chuo1976

心のたねを言の葉として

「洗濯」           吉成 稔

2024-03-02 05:32:54 | 文学

「洗濯」

                吉成 稔

 

人間は、他のあらゆる動物と異なって、生まれてから死に至るまで衣服の世話を受けねばならない。その結果、洗濯という労働を必要上身に負わねばならなくなった。


その洗濯について、最近、私は無量の感慨を覚えている。それは洗濯と35歳になった私の人生との関係においてである。


小学校2年まで裕福であった私の家での洗濯は、クリーニングに出されていたが、その後、家運が傾いて次第に母の手によってなされるようになった。


私は、私を含めて4人の弟妹の洗濯から身の廻り一切の世話をする母に対して、中学に行くようになってからも同情するようなことはなかった。母が愚痴ひとつこぼさなかったからであろう。

ただ、なにげなしに汚れのとれた清潔な下着や服を身につけ、その下着や服がいつ洗濯されているのかさえ気がつかなかったほどだったのである。


ところが、中学の4年の半ば、らいの宣告を受けた私は、島の療養所に入って、初めて洗濯という労働を現実にかつ具体的に実行しなければならなくなった。

そこで私は母の眼に見えない愛の深さに気づいた。
もちろん、入所当時は、どこといって不自由なところはなく、体力もあったので洗濯など何枚ためていたとしても物の数ではなかったが、洗濯しなければならぬといった意識が脳裡に閃くと、急に大儀になるのだった。


男が洗濯するのはみっともない、といった封建的な観念、いやそれよりも、洗濯をしたことのなかった習慣が、そのような感じを起させたのに違いないのだ。しかしその問題は島の生活になれて解決した。

といっても、自分でするようになったというのではない。同じ舎の若者が洗濯ばあさんを頼んでいることを知り、私もそれに便乗したのだ。

それは実に窮地からの脱出に等しい一大発見であった。下着類は一枚一銭、布団のカバーとか、着物などは一枚二銭、しかもほころびや破れは適当に繕ってくれるのである。だから五銭も余分に払えば、なんらの負債をも感じないですんだ。


そして数年、母が逝き、らいの不治を知った私は、島に骨を埋める意味において結婚した。結婚後2年目、妻は顔面神経痛によって失明したが、洗濯はやはり妻がした。双方いずれも軽症であったとしても、島の夫婦者の中には、夫が洗濯しているところもあった。

なにも養ってもらうわけでもなし、作業賃も同じように取るのだから・・・・男性より女性の数の少ない園内では、女の地位と力は社会一般の概念とは程遠く大きなものがあった。


しかし私の妻は、私に洗濯することを許さなかった。手足がしびれていないので、手探りでやったのだ。そして2年、敗戦の年の暮、私は失明に足を踏み入れた。戦時中、栄養とカロリーの摂れない食生活の中で、重労働に肉体を酷使したことと、殆ど治療が受けられなかったことからの結果である。


その後、全身神経痛に見舞われた私が重病棟に入室した時のことである。妻は、私のそばを離れず、昼夜看護してくれた。その際、病衣を毎日数枚、3ヵ月余り洗い続けた妻は、遂に気管にできた結節によって呼吸が困難になり、咽喉を切開した。


喉仏の下のくぼみが切り開かれて、カニューレ(呼吸管)が押し込まれたのである。私は私のそばに並べたベッドの上で、シュッ、ヒューッ、とカニューレに鳴る妻の切ない呼吸音を聞きながら慄えた。クローム色に光っているに違いない冷たい金具が、妻の咽喉を噛みさいていると感じたからだ。だから私はカニューレを憎悪した。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古里ってなんだろう

2024-02-23 06:21:29 | 文学

「古里ってなんだろう」

                                                                朴湘錫

 

お地蔵さま

あなたは俺を知っているか

思い出してほしい

五十数年も遠いむかし

朝夕

この峠を通っていた村の子供たち

小石のだんごを差し上げ

あなたにたわむれた

なかのひとりを

 

お地蔵さま

ふるさとってなんだろう

俺には

ふるさとを語る何もない

というのに

妙に恋しがり

妙に懐しがる

待つ人もないふるさと

お地蔵さま

きっと

私はまたやってくるだろう

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「成人の日に」    谷川俊太郎

2024-01-16 05:16:17 | 文学

「成人の日に」    谷川俊太郎


人間とは常に人間になりつつある存在だ
かつて教えられたその言葉が
しこりのように胸の奥に残っている
成人とは人に成ること もしそうなら
私たちはみな日々成人の日を生きている
完全な人間はどこにもいない
人間は何かを知りつくしているものもいない
だからみな問いかけるのだ
人間とはいったい何かを
そしてみな答えているのだ その問いに
毎日のささやかな行動で


人は人を傷つける 人は人を慰める
人は人を怖れ 人は人を求める
子どもとおとなの区別がどこにあるのか
子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな
おとなは一生大きな子ども
どんな美しい記念の晴着も
どんな華やかなお祝いの花束も
それだけではきみをおとなにはしてくれない
他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
でき上がったどんな権威にもしばられず
流れ動く多数の意見にまどわされず
とらわれぬ子どもの魂で
いまあるものを組み直しつくりかえる
それこそがおとなの始まり
永遠に終わらないおとなへの出発点
人間が人間になりつづけるための
苦しみと喜びの方法論だ

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ

2023-11-24 09:28:19 | 文学

娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
夏みかん酸っぱしいまさら純潔など

鈴木しづ子は敗戦直後の十年間に、句集二冊を出して消えた。注目を集めたのは第二句集『指環』(昭和27年1月刊)だったが、その注目の渦のなかで、行方不明が囁かれるようになり、やがてその作品も見られなくなる。鈴木は私と同年で大正8年(1919年)の生れ。(金子兜太「鈴木しづ子の俳句」)

