田原桂一さんが亡くなった。
建築写真家平井広行氏の助手を務めていた時代、事務所に掲げられていた田原氏のこの写真。
平井さんと田原さんはデザイナーの倉俣史朗さんつながりで、駈け出しのころは冷や飯を共に食っていた仲。
この「窓」と題する写真は、田原さんがパリで売れない写真家だった頃、
外に出るカネもないので、窓ばかり撮影していた時のもの…と平井さんから聞いた。
その後、評価が高まりパリを拠点に活躍する写真家となるのだけど、
その出発の記念として、平井さんが受け取った手焼きのオリジナルだった。
ボクも屈辱の助手時代だったので、
雨で竣工撮影が出来ないような日には、
ひとり事務所で残処理をしながら、
この「窓」の写真を眺め、不屈に耐えていた。
だから、田原桂一さんには一度お会いしたかった。
鬱屈としたハイコントラストの、窓外ではなく窓そのものを写したこの写真は、
田原桂一さんの、雌伏時代の内面を写し取っていると思ったから。
華やかなパリの売れっ子アーティストではなく、
貧乏カネなし時代の田原さんに触れていた…と感じていたから。
そんな時代の思い出のコトバを本人の口から伺いたかった。
あまりにも早すぎますよ、田原桂一さん。
建築写真家平井広行氏の助手を務めていた時代、事務所に掲げられていた田原氏のこの写真。
平井さんと田原さんはデザイナーの倉俣史朗さんつながりで、駈け出しのころは冷や飯を共に食っていた仲。
この「窓」と題する写真は、田原さんがパリで売れない写真家だった頃、
外に出るカネもないので、窓ばかり撮影していた時のもの…と平井さんから聞いた。
その後、評価が高まりパリを拠点に活躍する写真家となるのだけど、
その出発の記念として、平井さんが受け取った手焼きのオリジナルだった。
ボクも屈辱の助手時代だったので、
雨で竣工撮影が出来ないような日には、
ひとり事務所で残処理をしながら、
この「窓」の写真を眺め、不屈に耐えていた。
だから、田原桂一さんには一度お会いしたかった。
鬱屈としたハイコントラストの、窓外ではなく窓そのものを写したこの写真は、
田原桂一さんの、雌伏時代の内面を写し取っていると思ったから。
華やかなパリの売れっ子アーティストではなく、
貧乏カネなし時代の田原さんに触れていた…と感じていたから。
そんな時代の思い出のコトバを本人の口から伺いたかった。
あまりにも早すぎますよ、田原桂一さん。