いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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日銀には「art」が足りない

2007年07月28日 19時22分36秒 | 経済関連
病的状態から脱していこう、悪い状態を治そう、と思うのであれば、その為の全力を尽くすのが当然なのだ。過去の失敗はもうどうしようもないのだから、それは反省して次から失敗を繰り返さないようにするのが普通なのだ。だが、日銀は違う。どうしてここまで頑迷で物分りが悪いのか、心底不思議でならない。世の中、「素人はバカで専門家は正しい」という意見に出会うけれども、必ずしも当てはまらないとしか思えない。

自分のことを「頭がいい」と思っている人間というのは、きっと素人とか専門外の人間が言っていることというのが「あー、またバカなことを言って。違うんだよ、全然。バカどもが束になって考えても無駄、無駄。」みたいに考えているのかもしれない。確かめたことはないのだけれど。これは多くの場合当たっているのかもしれず、実際そういうことばかりだったのでしょう、きっと。
なので、決して他からの意見に耳を貸さない。絶対に自分が正しいと信じているから。バカどもの言う意見など聞いても無駄で、聞く価値なんかないと思っているから。大衆は所詮バカの集まりだと見下しているから。まあ、これを止めさせることなどできないし、そういう考えを持っているのなら、それはしょうがないでしょう。それを変えさせる方法などありませんから。

日銀というのは、量的緩和解除後に複数回の利上げに踏み切ってきたわけですが、それが政策的に妥当性が高いものであったか否かということの検証というのは、明確にしていないわけです。春に点検をします、とか言って、記者発表とか文書公開をしてたと思いますが、あれで何が明らかになったかと言えば、「オレはこう思ってるから」ということだけです。あれで点検って、誰がどう読んでも「ハア?」ですよ。
日銀がいかに正しいか、という自慢をしただけなのです。「オレはこう思ってるから」ということから、「これでオレの気持ちは判るでしょ?こっちの気持ちを読み取って頂戴よ」って求めているだけなのです。

またヘンな喩えで申し訳ありませんが、ご容赦下さい。

少年がいました。
泥団子を作って、家の塀に向かって投げました。
泥団子は塀にぶつかって、潰れました。
塀は泥だらけになり、母親にこっぴどく叱られました。
少年は反省し、塀をきれいに洗いました。

一体何の話、と思われるのを承知で書きました。これくらい簡単に書かないと、日銀には理解してもらえないので(笑)。
この少年がやった行為に対しては、結果と評価というものがある、ということを言いたいのです。泥団子を作るのはまあいいとして、塀に向かって投げたらどうなるか、というのは、その投げる行為をする以前によく考えれば判ることなのです。それによって生じる結果についても、予期可能なものでありましょう。しかし、投げてしまえば、泥団子は手を離れるわけですから、もう元には戻せませんね。当たり前ですけれども。で、予想通りに泥だらけになる、ってことです。

日銀は何かの政策決定を行っていくわけですが、その行為と結果というものについて、正しく評価ができていません。少年の場合には、母親がいるので「こっぴどく叱られる」ということがありますが、日銀には母親がついているわけではないし(笑)、誰からも叱られません。叱っているのは、せいぜいネット上の誰かとかごく一部の人たちだけで、本格的に叱られているという状態にはなり得ないのです。故に反省をするのであれば、日銀自ら行えばいいのですが、これが全くできない組織なのです。少年は反省させられ、投げた行為の代償として塀を洗いましたけれども、日銀はいつまで経っても洗うことをしません。それどころか、「投げたのは絶対に正しいんだ」と言って、決して謝りもしません。絶対に認めないのですよ、間違いを。

「泥団子を投げたらどうなるか」ということを何度も警告し、今投げるべきではない、と何度も申し上げてきましたが、これは通用しませんでした。日銀が本当に「点検する」ということであるなら、「泥団子を投げた」結果、何がどうなったのかということについて検証せねばならないはずなのに、これを一切しません。それどころか、「泥が付いたように見えるが、実は塀の泥パック効果を狙ったものだ」とか「泥はついたかもしれないが、今後キレイになるはずだ」とか、ワケのわからん屁理屈を並べているのと同じようなものです。「オレが投げようと思って投げているんだから、正しい」みたいな意見をいくら聴かされても、何の足しにもなりません。まともな説明にもなっていないのです。誰が聞いても、なるほどな、と納得できる説明すらできないのです。

