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心のたねを言の葉として

水俣病が発生した頃                 関川宗英

2023-05-06 17:05:47 | 水俣
水俣病が発生した頃
                              関川宗英
 
 「5月1日」は水俣病が公式に確認された日である。
 1956年のことだから、今から67年も前のことになる。
 しかし、水俣病は終わっていない。
 2023年の今も水俣病の認定申請者は1500人近くいる。大阪地裁、熊本地裁の裁判も続いている。(https://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/20230105/5000017920.html)
 
 水俣病発生から70年にもなるというのに、苦しんでいる人がいる。裁判で国や熊本県の責任が明確になっても、被害者認定の地域を限定し、認定基準の厳しさは変わっていない。そして、国は救済法で定めた健康調査を一度も実施していない。
 
 水俣病は、辺境の村の、経済的に貧しい人々の体に現れた。
 それは、イタイイタイ病や新潟水俣病などの公害病も同じだ。
 1950年以降次々に現れる公害病は、日本の高度経済成長の陰で発生したものである。経済最優先の、大企業を中心とした国づくり、戦後的な豊かさの追求が産んだ化け物である。
 
 
 
 
 
 
 2015年に発表された衆議院調査局環境調査の「水俣病問題の概要*」では、次のように報告されている。
 
チッソ附属病院の細川一院長は同年5月1日、「原因不明の脳症状を呈する患者4人が入院した」との報告を水俣保健所(伊藤蓮雄所長)に行った。この日が水俣病の公式確認の日とされている。
 
水俣病問題の概要*:https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/shiryo/kankyou_201506_minamata.pdf/$File/kankyou_201506_minamata.pdf
 
 
 
 当時、水俣のチッソ附属病院には、5歳と2歳の姉妹が原因不明の神経障害で入院していた。そのとき、他の患者の報告も受けて、上記のような保健所への報告になったそうだ。
 
 細川一院長は、この年の8月29日、厚生省に報告書を提出している。その内容は『苦界浄土 ―わが水俣病』(石牟礼道子 講談社文庫版)で読むことができる。細川一院長の報告書の「一、緒言」は次のように記述されている。
 
 昭和二十九年から当地方において散発的に発生した四肢の痙性失調麻痺と言語障害を主症状とする原因不明の疾患に遭遇した。ところが本年四月から左記同様の患者が多数発見され、特に月の浦、湯堂地区に濃厚に発生し而も同一家族内に数名の患者のあることを知った。なお発生地区の猫の大多数は痙攣を起して死亡したとのことである。よって只今までに調査して約三十例を得たのでその概要を記述する。(『苦界浄土 ―わが水俣病』p-30)
 
 
 
 
 
 しかし、水俣の奇病はこの1956年5月に突然発生したのではない。水俣病は人の体の前に、海に異変をもたらしていた。漁師たちは、魚が以前のように獲れなくなってきていることを感じていた。
 
 水俣の海は、リアス式海岸の豊かな漁場だった。「魚湧く海」と呼ばれていたという。『苦界浄土』に、豊漁のボラに湧きたつ漁師たちの場面がある。
 
 ボラが、かかり出すときは一人では間に合わない。家族じゅうが食事をとる間もないほどつぎつぎに引くから、糸で指の関節が切れるほどにかかってくるのである。
 籠でやるときも、入りのいいときは、半径一メートルぐらいの金網の中に、どうして入ったかと笑い出したいほど、ボラたちは、押しあいへしあいして、ぎっしりとつまり込んでいるのだった。それはそっくり、「銭」にみえるのである。(p-74)
 
 
 このように豊かだった水俣の海で、魚が獲れなくなってきた。工場の排水口の近くでは魚の姿がなくなり、船の底に藤壺がつかなくなってきたという。この頃の漁獲高は、漁業組合のデータによれば、1950-53 年の平均 459,225kgから 1955 年には172,305kg、1956 年には 95,599kgに落ち込んでいる。
(http://www.okayama-.ac.jp/user/envepi/dl/Late_lessons_Vol_2_130510.pdf)
 