 

それは、俳人・鈴木しづ子への違和感ではない。彼女を語る「言葉」への違和感だ。何か、一言で言うとキモいのだ。鈴木しづ子を語る男たちの口ぶりが。そこには「美貌の才女」で「娼婦」で「行方不明」になった鈴木しづ子をことさらに「伝説」に仕立て上げようとする 欲望が匂い立っていた。何か、俳句がどうこう以前に、彼女を語る多くの男性が、彼女の存在自身に欲情しているかのようなのだ。で、「欲情しているオッサン」というのは、申し訳ないがこの世でもっとも私が目にしたくないもので、しかし、彼女の資料に目を通せば、それらのオンパレードなのだからうんざりしてしまった。(雨宮処凛「もっとも大きな不幸」)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風に乗る飛翔は種と授かりて今はここにゐる私はポプラ

2023-09-08 03:41:54 | 文学

風に乗る飛翔は種と授かりて今はここにゐる私はポプラ
                                 夜汽車

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後に           樺美智子

2023-06-18 04:41:44 | 文学

最後に

                 樺美智子

 

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

                 (1956年)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝がほは朝露負ひて咲くといへど、ゆふ陰にこそ咲きまさりけれ

2023-06-16 04:16:24 | 文学

いま一つ『万葉集』巻十にアサガオの歌がある。すなわちそれは「朝がほは朝露負ひて咲くといへど、ゆふ陰にこそ咲きまさりけれ」である。この歌もまた桔梗として敢えて不都合はないと信ずるから、それと定めても別に言い分はない。

牧野富太郎『植物一日一題』

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空港のかかる別れのソーダ水

2023-05-29 06:22:25 | 文学
空港のかかる別れのソーダ水
                      成瀬櫻桃子
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「僕はまるでちがって」       黒田三郎

2023-05-18 04:47:51 | 文学
「僕はまるでちがって」
                     黒田三郎

僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
昨日と同じように貧乏で
昨日と同じように何にも取柄がない
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じ服を着て
昨日と同じように飲んだくれで
昨日と同じように不器用にこの世に生きている
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
ああ
薄笑いやニヤニヤ笑い
口を歪めた笑いや馬鹿笑いのなかで
僕はじっと眼をつぶる
すると
僕のなかを明日の方へとぶ
白い美しい蝶がいるのだ

(H氏賞受賞の詩集『ひとりの女に』1954年)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『春夜』    蘇軾

2023-04-13 04:20:20 | 文学

『春夜』は、「春宵一刻値千金」の句が有名な蘇軾の七言絶句です。

『春夜』       蘇軾
春宵一刻値千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈


『春夜』の書き下し文
春宵(しゅんしょう)一刻 値千金
花に清香有り月に陰有り
歌管(かかん)楼台声細細(さいさい)
鞦韆(しゅうせん)院落夜沈沈


『春夜』の現代語訳
春の宵は一刻に千金の価値がある
花は清らかに香り、月はおぼろに霞みがかかる
歌や笛がにぎやかだった高殿も今は音もかすかになり
ブランコのある中庭では静かに夜が更けていく


『春夜』の解説
第1句…「一刻」は「わずかな時間」。「千金」は「非常に価値がある」。
第2句…「清香」は「清らかな香り」。「月有陰」は「月に雲がかかっている」。
第3句…「歌管」は「歌と笛の音色」。「楼台」は「高い建物」。「細細」は「かすかである」。
第4句…「鞦韆」は「ブランコ」。「院落」は「中庭」。「夜沈沈」は「夜が更けていく様子」。
「春宵一刻値千金」…日本では第1句だけが独り歩きしている詩です。どこに入っている文なのかと思ったら、蘇軾・蘇東坡の詩なのでした。心地よく気だるく、眠りに誘われそうな詩です。

鞦韆…難しい字ですが、現代中国語では「秋千」と書きます。日本語では「ブランコ」ですが、この日本語は擬態語なのか外来語なのか諸説あります。
古代中国の優雅な詩になぜブランコが…と思ってしまいますが、ブランコ、つまり秋千は中国では紀元前の春秋時代からあるのでした。元は北方少数民族のスポーツ用具だということです。体を鍛錬するためだったのでしょうか。
鞦韆(秋千・ブランコ)。
これが中原…つまり黄河流域の中華文明の中心地に来ると、女性の遊具になったというのです。古代中国では子供たちの遊具ではなかったのですね。
特に宮廷で官女たちが好んで遊んだそうで、美しい官女たちが優雅な裳裾(もすそ)を翻してブランコを楽しむ姿は、一幅の絵のようだったことでしょう。そういえば日本でも放映された中国ドラマ『宮廷の諍い女』では、清朝の雍正帝とヒロインの出会いの場が庭園のブランコでした。
その後お金持ちの家でも女性たちのために中庭に秋千を置くことが多かったとか。当時格式ある家の奥方や令嬢が外を出歩くなどはみっともないこととして許されず、せめてブランコをこいで、高くなったところでいっとき外の世界を垣間見て楽しんだというのです。
ともあれこの詩の世界でも中庭に秋千が置いてあったのですね。今は夜更け、誰も乗っていませんが、昼間これをこいで笑い声をたてていたのは、きっと年若く美しい女性でしょう。
月もおぼろ、にぎやかな管弦の音も消えようとし、清らかな花の香りと乗り手のいないブランコがあるのみ。それでいて美しい月の光や楽の音、美女の姿は幻想として残っているのです。夢の中にいるようなこのぼんやりとした華やかさは、まさに値千金の春の宵です。

http://chugokugo-script.net/kanshi/shunya.html



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf