練習帆船日本丸船長

2006年10月10日 | 風の旅人日乗
10月10日

今回は、先日、大変お世話になった日本丸記念財団の方々への敬意を込めて、KAZI(舵)2005年7月号から、海人 ウォーターマンの肖像「帆船日本丸 池田裕二船長」を紹介致します。(text by Compass3号)

海人
ウォーターマンの肖像

練習帆船日本丸船長
池田裕二
Yuji Ikeda

文=西村一広
text by Kazu Nishimura

練習帆船 日本丸

大海原に乗り出すことを夢見る人間にとって、『帆船』という言葉は、得も言われない、とても魅力的な響きを持っている。
「船乗りになりたい。帆船に乗りたい」。そんな夢を持つ少年だった筆者にとって、当時は商船大学の航海科に入ることが、その夢を実現する唯一の手段だった。小学校高学年、中学、高校はそこに入るための準備期間でしかなかった。目指した大学に入り、そこで海と船の勉強をし、そして、卒業前の長期実習でやっと乗ることができた帆船(現在、横浜市みなとみらいの日本丸記念公園に係留されている旧・日本丸)での船上生活は、とろけるような素敵な日々の連続だった。その経験が忘れられずに、そのまま筆者は小さな帆船、つまりヨットに乗り続ける人生を選んだ。
現在日本には、日本丸と海王丸という、世界を代表する大型練習帆船がある。この2隻の大型帆船を所有し、運航しているのは、航海訓練所という独立行政法人である。海軍以外の組織が本格的な大型帆船を所有している国は、そうザラにはない。航海訓練所は、この2隻の帆船の他に3隻の大型動力練習船を所有し、これらの練習船による実習航海によって、日本の船乗りの卵たちを育てている機関である。1943年に設立されて以来、商船大学、商船高専、海員学校などの学生を、実際の船上生活、国内・国外の実習航海によって、一人前の船員に育て上げる役割を担ってきた(海王丸といえば、昨年夏の富山での走錨/座礁事故が記憶に新しい。この事故については現在海難審判が行なわれているが、適当な時期が来次第、当時の池田茂樹船長へのインタビューも含め、本誌で事故の詳細を明らかにし、今後の事故防止に生かすことを目的とした記事を作る予定で、現在準備を進めています)。
60年以上に渡って日本の船員を育ててきた航海訓練所には、当然のことではあるが、優秀で経験豊かな航海士や船乗りたちが揃っている。そのうちの一人、練習帆船・日本丸船長の池田裕二氏(52)が今月のこのシリーズの主人公だ。

池田裕二船長は、実は筆者の大学の先輩である。しかも同じボクシング部に所属していて、学生時代は、リングの中の練習とはいえ、殴り合ったことさえある。その頃の商船大学は男子ばかりの全寮制の大学だったのだが、その寮生活においても池田先輩は、自分自身を厳しく律する生活態度を貫いていたことを筆者は覚えている。
しばらく振りの再会だった。商船高専の実習生を乗せてオーストラリアのブリスベーンへの遠洋航海に出発する直前の横浜新港埠頭で、そしてその後、日本丸がその遠洋航海から無事帰還したあとの東京有明埠頭で、二度も日本丸の船長公室にお邪魔して、話をうかがった。
久し振りにお目にかかる池田船長は、風貌、貫禄ともに重厚、30年近く船員教育に携わりながら長く海と船で過ごしてきた経験と自信が醸し出す船乗りとしての風格が、身体中から溢れていた。世界を代表する大型練習帆船の船長に相応しい、本物の海の男が目の前にいた。フト、学生の頃、練習とはいえ、殴り殴られしておいて良かった、と思う。今ではとてもそんな、殴られたから殴り返すなどという、恐ろしいことはできそうにない。この取材に同行した本誌のM編集長は商船高専出身の元・航海士なのだが、彼は彼で実習生の頃、練習船で池田船長から厳しい指導を受けた経験がある。その当時の池田船長の船上教育は、M編集長いわく「もう、本当に厳しかった」そうで、その恐い思い出が抜け切らないらしく、彼は背筋をピシっと伸ばして椅子に座り、汗を拭き拭き可哀相なくらいガチガチに固まっていた。そういった訳もあり、このシリーズはいつもは「敬称略」とさせていただいているのだが、今回だけは例外とさせていただきたい。

