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心のたねを言の葉として

「ドキュメンタリー映画はフィクションだ」 『ダーウィンの悪夢』その後6 最終回   関川宗英

2020-02-21 09:48:37 | ダーウィンの悪夢

「ドキュメンタリー映画はフィクションだ」 『ダーウィンの悪夢』その後6 最終回   関川宗英

 

 

 

「ドキュメンタリーとは事実と真実の集積ではなくて、あくまで作る側の意図によって再構成されたフィクションである」(『ドキュメンタリーは嘘をつく』 森達也 2005年 草思社)


 「ドキュメンタリーに真実はない」、森達也氏が書いている言葉だ。さらに、
 「ドキュメンタリーというのは、作り手の主観を基に現実を再構築したものだ。そのなかに作り手の世界観が現れ、現実世界のひとつの見方が表現される。それがドキュメンタリーの面白みであり、醍醐味である。」
 と書いている。ドキュメンタリー映画とはいえ、作り手の主観から逃れられない。ドキュメンタリー映画に、客観性や公正さを求めることの不毛さをはっきりと書いている。

  森達也氏の言葉はやや過激な印象を受けるが、ドキュメンタリー映画を観る時の基本的なことだろう。


 「ドキュメンタリー映画の父」と言われているロバート・フラハティの代表作に、『極北の怪異』(1922年)という映画ある。北極圏に住むイヌイット族の生活を描いたドキュメンタリー映画だ。
 私はこの映画は未見だが、次のような話を聞いたことがある。
 この映画の作られたころは、まだフィルムの感度が悪く、逆光のカメラポジションなどの撮影は難しかったそうだ。そこでフラハティは現地に現像設備を運び込み、撮影後すぐに現像して、撮りたてのフィルムをイヌイット族の人たちに見せた。するとイヌイットの人たちはたちまち「どう動けば、どう映る」ということを理解し、フラハティら撮影クルーに協力したという。つまり、このドキュメンタリーの中のかなりの数のショットは、このようにして撮られた。
 つまり、「演出」によって映画は作られていたことになる。
 さてこのように作られた『極北の怪異』は、ドキュメンタリーと言えるのか。それは見る人によって変わってくるだろう。「演出」が映画の客観性を失わせると非難する人もあれば、たとえ「演出」の要素があったとしてもイヌイットの人たちの真実の姿を感じる人もいるだろう。


 森達也氏は『ドキュメンタリーは嘘をつく』のなかで、次のようにも書いている。

 ドキュメンタリーとは事実の客観的記録である―ほんとうにそうなのだろうか?すべての映像は、じつは撮る側の主観や作為から逃れることができない。ドキュメンタリーを事実の記録とみなす素朴で無自覚な幻想からは、豊かな表現行為は生まれようがない。

 

 ドキュメンタリ―映画を事実の記録とみなす素朴で無自覚な幻想。それはかつてプロパガンダ映画が多くの人々を熱狂させたのと、同じ危うさを持っているのではないだろうか。


 30秒で多くの人々の欲望を突き動かすCM、何十年の時を超えてなお不可解な断絶をほんの数分で説明する(と思わせる)TVニュース…、「わかりやすい」ものというのは、危険なものを孕んでいる。
 「わかりやすいもの」が、無邪気で善意に満ちた人々によるファシズムを生んできた。

 一本のドキュメンタリー映画について、「作為」や「やらせ」の匂いを嗅ぎつけた時、その映画は偽物だ、だまされるなと攻撃する人がいる。そのとき高揚する正義感は、ドキュメンタリ―映画を事実の記録とみなす素朴で無自覚な幻想に立脚するものだろう。

 あらゆることが「正義」と「悪」にわかりやすく二元論化され、安易な結論へと導かれる現代のメディア社会。そんなマスメディアの恐ろしさや愚かさを、森達也氏は著書の中で訴えているのではないだろうか。

 


 ところが、この森達也氏の言葉を、阿部賢一氏もレポート(「映画『ダーウィンの悪夢』について考える(10)最終回」)の中で引用している。
 阿部賢一氏が2005年ピースボート世界一周航海に参加していた時、スペインのカナリア諸島ラスパルマスから乗船してきたのが、森達也氏だったという。船内では森達也氏の講演があり、オウムを撮った「A」「A2」などのドキュメンタリーも上映された。「船内では彼の著作も販売されていたので、4冊買って読んで、議論もした。」という。
 阿部賢一氏は、日本に帰国した後の2006年3月、千駄ヶ谷駅近くの津田ホールで催された「森達也トーク、御臨終、憲法?」という集まりにも参加している。森達也氏の発言が、「若い人々の共感を得ていて、人気があるのにびっくりした」と書いている。
 このように森達也氏へのエールを送る阿部賢一氏は、『ドキュメンタリーは嘘をつく』の著作についても紹介している。次は、阿部賢一氏が引用した『ドキュメンタリーは嘘をつく』の一節だ。

