弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

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2048-07-08 00:00:00 | Weblog
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杉並世田谷散歩徒然

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興国寺城訪問

2024-09-21 13:22:18 | 趣味・読書
9月16日、静岡県沼津市にある興国寺城ウィキ)を訪問しました。
興国寺城の名前は、続日本百名城に入っているということで、はじめて知ることになりました。最寄り駅は東海道線の原駅です。お城までのバスもあるのですが便数が極めて少ないので、原駅とお城の往復にはタクシーを利用しました。

興国寺城は、小田原北条氏の祖である北条早雲が旗揚げしてはじめて城主となった城、ということで有名なようです。

初代城主の北条早雲は、はじめ伊勢新九郎長氏と称し、今川家に身を寄せていたところ、今川家の相続争いをまとめた功績により、この興国寺城を与えられました。1487年ころのようです。
その後、早雲は伊豆の国を治めていた足利茶々丸を滅ぼして伊豆国の領主となって韮山城に移り(1491年ころ?)、戦国大名へと成長しました。これが東国における戦国時代の始まりといいます。
関東一円を制覇し、最後は秀吉の小田原攻めで滅亡した後北条氏の初代です。従って、早雲がここ興国寺城の城主だった期間はごく僅かです。

興国寺城の所属は、後北条氏(1487~)、今川氏(1537~)、後北条氏(1569~)、武田氏(1571~)、徳川氏(1582~)、豊臣氏(1590~)、徳川氏(1601~1607)と変遷しました。

天野康景の碑                  北条早雲の碑
(最後の城主)                 (初代城主)
最後の城主は、徳川氏三河三奉行の1人、天野三郎兵衛康景です。
1607年、康景の家来の足軽が、城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害しました。これが天領の農民であったことから、康景と代官の間の争いになりました。家康の側近本多上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましました。このため康景は改易になり、興国寺城は廃城となりました。

興国寺城は、愛鷹山から続く尾根の先端を利用して、北から、北曲輪、伝天守台、本丸、二の丸、三の丸、と直線的に配され、谷を隔てた東側にも清水曲輪が造られています。

航空写真                        古城図

本丸は、北側が天守台、東西は巨大な大土塁によって囲まれ、南側は空堀で区切られています。

本丸と、遠景に(伝)天守台とその左に西側土塁

伝天守台の発掘調査では瓦の出土はなく、一般的な天守閣が建っていたわけではありません。2棟の建屋の基礎石が検出されました。

(伝)天守台石垣


(伝)天守台石垣


(伝)天守台と東側土塁


(伝)天守台と西側土塁


本丸(中央)と西側土塁(右端)

天守台の北側、北曲輪との間には、大空堀が設けられています。

(伝)天守台北の大空堀

本丸と天守台との境界に、高尾山穂見神社があります。続百名城のスタンプはここに用意されていました。

高尾山穂見神社
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朝日新聞『「未完」の辺野古』

2024-09-12 15:17:44 | 歴史・社会
9月5日~12日の朝日新聞朝刊に、『「未完」の辺野古』という連載記事(1~5)が掲載されました。このブログ記事の末尾にポイントを掲載しておきます。
普天間基地の辺野古移設問題については、このブログでも取り上げてきました。以下に概略を述べるように、2009~2014年あたりにかけてです。

今回、朝日新聞の記事と私のブログ記事を比較して読んでみました。私のブログ記事と対比して、朝日の記事に特に目新しい内容は含まれていないようです。それどころか、守屋武昌(当時)防衛次官が提起した「シュワブ陸上案」は扱いが小さく、小川和久氏が提起した「キャンプハンセン案」は登場すらしていません。残念でした。

沖縄の基地問題を論じる上では、「沖縄の声」を重視することが最重要です。ところが、「沖縄の声」には2種類があり、一つは「沖縄県民の声」、もう一つは「沖縄土建業者の声」です。
「沖縄県民の声」は、「移設先は県外」であって移設先が沖縄である限り反対です。その結果、「シュワブ陸上案」「キャンプハンセン案」は「沖縄県民の声」「沖縄土建業者の声」のいずれも反対で、合意が成立する可能性がありません。一方、「辺野古埋め立て案」については、「沖縄県民の声」は反対ですが「沖縄土建業者の声」は賛成であり、成立が可能となりました。
従って、辺野古埋め立て案については、軟弱地盤の改良でどんなにお金がかかろうと、これ以外に合意の可能性はなく、「唯一の案」となるのです。残念なことです。