年間240日の乗船勤務

池田裕二船長は、昭和27年に北九州市の門司に生まれた。家の近くの関門海峡で魚釣りをして遊び、夏になれば山陰の島にキャンプに行く、というような少年時代を過ごした。
「まあ、言ってみれば、童謡の『我は海の子』の歌詞を地でいっているような子供だったですね」。
そういった少年時代を経て、ある程度自然な流れで池田船長は東京商船大学商船学部航海科に進学した。
商船学部では、1年生から3年生までの間、それぞれ1ヶ月間の短期乗船実習があり、4年生になると卒業前に9ヶ月の長期実習がある。その最初の短期実習での体験で、「卒業後は航海訓練所に就職して練習船の士官になるのも悪くないな」、と学生だった池田船長は考えるようになった。当時は運輸省(現在の国土交通省)に所属する機関であった航海訓練所に就職できるのは、生活態度も含めて、かなり優秀な商船学生に限られる。池田船長も当然優秀な学生であった。
昭和51年、大学を卒業した池田船長は、諸先輩士官の一番下、船乗り用語でボットム(ボトム=底)と呼ばれる三席三等航海士から、練習船士官としてのキャリアをスタートさせた。
例えば練習帆船日本丸の1年の典型的なスケジュールは次のようになっている。
毎年4月1日に新しい実習生が乗ってくる。それから約6ヵ月間実習航海が続き、9月の半ばにドック入りして定期検査、整備を受ける。ドックが終わると再び11月1日に新たな実習生が乗ってきて、3月末まで実習航海を行なう。
この年間運航スケジュールに沿って、練習船に乗っている航海訓練所の士官たちの乗船勤務は、年間240日以上に及ぶ。横浜にある航海訓練所の事務所への出勤もある。公休は年間104日のみ。横浜市南区に奥様と2人の息子さんが待つ家庭を持っている池田船長であっても、「遠洋実習が入る期間は、100日以上続けて家に帰れないことがちょくちょくある」とのこと。昔ながらの船乗りの勤務パターンに近い。「でも、船に乗っていると通勤がないのが楽だからね」と笑うが、本人にとっても御家族にとっても、決して楽な仕事ではない。
大型船を運航するということそのものも神経を使う仕事なのだが、練習船には、その上に若く経験に乏しい実習生を預かり、彼らを一人前の船員に育て上げるという、更に大きな使命がある。
「船と実習生を絶対に危険に陥らせる訳にはいかないので、当然苦労も多いですが、その分、実習航海が成果を挙げたときの喜びも大きいですよ」と池田船長は語る。
池田船長によれば、実習生に「船に乗り合わせている者全員が家族である」ということが分ってもらえれば、それだけでその実習航海は7,8割方は成功なのだという。
「帆船では、ロープ一本引くのに一人では何もできない。各マストを担当するグループの力が船全体で一つにまとまって初めて、船がまともに走るようになる。そういったことを通じて、海の上で人を思いやる気持ちを実習生に伝えることが、帆船での実習の目的のひとつ」だという。
船舶職員法施行規則では、『実際の商船に乗船履歴のない商船学生が三級海技士(航海)の試験を受けるためには、帆船での遠洋航海の実習を経験しなければならない』、と定められている。実はこの法律のおかげで日本は世界有数の帆船を持つことができるともいえるのだが、この法律が意図するところが、即ち、池田船長の言う「航海中の人の和を学び、人のことを思いやる」という、航海技術だけではない、航海士の精神的な部分の教育における帆船実習の役割りなのだろう。

総航海距離、42万海里!

 池田船長は28年間の航海訓練所勤務のうち、陸上勤務の時期を除いて、これまですでに21年間練習船に乗船してきた。乗船勤務中は、1年間に国内・国外を合わせて、少なく見積もっても約2万海里の距離を航海するという。ということは1年2万海里を21年間だから、池田船長が航海訓練所の士官になってからの航海距離は42万海里!日本を出て地球を一周する距離が、おおよそ2万7千海里だから、42万海里は地球を15周する距離になる。
その航海距離のうち、旧・日本丸、旧・海王丸、現・海王丸、そして現在船長を務める日本丸など、練習帆船でセーリングした距離は、その約3分の1位だろうという。つまり池田船長は14万海里、地球5周分に匹敵する距離を、帆走航海してきたのだ。今の時代、帆船での帆走をこんなに経験してきた船乗りは世界でもそれほど多くないと思われる。しかも、池田船長のようなセーリング経験をすでに持ち、また、これから持とうとしている航海士、船員が航海訓練所には数多くいる訳である。よく考えると、航海訓練所は世界でも類を見ない熟練の帆船航海者集団だということになる。

現在、好調な貿易に支えられて海上輸送の需要が伸び、日本の海運業界の景気は上々だ。しかし、実際に日本の船会社が運行している船舶のほとんどは第3国に船籍を移した便宜置籍船で、日本国籍の外洋航路船舶はほとんどなくなりつつある。そのため日本人船員の数は年々減少の一途を辿り、現在では、海運に従事している日本人船員の数は、なんと4000名を割り込んでいるという。日本の魚資源の需要は落ち込んでいないのに、それを獲る漁船に乗っているのはほとんどが外国人だという日本の漁業の実態と同様に、日本の海運業界もまた、外国人船員にその職場を奪われつつあるらしいのである。世界に誇ることができる熟練の船乗りの組織である航海訓練所が育て上げた船乗りの卵たち、つまり日本の海洋文化、航海文化を担う若者たちの働き場所が、ジワジワと塞がれつつあるのだ。この現実を前にすると、何とも、どうも残念で仕方ない。海に囲まれた島国である日本から船員がいなくなり、日本が自国で船を運航できなくなる日が来るなど、想像したくもないほど、恐ろしく、悲しいことだ。
国土交通省から離れ、独立行政法人になった航海訓練所としても、このような日本の海運界の実状、これからの船員教育、海洋教育のあり方などについて、広く国民にアピールし、理解を求める必要性を感じているという。日本が独立国家として、他国に頼らない船舶運行機能を持ち続けるためにも、航海訓練所が果たすべき使命はこれからも重い。

まだ見ぬ目的地を探し続ける航海者

池田船長が考える、船乗りという職業の魅力とは何かを尋ねてみた。
「一人で太平洋を渡ったり、世界一周をしたりという単独航海も、それはそれで意義深く、価値のある行為だと思いますが」
と前置きした上で、
「帆を開いて海を渡り、目的地を目指す。喜びを分かち合えるたくさんの人数で協力し合って海を渡る。航海をしながら、海を思い、家族を思い、仲間を思い、そして家族や恋人が待つ港に戻ってくる。一人では成し遂げられない仕事(航海)を、集団で協調して達成し、ときには反目もするが、最後には喜びを分かち合う、その幸せを味わうことができるのが船乗りという職業の魅力だと思う」と語ってくれた。
そして、喜びを分かち合える人が多ければ多いほど、その喜びは大きくなるものだ、とも付け加えた。これらの言葉を語るとき、池田船長はこれまでの28年間で経験した、いくつもの感動の航海の記憶をたどっているように思えた。
池田船長にとって、海とは、航海とは?
「海には何か、惹きつけられるものがありますね。それを確かめに行くというのが船乗りなんだろうけど、それが一体なんなのか、これだけ長く航海をしていても、この歳になってもまだ分らない。まだ見ぬ目的地を求めてさすらっている、と言えるのかな。その、いつまでも見つけることができない目的地を求めて、船乗りは航海を続けているんでしょうね」。
学生時代から自分自身に厳しく生きる恐い先輩であり、実習生に対しても厳しい教官であり続けた池田船長が、実は海のロマンチストでもあることを初めて知った。池田船長の話を聞いているうちに、かつて酒を飲みながら歌った寮歌のいくつかを久々に思い出した。
♪~波の青さに、幼い夢に、いつも描いた練習船だ。若い命はコンパス任せ・・・
♪~・・・海のロマンを尋ねゆく、若い練習生は、若い練習生は泣かぬもの