何よりもドキュメンタリーの側から言えば、キャメラワークや編集はもとより、その瞬間にキャメラを回しているという行為そのものが、作り手の作為であり現実への干渉であり加工である。ドラマの側から見ても、役者という被写体に状況と台詞を与えたうえでの現実の記録(ドキュメント)と見なすことができる。ドラマの場合は演出という意図が介在するじゃないかと反論されれば、ドキュメンタリーだって演出ですよと僕は言い返している。(『ドキュメンタリーは嘘をつく』 森達也 2005年 草思社)

 
 
 
 阿部賢一氏は、ザウパー氏の『ダーウィンの悪夢』を「ヨーロッパ人受けのするストーリー」だと非難した。だからザウパー氏の映画を見るとき、そのシーンが正しいか、考えながら見る必要があると言っている。彼のレポートの中の言葉をもう一度引用する。

 

ザウパーは4年間、タンザニアで生活したというが、彼の生活の臭いを感じさせる場所は、映画のどこにも出てこない。ヨーロッパ人受けのするストーリーをつくり、それにうまく合うシーンをつなぎ合わせたにすぎないのではないか。
4年間、住んでいたがゆえに、あのような断片的なシーンをどこに行けばどう撮れるということも十分わかっていたのだろう。だから、彼が、ストーリーを組み立てるためのシーンを撮ってつなぎ合わせて、自分の主張をしたのだ。彼の撮ったさまざまなシーンによる主張は正しいか、観客は考えながら観る必要がある。(「映画『ダーウィンの悪夢』について考える(10)最終回」)

 

 このようにザウパー氏の映画を、意図的に作られたものだとこき下ろす阿部賢一氏に、彼自身が引用した「ドキュメンタリーだって演出ですよ」という森達也氏の言葉をそのまま返したい。


 そして、次の一節も、阿部賢一氏自身がレポートの中で書いていた言葉だ。


ノン・フィクションとか、ドキュメンタリーという言葉に惑わされてはならない。ノン・フィクションもドキュメンタリーも、その監督やカメラマンがストーリーをまずフィクション化して、それに合ったさまざまなシーンを撮り、つなぎあわせてつくりあげた作品である。(同上)

 

 阿部賢一氏が書いている通り、すべての映画は「フィクション」だ。
 ザウパー氏は、『ダーウィンの悪夢』という作品を作った。彼の目が見たもの、彼の耳が聞いたもの、そして彼の体が感じたあらゆるものを通して、一本の映画は作られた。ザウパー氏の世界の捉え方、主観は当然入ってくる。
 そして、見る側も、それぞれの目、耳、体で映画を捉える。そのとき、見る人それぞれの、世界への向き合い方が現れる。

 

 

 

 

<まとめ>

 一本の映画をめぐって、監督の映画製作の意図はどこにあったのかなどと考えることはあまり意味がない。映画の価値とは、その映画を見た人それぞれ、一人一人の中にある。出来上がってしまった映画を見て、どのように感じるか、それは人それぞれ違うように、一本の映画の良し悪しは人それぞれ、人によって違って当然だからだ。

 つまり、問われるべきは、どのように映画が作られたのかではなく、映画を見た人がどう考えるか、映画を見た後どのような行動をするかだろう。もっと大きく言えば、映画を見た後、どのように生きていくかということだ。

 貧困にあえぎ、飢えに苦しんでいる人々の映画を見た後、何を思い、どんな行動をとるのか。

 「グローバリゼーションは現在の世界では、止まらぬ奔流である。当然ながら、そのプラス面、マイナス面が多くある。現在の我々はそのグローバリゼーションのなかで生きている。」と、市場原理主義の中で生きていくことの厳しさを訴えるのか。
 そういう人なら、反グローバリズムに導こうとするような映画は許せないだろう。
 
 一方、貧困にあえぐ子供の映画を見て、そんな子供を一人でも救いたいと自分にできることを探そうとするのか。
 そういう人なら、格差を生むグローバリズムの弊害をいかに是正していくかと考えるだろう。


 一本の映画の矛盾や不自然な点を並べ立て、その映画を批判することに精力を注ぐより、飢えた子供を一人でも救うために何ができるか、その考察を重ねることに私は向きあいたい。
 
 映画を観ることとは、この世界の中でどのように生きていくか、自分の立ち位置や振る舞いを考えていくということだろう。
 問われているのは、常に自分自身だ。

 


 『ダーウィンの悪夢』をめぐって、拙い感想をまとめてきたが、最後に、ホアキン・フェニックスの言葉を引用して、今回の記事の締めくくりとしたい。2020年アカデミー賞主演男優賞受賞後の、彼のスピーチである。