日銀は予想屋と同じなのか(追記後)

今年の点検結果については、この記事に書いたのですが、「間違ってました」ということが全くないということです。まさか本当にそう表現しろとか、ゴメンなさいと書けとか、言っているわけじゃありませんよ。例えば「事前予測Aと事後のBには、予想に反して~の乖離が見られた。この原因(若しくは影響)としてはホニャホニャやムニャムニャなどが考えられ、今後は乖離を防ぐ(事前予測精度を上げる)為に別なナントカやカントカといった指標も見ていくことにする」とか、書けるわけでしょ?でも日銀は違うんですよ。

例えば、賃金上昇、ULC上昇といったことは、「予想に反して」上がっていかなかったのでしょ?「『CPI は低い』が、企業の好調が今後家計にも波及していく=賃金上昇やULCの上昇がインフレ圧力に繋がっていく、だから利上げは正しいんだ」という理屈を用いて正当化していたではありませんか。そういう「考え方」「判断の仕方」というものが「間違っている」ってことを言っているのです。

物価安定の「understanding」(笑)はマイナス(=0%以下)は含まれていないのではありませんか?
直近の数ヶ月を短期的に見れば、今年の物価推移は「持続的下落」じゃありませんか。これが持続するのが経済学的にはまさしく「デフレ」なわけで、これがリスクでないという理屈はどこからひねり出してくるんですか、って言ってるんですよ。それとも、デフレ脱却宣言をどこかで出したんですか?内閣府とか。出てないでしょ(それとも、日銀が勝手に勝利宣言じゃなかった脱却宣言でも出したのでしょうか?)。依然として「デフレ」なんですよ。

本当にいい加減にして下さい。

いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」 日銀の利上げ問題

いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」 06年の実質賃金

こうやって記事に書いた後で、利上げをやってくるんですね、日銀は。
一時期だけ僅かにプラスに転じた後で、またマイナスに戻ったじゃないですか。これも言った通りですよね?
賃金上昇なんて見られてない、だから待てと言っても勝手に利上げして、そうしたら実質賃金はマイナスでした、ってアホですか?
言ってることも、やってることも滅茶苦茶じゃないですか。一体、どこを見てるんですか?何の為に専属でやっているんですか?

「オレは専属の運転手だ。だから運転はオレに任せろ」とか言って、事故ってばかりなんですよ、日銀は。
ぶつかる危険性があるから、もっと車間距離をとれ、それからなら激突リスクは小さいよ、って初めから警告しておいたにも関わらず、勝手にアクセル踏み込んで激突してしまいました、って頭がおかしいんじゃないか?

いいですか、車間距離がマイナスになれば、前車とぶつかっていることを意味します。車間距離は変動しますし、前の車はどのような運転をしてくるか完璧に予測することはできません。車列の流れの中で、変動するのですよ。そういう時、車間距離が2mの時と、0.5mの時では、どちらが安全か?って聞いてるの。どうしてこんな簡単なことが判らないのでしょうか?これが車間距離=CPI で考えれば、直ぐにわかりますよね?
車間距離が開いている方が激突リスクは減少するでしょう、だから車間距離を取れ、下手くそなドライバーほど「距離が必要」って言ってるんですよ。日銀がプロのレーサーとかスタントのドライバーみたいに、ギリギリの極限的運転能力がありますか?前車と僅か10cmでピッタリ追走できますか?そんな能力は持ってないでしょう?だから、ようやくCPI がプラスになってきたのだから、車間距離が開くまで「利上げは待て」と言っているんです。なのに、即座に利上げに踏み切って、僅かに開いていた距離はゼロどころかマイナスになってしまって、前車にぶつかってしまったんですよ。オカマを掘るのがそんなに好きなんですか?