貿易風に乗って

2006年10月09日 | 風の旅人日乗
10月9日

今月発売された舵11月号に、2連続太平洋横断記の前編が掲載されています。
今年4月に、110フィートのトライマラン<ジェロニモ>で14日22時間40分41秒という太平洋横断最短記録を達成し、それに続けて、7月には、72フィートのマシキヨットの<ビーコム>で、モノハル艇によるホノルル~横浜間の最短記録を達成しました。
前編では、<ジェロニモ>での航海の様子が写真とともに掲載されています。
書店の本棚に並んでいるKAZI 11月号の48~53ページをご覧下さい。
(text by Compass3号)

帆船日本丸と同じ海面でセーリング

2006年10月08日 | 風の旅人日乗
10月8日

ヨコハマ・シーサイド・フェスティバル2006のイベントの一つとして、アクアミューズによるセーリング体験を実施。
みなとみらい21地区の石造りドックに現役時代のまま浮かぶ帆船日本丸と同じ海面を使って、日本で初めての試みとなります。
これはチームニシムラプロジェクトの葉山セーリングキャンプに続く第2弾イベントで、日本丸記念財団との協力体制があって初めて実現できた歴史的イベントです。

日本丸海洋教室参加者を対象とした第1回目(10:30~12:00)と、第2回目(13:00~14:30)は順調にセーリング体験を実施しましたが、その後風が強くなって、一般からの参加者を対象とした第3回目(15:00~16:00)は残念ながら中止となりました。

イタリアのトリエステでレース参戦中の西村さんのピンチヒッターとして小池哲生さんを迎え、東京海洋大学ヨット部OBの皆さんやチームニシムラプロジェクトのメンバーのご尽力によって実現できました。皆さんのご協力に、心から感謝。

テレビ神奈川の取材も受け、12日か19日のみんなが出るテレビで放映予定。(text by Compass3号)

アドリア海遠征

2006年10月06日 | 風の旅人日乗
日本を遠く離れたアドリア海で、ラッセル・クーツ44クラスでのトレーニングやテストを通じて、セールの解析も進んでいる。

今回の遠征には、NセールのO山君も同行していて、毎日のセールの改良、情報フィードバックなど、セール・プログラムについては極めて強力な態勢で望んでいる。

写真は、コード2ジブ。シェイプ自体はかなり高度な完成度だ。一般のレース艇のセールとしてはすでに申し分ないだろう。
しかし、ラッセル・クーツ44クラスは非常にタイトなルールで規制されたワンデザイン・クラスだ。ほんの少しのセールの良し悪しがすべてスピード差として現れてくる。

トリエステの海面と日本のセール会社のデザインルームのコンピュータとが繋がって、日々情報がアップデイトされている。
久し振りに、セールに没頭することができる毎日が続いている。
楽しい。

見果てぬ夢を求めて

2006年10月05日 | 風の旅人日乗
10月5日 木曜日。

さて、今日は、舵誌の2001年12月号に掲載された、見果てぬ夢を求めて、ウォーターマンから、タイガー・エスペリ(Tiger Espere)について。彼は、1946年、オアフ島生まれ。カメハメハ大王の末裔であり、ハワイのレジェンドサーファーとして、1976年ホクレアによるタヒチ航海のクルーとしても知られ、伝統工法によるカヌービルダーの第一人者でもあった。

なお、今度の10月8日日曜日、チーム・ニシムラ・プロジェクトの活動の一環として、横浜みなとみらいの、帆船日本丸メモリアルパークで、カヌー型ディンギーによるセーリーング体験を行ないます。先日、このブログでも紹介した伝説的なセーリング・コーチの小池哲生さんや、東京海洋大学ヨット部OBの方々から、セーリングの楽しさを伝授していただきます。東京海洋大学のビートシャークジャズオーケストラによるサンセットJAZZコンサートや、ヨコハマ・シーサイド・フェスティバルとしてのイベントもイロイロありますので、気軽にお越し下さい。
詳細はこちらです。
(text by Compass3号)

----
見果てぬ夢を求めて
ウォーターマン
タイガー・エスペリ <<舵2001年12月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