辺野古にできる海兵隊基地は、普天間基地に比較すると機能が落ちます。有事の際には海兵隊の能力が十分に発揮できない可能性があります。
しかし、普天間基地は「世界一危険な米軍基地」なのですから、一刻も早くより安全な基地に移転する必要があります。
私は、海兵隊が普天間基地から辺野古基地へ移転した後も、普天間の基地機能は保有しておき、台湾有事で海兵隊の大部隊が沖縄に集結する場合には普天間を使う、というアイデアを有しています。

以下、当ブログ記事と今回の朝日新聞『「未完」の辺野古』記事のポイントとを掲載します。

--当ブログの記事-----------------------
普天間問題 2009-12-29

普天間問題の行方 2010-04-29
それまで「絶対に不可能」といわれてきた普天間返還の道筋を開いたのは橋本龍太郎政権です。米国大統領との直接交渉でとっかかりを得ると、普天間の代替地探しが始まります。嘉手納統合案からスタートし、米国から反対されるとつぎに辺野古地区に移ります。
2004年頃、守屋武昌(防衛次官)氏は「シュワブ陸上案」というのを提案するのですね。
しかし、地元では名護市の建設業者が中心になって「埋め立て案」を持ち出してきます。その背後には「埋め立てで地元の経済を潤したい」という気持ちがあったに違いないといいます。
この中で05年10月、当時の大野功防衛庁長官が頑張り抜いて「キャンプシュワブ宿営地案」で米国と合意に達しました。
その後の地元との交渉で「住宅地の近くでうるさく危険だ」という理由で浅瀬に押し戻すことが求められ、地元の協力を得る視点から額賀長官が決断し、現在の「V字型案」で06年4月に名護市長らと合意に達しました。
しかし沖縄はこれで交渉を終わらせません。小泉内閣から安倍内閣に代わり、稲嶺知事から仲井眞弘多知事に代わると、「もっと浅瀬に出してくれ」と言い始め、二枚舌とも言える交渉を主張して普天間問題の先延ばしを図るのでした。

小川和久著「普天間問題」 2010-07-25
96年6月までに、小川和久氏は普天間飛行場の移設構想をまとめ上げました。その案とは、普天間と同じ規模の海兵隊専用飛行場をキャンプ・ハンセンの陸上部分に建設し、キャンプ・シュワブの陸上部分に軍民共用空港を建設、嘉手納基地のアジアのハブ空港化などの振興策によって沖縄を経済的に自立させるという構想でした。
2005年6月、小川氏は当時の守屋武昌防衛次官と話し合います。
守屋氏はこのあと、積極的に陸上案を主張しますが、辺野古の普天間代替施設はズルズルと海側に引っ張られていき、現在のV字型滑走路案となっていきました。
『この背景には、埋め立てにからんで巨額のビジネスにありつくことができる業者の関与があった、というのが沖縄における定説です。有力な国会議員に対し、多額の政治献金が渡った結果だとされています。飛行場を海上に引きずり出し、少しでも埋め立て面積を増やそうとする動きは、最近まで続きました。』

普天間問題~05年頃に何があったのか 2010-08-08

中国の軍事力脅威と在日米軍の再編 2011-11-16

小川和久氏と普天間移設問題 2014-04-06
1996年頃、小川氏のキャンプ・ハンセン移転案は、自民党代議士と地元利権によって葬り去られました。
2010年における小川氏のキャンプ・ハンセン移転案も、辺野古埋め立てを求める地元土建業者の利権を背景に迫る官僚に、鳩山総理が負けてしまったのでしょう。

沖縄訪問(1) 2014-03-30
2014年に沖縄を訪問しました。私としては今回の沖縄訪問で、『「世界一危険な米軍基地」と、そこに隣接する普天間第二小学校』をこの目で見ておきたいと考え、レンタカーを繰って訪問しました。そのときの記録です。