 「僕らは個人的な変化という概念を恐れているのだと思う。なぜならそれは自分たちが何かを犠牲にしたり、諦めることを考えさせるから。だけど人類は、最高の状態では非常に発明的であり、創造的であり、元から独創的なんだ。だから僕は愛と思いやりを僕らの原則として、これからすべての感情あるものと環境にとって利益があるように変えていくシステムを創造し、発展させ、実現させていくことができると思っている。」

https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a30846239/2020-92nd-academy-awards-joaquin-phoenix-best-actor-speech-so-touching-200210/?fbclid=IwAR3Qxwv9Pcvs7Cd3k_1Je_Tq7cid0VzqD9rsuYdZPkuVIi56MXNA09CAx0I)

 

『ダーウィンの悪夢』(2004 オーストリア 35mm 107分 フーベルト・ザウパー)   関川宗秀

「14年後の『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後1 

「武器密輸の証拠」                              『ダーウィンの悪夢』その後2

「ヨーロッパ人受けのするストーリー」 『ダーウィンの悪夢』その後3

「グローバリズムと『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後4

『パラサイト』と『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後5 

  

 

 

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「『パラサイト』と『ダーウィンの悪夢』」   『ダーウィンの悪夢』その後5    関川宗英

2020-02-14 07:58:12 | ダーウィンの悪夢

「『パラサイト』と『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後5       関川宗英


 2011年秋、アメリカで「ウォール街占拠運動」が起きた。スローガンは「我々は99%だ」。当時のアメリカは格差が広がり、1%の富裕層が国全体の所得の25%を受け取り、富の40%を保有していたという。若者たちはウォール街を1%の富裕層の象徴とみたて、抗議に押し寄せた。この活動が、「ウォール街占拠運動」だ。

 2018年にはフランスでは「黄色いベスト運動」が起きる。マクロン政権の環境保護を目的とする燃料税の引き上げがきっかけで、郊外や地方で生活する低所得者層の強い反発を招き、そのうねりは全国規模のデモへと拡大した。この抗議活動も、格差の拡大する現実がもたらしたものだ。

 1%の富裕層と、富を奪われる99%の人々。格差は2020年の今も拡大している。格差はなぜ拡大し続けるのか、グローバリズムがその要因の一つであることは間違いない。

 「トップ1%の最上位層が、自分たちに都合よく市場のルールをゆがめることで莫大な利益を手にし、その経済力で政治と政策に介入した結果、格差が拡大した」と、アメリカの経済学者ジョセフ・E・スティグリッツは書いている。

 

 

 そもそもグローバリズムは、自由貿易の理念を出発点とするものだ。保護主義を超えて、モノやカネが自由に行きかえば、良い製品やサービスが市場に供給される。第2次世界大戦が極端な保護主義の結果生まれたという反省から、自由貿易は世界経済活性化のための基本的な政策となってきた。

 自由貿易とはいっても、市場経済の発展を目指しながら、政府はその行き過ぎは是正するというのが、先進国の「グローバル・スタンダード」だった。ところが、1970年代以降の低成長と、その後のサッチャー英首相やレーガン米大統領に代表される保守(反)革命によって、世界的に政府介入否定論が勢いを増すことになる。グローバリズムの台頭である。

 ピケティは、こうした英米発の市場万能論が新しいグローバル・スタンダードとなったことで、一旦縮小した所得・資産保有格差が昨今、先進国で拡大していると『21世紀の資本』で訴えている。そして、このままでは、第一次大戦前の極端に不平等な時代に戻ってしまうと警告している。

 

 『ダーウィンの悪夢』が発表された2004年当時、グローバリズムが格差を拡大させていると世界的な議論になっていた。
 1998年韓国経済危機、2001年アルゼンチン経済危機、世界にグローバリズムの歪みが顕現化していた。そして、2001年7月イタリアジェノバG8には30万人もの人々が反グローバリズムを訴えてデモを繰り広げている。

 


  

 
 阿部賢一氏は、ザウパー氏の映画を「ヨーロッパ人受けのするストーリー」と批判したが、そのストーリーとは「反グローバリズム」のことだろうか。だとするなら、阿部賢一氏は新自由主義的な立場から、ザウパー氏の映画を論難するレポートを書いたことになる。


 2020年2月、『パラサイト』がカンヌパルムドール賞に続き、アカデミー賞を受賞した。その監督ポン・ジュノ氏は言っている。「水は上から下に流れ、決してその逆には行きません。そして貧しい人々は洪水で沈むんです」と(*1)。

 効率性の価値で人を測るような人より、貧しい人々、社会的弱者に痛みを感じている人を、私は信じる。

「ドキュメンタリー映画はフィクションだ」 『ダーウィンの悪夢』その後6 最終回     に続く) 


*1 https://bunshun.jp/articles/-/25011

 

 

 

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「グローバリズムと『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後4    関川宗英

2020-02-05 06:43:35 | ダーウィンの悪夢

「グローバリズムと『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後4    関川宗英

 