日本文化に魅せられたハワイアン
ハワイ人の祖先を辿る海の旅を行なうために建造された外洋航海セーリング・カヌー〈ホクレア〉、〈マカリイ〉、〈ハワイ・ロア〉の乗組員として南太平洋に浮かぶタヒチ、イースター島などの間に広がる海を幾度も航海してきた一人のハワイ人がいる。
彼は6歳のときから波に乗り始め、サーファーとしての全盛期にはオアフ島のマカハやノースショアに立つビッグウエイブに次々と挑んだ。
彼の本名はクレムト・キカイリウラ・エスペリ。多くの人たちに親しみを込めて“タイガー”・エスペリという名で呼ばれ、ハワイではレジェンド(伝説)として語られるサーファーだ。
サーファーとして海に出るだけではなく、タイガーはパドル・カヌーにも乗って、オアフ島とモロカイ島を隔てる海峡を何度も漕ぎ渡った。外洋航海セーリング・カヌー〈ホクレア〉の計画を知るとすぐにそれに建造から加わり、ハワイ-タヒチ間をセーリングで渡った。タイガー・エスペリはサーフィンからパドル・カヌー、外洋セーリングまでをこなす、いわゆる本物の“ウォーター・マン”である。
彼はサーフィンの仕事で招待されたのをきっかけに数年前に初来日したが、日本という国と文化に強い興味を抱くようになった。鎌倉では長谷寺の観音菩薩の神々しさに魅せられ滞在中は毎日のように長谷寺に通った。
タイガーはその翌年にも再び日本を訪れ、それからは鎌倉に住むようになった。地元の人たちと親密に接し、時間があれば長谷寺に参拝した。日本の文化に積極的に近づき、タイガーは日本という国、日本人という民族にいつしか強い親近感を抱くようになっていた。
日本人の血を引くハワイアンで、ジェリー・ロペスというサーファーがいる。彼もまた、ある時代のサーフィン文化を築いた、伝説そのもののようなサーファーだ。以前その彼と話をしたときに、まるで禅問答のように思える彼の人生観に触れて驚いたことがあるが、これら伝説的なサーファーの多くがそうであるように、タイガー・エスペリもまた、波や海という大自然と日常的に接することによって世界観や自身の人生観の中にスピリチュアルなものを強く感じるようになっていた。
海を通じて地球と人間とのつながりを深く意識できることの幸せ、〈ホクレア〉や〈マカリイ〉での航海で知った自分たちの民族の誇りを持つことの素晴らしさ、自分自身のアイデンティティーを持つことができる幸福感・・・・。
海に出ることを通してこれらの喜びを知ったタイガーは、日本の人たち、日本の子供たちにもこの幸福感を是非味わって欲しいと考えるようになった。そのための手段のひとつとして自分ができることは、日本で外洋航海カヌーを造って日本各地を回り、日本の子供たちをそれに乗せてあげよう、という計画を立ち上げることではないだろうか、と彼は考えたのだ。
日本の人たちが自分たち自身のカヌーを造って海に出て、海という自然と日常的に触れることによって日本を取り巻く自然に思いを巡らせ、そして日本人という民族、その祖先に思いを馳せることができれば、自分が海で味わってきた幸せな気持ちを多くの日本人と共有できるようになるのではないか、とタイガー・エスペリは夢見た。

タヒチと日本をつなぐもの
そうと決めてからは、タイガーはあらゆる機会を見つけては自分の考えを日本人に伝えて歩いた。一般市民を中心とした草の根活動によってこの計画を実現させようと考えていた。鎌倉市役所、逗子市役所、横浜市役所、神奈川県庁に出向いて、自分の計画を説明した。いろんな市民の集まりに顔を出した。
タイガーはこれらの活動の合間に、サーフィンの雑誌に原稿を書くなどして日本での生活費をひねり出していたが、金銭的にはあまり余裕のない生活だった。情熱だけが支えだった。
そのタイガーの情熱にも関わらず、外洋航海カヌーを造る計画まったく進まなかった。タイガーが熱くなって説明すればするほど、聞いている人々の反応はタイガーの期待とは大きくズレたものになってしまう。
「パドルを漕いで太平洋を渡れるの?」
「それは一体どんなカヌー?」
「で、なんでそんなものを作るんだって?」
ハワイ人であるタイガーの口から出てくる「カヌー」という言葉からは、一般の日本人が全長60フィート以上のセーリング・カタマランをイメージすることはできない。タイガーは日本人と感動を共有できるどころか、日本人との間に横たわる言葉の文化的な壁さえも乗り越えることができないでいた。
資金も全く集まって来なかった。カヌーさえできれば寄付金が集まってくるはずだと考え、オアフ島の実家に頼んで建造資金を調達しようともしたが、これもうまくいかなかった。
タイガーにはまた、もう一つ解決すべき問題が残されていた。それは、タイガーが情熱を傾けて造ろうとしている外洋航海カヌーの名前を決めることだった。タイガー・エスペリが属するポリネシアの民族の伝統に従えば、舟は、舟が造られ始めてから名前が付けられるべきものではない。その舟が存在しなければならない理由と、その舟の名前とがまず最初にあって、然る後にその舟は造り始められるべきものなのだ。
そんなある時期、ポリネシア航海協会の仕事でタヒチに行ったとき、タイガーは自分が日本でカヌーを造ろうとしていること、その計画がなかなか前進しないで苦しんでいること、そしてそのカヌーの名前が決められないでいること、といった悩みをタヒチの老婦人に打ち明けた。彼女は、
「そんなに苦労しているのなら、タヒチで我々と一緒に造ればいいじゃないか」
と誘ってくれたが、タイガーは、自分は日本人と一緒に造りたいのだ、と力説し、その誘いを断った。
「お前は日本のどういうところに住んでるんだい?」と尋ねる老婆に、
「鎌倉という、海に面した美しい場所」だとタイガーは答えた。
彼女は古代ポリネシア語を知っていた。タイガーは彼女からKAMA’KU’RAという言葉の意味を知らされる。古代ポリネシア語でカマ・ク・ラとは、“昇る太陽の子供”という意味をなす。カマは子供、クは昇る、ラーは太陽。
タイガーはこのことに深い意味を感じた。何か強いスピリチュアルな影響を受けて自分が日本で住む場所と選んだ鎌倉は、古代ポリネシア語でも意味を持つ場所だった。カマクラという言葉は、日本では歴史的背景のある街の地名として知られ、ポリネシアに行けば、祝福を約束された子供というような意味を持つのだという。これこそが自分が造ろうとしているカヌーの名前としてふさわしい。カマ・ク・ラという名前の舟は、タイガーが考えていた、“日本で誕生する太平洋の大使”としてのこの舟の存在理由とピタリと合致するではないか。やはりこの舟は必ず造るべき舟なのだとタイガーは確信した。

世代を越えて伝える夢
人類が宇宙へ行きたいと夢見て、試行錯誤を重ね、ついには月まで行けるようになったとき、それを実現させるためには世代を越えて夢を伝えていくことが必要だった。
人類が初めて木を水に浮かべてそれに乗ることができることを知り、丸太をくりぬいてその中に乗り込み、パドルで漕ぐことを覚え、セーリングという技術を磨いて外洋に乗り出していったときにも、海に乗り出すという夢は何世代にも渡って連綿と伝えられ、そしていつしかそれが現実のものになっていったはずだ。
タイガーが考えるカマ・ク・ラもまた、世代から世代へと夢をバトンタッチしていく計画になるべきのものだ。焦ってはいけない、この国の子供たちに夢を与えるために誕生する<カマ・ク・ラ>というカヌー(舟)は必ず海に浮かぶ、タイガーはそう信じている。
将来に不安を抱き、自分の未来に夢を持つことすら出来ない若者たちが増え、その若者たちの悩みに明確な答えを出してあげることはおろか、ヒントさえ提示できないでいる大人たちであふれる現代の日本だが、自分の考えを伝えようと歩き始めた4年前に比べると、現在の日本人たちが「自分たち日本人は一体どこから来て、どこに行こうとしているのか」という問いの答えをより強く求めるようになっている、とタイガーは感じている。