 
 水俣の海は明らかに変わってきていた。太刀魚やクロダイなどの魚が弱って海面に浮き上がるようになった。そして、アサリやカキなどの貝の死滅が広がり、海浜には腐敗臭が鼻を突くようになった。この話は昭和27,28年ごろ(1952、53年ごろ)のことだそうだ。太平洋戦争の敗戦から7年後、朝鮮戦争のおかげで戦争特需が日本にもたらされた戦後復興の時期に当たる。
 魚や貝の異臭が鼻を突くようになっていた水俣湾では、チッソ水俣工場から廃水が流されていた。工場の排水口のある百間港では数メートルのヘドロが堆積していたそうだ。
 
 
 海の異常は、海辺近くの動物の奇病となって表れる。カラスが落ちたり、猫が狂い死ぬようになる。このあたりの経緯は、写真集『MINAMATA』(2021年版)に収められている「水俣病 歴史と解説」(斎藤靖史)に、次のように書かれている。
 
 続いて、汚染された魚介類を食べる動物に被害が現れた。海辺のカラスは飛べなくなり、海に落ち、岩に衝突した。ネコはもつれた足で狂ったように走り回り、海やかまどに飛び込んで狂死し「猫踊り病」と言われた。1954年8月、「猫てんかんで全滅」と水俣市茂道集落でのネコの狂死を伝えた熊本日日新聞の記事が、異変を伝えた初めての報道だった。(「水俣病 歴史と解説」斎藤靖史)
 
 動物の異常は、ついに人の奇病へとつながっていく。石牟礼道子は『花びら供養』に書いている。
 
 漁村地帯の猫の鼻は「赤むけ」になっているそうだという噂がまず広がった。鼻を地面につけて逆立ちし、ギリギリまわり、海に突進して死ぬとは、どういうことかとわたしの家でも話し合っていた。猫をくれといわれてもさしあげる気になれず、わたしは噂のある村落へ出かけることにした。ある家の前に、おじいさんがいらっしゃって孫の守をされていた。見なれない漁具がいろいろ干してあった。その漁具のことをおたずねしているうちに、猫の話になった。「じつは、うちでも猫が次々死んで困っとる」と、おじいさんはおっしゃった。あんたはどこから来たのかと逆質問され、「じつは、人間も狂い死にしよると」とおっしゃったのである。(『花びら供養』石牟礼道子)
 
 このように魚の死、猫の狂い死に、人の奇病と深刻な公害病はひろがっていくのだが、そもそも海が有機水銀に汚染されたことが原因である。1950年代の水俣の海には数メートルのヘドロが堆積していたという。チッソの工場から海へ捨てられる廃水とはどのようなものだったのだろうか。『苦界浄土』には、「網の目にベットリとついてくるドベは、青みがかった暗褐色で、鼻を刺す特有の、強い異臭を放った」(p-75)とある。そして、漁師の言葉が次のように続く。
 
 そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。漁師ならだれでん見とるけん。百間の排水口からですな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座ぶとんくらいの大きさになって、流れてくる。そして、はだか瀬の方さね、流れてゆく。あんたもうクシャミのでて。
 はだか瀬ちゅうて、水俣湾に出入りする潮の道が、恋路島と、坊主ガ半島の間に通っとる。その潮の道さね、ぷかぷか浮いてゆくとですたい。その道筋で、魚どんが、そげんしたふうに泳ぎよったな。そして、その油のごたる塊りが、鉾突きしよる肩やら、手やらにひっつくんですどが。何ちゅうか、きちゃきちゃするような、そいつがひっついたところの皮膚が、ちょろりとむけそうな、気色の悪かりよったばい、あれがひっつくと。急いで、じゃなかところの海水ばすくうて、洗いよりましたナ。昼は見よらんだった。
 何日目ごしかに、一定の間ばおいて、そいつが流れてきよりましたナ。はい、漁師はだれでん見とる。それがきまって夜漁りのときばっかり。(p-76)
 
 
 夜になると流れてくる、座蒲団くらいのそいつ。赤や青の原色の、鼻を刺すような異臭を放つドベ。皮膚につけば皮が剝けてしまう、油の塊。そんな気色の悪いものが、水俣の海をじわじわと汚染し続けていた。
 石牟礼道子は、狂い死ぬ人の様子も書いている。さつきという、28歳の女性である。
 