普天間第二小の校庭に米軍機窓枠落下 2017-12-16
『普天間基地の近くには小学校もあり、宜野湾市の伊波前市長はいつも小学校が危ないと心配していました。日本政府も放置できず、この小学校を移転させようとしました。
ところが、驚くべきことに移転に一番反対していたのは伊波氏でした。はっきり言って、かれはこの小学校の危険性を政治的に利用していました。この小学校がなくなれば、基地に反対する材料が減ると思い、移転に反対していたのです。普天間基地は自分を政治的に引き立ててくれる存在というわけです。「基地のない沖縄」を標榜する革新系地方政治家の正体がこれなのです。』
--当ブログの記事--以上--------------

--「未完」の辺野古-----------------
(「未完」の辺野古:1)05年交渉「米海兵隊、強い反対」 辺野古移設、合意優先へ妥協
2024年9月5日
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の辺野古移設をめぐり、国の異例の「代執行」を経て、8月20日に始まった大浦湾の埋め立て工事。日米両政府が米軍キャンプ・シュワブ(同県名護市)沿岸を埋め立てて2本の滑走路を「V字形」に配置する現行案に合意したのは、2006年5月のことだ。合意に先立つ05年当時の交渉は、緊迫した雰囲気に満ちていた。

(「未完」の辺野古:1)V字形、机上の折衷案 軍事的観点よりも、政治的調整を重視
2024年9月5日
『(1面から続く)
辺野古移設をめぐる日米合意の舞台裏。日本側の事情はどうだったか。
2005年夏、防衛庁(現防衛省)の守屋武昌防衛次官(当時)は、米側交渉代表のリチャード・ローレス国防副次官(同)から手渡された1枚の図面に目を奪われた。名護市辺野古の南方沖合の浅瀬を埋め立てる案(通称「名護ライト案」)の図面だった。
埋め立て案に後ろ向きだった守屋氏は、米側にはしごを外された感覚だった。複数の防衛庁幹部らは「名護ライト案」は地元の建設業者らの意向を反映しているとみていた。米国の大手建設会社も関わり、自民党の大物議員や外務省も支持していたという。
守屋氏は当時、海の埋め立てに反対していた。環境破壊が理由ではない。市民団体の海上抗議活動によって代替施設の建設が実現しないことへの恐れだった。
守屋氏らが推していたのが、米軍キャンプ・シュワブの敷地内での建設案(通称「シュワブ陸上案」)だった。』
米側が突然持ち出した「名護ライト案」はほどなくして消えます。その後、陸上案によりつつ、辺野古崎に面した部分を占め立てる折衷案(「L字案」)で妥協、さらに「L字案」を海側へ300mずらした、現行の「V字滑走路」案に決まりました。
『日米合意の経緯を検証すると、建設する基地の軍事的観点からの検討とは異なり、関係者間の意見調整という政治的側面が最重視されたことが分かる。それでも、ある沖縄防衛局長経験者はこう総括する。「多くの関係者が関わる中、それぞれ多少の不満はあれど、それなりに収まった多元連立方程式の解だった』

(「未完」の辺野古:2)「大浦湾に手を付けると…」
2024年9月6日
『2009年9月、政権交代の熱気が日本中を覆う中、防衛相に就任したばかりの北沢俊美氏は執務室で頭を抱えた。「これは混乱するな……」
2カ月前、民主党の鳩山由紀夫代表(当時)は米軍普天間飛行場の移設先について「最低でも県外」と表明。北沢氏は「党内的な議論はなかった。鳩山さんが大きな石を投げた感じだった」と振り返る。』
政権交代当時、北沢氏は防衛省内である警告が耳に入っていたと証言します。
「大浦湾に手を付ければ、大変なことになる。」
まだ「軟弱地盤」は確認されていませんでしたが、大浦湾は水深が深いため、予算が巨額に膨らむことが避けられない、とのことです。
その後、自民党政権で軟弱地盤が発覚し、関係予算は1兆円弱に積み増されました。
『日米両政府は自民党の政権復帰以降、辺野古移設を「唯一の解決策」と強調するようになった。ある防衛省幹部に予算の膨張を尋ねると、こんな答が返っていた。
「そんなことを今から心配してもしょうがない。辺野古への移設は、米国が『必要ありません』といわない限りは絶対に続いていく。どんなに時間やカネがかかろうとも」』