 「ダーウィンの悪夢 - シネマライズ オフィシャルサイト」を見ると、フランスでナイルパーチのボイコット運動が起きたこと、映画に登場した人物が嫌がらせを受けたことなどが紹介されている。

『ダーウィンの悪夢』をめぐる世界の動き
◆フランスでは、観客たちが映画に衝撃を受け、ナイルパーチのボイコット運動が
起こった。しかし、これはボイコットで解決するような単純な問題ではないのだ。
◆ついに大統領までもが論壇に登場! この映画の舞台のタンザニアでは、
「国のイメージを傷つける」とキクウェテ大統領が映画を厳しく非難した。
◆世界中での大絶賛とは裏腹に批判も噴出!映画に登場した人物が嫌がらせを
受けたほか、批判本も映画が公開された国々で出版される予定。
論争はますます白熱する勢いだ。(「ダーウィンの悪夢 - シネマライズ オフィシャルサイト」www.cinemarise.com/theater/archives/films/2006023.html)

 

 

 ナイルパーチのボイコット運動について、阿部賢一氏の言葉はやはり厳しい。

 ザウパーの映画『ダーウィンの悪夢』を観て、ナイル・パーチをボイコットしたフランスの観客は、ザウパーの意図と術中に完全にはまってしまった。そして、ザウパーは数々の賞を受ける名誉も得た。しかし、ナイル・パーチをボイコットしてもタンザニアの食糧問題が解決するわけではない。反対に、タンザニアの経済に打撃を与えた。そして、そのしわ寄せは、ムワンザに住む貧しい人々に『ザウパーの悪夢』をプレゼントしたに過ぎないのではないか。(映画『ダーウィンの悪夢』について考える(10)最終回 阿部 賢一 2007年5月1日  http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1041.html)


 
 2005年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、『ダーウィンの悪夢』を観て感銘を受けた私も、「ザウパーの意図と術中に完全にはまってしまった」一人かもしれない。また、阿部賢一氏は次のようにも書いている。


 ナイル・パーチはグローバリゼーションの中で生まれた国際商品である。国際市場への強力な販売力がなければ、価格の主導権は取れない。国際市場からは常に価格引下げの圧力がかけられる。輸送の主導権も取れないことが政府の公開(質問)状を読んでも容易にわかる。どこの市場にどれだけの量をタイミングよく供給するかの主導権が取れなければ、価格を叩かれる。しかも、その生産工程でEUの厳しい衛生基準を適用される。その要求する衛生基準以下であれば即刻輸入禁止が発動される。
 その一方で、ヴィクトリア湖の湖水面の低下、漁業資源の減少で、漁獲コストは上昇している。さらに、水産加工場は、ムワンザ環境法の規制で工場廃水処理の管理が年々厳しくなっている。販売価格の下落と環境設備投資等による生産コストの上昇を抑えるかのなかで、すでに経営をやめたギリシャ・オーナー系の工場があると現地英字紙も報じている。(同上)


 ナイルパーチは国際的な衛生基準を満たす商品であり、タンザニアの経済を支える貿易商品である。国際市場の競争の中で、外貨を稼ぎ、一国のGDPを向上させるナイルパーチ。そのボイコットは、タンザニアの人々の少ない収入を圧迫させるだけだ。フランスで起きたボイコット運動など、グローバリズムの欠点だけをあげつらう、独りよがりな自己満足のパフォーマンスに過ぎない。そんな声が、阿部賢一氏のレポートの行間から聞こえてくる。

 しかし、ナイルパーチのボイコット運動は浅はかな、思慮の足りないパフォーマンスだろうか。この運動は、貧富の格差を世論に喚起するための行動だったはずだ。
 アフリカの貧困は、大航海時代以降の長い歴史の中で、様々なことが複雑に絡み合って生じた問題だ。独立戦争、独立後の混乱、民族の問題、宗教の問題も絡み、アフリカ各地で紛争は起き、今も続いている。紛争地で困っている人々に対する人道支援も一筋縄ではいかない。例えば、ODA(政府開発援助)。このお金やモノに群がる商人、新政府の役人、旧政府の役人たち。援助物資が途中で誰かの懐に消えてしまったりして、2割しか困っている人のもとに届かないなんて話を聞く。援助の機械が故障すれば直す部品もなければ技術者もいなくて、無用の長物になるしかなかったりする。ODAで井戸を掘れば、その井戸の部品を売ってしまう。
 そして紛争後の国づくりを見据えた覇権争い。さらに、復興後の特需に利権を獲得しようとする世界の国々の競争も始まる。世界の先進国といわれる国々は、アフリカの民族や宗教の争いを利用して、混乱を長引かせている。その方が、儲かるからだ、などという話もネットにはあふれている。
 そして、貧富の差は広がるばかりだ。貧富の差が分断を生み、憎悪を増幅させる。

