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往還日誌(157)







■5月25日、土曜日、素晴らしい天気だった。風も湿度がなく軽くて心地いい。

今週は、午前中から仕事以外が予定の入っている日が多く、しかも毎日、午後から夜は、六本木の激務だった。

先週末は、土曜の公開講座に次いで日曜も予定があり、3時間睡眠だった。

日曜日の夜は、家族に新たまねぎの無水カレーも作っている。これは、材料を切るだけで、あとはほとんど世話なしなので、できたのだが。

今週は、朝は、比較的調子がいいのだが、夕方から夜は、全身疲労に見舞われて、ダウン気味。

こういうときは、胃腸もやられて、珈琲はぜんぜん受け付けなくなってしまう。

もっぱら、深蒸しの新茶のみ。

きょうは、仕事はせず、ひたすら休んだ。

新詩集『二〇の物と五つの場の言葉』、ぼちぼち、友人知人から注文が入り始めている。




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一日一句(3255)







仙人も空から落ちる夏の月






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一日一句(3254)







枝ぶりを天に競ふや夏木立






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往還日誌(156)






■5月23日、木曜日、曇り

必要なものは与えられる――なんだか、還暦をすぎて、そんな心境に至った。

気功も、呼吸法も、Vipassana meditationも、あるいはフロイトやラカンとの出会い・再会も、今の私に、「必要なもの」として与えられたように感じる。

与えられるものは、いつもつつましい。

それでいいのだろう。

日誌を書くのに長く、30年くらい愛用してきた100枚のノート「コクヨ ノ-90A」が、2022年に生産終了していたことを、つい先日知った。

コクヨに後継ノートを問い合わせたところ、「ノ-10AN」(ピンク表紙)があることを教えてくれた。

アマゾンで、2ヵ月の周期で購入する定期便を発注。約2ヵ月で100枚を書ききってしまうのである。

日誌と言っても、単なる日々の記録ではなく、俳句や詩の習作、思索のスケッチなど、さまざまな、ものを書き込んでいるせいもあるが、filoFaxと連携して、毎日の作業を項目ごとに書き出し、それをチェックしたリフィルを2枚、ノートに貼り付けているので、ノートの頁の消費の進みが速くなる。

この習慣は、会社を35歳で辞めてから、仕事の工程を自己管理をせざるを得なくなって始めたもので、毎日ではないが、30年くらい続いている。日誌を書くというのも、自分のメンタルを対象化したり、人生や生き方の方針・方向性を定める上で、有用なために始めたものである。

昨年から、月の半分を京都でひとりで過ごすようになり、日誌を書く分量が一時期急激に増えた。要は、孤独になったためだが、その内容は大半が妄念や妄想に近いもので、Vipassana meditationを行うようになり、それはほとんど消えた。

詩を書いていると、アイディアが文字通り降ってくることがあり、仕事中でも降って来るので、一時期、それを書き留めるのに、大変難儀したが、Vipassana meditationを行うようになり、それはほぼなくなった。アイディアが消えたのではなく、それが、アナーキーに降ってくるということがなくなったのである。

きょうの午後、私の第4詩集『二十の物と五つの場の言葉』が、七月堂より届いた。

これで、終わりではなく、これが始まりで、販売促進という大仕事が始まる。

後日、この詩集の案内を書きます。ぜひ、お読みいただきたいと思います。




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一日一句(3253)







土塊を土へと返す夏の月






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一日一句(3252)






おのずから猫にうなづく新茶かな






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一日一句(3251)







どくだみや雨美しき裏の庭






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一日一句(3250)






地に廃墟天に上弦夏の月






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往還日誌(155)






■5月18日、土曜日。快晴。

6時起床。呼吸法ⅠⅡⅢとVipasssana Meditationの歩く瞑想を行う。

朝食を食べてから、亀屋博永へ。家族のみやげにわらび餅を買いに。

今回の京都滞在では、14日に北白川のバプテスト眼科クリニックで定期検診ができた。緑内障の状況は、両眼とも、プラスマイナスで、変化がなかった。定期モニタリングを半年に一度行うことに。

これふと思ったのは、緑内障については、一般に、巧妙な詐欺があるような気がする。

というのは、最初に、桶川眼科で、医師が目をライトで見て、緑内障の気があると突然言い出し、検査して、左目だけ、緑内障だと診断したのである。緑内障と診断されると、眼圧を下げる薬を定期的に買わされ(私の場合、正常眼圧だったにも関わらず買わされた)、定期検査を受ける。

つまり、何が言いかというと、「緑内障は作られる」ということである。

なぜ、それがわかったと言うと、バプテストの検査と桶川眼科の検査は異なるからである。検査の機器ではなく、片眼ずつ検査するときに検査しない目をふさぐ、そのガーゼの貼り方が、異様に硬く、きつく、それを解いてから行う視野検査では、光を追いきれない事態が生じる。

バプテストの検査技師には、これはまったくない。

つまり、桶川眼科クリニックというのは、医師と検査技師が、連携して、緑内障市場を金儲けのために意図的に作り出している疑いが強いのである。

この桶川眼科というのは、駅ビルにあり、アクセスが非常に良く、常に白内障と緑内障の患者で込んでいる。

駅前物件の賃貸料は高いとは思うが、それだからと言って、こんなめちゃくちゃな医療があるだろうか。

一度、私は疑いを持って、この横浜市大医学部出身の医師に、自治医科大学でセカンドオピニオンを求めると言ったことがある。

このときの反応も実に不審で、自治医科大学から、また桶川眼科へ差し戻されるから、忙しい大学病院に行くのはどうか、というのである。しかも、きちんと、緑内障の説明をしたことがないのにしたと言う。説明は「欠けてますね」、これだけだったのである。

初期の緑内障の判断は、視野検査に100%依存するので、こういう詐欺行為ができてしまう。

専門知識というのは、このように、詐欺の手段として使われることがある。

恐らく、日本中で、この初期緑内障詐欺は、存在すると思う。

高齢化社会の詐欺は、オレオレ詐欺だけでなく、こうした専門知識詐欺がある。

説明に一貫性があるかどうか、や、いたずらに、権威的で偉そうで、説明をしたがらない医師は、その疑いが強く、場所的には、駅前などの好立地は、物件が高いので、金を儲けなければならない必然性がある。

○○会などといった医療法人も、各医院にノルマを課す場合がある。

京都に来てよかったのは、バプテスト眼科クリニックを知ったことだった。

きょうは、夕方から、お茶の水で公開講座『ルカーチの存在論』32周年「古事記を読む」がある。


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一日一句(3249)







天地の聲の中なる新茶かな






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