(「未完」の辺野古:3)「見直しはパンドラの箱」
2024年9月10日
『2009年の政権交代後、米軍普天間飛行場移設の「最低でも県外」を掲げた民主党鳩山政権のもと、米政府もいったんは辺野古の「V字形滑走路」の現行案見直しに取りかかった。ただ、この経験は、米側には「苦い記憶」として残る。』
「残念だった。振り出しに戻ってしまったからだ」。当時、米国防次官補を務めたウォレス・グレグソン氏は当時の心境をそう振り返ります。
『グレグソン氏は「V字形滑走路」の現行案が近隣住民の理解も得られているものとして、政治的には「最善の策」だったと語る。ただ、辺野古基地については、滑走路の短さや「軟弱地盤」といった問題から、軍事的な有用性を疑問視する声は海兵隊内からもたびたび上がっていた。』
『米政府が辺野古移設推進をやめる考えがないのは「見直しは、再び『パンドラの箱』をあけることになる」(元国防総省高官)からだ。』
『現行案を再び振り出しに戻せば、地元沖縄県の反発もさらに強まる懸念があると指摘』

(「未完」の辺野古:4)「首相は米に要求する勇気を」
2024年9月11日
鳩山政権の「県外移設」の迷走後、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先が再び現行案に戻ると、政府は辺野古移設を「唯一の解決策」と繰り返すようになった。だが、米海兵隊内部の不満は今もくすぶる。
2009~15年、沖縄で米海兵隊太平洋基地政務外交部次長を務めたロバート・エルドリッチ氏は「私の付き合いのある海兵隊の中で評価する人はゼロだ」と言い切る。

(「未完」の辺野古:5)「戦略的に重要」は後付け
2024年9月12日
『巨額の税金を投入し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を進める日本政府。その姿は、沖縄からどう見えているのか。米軍基地問題に詳しい我部政明・琉球大学名誉教授(国際政治学)に聞いた。』
『中国が台頭した結果、米海兵隊が、部隊運営に支障がない普天間を使い続けたいと思っているのが、沖縄にいるとよく分かります。』
『米側が「辺野古では部隊運用が不十分」と考えれば、普天間を使い続けようとする可能性はある。』
--「未完」の辺野古-以上----------------
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松代城、川中島古戦場訪問

2024-08-29 14:31:53 | 趣味・読書
8月17~20日、龍岡城五稜郭小諸城上田城と訪問した最後は、19日の松代城です。

《松代城訪問》
松代城正面の門

太鼓門前橋(手前)と太鼓門(後方)

公共交通機関を用いて松代城を訪問するには、JR長野駅前からバスを利用します。駅前の3番乗り場から、30番に乗り、松代駅停留所で下車します。前日に長野駅前のホテルに宿泊し、朝はゆっくりと出発しました。


松代城案内図

松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。海津城の築城年代は不明です。
戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点となっていました。
元和8年(1622)に真田信之が上田城から松代城に移り、松代藩政の拠点としました。

松代城の100名城のスタンプは、城の近くの真田邸に設けられているとあります。上の案内図における「新御殿(真田邸)」が、おそらく現在の真田邸でしょう。そこでまず、真田邸を探し、スタンプをゲットしました。


真田邸の門


真田信之公像


真田邸の門から見た真田邸の正面

真田邸の中には入らず、すぐに松代城に向かいました。


太鼓門前橋(手前)と太鼓門(後方)

松代城の南正面は堀に面し、上写真のような橋(太鼓門前橋)と、その先に枡形が配置されています。橋のすぐ先の門が橋詰門、その先が枡形で、枡形から城内に入る位置に太鼓門が配置されています。橋詰門は、その形式が高麗門であることが下の写真から分かります。

橋詰門(高麗門)(枡形の中か)


太鼓門(枡形の中から)


太鼓門(本丸側から)