今、タイガーはひとりではない。タイガーの考えを知った人たちの中から、サーファー、シーカヤッカー、セーラーといった“日本の海の民”たちが、タイガーの応援に加わり始めている。また、メディアを職業とする人たちの中にも、そのプロとしての感覚から、タイガーが説く計画の意義の深さや大きさを敏感に察知して、この計画を積極的に支援すべきだと考える人々が増えてきている。
そしてタイガーは、この「カマ・ク・ラ」計画は日本人が中心になって進めてこそ意義があるという考えから、自分が立ち上げて何年も続けてきたこの活動のリーダーを日本人に譲り、そのリーダーを横で支援する立場を選んだ。

今年9月には東京で「カマ・ク・ラ」プログラム応援団が結成され、多くの寄付金が集まった。雑誌でこの計画を知って寄付金を送金してきた人たちもいる。〈カマ・ク・ラ〉を建造するための資金はまだまだ集まらないが、草の根運動でこの計画を進めるというタイガーの考えは、徐々に徐々にではあるが実現しつつあるように見える。
〈カマ・ク・ラ〉は誰か個人が所有するものでもなければ、どこかの組織に属するものでもない。〈カマ・ク・ラ〉は日本人みんなのもの、もしかしたら太平洋に住む人たちみんなのもの、更にもしかしたら人類みんなのものになるべきものだ。タイガー・エスペリはそう考えている。

砂漠のナヴィゲーター、星の航海師に出会う。

2006年10月04日 | 風の旅人日乗
10月4日 水曜日。

舵誌の2001年6月号に掲載された、風の旅人たち、ヨットレース人生列伝-3から。
82年から8回ものパリ・ダカール・ラリーに出場し、現在は、日本有数のシーカヤッカーであり、海洋ジャーナリストでもある内田正洋さんの豪快な人生列伝。(text by Compass3号)

----
風の旅人たち <<舵2001年6月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

ヨットレース人生列伝-3

砂漠から、海へ。
今回このページに登場するのは、過去2回とは少し毛色の違う人物だ。
内田正洋。シーカヤッカーとして、国内国外を問わずシーカヤック愛好者の人たちの間ではかなり高名な人物だ。
この人はとーっても面白い。
ヨット関係の人たちにはこの人物との接点が今のところほとんどないと思われるので、このページを借りて、このエッセイを読んでくださるセーラーの人たちに彼のことを少し紹介しておきたいと思う。

九州で生まれた内田正洋は高校時代にラグビーで全国大会を戦い、大学ではカッター部に入って東京湾でカッターを漕ぎまくったあと、テレビの海外ドキュメンタリー番組製作チームに取材で使う車のドライバーを派遣する会社に入る。
その会社の仕事で、故・開高健氏の「オーパ!」などの撮影でアメリカ、カナダ、メキシコを8万キロほど走破したあと、中東の砂漠へ向かい、イラン・イラク戦争の勃発に遭遇してビックリすることになったが、ビックリしているだけでなくちゃんと戦争勃発のスクープ映像も撮って日本に送り、ジャーナリストとしての仕事にも目覚める。
仕事を通して、砂漠を旅することにすっかり虜になってしまい、始まってまだ3年めだった「パリ・ダカール・ラリー」に取材も兼ねてナヴィゲーターとしてトヨタのカリーナで出場する。初出場なのにクラス、2輪駆動クラス、マラソンクラスの3部門で優勝。
以後、ある年のレースでは鼻がもげ(取れた鼻を拾って自分でくっつけたらしい。なので、ちょっとゆがんでいるが今も鼻は付いている)、ある年は松任谷由美と共同プロジェクトを組んだりして、6年連続、計8回もナヴィゲーター兼カメラマン兼ジャーナリストとしてパリダカに参加し続ける。ついでにパリダカの映画も作り、その映画はロードショー公開された。三菱パジェロの篠塚建次郎が参入し、日本でパリダカが知られるようになる以前のことだ。「砂漠を旅する」という行為が最初にあってその過程がレースになる、そんな初期のパリダカに夢中になってしまった。
しかし、メジャーなイベントになるにつれてパリダカのレースルールが変わっていき、プライベートで参加するチームが、勝つことはおろか完走することも難しくなってしまったことを機にパリダカを卒業することにし、メキシコのバハ・カリフォルニアで行われている砂漠ラリー「バハ1000」にオートバイで出場するようになる。1000マイルの砂漠を1日で走り切るという、すごいレースだ。
バハ1000を走った後、そのまま南米最南端のフェゴ島までオートバイで走り、その後南米大陸を一周するトランス・アマゾン・ラリーエイドに参加、ついでにそのラリーも取材する。
バハ1000に参加した頃にシーカヤックを知った。その当時、ラリーに出てくるバイク乗りの多くがシーカヤックもやっていて、彼らの影響だ。日本では、野田知佑氏の名前がカヌーイストとして知られるようになった時代。
その頃に知り合ったアメリカ人のニック・ギレットという男が、カリフォルニアのモントレーからハワイ・マウイ島までの太平洋をシーカヤックで、サポートボートも付けない単独行で62日間かけて漕ぎ渡ったことを知って驚き、パリダカよりもシーカヤックのほうが凄いのではないか、と思った。こんな小さな舟で太平洋を渡ることができるなんて! 
日大農獣医学部水産学科で漁業を専攻した男の、海への思いが、シーカヤックによって久しぶりに頭をもたげてきていた。
1991年、内田にとって最後のパリダカに出たあと、その年のうちにシーカヤックで台湾から九州までの海を漕いだ。
翌年には、今度は西表島を出発して東京湾までシーカヤックで漕ぎ上がる。ついでにその年は、陸上でもパリ-北京ラリーに参加する。さらにその翌年には、フジテレビの「グレートジャーニー」で知られる探検家・関野吉晴氏をサポートして南米南端のマゼラン海峡をシーカヤックで横断した。
興味と活動の場は、シーカヤックを知ったことで砂漠の旅から海の旅へと移っていった。