 かつてサルトルは言った。「飢えた子供を前に、文学は無力だ」。この言葉をめぐって、1960年代、世界中で論争が起きた。当時はビアフラの、飢えで死んでゆく子供が話題になっていた。大江健三郎氏は、「死が人間を不幸にするからこそ、人は小説を書くのだ」「文学とはあいかわらず、個人的な救済の試みである」 などという言葉を残している。サルトルや大江の言葉を、やわな文学青年のセンチメンタリズムと片付けられるだろうか。彼らの苦悩の言葉は、飢えで死ぬ子どもを救いたいという願いから生まれている。その願いは、人として生きていくときの純粋な思いだ。
 ナイルパーチのボイコット運動に参加した人々には、サルトルと同じ思いがあったのだろう。確かに、このボイコット運動でタンザニアの貧しい人々がすぐに救われるわけではない。しかし、タンザニアの現実をメディアに乗せるために、一定の成果を発揮できたことは事実だ。

 

「『パラサイト』と『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後5     に続く) 

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世界の富裕層 上位2100人 46億人分より多い資産持つ

2020-01-26 06:28:16 | ダーウィンの悪夢

世界の富裕層 上位2100人 46億人分より多い資産持つ 
2020/1/22  NHK
 
世界の富裕層の上位2100人余りの資産を足し上げると、世界の総人口のおよそ6割に当たる46億人の資産の合計を上回ることが、国際的なNGOがまとめた報告書で明らかになりました。

世界の貧困問題に取り組む国際的なNGOの「オックスファム」は20日、スイスで開催されている「ダボス会議」にあわせて経済格差に関する報告書を発表しました。
それによりますと、去年の時点で10億ドル以上の資産を持つ富裕層2100人余りの資産の合計は、世界の総人口のおよそ6割に当たる46億人の資産の合計を上回っていたということです。
そのうえで、上位1%の富裕層が今後10年間、税金を0.5%多く払えば、介護や教育などの分野で1億1700万人を新たに雇うことができる金額になるとしています。
報告書は男女の経済格差に関連して、主に女性が担っている介護や育児などの無報酬の労働の価値は、年間で少なくとも10兆8000億ドルに相当すると推計しています。
そして、政府が介護などの分野に投資し、女性に適切な賃金が支払われるしくみを作るべきだと提言しています。
NGOの代表は「女性の無報酬の労働が経済の隠れたけん引役であることを知ってほしい。女性は適切な賃金の支払いを必要としている」と述べ、各国に格差の解消に向けた取り組みを求めました。

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「ヨーロッパ人受けのするストーリー」 『ダーウィンの悪夢』その後3    関川宗英

2020-01-25 06:51:16 | ダーウィンの悪夢

「ヨーロッパ人受けのするストーリー」 『ダーウィンの悪夢』その後3    関川宗英
 


『ダーウィンの悪夢』(2004 オーストリア 35mm 107分 フーベルト・ザウパー)  

2004年トロント国際映画祭で初リリース。

2005年山形国際ドキュメンタリー映画祭で、コミュニティシネマ賞、審査員特別賞を受賞。

2006年の3月5日、NHKBS1のBS世界のドキュメンタリー枠で『ダーウィンの悪夢 アフリカの苦悩(前・後編)』として放送。

2007年7月6日、DVD発売。

https://www.amazon.co.jp/ダーウィンの悪夢-字幕版-フーベルト・ザウパー/dp/B00FIWCST6/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%82%AA%E5%A4%A2&qid=1579832301&sr=8-1

 


 この映画のDVDが発売される頃、阿部賢一氏は批判の言葉を重ねる。(映画『ダーウィンの悪夢』について考える(10)最終回 阿部 賢一 2007年5月1日  http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1041.html)


 ザウパーが映画『ダーウィンの悪夢』でインタビューの相手として選んだロシア人クルー、歌手?兼娼婦、夜警、そして画家?は、どうみても、ムワンザの地元の人間ではない。ストリートチルドレン、これも田舎から出てきた子どもたち、エイズで親を亡くし、都会に流れ込んだ子どもたちであろう。彼らはみんなムワンザの人々にとってのよそ者であろう。水産加工場の幹部やその取り巻き連中は、明らかにインド系の移民の子孫であると、風貌や英語の話し方で分かる。漁村のシーンも新宿中央公園のホームレスのテントのような生活感の臭いのないようなところを撮っている。


 ザウパーは4年間、タンザニアで生活したというが、彼の生活の臭いを感じさせる場所は、映画のどこにも出てこない。ヨーロッパ人受けのするストーリーをつくり、それにうまく合うシーンをつなぎ合わせたにすぎないのではないか。


 4年間、住んでいたがゆえに、あのような断片的なシーンをどこに行けばどう撮れるということも十分わかっていたのだろう。だから、彼が、ストーリーを組み立てるためのシーンを撮ってつなぎ合わせて、自分の主張をしたのだ。彼の撮ったさまざまなシーンによる主張は正しいか、観客は考えながら観る必要がある。


