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市立札幌病院事件2

2005年01月02日 16時33分47秒 | 法と医療
前の記事の続きです。

市立札幌病院事件1



検察側主張では、松原医師が歯科医師らと共謀し、医師法違反であることを知りながら、医行為をさせていたとするものでした。これは慢性的な人員不足を補う目的であったというものです。また、歯科医師が行ったとされる気管内挿管等については、「絶対的医行為」として医師以外の人間が行うことは医師法第17条に違反する行為であると断じているのです。この「絶対的医行為」の判断は厚生労働省の見解に基づくものと思われ、これに基づき検察側がこの定義を持ち出してきたと思われます。


この事件が、救急救命士の気管内挿管問題へと波及していきました。厚生労働省通知が大きな意味を持っていることは間違いないのです。今まで述べてきた「医行為」とは何か、という問題が2つの問題に大きく影響を与えているのです。しかも新たに「絶対的医行為」なる法的概念(おそらく官僚達や検察当局が作り出した、これまでいかなる判決や公文書にも存在しなかった法的解釈と言えるでしょう)が、正式に示されることになりました。これが正当な解釈ということになれば、医療関係や救急の現場においては、非常に大きな影響が出ることは必至となったのです。


医師法第17条の解釈については、法学上の結論があるのかどうかわかりません。しかしながら、現実的には、現場にいる医療従事者や救命救急士に法的責任が存在することは確かであり、法令違反を問われてしまうことが個人レベルで起こってしまうということです。法学的知識が豊富なわけでもなく、その指導が行政から行われるわけではないのに、個人はその責任をとらなければならないのです。法的解釈を個人が正しく行うことを厳密に要求している、また行政側との判断の食い違いは、個人レベルにおいては、法的に許されるものではないということです。法の専門家や行政の専門家の立場とは、そういうものであって、個人がどのような責任を負うかということについてまで関知しない、判断を過った個人が悪いのだということを肯定していると思います。



歯科医師研修問題の複雑さは、医業とは何か、歯科医業とは何かという問題があるのと、研修という目的において、現場で指導する医師の個人的裁量・判断について法的解釈を厳密に求めていることなのです。
本来行政側の施策の問題、または研修を行う施設の教育システムについての問題であるはずが、研修目的とした医行為について、たった一人の医師の法的判断の誤りを問うという性格の裁判となってしまっているのです。


前に書いた救急救命士の問題では、指導的立場にあった医師たちが起訴された事実はなかったと思います。救急救命士の研修は病院で実際に行われており、厚生省告示が明示されていたことから法令違反は明らかでした。しかしながら、救急の現場においては時代的背景や社会的要請もあり、気管内挿管をさせていたとしても可罰的違法性の阻却によって不起訴となったと思われるのです。

ところが、その少し前に問題となった市立札幌病院事件では、たった一人の医師の起訴に踏み切ったわけです。検察側主張は明らかな誤りがありました。厚生労働省の官僚の法的解釈についても同様です。「絶対的医行為」なる判断をするならば、救急救命士に気管内挿管を認めることなど「絶対的」にできないはずです。


次に歯科医師が行う医行為、気管内挿管について検討してみたいと思います。

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