砂漠のナヴィゲーター、星の航海師に出会う。
内田は1996年に外洋ヨットを知る。
故・南波誠がやっていた<海丸>日本一周キャンペーンにゲストクルーとして招待され、九州から沖縄までのレグに乗った。
そんな縁もあって、南波が日本への輸入を始めたアメリカ産のディンギー「エスケープ」の担当を手伝うことになった。そんなふうに内田と南波との交流が深まっていき、2000年のアメリカズカップには自分自身がシンジケートを立ち上げて参加しようと計画していた南波に、「内田、ナヴィゲーターとしてアメリカズカップに出えへんか?」と誘われるまでになった。
砂漠を走るパリダカで活躍したナヴィゲーターが、今度は海でアメリカズカップのナヴィゲーターとなることが現実味を帯び始めていた。
そこにあの、南波の落水事故が起きた。
南波を失い、内田はすっかり落ち込んでしまう。
そんなときに、相模湾を見下ろす丘の斜面にある内田さんの家に突然やってきたのが、ハワイ人のナイノア・トンプソンという男だった。
ナイノア・トンプソンのことを知らない人のためにここで少し説明を加える。
ナイノア・トンプソンは地元ハワイでは、古代外洋セーリングカヌーに乗ってポリネシアの古代航法を継承している男として広く知られ、“ザ・ナヴィゲーター”と呼ばれている英雄だ。彼は星の位置関係、うねりの形、海の水温などによるポリネシア古代航法だけを頼りに、一切の航海用具を使わずにハワイ、タヒチ、イースター島の間に広がる太平洋を自由自在に航海することができる。
日本では『ガイア・シンフォニー』という映画でこのナイノア・トンプソンと古代セーリングカヌー〈ホクレア〉のことを知った人もいるかもしれないし、ナイノアを紹介した星川淳氏著の『星の航海師』という本で彼のことを知った人もいることだろう。
先の〈えひめ丸〉事故のとき、現地のハワイ人社会は日本人社会に対して深い哀悼の意を表すために、彼らの伝統のカヌー〈ホクレア〉で現場海域まで出向き、古式に則って追悼の儀式を行なった。
〈ホクレア〉はハワイ人にとって特別な意味を持つ外洋セーリングカヌーだ。ハワイ人の手で造り、ハワイ人の手で大航海を成功させたことで、ハワイ人の祖先の能力を知り、若い世代が失いつつあったハワイ人であることの誇りを思い出させてくれたカヌーだ。その〈ホクレア〉のナヴィゲーターがナイノア・トンプソンである。
ナイノアが内田のもとを訪れたのは、〈ホクレア〉で日本を訪れたいという彼の計画を相談するためだった。
内田は唐突なその相談に乗っているうちに、南波の死で見失いつつあった自分の次の目標はこれなのかもしれないと思うようになった。
ナイノアを通して、タイガー・エスペリというハワイ人も知ることになる。タイガーはハワイではレジェンドとして語られるサーファーだが、〈ホクレア〉のクルーとしてポリネシア圏の太平洋を航海した後、次は日本で“日本のカヌー”を日本人と一緒に造り、そのカヌーに日本の子供たちを乗せてあげたいと考え、鎌倉に移り住んでいた。カヌーという言葉は、現代の日本人が一般にイメージする意味とは違い、ハワイやポリネシアでは漕いだりセーリングしたりする船全般をさす。少し前まで八丈島では船のことをカノーと言っていたが、それと同じような意味だ。
経済活動ばかりに興味を持ち、経済で勝つことそのものが唯一の価値観であるようなこの国のほとんどの人間から見ると、つまらないことに情熱を傾ける人たちがいるものだという感覚かもしれないが、内田はこういった活動に身を削る人間に何か、不思議な魅力を感じ取った。ハワイ人であるタイガーが、日本の子供たちに夢を与えようとしているのに、日本人である自分がそれを手伝わないわけにはいかないじゃないか、と思うようになった。
太平洋を渡ってハワイから日本を訪問する〈ホクレア〉を、これから造ろうとしている日本式カヌー〈カマクラ〉で出迎える。そして、数年後には〈カマクラ〉で育った日本人ナヴィゲーターとセーラーが自分たちの力で太平洋に乗り出す、内田はこんな計画を立てている。
かつてオートバイに乗って大陸の風を切り裂いていた砂漠の旅人は今、古代から吹き続ける風を使って太平洋を自由に行き来してきた海の旅人たちの仲間に入る日を夢見て、その準備に精を出している。

トリエステ

2006年10月03日 | 風の旅人日乗
10月3日。

ラッセル・クーツ44クラスに乗って、アドリア海でのセーリングが続いている。
初めての艇、初めてのクラス、初めてのチーム、と初物が重なっている割には、なんとかうまく準備が進んでいる、といったところ。
次回のレースは、もっとスムーズに準備を進めることができると思う。

このクラスを自分自身で企画し、艇も自分でデザインしたラッセルも、いろんな準備、不都合に対処しつつ、スポンサーやマスコミにも笑顔で対応しなければならないので、とても大変そうだ。

昨日はマストのセッティングその他について2人で船内に潜り込んで話をする時間があったが、そのときの真剣な顔と、一旦外に出てマスコミに対応しているときの笑顔のギャップが印象的だった。
セーリング界を代表するスター選手ともなれば、そのあたりの部分にも注意深く気を巡らせなければならないのだろう。