 武器密輸の疑いを証言するロシア人クルーや画家たちを、ムワンザの「よそ者であろう」と書きつける。
 確かに映画の中のインタビューはほとんど英語だ。ザウパー氏と思われるインタビュアーが、スワヒリ語をつかうことはない。「この映画には,ザウパー氏による誤解やスワヒリ語の不適切な解釈が散見される」(「批評:ドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」の舞台から」 小川さやか *1)というレポートもあった。言葉の問題は、インタビューの客観性を考えるとき、大切な要素だろう。


 そして阿部賢一氏は、ザウパー氏の映画を「ヨーロッパ人受けのするストーリー」と揶揄する。これについて、次のような記述もある。「グローバリゼーションは現在の世界では、止まらぬ奔流である。当然ながら、そのプラス面、マイナス面が多くある。現在の我々はそのグローバリゼーションのなかで生きている。それを、無慈悲な外国資本あるいは先進国と貧しい搾取される発展途上国そして貧しい人々という単純な構図で観たり考えたりするのはひとつのわかりやすいストーリー」であると。
 このような批判は、小川さやか氏のレポートにもあった。

 

 この映画は国民感情を傷つけるものであった。なぜなら,この映画は「グローバル化の縮図」を端的に示すものであったとしても,ムワンザの多くの住民が,自らの生きる「現実の縮図」と考えるものからはかけ離れているからである。

 

「声なき人々」を受動的かつ平板に描き,地域の複雑性に照らして検討すべき問題群をひとまとめにして,遍在するグローバル化の悲劇として提示する

 

 ムワンザの人々にとって,この映画に詰め込まれた「湖水汚染」「アジア系経営者との格差」「売春婦やストリートチルドレンの増加」「骨身の販売」といった問題群は,それぞれ個別の問題である。これらは,政治経済的な問題であると同時に,民族間の文化的差異や倫理的・宗教的問題,家族関係の変化,果ては個人的な資質など,さまざまな要素が絡み合った問題である。そのため彼ら自身は大局的なグローバル化の物語に回収しきれない具体的な事象を常に発見してしまう。

 

 なるほど、『ダーウィンの悪夢』は現実のタンザニアからかけ離れているかもしれない。小川さやか氏や阿部賢一氏の言うように、『ダーウィンの悪夢』はグローバリゼーションの弊害を単純な南北問題にまとめあげたに過ぎないかもしれない。そして小川さやか氏や阿部賢一氏の両者は、タンザニアの現地の人々からこの映画の評判は悪いと語っているが、この事実は重い。

 しかし、2020年1月22日、NHKニュースでは、世界の2100人の富豪の資産は、地球46億人の資産を上回っていると報じている(*2)。この格差はなくさなければならない。『ダーウィンの悪夢』は、「大局的なグローバル化の物語」、「ヨーロッパ人受けのするストーリー」という批判で語りつくせるものだろうか。


*1 https://ir.ide.go.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=47852&item_no=1&page_id=39&block_id=158
*2 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200122/k10012254271000.html

 

(「「グローバリズムと『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後4    に続く) 

 

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「武器密輸の証拠」 『ダーウィンの悪夢』その後2   関川宗英

2020-01-14 11:13:17 | ダーウィンの悪夢

「武器密輸の証拠」 『ダーウィンの悪夢』その後2    関川宗英
 
 映画『ダーウィンの悪夢』(2004 オーストリア 35mm 107分 フーベルト・ザウパー)を、酷評するレポート。(「映画『ダーウィンの悪夢』について考える(2)」阿部 賢一 2007年3月17日 http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1031.html)
 このレポートは、当時のタンザニア大統や外務大臣の『ダーウィンの悪夢』に対する抗議のコメントとともに、この映画にはタンザニアへの武器密輸の証拠は「どこにも出てこない」と非難していた。
 
 
 
 
 しかし、映画の中では武器がムワンザ空港持ち込まれているという証拠は登場する。
 ①町の画家、②新聞記事、③取材記者の三つのシーンが映画には盛り込まれている。
 YouTubeで、NHKBSの『ダーウィンの悪夢 アフリカの苦悩(前・後編)』が見られるので、確かめた。
 
https://www.youtube.com/watch?v=Dl_xCfHg3iY&t=5239s
 
 
①町の画家のシーン


 

 町の人の生活を記録しているという画家、ジョナサン。彼は、タンザニアのムワンザ空港にやってくる飛行機の絵を示しながら言う。
 
飛行機が何を運ぶのかは知らない。でも、いつだったか、国連の大型輸送機がアメリカからの支援物資を大量に積んできたことは覚えている。
ある時、ヨーロッパから魚を運ぶと言って、一機の飛行機が飛んできた。
ところが機内に入った兵士たちが大変なものを発見したんだ。大量の武器があった。
政府は武器の行き先を知らなかった。パイロットの話ではアンゴラ向けとのことだった。それで大統領が追及された。
ラジオと新聞で報道されていた。テレビでも。
 