こうした運転技術は、理論を知っているとかではなくて、どちらかというと「art」なんですよ。そりゃ、2台の車の車間距離ならば、割と簡単な関数でしょうから理解しやすいですけど、実際の経済現象はそこまで単純ではないでしょう。それは判りますよ。けれど、考え方としては、こういう「art」の比重が大きい問題なのであって、「何故そうなのか」というのが理論上では明らかになっていないとしても、「運転はしなければならない」のですよ。前の車が「急に速度を落としたのは何故か?」というのは、理屈で判ることもあるかもしれないが、判らないかもしれない。そんなものに計算や理論がどの程度通用するかなんてのは、正確に判らんのですよ。単なる居眠りかもしれないし、もっと前の方のバスが事故って、トラックも玉突き衝突になって20台目の前車が急ブレーキで、こちらも慌ててブレーキかもしれないし、そんなの理論で説明可能なものかどうかさえも判らんのですよ。「理由なき現象」だってあるのかもしれない。長い上り坂でダンプがノロノロ運転しかできず、それに連なる車列がノロノロで前車も遅くなったのかもしれない。そういう時、上りの勾配とダンプの減速割合などから計算可能な部分もあるかもしれないけれど、それは現象が正しく観察されてデータが揃って初めてできる話なのです。

計算結果を正確に知らないとしても、前車に「激突しないように運転」しなければならないのは、どのような場面でも要求される、ということです。そういう根本的考え方が、日銀にはない。理論で正確に判らないからブレーキは踏まない、とか御託を並べてたら激突してオカマ掘ってるのが日銀なんだよ。全然「art」がない、ってこと。

こんな話も以前に書いた>金融政策とtarget


生体にも恒常性というのがありますよ。「homeostasis」というのが。この全部の機構は正確には判っていません。けれども、ある程度の反応とか、仕組みなどは判る部分もあります。

からだの理

この記事にも触れられている通り、決して静的な平衡ではない。stasisから連想されるようなstaticな状態なのではなく、常に変動し振幅も繰り返しながら一定範囲内に戻ろうとするというような、動的平衡状態のようなものなのですね。これらは何かの観察からデータを得ることで、何かの数値で理解されますが、それでも全員の全ての数値を正確に推測できるわけではないのです。正常な状態というのがどの程度なのかは判りますが、年齢とか持ってる病気とか何かの条件が変われば数値が変わってしまうのです。なので、一つの数値だけに拘るのはいいとは言えないし、全体として見ていくというのは間違いではないですが、それは基本的な理解があってのものです。

経済学用語の中に「equilibrium」という言葉があります。「均衡」と呼ばれているかもしれません。これは生物分野にも見られて、平衡というふうに用いられることが多いでしょう。たとえば、acid-base equilibrium、酸塩基平衡、というものです。上の呼気CO2濃度とも密接に関連しています。

参考記事>酸塩基平衡

これも数値だけ取り出して見れば、「pH 7.40」という極めて簡単な数字になってしまいます。勿論、測定毎にバラツキはありますし、測定誤差もありますけれども、概ねこの近辺の数値が正常範囲ということになります。極めて狭いレンジに収まるようにできていて、何故7.40なのか、というのは誰にも判りませんけれども。普通は特に何もしなくても、生体内ではほぼ一定に保たれるようになっています。恒常性ということの一部ですね。

けれども、病的状態になったりすると、自動的に補正されなくなってしまう。平衡が崩れる、ということになってしまいます。それはもっと悪い病的状態に陥ることになるので、早く手当てしなければならないでしょう。そうした時に、pH という数字を見るのは勿論なんだけれども、もっと全体を診たり、他のデータも組み合わせて考える必要があるのですね。何が問題なのか、原因はどこか、とか色々と考えねばならないでしょう。それが正確に診断できないこともあるかもしれないけれども、例えばアシドーシスが継続するのは止めねばなりませんから、対症療法的にであってもデータを見ながら対処せねばなりません。危機的状況に陥っているのであれば、全てが完全に判らないとしても、とりあえず今できることをやるしかないのです。

これも同じく「art」的なものであって、観察された正確なデータとか、現象を全て明らかにできているとか、そういうのとは異なっているのです。使えるデータは当然集めるし、一つの検査結果だけではなくもっと違った観点からの検査も行われるし、確率的に考えて可能性のあるものを順次潰していくとか、そういうこともあるかもしれません。私は医師ではないのでよく判りませんけれども、要するにこうした「恒常性」「平衡」といった動的バランスを見ながら、そこから病的に乖離していれば手当てする・バランスを回復してあげる、ということが求められるのです。この実行には理論は必要なのですが、感覚というような部分も要求されるということです。


日銀の話に戻りますけれども、こうした考え方や能力が全く欠けています。
それは根本的な部分で「art」が完全に欠落していて、能力不足ということです。
これが理解されない限り、何度やってもダメ、誤りに気付くことができず、反省もされず、日銀が前進することは期待できないでしょう。




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