夕方は、参加艇数隻のクルーたちが集まってデッキの上でパーティーが開かれた。
それぞれレース準備に忙しい中、ほんのわずかな息抜きだったが、とても楽しい時間だった。

ポルトロッシュからトリエステ、1時間のセーリング

2006年10月02日 | 風の旅人日乗
10月1日 日曜日。

スロベニアのポルトロッシュから、イタリアのトリエステへ、セーリングで移動。
2カ国間に渡るセーリングだが、大きな事業ではない。わずか、1時間のセーリング。
トリエステは、JTBのイタリアのパンフレットにも出てないし、『地球の歩き方』でさえ2ページしか紹介されてない都市だ。でもここは実際のところ、すごく趣のある都市だという印象を受けました。

かつてオーストリアにも属したこともあるこの港町は、ローマ時代から交通の要衝として栄え、街中の建物の多くは、1800年代に建造されたものが多く、建築とか工業デザインの知識や素養のまったくないぼくにとってさえ、歴史の重さを感じ、ドキドキするような感動を覚える建築物が、市内の中心に集まっています。なんというか、ウーン、街そのものが芸術品のようなのだよ。
こういう街をはずすとは、JTBも勉強不足だね。ベニスからわずか数十キロのところにある街。だけど日本人は一人も見ないし、日本料理やさんもない。

このトリエステで、明後日から始まるレースでいい成績をとるために、一生懸命練習しています。

浜名湖小池哲生塾

2006年10月01日 | 風の旅人日乗
10月1日 日曜日。

今から5年前にタイムスリップして、その当時のヨット専門誌の舵誌に掲載された記事から順次紹介していこうと思います。まずは、2001年5月号に掲載された、風の旅人たち、ヨットレース人生列伝-2から。
小池哲生さんのヨットレース人生列伝。(text by Compass3号)

----
風の旅人たち <<舵2001年5月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

ヨットレース人生列伝-2

浜名湖小池哲生塾
ある年の全国少年少女ヨット大会。
子供たちを対象にしたセーリングスクール“浜名湖ヨットシステムJFP”をその1年前に設立し、そこで自らコーチを務めていた小池哲生は場内放送で審問室に呼ばれた。
「君のところの選手が、上マークに接触したのにマークを回り直さないでそのまま行ってしまった。君は子供にたちに一体何を教えているのかね」
審判員がいきなり頭ごなしに言う。
小池はこう答えた。
「子供たちにはヨットレースのルールはちゃんと教えています。その子がマークタッチをしてないと言うのなら、彼のコーチである自分は彼を信じます」
何分かの押し問答があり、名もないフリートの人間が何を言うか、というひどい扱いを小池は受けた。
その大会から浜名湖に戻る帰り道、小池は2度とこの大会には出ないこと、子供たちがレース海面で悔しい思いをしなくてもいいように、彼らにセーリングの真の実力を身に付けさせる、という決意を自分の胸に刻んだ。子供たちには、世界の海を目指すことを自分たちの合い言葉にしよう、と提案した。それが、小池哲生とその教え子たちの、ある意味での出発点だった。
小池哲生はそれから時を経ずして、河辺 健自、東 慎二、山田 閏、寛、真の3兄弟、川西 立人、横井 健太郎、小林 正季、竹本 さやか、といった日本を代表するキラ星のようなジュニアセーラーたちを育てあげた。
彼らはミニホッパー全日本などのタイトルを次から次に奪い、IYRUユースワールドやジュニア470ワールドの日本代表選手として、浜名湖の小池塾“浜名湖ヨットシステムJFP”から8年間連続して世界の海へ羽ばたいた。

小池哲生は20歳の時に初めて知人のヨットで浜名湖から勇躍遠州灘に乗り出した。しかし、なんと船酔いに苦しめられ、セーリングというものが一体何が何だか分からないまま最初のクルージングを終えた。
それが悔しくて、すぐに地元のディンギー・クラブに入り、しばらくしてレーザーを買った。週末はヨットを自由に操ることができるようになることに没頭し、自分でも訳が分からないまま、セーリングに長けることに若い情熱を注ぎ込んだ。
人に教えることもセーリングが上手くなるための近道だと考えてヤマハ発動機が主宰していたヨット教室のコーチに応募して就任したが、1年後にヤマハ発動機がジュニアヨットスクールを始めると、そちらのヘッドコーチになった。学連のヨット部の学生たちもアルバイトでコーチをやっていたので、彼らとセーリングをすることも刺激になった。
週末のスクールのコーチ業だけでは到底食べていけないので、当時次から次にヨットを開発・発表していたヤマハ発動機の実験課のアルバイトとして、ウイークデイはディンギーやクルーザーの開発・耐久試験にたずさわった。
小池哲生にとってヨットの開発・耐久試験は、セーリングのメカニズムを科学的に知る場でもあり、ヤマハ発動機に所属する小松一憲などのトップセーラーたちからセーリングの技術を学ぶ場所でもあった。小池が開発・耐久試験に関わった艇種は、シーマーチン、シースパイダー、シーラーク、シーファルコン、ヤマハ21、ヤマハ30などなど数知れない。小池哲生は、ウイークデイはヤマハ発動機のテストライダーとして、週末はジュニアのヘッドコーチとして、浜名湖をセーリングで縦横無尽に走り回った。
初めてセーリングを知ってから6年後の1981年、小池哲生はシーホッパーに乗って全日本選手権、関東選手権、九州選手権の3大会で優勝をさらった。
その頃の小池は、自分自身のセーリングがうまくなること、そしてそれを通じて自分が学んだことをジュニアヨットスクールの子供たちに伝えることだけを考えて生きていた。
自分でセーリングすることそのものも楽しかったが、自分がセーリングを通じて学んだこと、感じたことを子供たちに伝えることも、小池にとって同じくらい楽しいことでもあった。
しかし、ヤマハのジュニアヨットスクールに通ってくる小学生や中学生たちは、高校受験を機にセーリングから離れていってしまうのが通例で、小池はそれをなんとももったいないことだと感じていた。そして、高校生や社会人になっても目指すことの出来る、一貫した目標を設定することができて、気軽にセーリングに出られる場所や環境があれば、子供たちは高校生になってもセーリングを続けることができるのではないか、と考え始めるようになっていた。
また、ヤマハのジュニアヨットスクールの子供たちが参加していたレースは1年に1度のジュニア・ジャンボリーだけで、その他の大会にも子供たちを連れて参加したいとも思っていた。
子供たちが高校生になってもセーリングを続けられるための環境を自分の手で作ろうと、小池哲生は思い始めていた。
ウイークデイの浜名湖で、試作艇のテストの時間を利用して、小池はそのためのベースとなるのに適した場所を、セーリングしながらくまなく探した。浜名湖では60%の確率で強い西風が吹くので、その風が直接当たらない西側の海岸を重点的に調べた。
そうして、ある企業が所有し、ほとんど使っていない保養施設を探し出した。そこは浜名湖の北西岸で、その西側を小さな湾で守られており、強風の日にも出艇できる立地条件を備えていた。
小池はすぐにその施設を所有する会社に出向いて社長に直談判し、地元の子供たちにセーリングを続けさせるための環境作りの構想を熱心に説いた。その経営者は、小池哲生の熱意にほだされた形で、いい条件でその保養所を小池のジュニアヨットスクールに貸すことに同意した。小池塾“浜名湖ヨットシステムJFP”の始動である。

小池哲生流コーチ哲学
施設を安く借りることができたものの、小池の掲げた理想が、「子供たちが気軽にセーリングに親しむ環境」だったため、会費を高く設定することは志に反する。平均して常時6~8人ぐらいの子供が通っていたが、彼らの会費から合宿所の家賃や艇の修理などの維持費を差し引くと、後には何も残らなかった。小池のコーチ料もないし、手伝いに来てくれるコーチたちもボランティアだった。
自分のセーリングスクールを開校してからも、小池はヤマハの開発・耐久試験担当セーラーとしてのアルバイトでなんとか生活費を稼いだ。しかし小池は幸せだった。
小池哲生は、ジュニアのセーリングのコーチとしてできる最良のことは、子供たちになるべく多くのチャンスを与えることだと信じている。
あるとき、自分の教え子である子供たちのセーリングを見ていた小池は、自分とまったく同じスタイルでセーリングしている子供たちがいることに気が付く。
自分以上のセーラーになるためにはそれでは不十分だと小池は考えた。
そこで小池は積極的にいろいろなコーチやセーラーを自分のセーリングスクールに招くようにした。子供たちがセーリングをあらゆる角度から知ることができるように、ある側面は自分から、別の側面を別のコーチから、また別の側面を別のセーラーから教わることができるように、という考えからだ。だから、浜名湖の小池塾に集まる様々なセーラーたちによって、自分が預かった子供たちは育てられたのだと、小池は感謝している。
子供たちにいろいろなチャンスを与えることが、ジュニアのセーリングのコーチとして目指すべき方向だと考える小池は、あらゆる局面で子供たちが自分自身の状況判断で対応できるように教えていくことが大切だと考えている。
例えば沖で風が吹きあがってきた時、
急いでハーバーに帰る
島影に避難する
通りかかった船に救助を頼む
船につかまって待つ
自分が陥った状況に応じていくつの選択肢を持つことが出来るか、そして完璧な正解などないかもしれない海の上で、どの選択肢が最も正解に近いのかを自分自身で判断すること、そんなことを小池は子供たちに注意深く教えてきたつもりだ。
そんなふうに育てられた子供たちは、いつの間にか強風を好むようになった。浜名湖特有の北西風が強く吹き始めると、それまで風待ちで勉強などをさせられていた子供たちが「ワーイ、ワーイ、風だ、風だ、」と言いながら勝手に出艇しようとし、コーチボートの準備が出来てなかった小池哲生が「ちょっと待った、待った!」と水際で必死で食い止めている光景を、ぼくは二度ほど目にしたことがある。
また、ヨットレースで勝つことにこだわる前に、つまりハイクアウトやセールトリムやタクティクスを覚えるよりも前に、ヨットに乗りながら、
あ、飛魚が飛んでる!
波の向こうに何かいたけど、なんだろう?
あ、いま風が降りてきた、
そんなことを感じる子供に育って欲しい、そう願って小池は子供たちを教えてきた。

小池哲生が主宰する“浜名湖ヨットシステムJFP”は、現在休業状態だ。子供たちが海で遊ばなくなり、浜名湖でセーリングをやろうとする少年少女が激減してしまったのが原因だ。
それでも小池は今でもその施設を借り続けている。年3回、山形県のべにばなセーリングチームが小池を頼ってそこで合宿をするためにやってくる。小池哲生は山形べにばな国体の時にコーチ兼選手として山形県人になったことがあり、その縁が今でも続いているのだ。
ヨーロッパ級でセーリングを覚えたばかりの頃の、高知県の名倉 海子も小池を訪ねて浜名湖にやってきて、海外遠征前にここで合宿を組んだ。
昨年の470全日本で念願の優勝を果たしたヤマハ発動機の高木克也も、スランプに陥るとここにやってきて小池から個人レッスンを受け、そういった努力をついに結果に結びつけた。

小池は現在ヤマハ発動機の嘱託として、新艇の耐久テストや実験に取り組んでいる。もっとも、今やヤマハ発動機はヨット造りから手を引いてしまい、小池が担当しているのは、もっぱら釣りの人たちに人気のある小型パワーボートのテストだ。この分野でも経験が豊富で勉強熱心な小池は全力でこの仕事に立ち向かっている。
確かに多少型破りのアウトローとして生きてはきたが、子供たちにセーリングの面白さを伝える伝道師として、これほど実績があり、また結果を出してきたコーチが、その本来の能力を発揮する場所がないことに、僕個人は非常な違和感を持っている。
小池哲生は、自分自身の小池塾で、いつの日かまた子供たちに海やセーリングを伝えたいと考えている。