 
②新聞記事

「タンザニアの公安警察の幹部が、ナイルパーチ輸送のロシア機による武器輸出の共犯者として告発された」という新聞記事。
映画の中で新聞記事を読んでいるのは、国立水産研究所の警備をしているラファエルと思われる。
 
 
③取材記者

  武器密輸の記事を取材した記者リチャード・ムガンバ。映画の終盤、彼は赤裸々に、武器密輸の実態を語っている。


 
 
 以上三つのシーンで、武器密輸の実態が映画には登場する。
 『ダーウィンの悪夢』は、グローバリズムがもたらす貧困の問題やアフリカ紛争のための武器密輸の疑いを告発する映画だ。確かに、密輸された武器そのものが登場するわけではない。また、政府側の人間が武器密輸を語るシーンも勿論ない。しかし、アフリカの闇、南北問題の深さを抉り出そうと訴えかける力を持っている。
 
 だが、『ダーウィンの悪夢』を批判する阿部賢一氏は、この映画は疑いを匂わせるだけだと喝破する。彼のレポートには次のような記述がある。 
 
(『ダーウィンの悪夢』は)いかにもムワンザに往路で武器を運んでくる貨物機が復路でナイル・パーチを運んで飛び立つことをこの映画の背後に匂わせているドキュメンタリーである。
 しかし、ザウパーのHPにも、その空港が『ダーウィンの悪夢』の舞台であるムワンザ空港だとはどこにも書いていない。
 しかし、『ダーウィンの悪夢』では、そう思わせるような構成となっている。
 
(「映画『ダーウィンの悪夢』について考える(1)」阿部 賢一  2007年3月17日  
http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1030.html)


 
  阿部賢一氏のレポートは10本もあり、今もネットで見ることができる。彼のレポートを読んでいると、映画に登場した町の画家や新聞記者は、監督の抱く「疑い」に沿って、監督の喜ぶような発言をしていたというふうに思えてきてしまう。
 
 果たして『ダーウィンの悪夢』は、疑いを匂わせるだけの、不誠実な映画なのだろうか。
 
(「「ヨーロッパ人受けのするストーリー」 『ダーウィンの悪夢』その後3」 に続く)

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「14年後の『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後1    関川宗英

2019-12-28 06:38:38 | ダーウィンの悪夢
「14年後の『ダーウィンの悪夢』」 『ダーウィンの悪夢』その後1    関川宗英
 
 映画『ダーウィンの悪夢』(2004 オーストリア 35mm 107分 フーベルト・ザウパー)を、2005年山形国際ドキュメンタリー映画祭で見た私は、大きな感銘を受けた。その感想を、つい先日(2019/12/13)このブログに載せた。https://blog.goo.ne.jp/chuo1976/e/619e6fa96d05f9ec91dbccd61932c6a5
 
 
 山形で上映されてから14年が経った2019年末、『ダーウィンの悪夢』を酷評するレポートをネットで見つける。(「映画『ダーウィンの悪夢』について考える(2)」阿部 賢一 2007年3月17日 http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1031.html)
 このレポートは、当時のタンザニア大統領や外務大臣の『ダーウィンの悪夢』に対する抗議のコメントとともに、この映画にはタンザニアへの武器密輸の証拠は「どこにも出てこない」と非難する。
 
 
 キクウェテ・タンザニア連合共和国大統領の来日(概要と評価)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/visit/0611_gh.html
 あの映画はタンザニアについての素晴らしい国際的なイメージとヨーロッパへの魚の輸出を傷つけるものであった。真実と現実について全くのでっち上げ(complete fabrication)であり、それらを裏付けるものはなんにもない。この国に対して好意的でない映画だ。あの映画は噴飯ものであり、事実を裏付けるものは少しも(a inch of)ない。ムワンザを魚の輸出で希望のない場所であるとして描いている。タンザニアのイメージを傷つけることを意図したストーリーを誤り伝えていることに憂慮している。 
 
 
 
 
 しかし、ムワンザ空港に「武器が運び込まれて紛争地に運ばれる」という証拠はどこにも出てこない。
 これに関してタンザニア外務大臣が反論したと現地紙が報じている*。
* http://www.darwinsnightmare.net/Foreign_affairs_hits_at_Darwins_nightmare.html
 その要旨は以下の通り。
 2006年8月13日、タンザニアの外務大臣は映画『ダーウィンの悪夢』を非難して次のように述べた。
 「この映画はタンザニアの海外に対する良好なそして実際のイメージを傷つけている。この映画には、タンザニア政府が合法的にせよ非合法的にせよ武器の輸送に積極的に関わったり、それらの動きを黙殺しているというような、ムワンザにおける武器の持込などについてのシーンはどこにも見当たらない。タンザニアはこれまで様々な局面で近隣諸国との和平対話を主宰してきた。その努力については関係諸国から称賛を得ている。タンザニアは調停者と(その反対の)妨害者の役割を同時に行うなどということは思いもよらないことである。」
 