 おとろしか。おもいだそうごたなか。人間じゃなかごたる死に方したばい、さつきは。わたしはまる一ヵ月、ひとめも眠らんじゃったばい。九平と、さつきと、わたしと、誰が一番に死ぬじゃろうと思うとった。いちばん丈夫とおもうとったさつきがやられました。白浜の避病院に入れられて。あそこに入れられればすぐ先に火葬場はあるし。避病院から先はもう娑婆じゃなか。今日もまだ死んどらんのじゃろか。そげんおもいよった。上で、寝台の上にさつきがおります。ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死にぎわのごたった。ふくいく肥えた娘でしたて。九平も下の方でそげんします。はじめ九平が死ぬかと思うて。わたしもひとめもねらんし。目もみえん、耳もきこえん、ものもいいきらん、食べきらん。人間じゃなかごたる声で泣いて、はねくりかえります。ああもう死んで、いま三人とも地獄におっとじゃろかいねえ、とおもいよりました。いつ死んだけ? ここはもう地獄じゃろと—―。部落じゃ騒動でしたばい。井戸調べにきたり、味噌ガメ調べたり、寒漬大根も調べなはった。消毒ばなあ、何人もきてしなはった。(p-41)
 
 これは母親の聞き書きだが、以下の医師の報告(「熊本医学会雑誌」1957年1月)の無機質な文章は、若い女性の最期をますます哀れなものにしている。
 
 現病歴・三十一年七月十三日、両側の第二、三、四指にしびれ感を自覚し、十五日には口唇がしびれ耳が遠くなった。十八日には草履がうまくはけず歩行が失調性となった。またその頃から言語障碍が現われ、手指震顫を見、時にChorea様の不随意運動が認められた。八月に入ると歩行困難が起り、七日水俣市白浜病院(伝染病院)に入院したが、入院翌日よりChorea様運動が激しく更にBallismus様運動が加わり時に犬吠様の叫声を発して全くの狂躁状態となった。睡眠薬を投与すると就眠する様であるが、四肢の不随意運動は停止しない。上記の症状が二十六日頃まで続いたが食物を摂取しないために全身の衰弱が顕著となり、不随意運動はかえって幾分緩徐となって同月当科に入院した。なお発病以来発熱は見られなかったが、二十六日より三十八度台の熱が続いている。(略)
 入院経過・入院翌日より鼻腔栄養を開始、三十一日は入院当日同様の不随意運動を続けていたが、九月一日になると運動が鎮まりかえって減弱し四肢に触れても反応を示さなくなった。体温39、脈拍数122、呼吸数33で一般状態は悪化した。翌二日午前二時頃再び不随意運動が始まり狂躁状態となって叫声を発しこれを繰り返すに至ったが、フェルバビタールの注射により午前十時頃より鎮まり睡眠に入った。午後十時に呼吸数56、脈拍数120、血圧70/60㎜Hgとなり翌日午前三時三十五分死亡した。(p-45)
 
 
 
 
 
 
 チッソ病院の院長だった細川一は、「原因不明の脳症状」について、1956年5月1日に保健所に報告した。
 その後すぐに、「水俣市奇病対策委員会」が発足している。委員会の構成は、水俣市、地元医師会、水俣保健所、チッソ附属病院、市立病院の五者である。
 そして、水俣で奇病の実態調査が始まった。その結果、1956年の年末までに、54人の患者が確認されている。そのうち、17人は既に死亡していたことが判明する。先に引用した八月二十九日の厚生省への報告では「患者30名、死亡11名」とあるので、奇病の急激な広がり(あるいは既に奇病が広がっていたこと)に慄然とする。
 
 1959年7月22日、熊本大学研究班は、「有機水銀が原因ではないか」と発表。
 
 1959年10月7日、細川一は、チッソ工場の廃液により猫が水俣病を発症したこと(猫400号)を確認。
 
 しかし、チッソは猫400号の事実を隠ぺいし、会社社長はチッソ工場が扱っているのは「無機水銀」などと発言して、有害なアセトアルデヒド生産を止めることはなかった。
 国も熊本県も水俣病の疑いに対して、規制することはなかった。
 
 日本は、「戦後」を脱出し、高度経済成長を実現しつつあった。有害な廃水の危険を指摘されても、工場を止めることはしなかったのである。
 
 
 
 
 
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