらかい土へ落ちてゆくところである。薔薇は、そこに存在しないが、この句が、確かに剪られた薔薇を見せたのである。言葉の園丁となって。


水をくれ櫻の下で待つてゐる #五十嵐秀彦(句集『無量』)一読、死者の声とわかる。これは、やはり広島・長崎を思わないわけにはいかない。文藝の言葉には死者が憑依する。俳人はイタコに近い存在までゆくのだろう。あの世とこの世、狂気と正気、善と悪、その境界に生きる異人。言葉の呪術性を思う。


狐火や広重ひとり吾もひとり #五十嵐秀彦(句集『無量』)あるのかないのか、判然としない、鬼火のような怪しい炎を手がかりに、先に進むほかはない。たったひとりで。あたりは、墨を流したような闇である。表現する人間の辛苦は、広重も吾も変わらない。狐火は比喩と実在のあわいで揺れる炎である。


かなしみにふれんと雪の穴を掘る #五十嵐秀彦(句集『無量』)雪が/光の渡って行ったこの海にも降ったので/おまえが街へ運んでゆく籠の中は/氷が花と咲き乱れている/だから/おまえには砂が必要だ/家では最後の薔薇が/今宵も/流れ落ちる時を養分にしている パウル・ツェラン「今宵も」


おもかげは新宿少女冬の虹 #五十嵐秀彦(句集『無量』)「新宿少女」という措辞にすべてが込められている。60年代、70年代の新宿の、とくに、現代詩とジャズを愛好した少女。それは、自由を志向したということだろう。そして、今も密やかに、その炎をともし続けている。虹の中では虹に気づかない


氷柱折るときなにものか折られけり  #五十嵐秀彦(句集『無量』)これは、言われてみると、みるみる説得力を増してゆく。そこには、ある種の後ろめたさがある。氷柱が意外に頼りないことも、関連していると思うが、世界の調和が、その瞬間、破られるからだと思う。調和はあっけなく破られる。#俳句


降る雪に重たき耳をふたつ持つ  #五十嵐秀彦(句集『無量』)これは、鋭い身体感覚の句だと思う。寒さで耳がかじかんで物質としてふたつ意識されるだけでなく、音を聴く器管としての耳が捉えられている。雪の世界の無音も耳は聴くのである。無音は、感覚的には、耳に「重い」。#俳句


うららかに行方知れずとなりにけり  #五十嵐秀彦(句集『無量』)蒸発とも、認知症で徘徊する人とも読めるが、職場で行く先を書かないで外出したともとれる。いずれにしても、ここからいなくなることを、季語「うららかに」で肯定的に表現していて、どこか、自分からの解放を思わせる。#俳句


秒針の速度牡丹雪の速度  #五十嵐秀彦(句集『無量』)落下速度に注目していて、面白いと思う。秒針の速度は、一定で変化しないが、牡丹雪の速度は、雪の重さによるので、一定ではない。この句を読んでいると、秒針が、牡丹雪によってクローズアップされ、時間が遅くなるような気がしてくる。#俳句


なにごとか語りしのちの鮭の顎  #五十嵐秀彦(句集『無量』)「擬人法」と言ってしまえば、人間中心の近代的なものだが、鮭を神とする古代的な感性の谺とみれば、語った内容が気になってくる。「なにごとか」は、どうしても祝福とは思えないからだ。#俳句


露寒やどこにも行かぬ日の鞄  #五十嵐秀彦(句集『無量』)鞄が所在なげにある。その鞄はいつも行動を共にしているが、今日は、どこにも行かぬ日。普段とは違った場面に置かれた鞄の、普段とは違った存在感が捉えられている。露寒い日だが、その鞄には、陽があたっているような休息感がある。#俳句


茄子漬の昨日に染まる箸の先  五十嵐秀彦(句集『無量』)一般に、俳句は、存在を優先させるので、普通の詠み方では、「昨日の茄子漬」という順になる。五十嵐さんは、逆に「昨日」を強調している。茄子漬に規定された過去の全体性が浮かび上がる。この感性は、詩人のもの。#俳句 #五十嵐秀彦


頬に染む朧の月を惜しみけり  五十嵐秀彦(句集『無量』)外部の自然を身体感覚で捉えていて印象的。外部の自然と内部との一体化は、主観と客観の距離が離れた近代の時間とは異なる。古代的な感性の表出と思う。もともと俳句という文藝に内在するものかもしれない。#俳句 #五十嵐秀彦


一睡の花の気配とともにあり  五十嵐秀彦(句集『無量』)これは、言われてみて初めてわかることだが、だれもが、こういう瞬間を持っていると思う。一睡に花の気配が入って来る幸福感は、花の心になることでもあるだろう。#俳句 #五十嵐秀彦


三鬼忌の海に翼を見て帰る  五十嵐秀彦(句集『無量』)雄大な幻想に惹かれる。三鬼と不思議に響き合っているのは、三鬼には、リアルを詠みながら、リアルを超えたところがあり、それが社会批判になっている不思議な魅力があるからだろう。「冷房の時計時計の時おなじ」(三鬼)#俳句 #五十嵐秀彦


カフカより始めよ白き日記果つ  五十嵐秀彦(句集『無量』)「将来に向って歩くことはぼくにはできません。将来に向ってつまずくこと、これはできます。一番うまくできるのは、倒れたままでいることです」(カフカ)絶望も突き抜けると笑いになる。深い絶望、大いなる励まし。#俳句 #五十嵐秀彦


夜に還る隧道を抜け冬を抜け  五十嵐秀彦(句集『無量』)隧道を抜ければ、光があり、冬を抜ければ春がある。これが普通の感覚であるが、「夜に還る」と詠んでいる。この夜は、隧道の闇とも冬の暗さとも違う。始原に近いものではないか。#俳句 #五十嵐秀彦


月照らす机上流砂のごとき文字  五十嵐秀彦(句集『無量』)一読、机上の世界から広々とした月の照らす流砂の世界へ誘われる。文字を流砂と考える感性には、文字の世界は、生々流転していく無常なものと見えているのかもしれない。文字に先行する世界のありようもまた。#俳句 #五十嵐秀彦


はまなすや語り部として地に翳る  五十嵐秀彦(句集『無量』)時間を支配する者は、光の中をやって来るが、歴史の核は、そこにはない。民衆の芸能とともに大地の翳りの中にある。自分もまたその翳りの中に。そう聞こえる。五十嵐さんの思想を考える上で重要な一句。#俳句 #五十嵐秀彦


旅鞄向日葵の他なにもなし  五十嵐秀彦(句集『無量』)実感のある句だと思う。五十嵐さんは、北海道内を仕事で回ることが多いようで、この句からは、北海道の広さが感じられてくる。#俳句 #五十嵐秀彦


向日葵の野にからつぽの耳の穴  五十嵐秀彦(句集『無量』)わかる俳句は重要だと思うが、わからないからといってつまらないとは限らない。「わかる」には、かすかに不遜の匂いがする。それは、自我の拡大と関わっているからだ。汚染された福島の未来図になるかもしれないのだ。#俳句 #五十嵐秀彦


絶顚の藤おそろしき夕日かな  五十嵐秀彦(句集『無量』)蕪村の「絶頂の城たのもしき若葉かな」が響いていると感じるかもしれない。この句は、蕪村とは、正反対の世界を描いている。山頂の山藤に夕日が当たっている凄まじさを詠んでいるからだ。古代的な畏れと乱調の美。#俳句 #五十嵐秀彦


ふたり旅して一鉢の櫻草 五十嵐秀彦(句集「無量」) ほのぼのとしたいい句だと思う。さりげないが、こういう細部に愛も情もあるのだと思う。孤独が過ぎるといい俳句はできないような気がする。# 俳句 #五十嵐秀彦


花便り来る闇さへも連れて来る 五十嵐秀彦(句集「無量」) 花の闇。これは、単に「近代」が生んだ悲劇的側面なのだろうか。「近代」を払えば「花の闇」が消えるのか。鎮花はむしろ花の昏い力の自覚ではなかったのか。基次郎も安吾も、その近代的な反響ではないだろうか。# 俳句 #五十嵐秀彦


寒もどる椅子一脚の硬さかな 五十嵐秀彦(句集『無量』)<寒>と<硬さ>が響き合っている。感覚的にも音楽的にも。深夜のバーをどこか感じさせる風景。#俳句 #五十嵐秀彦


テーブルの家族の行方赤光忌 五十嵐秀彦(句集『無量』)<テーブルの>と置いたことで、かつての具体的な家族の表情まで見えてくる。家族史の一コマ。誰もいなくなったテーブルには実感がある。赤光忌は、斎藤茂吉の命日。#俳句 #五十嵐秀彦


ふきのたう摘めり多くは癒されず  五十嵐秀彦(句集『無量』)「多くは癒されず」という措辞に惹かれる。「多くは」が重要だと思う。この言葉の使い方で、「ふきのたう」を摘むという具体的な行為との間に、絶妙な間を生んでいる。その間は、言葉にならない雄弁な言葉である。


無量―句集
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