 
 しかし、映画の中では武器がムワンザ空港持ち込まれているという証拠は登場する。
 ①町の画家、②新聞記事、③取材記者の三つのシーンが映画には盛り込まれている。
 YouTubeで、NHKBSの『ダーウィンの悪夢 アフリカの苦悩(前・後編)』が見られるので、確かめた。
 
https://www.youtube.com/watch?v=Dl_xCfHg3iY&t=5239s
 
 
①町の画家のシーン。
 
 
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『ダーウィンの悪夢』(2004 オーストリア 35mm 107分 フーベルト・ザウパー) 関川宗英

2019-12-13 09:44:31 | ダーウィンの悪夢
『ダーウィンの悪夢』(2004 オーストリア 35mm 107分 フーベルト・ザウパー)   関川宗英
 
 今回(2005年)の山形国際ドキュメンタリー映画祭ではBEST1だ。
 ビクトリア湖に1980年代に放流された淡水魚ナイル・パーチは、200種を超える在来種の魚を食べつくし、タンザニアに一大産業をもたらした。パーチを捕る漁民、魚加工工場で働く人々は幾ばくかの経済的な潤いにあずかるが、それは世界経済の搾取の一端であり、新たな貧富の差をタンザニアに生むことに他ならない。
 パーチは低賃金の労働力によって食べ物に加工され、ヨーロッパの何百万人かの胃袋に入る。ヨーロッパに輸出されるのは三枚におろした身の部分だ。頭のついた骨の部分は、トラックに山積みされ、さらに貧困の地域に運ばれる。ウジ虫のついたパーチの骨は、天日に干され、養殖用の水槽のような巨大な鍋で揚げられる。その揚げ物は日本にも輸出される。タンザニアには1日1ドルで生活している人が半分以上いるという。
 一方、魚を運ぶのはロシアの航空会社だ。ロシアのパイロットたちは、一日10ドルでタンザニアの娼婦を買い、夜は家族の写真を見ながら酒を飲む。
 ヨーロッパからタンザニアに来る飛行機は、何も積んでいないと誰もが話していたが、国連の援助物資や武器も運ぶことが暴かれる。援助物資や武器輸出に群がる商人たち。タンザニアの空港は、管理体制がずさんで、密輸にはもってこいの場所になっているという。
 漁師たちはエイズにかかっている。貧しい村で、エイズのために死ぬ男たち。一家の主を失った女は、金のために体を売る。それを買うのは、貧しい村の漁師たちだ。そうやってエイズが広がっていく。そして街には、ストリートチルドレンが増えていく。
 満足な靴もないような貧しい人たち。ウジ虫の這いまわる泥の中から、腐りかけたパーチの頭をつかみ上げ、天日に干す作業をする女、子供。それで生活の糧を得る。揚げた魚で金儲けする会社。日本の魚の冷凍食品や、ファミレスの魚フライは、ウジ虫がついていたパーチかもしれない。
 適応能力の高いものが生き残る……ダーウィンの説に従えば、資本主義経済社会が、現在の最高のシステムということになる。
  鯨やメダカなど絶滅危惧種に騒ぐ先進国の人のなかには、パーチの自然体系破壊を大きく取り上げる人がいるのだろうか。パーチのことは知らず、鯨やイルカをガイアと神聖化し、ムニエルを食べながら、テレビを見ている人がほとんどだろう。
 南北格差の問題も同じだ。人々は搾取はよくないという。植民地政策に賛成する人もいないだろう。金持ちは募金をし、UNの援助物資や助成金がアフリカに行くことに反対する人はいないだろう。しかし、援助物資の中身は欧米の商品だ。回りまわって金は金持ちの国に戻ってくる。貧困の本質について知らず、家族を愛し、悪意もなく、ほとんどの人は生きている。
 『ダーウィンの悪夢』。この映画をタンザニアのほとんどの人は見ることはないだろう。一日1ドルの貧しい生活の者が半分以上いるというタンザニアで、どこで、どうやってこのような映画を観るというのか。「貧困」について、「貧困」を生んでいる金持ちの国の人が映画を作り、金持ちの国の人がその映画を観て、タンザニアの貧しさに涙を流す。
 貧困はなくさなければならない…そう思ったとき、さて何ができるのか。とりあえずできることは、金の支配から少しでも離れた生活をすることか。この社会システムの中にいる限り、日本で生きていることが、加害者と同じことになる。そこから抜け出すことはできるのか。せめて加害者にならずにいようと考えること自体が、農的自給自足に憧れるのと同じで、金持ちの国の住人の、独りよがりな甘い戯言か。

2005/10/9  山形国際ドキュメンタリー映画祭にて
 
 
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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf