瀧の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
2019/6/28 朝日新聞
さて、福島第一原発の事故は、世界の原発利用に一定のブレーキをかけたと同時に、太陽光や風力などの再生可能エネルギーの普及を大きく加速させた。では、当の日本はどうだったか。たとえば国のエネルギー基本計画を見てみよう。そこに定められた2030年度の電源構成は、再生可能エネルギーが22~24%、原子力が20~22%となっているが、原発の新規制基準に伴うコスト増や、40年を超えた原発の延命の困難などを考えると、原子力の比率の20%超という数字はおよそ現実味がない。一方、再エネの比率のほうは、2040年に全世界の発電量の40%に達するという国際エネルギー機関(IEA)の予測に比べて、明らかに低すぎる。
これはもはや科学技術の問題ではなく、経済の話ですらない。電力会社を頂点とする産業界と、永田町と霞が関の利害がいまなお不可分であり続けていることの帰結であり、三者がそれぞれ変革から逃げてもたれあった末の、成算のないなし崩しに過ぎない。そして国民もまた、長引く景気低迷と生活の厳しさに埋もれ、再び無関心にのみ込まれていまに至っているのである。
とまれ、日本がこうして非常識な数字を並べている間に、世界では自然エネルギーへの投資と技術革新が飛躍的に進み、そのコストはすでに原子力の4分の1にまで下がっているとするデータもある。エネルギー分野で完全に世界の流れに乗り遅れた日本の現状は、いまや人工知能(AI)や次世代通信5Gの技術が席巻する世界に日本企業の姿がないことと二重写しになる。
この顛末(てんまつ)は、ひとえに日本人の選択と投資の失敗の結果ではあるが、原子力の利用をめぐる不条理は日本だけの問題ではない。戦後、日本は広島と長崎の直接体験が重しとなって核兵器の保有には踏み出さなかったが、世界では核実験が地下にもぐり、さらにはコンピューター上のシミュレーションで間に合うようになって核の保有が拡大していった。現在、世界じゅうに1万4千発もある核弾頭や443基に上る原発は、原子力が人間の身体性を伴わなくなったことの帰結でもある。
令和となったいま、その原子力を押しのけて、AIや5Gが人間の文明の頂点に君臨する。人間は日夜、モノとインターネットがつながったIoTやクラウドサービスを通してビッグデータと結びつき、世界じゅうどこにいても、スマホ一台で生活のほとんどすべてのニーズが瞬時に解決する。そして、世界を覆いつくすそのサイバー空間の外に、人類がついに満足に制御することのできなかったアナログの原発と、行き場のない核のごみが取り残されているのである。これが今日私たちのたどり着いた地平である。
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巨大地震が明日起きてもおかしくないこの地震国で、あえて法外なコストをかけて原発を稼働させ続ける人間の営みは、理性では説明がつかない。次に起きる過酷事故は確実に亡国の事態に直結するが、人間は最後まで自らに都合の悪い事実は見ない。冒頭に述べた世界の原発事情も、核兵器の拡散も地球温暖化も、そういう人間の不条理な本態と、度し難い欲望の写し絵であり、それだけのことだということもできる。
仮に破滅的な事故を免れても、そう遠くない将来、使用済み核燃料の一時保管すらできなくなり、廃炉の技術も費用も十分に確保できないまま、次々に耐用年数を超えた原発が各地に放置されることになるだろう。この途方もない負の遺産を、AIが片付けてくれることはない。片付ける意思をもつことができるのは人間だけだが、果たして身体性を失った人間にそんな意思がもてるだろうか。
毎日新聞6月24日 短歌月評(歌人・加藤英彦)一部抜粋
十代の感性は柔らかくて自在だ。その感覚の芽を全開して豊饒な詩歌の森に放てばよい。淡い恋も青春の孤独も生や死の不条理も、パズルのように答えが用意されているわけではない。人間とは厄介な生き物だ。そんな人生の濃淡を生きる力を文学の奥深さは教えてくれる。それは読み、語りあうことで開かれる”知”の扉である。
しかし、これから高校の国語は大きく変わろうとしている。小説や詩歌を扱う時間は極端に減少し、論理国語という実用性重視の傾向が強まるのだ。実社会に有用な論理力や読解力を優先する考え方で、この実学偏重の流れは2021年から実施される大学入学共通テストと連動している。すでに小説や詩歌に代わって生徒会規約や駐車場の契約書が国語のモデル問題になったと聞く。背景には国際社会における日本の国語力の低下がある。その解消も大切だが、どこかに強い違和感がのこる。
今年一月、この傾向に日本文藝家協会が声明文を出し、最近、現代歌人協会・日本歌人クラブも連名で声明文を発表した。いずれも文学軽視の新学習指導要領を深く憂慮する内容である。
豊かな心は論理が育むのではない。行間を読み、心の余白を感じとる力こそ実社会には必要だろう。いじめる心の闇やふと兆した狂気の逃がしかたさえも文学は抱きよせる海なのだ。