太鼓門をくぐると、そこは四周を石垣で囲まれた本丸です。

本丸の北東端に北不明門があります。北不明門の外側が外枡形になっています。

北不明門(本丸側から)


北不明門(枡形の中から)


北不明門の枡形(城壁の上から)


北不明門枡形の出口(枡形の中から)


北不明門と枡形(城外から)

本丸の北西端は、戌亥櫓台になっています。この石垣は松代城内でも古い近世初頭のものといわれており、その高さと勾配の美しさは当時の石工の技術の高さを物語っている、と説明されています。


戌亥櫓台

北不明門から出て本丸の東側に回ると、そこは二の丸の敷地です。下の写真は、二の丸の中から、二の丸と城外を隔てる土塁で囲まれていることが分かります。


二の丸

こうして、松代城の訪問が終わりました。城の近くで昼食をとることにします。ちょうど、近くに竹風堂 松代店がありました。麦とろ膳をいただきました。

麦とろ膳

帰りも、「松代駅」停留所からバスを利用します。松代駅(ウィキ)は、長野電鉄屋代線(ウィキ)の駅(廃駅)です。屋代線は、長野県千曲市の屋代駅から長野県須坂市の須坂駅までを結ぶ長野電鉄の鉄道路線でしたが、2012年に廃線になりました。路線が廃止となった後も、駅舎やホーム等の設備は残され観光案内所やバスの待合所として利用されています。


松代駅


松代駅

《川中島古戦場訪問》
松代駅から長野駅までのバスの経路に、「川中島古戦場」停留所があります。そこでバスを途中下車することにしました。

永禄4年(1581)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍3万余の壮絶な死闘が展開されました。
上杉謙信は、乱戦で武田本陣が手薄になっているのに気づき、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲しました。このとき、武田信玄は軍配を右手に持ち、崩れかかる諸隊を激励指揮していました。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負いました。のちにこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡というそうです。


一騎打ちの像


三太刀七太刀跡之碑

信玄が謙信に打ち込まれた間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍らにあった信玄の槍をとって謙信に突き出しました。馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため、信玄は危うく虎口を逃れました。一方謙信を取り逃がし無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石(執念の石)を槍で突き通したといいます。


執念の石



逆槐(さかさえんじゅ)

川中島の戦い(第4次)において、武田方は海津城(後の松代城)、上杉方は妻女山に陣取っていました。
武田信玄は、8千人を八幡原に展開し、別働隊1万2千人をもって妻女山に攻め込ませ、八幡原に出てくる上杉軍を挟撃する作戦を立てました(啄木鳥戦法)。しかし謙信は、事前にこの動きを察知し、一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡りました(頼山陽「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる))。
上杉軍(1万3千人)の凄まじい勢いに武田軍本隊(8千人)は防戦一方となり、武田信玄の軍師である山本勘助もこのとき戦死しました。謙信と信玄の一騎打ちが演じられたのがこのときです。
武田軍の別働隊(1万2千人)が八幡原に到着したのは昼前でした。それまでは上杉軍有利、そのあと武田軍有利となり、『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としています。

川中島大合戦図



バスに乗り継ぎ、長野駅に帰ってきました。酷暑にやられたのでかき氷を食べたいと、お店を探しました。なかなか見つかりません。唯一、竹風堂 長野駅前店が見つかりました。

栗みぞれ

この日は長野駅前のホテルに宿泊し、翌20日、新幹線を軽井沢で途中下車し、アウトレットで買い物を楽しんだ後に東京に帰着しました。
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上田城訪問

2024-08-25 16:10:07 | 趣味・読書
今回は上田城訪問記です。
前報の小諸城訪問を終え、小諸駅からしなの鉄道で上田駅に移動します上田駅から徒歩で上田城まで移動します。ゆるい登り道で、かんかん照りの日射を受け、ゆだるような暑さでした。


上田城案内図

上田城の入口である、二の丸橋に到着しました。上の案内図の右端です。

二の丸橋

二の丸橋の下は、二ノ丸堀跡(けやき並木遊歩道)になっています。

二ノ丸堀跡(けやき並木遊歩道)

二の丸橋を渡ると、二の丸跡です。二の丸跡に設けられた上田市立博物館で、100名城のスタンプを押印します。

二の丸跡(上田市立博物館)

さらに進んだところに、本丸跡を三方から取り囲むお堀に到着します。



お堀を過ぎると、東虎口櫓門です。昭和24年(1949)に南櫓と北櫓が、平成6年(1994)に城門が復元され、かつての東虎口櫓門の姿がよみがえりました。

東虎口櫓門(外から)


真田石
城門横の石垣に埋め込まれた大石(真田石)は、真田信之が、松代移封の際に父の形見として持ち運ぼうとしましたが、不動であったとの伝説をもつ直径3mの大石です。


東虎口櫓門(中から)


     南櫓                    東虎口櫓門     北櫓


西櫓
本丸跡の西のコーナーに西櫓が建っています。城の南の尼ヶ淵(千曲川)の河岸段丘上に築かれた本丸隅櫓です。

上田城を尼ヶ淵側から観た写真が下写真です。今回われわれは尼ヶ淵を訪れず、下のような写真を撮れなかったので、ウィキペディアから参照しました。
 上田城・尼ヶ淵

本丸は、三方を土塁で囲まれ、土塁の外側は水堀になっています。

土塁(写真左)に囲まれた本丸跡(写真右)


土塁(写真左)と土塁外側のお堀(写真右)

上田城は、天正11年(1583)に真田昌幸によって築かれました。堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った簡素な城ですが、第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。

関ヶ原の戦いの前、真田家では、父・真田昌幸の長男信幸(信之)が徳川秀忠の軍勢の一員となり、父昌幸と次男信繁(幸村)が石田三成方の西軍に就く「犬伏の別れ」として有名な協議がもたれました。

関ヶ原の戦いのとき、東軍は、徳川家康が率いる軍勢が東海道を西に向かい、徳川秀忠が率いる軍勢が中山道を西に向かいました。慶長5年(1600)9月3日、関ヶ原に向かう徳川秀忠は、3万8千の徳川本隊を率い、小諸城本陣に陣しました。
秀忠は、上田城に陣する真田昌幸に使者を送るがのらりくらりと返事を延ばし、その末に「一戦つかまつろう」と挑発します。
大軍を擁した徳川軍に対し、真田軍は城を飛びだすと反転し、追撃する徳川軍を城に引き寄せて鉄砲隊が一斉射撃、徳川軍先鋒混乱に陥り、秀忠は全軍を一端小諸城に撤収させます。直後、家康より美濃赤坂に着陣すべしの書状が届き、第二次上田合戦はわずか1日で真田の大勝に終わりました。
秀忠軍は仙谷秀久ら抑えの兵を残して小諸を出立。しかし関ヶ原の合戦には間に合いませんでした。

関ヶ原合戦前(1583~1600)は真田昌幸が城主でした。関ヶ原後、上田城は徳川方に接収され、徳川軍によって上田城は破却されました。その後真田信之が1622年まで城主を務めました。真田信之は1622年に松代へ移封となり、その後、小諸から入封した仙谷氏により城は再興され、近世後半には松平氏の居城となりました。

以下次号
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小諸城訪問

2024-08-24 11:59:06 | 趣味・読書
前号の龍岡城五稜郭訪問の翌日、小諸城と上田城を訪問しました。まずは小諸城訪問の記録です。

小諸というと、島崎藤村の
『小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(いうし)悲しむ
 ・・・ 』
が真っ先に思い浮かびます。そう、「小諸といえば小諸城」です。

小諸城は、戦国時代に武田信玄の軍師・山本勘助により大城へと整備され、仙谷秀久により本格的な城と城下町の整備がすすめられました。
天然の田切地形を利用した全国的にも非常に珍しい「穴城」で、城郭部が城下町よりも低い土地に位置します。


大手門(北から)
大手門は、小諸城の正門であり、慶長17年(1612)に藩主仙谷秀久が小諸城を築いた時代の建物です。日本の城郭建築の中でも初期の代表的な城門、とあります。

大手門は、城の東の端にあります。大手門よりも東側が城下町、小諸城は大手門から西に配置され、西の端近くに本丸と天守台、さらにその西に千曲川です。そのような地形上、小諸城は城下町よりも標高が低く、さらに大手門から天守台に向けて標高が下がっていきます。このような配置の城を「穴城」と呼ぶようです。

江戸時代前期の小諸城(上が東)


小諸城概略図(上が南)

さて、しなの鉄道の小諸駅を出て、線路下の通路をくぐると三の門に至ります。
三の門は、二層の城門で、1615年ころ仙谷秀久により建立され、大洪水で流出したが再建されました。

三の門(三の丸、大手門側から)


三の門(二の丸側から)

三の門の先が二の丸です。
最も早く城(白鶴城)が設けられた場所で、仙谷秀久の時館が構えられ、1600年関ヶ原合戦に向かう徳川秀忠が中山道を西下した際に宿所に当てられたといわれます。案内板には「上田合戦時の徳川本陣跡」とありました。上田合戦については上田城のところで述べることにしましょう。

二の丸跡
上田合戦時の徳川本陣跡


南の丸跡



三の門、二の丸、南の丸と西に向かい、本丸跡に到達します。本丸跡は懐古神社になっています。

懐古神社
小諸城本丸跡

本丸の北西端に天守台があります。
本丸にはかつて敷地いっぱいに本丸御殿があり、その西端の天守台には金箔瓦葺きで三層の天守閣がそびえていたといわれます。

天守台跡(南から)


天守台跡(南から)

本丸の西の端は、台地の上に本丸が存在するのではなく、本丸とその西側を区切る高い塀のような石垣が配置されています。

天守台から懐古神社へ向かう城壁(左側が本丸側)


天守台(南西から)


天守台(北西から)

本丸の北に藤村記念館があります。外観だけ撮しておきました。

藤村記念館

三の門に帰ってきました。お昼の時間です。小諸駅の観光案内所で食事処について教えてもらっています。この近くだとやはりお蕎麦で、草笛、そば蔵丁子庵、笊蕎麦 刻などを教えてもらいました。三の門の近くにある草笛を選びました。しかしすごい行列ができています。時間はたっぷりあるので、ここで待つことにしました。


お店のすぐ近くの公園です。「佐久地域のカラマツを使用しています」と表示されています。この地でカラマツというと、
『からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。』(北原白秋 )
を思い出します。この詩は軽井沢を描いたらしいですが、ここ小諸も地続きです。

公園にはSLも展示されています。市などによると、この機関車は1938(昭和13)年に旧国鉄の小海線(小諸―小淵沢)で営業運転を開始したとあります。

SL(C56)

しばらく待って、草笛に入りました。藤村そばというメニューがあったので、それを頼みました。

藤村そば


藤村そば

袋にはくるみおはぎと書かれていますが、買ったのはごまおはぎです。

ごまおはぎ

食事が終了し、次の上田駅まで移動する列車の発車時刻が迫っています。駆け足で大手門を見て回ることにしました。

大手門(南から)

こうして、小諸城訪問が終わりました。

天文23年(1554)、佐久地方の諸城は甲斐の武田信玄の手中に落ちました。信玄は重臣・山本勘助らに縄張りさせて城郭を整備、総合的な大城としたのが小諸城の原型になったと伝わっています。武田氏滅亡後は織田信長の領国となり、本能寺の変の後は北条氏と徳川氏の争奪戦ののち、家康の領有となりました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、小田原攻めの軍功によって再起を実現した仙谷秀久が5万石で小諸に封ぜられます。秀久は城の大改修と城下町の整備を行い、城を完成させました。江戸幕府が開かれると、秀久は小諸藩初代藩主となり、城下や街道、宿場の整備に力を注ぎました。
仙谷家は、元和8年(1622)上田藩に移封され、その後は城主がめまぐるしく代わりました。
元禄15年(1702)から版籍奉還(明治2年(1869))までの170年間は牧野氏が10代にわたって居城としました。
小諸の城下町は秀久によって整備されました。
江戸時代には、小諸宿は江戸と加賀百万石を結んだ北国街道の宿場町として栄えました。

こうしてみると、小諸城および小諸の町並みは、ほとんど仙谷秀久によって形作られているようです。

しかし現代の小諸は、新幹線の路線から外れ、鉄道は信越本線ではなくしなの鉄道に格下げされ、取り残された町になっているようです。残念なことです。

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アラン・ドロンさん亡くなる

2024-08-23 18:04:26 | 趣味・読書
フランスの俳優、アラン・ドロンさんが亡くなりました。
私は、俳優としてのアラン・ドロンは、映画「太陽がいっぱい」をテレビで観た程度で、それ以上の知識はありません。
一方、アラン・ドロンが日本を訪れ、スマップのテレビ番組に登場したのはよく覚えています。調べたら2007年10/8放送のビストロスマップでした。アラン・ドロンが話した2つの話題が印象に残っています。

その第1は、「俳優にはコメディアンとアクターの2種類がいる」という話でした。詳しくは覚えていないのですが、ネット情報を参照すると、
 コメディアンタイプ・・演劇学校で演技を学んで演じる人
 アクタータイプ・・・強烈な個性がある人がたまたま俳優になった。役を生きる人。
という区別のようです。
日本語で「コメディアン」というと、お笑い芸人、喜劇役者といったイメージですが、フランス語では上記のような意味で用いられているのですね。

アラン・ドロンは木村拓哉に対して、「もちろん自分はアクタータイプだ。君もアクターを目指せ」と言っていたような記憶があります。

第2は料理に関する話題です。
スマップの面々は、アラン・ドロンから「ブイヤベースを」という注文を受け、自信満々で料理を提供しました。それを食べたアラン・ドロンは、
「これはこれでおいしいが、自分が注文したのはブイヤベースで、ブイヤベースとはマルセーユで食べるブイヤベースだ。今食べたこの料理はブイヤベースではない。」
との感想を述べました。

この感想にはうなずけました。
例えば私がフランスに旅し、寿司屋に入ってにぎり寿司を注文したとします。フランス人が造った創作料理が出てきたら、
「これはこれでおいしいが、自分が注文したのはにぎり寿司、日本でおいしいといわれる鮨だ。今食べたこの料理は鮨ではない。」
と述べることでしょう。
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龍岡城五稜郭訪問

2024-08-22 15:34:18 | 趣味・読書
8月17~20日、3泊4日で信州を旅し、4つのお城を訪問しました。
17日 龍岡城五稜郭
18日 小諸城、上田城
19日 松代城

まずは、17日 龍岡城五稜郭について記事にします。

龍岡城は、最寄り駅が小海線の龍岡城駅、または臼田駅で、そこから歩いて20分ほどのところにあります。
龍岡城は外形が星形の五角形をしていることから、五稜郭と呼ばれています。
龍岡城

文久3年(1863)、三河奥殿(みかわおくどの)藩主松平乗謨(のりかた)(大給恒(おぎゅうゆずる))が、信濃野口への本領移転と陣屋新築の許可を幕府から得て、翌元治元年(1864)に建設を開始したのが龍岡城です。西洋軍学に関心をもっていた乗謨は、稜堡式城郭を設計し、慶応3年(1867)に西面・南西面の石垣を除き完成しました。

東京から信越新幹線を利用し佐久平駅で降り、そこから小海線で臼田駅まで移動しました。駅からお城までの距離は、龍岡城駅と臼田駅でほぼ同じですが、臼田駅からのほうがやや距離が短そうでした。
龍岡城に到着し、まずは続100名城のスタンプ探しです。ちょっとうろうろして五稜郭であいの館に到着し、スタンプ押印しました。
上の航空写真から明らかなように、お城の星形の内部は学校になっています。


五稜郭であいの館に展示されている五稜郭ジオラマ


案内板に記載された五稜郭の概略図

五稜郭の星形稜堡を半周し、堀の写真を撮りました。

五稜郭の水堀


五稜郭の堀の鋭角コーナー部

日本国内のもうひとつの五稜郭は、有名な函館五稜郭です。函館五稜郭では、五稜郭タワーに上ればその全景を目にすることができます(下写真)。

函館五稜郭(五稜郭タワーから)
しかし、ここ信州の龍岡城五稜郭には、五稜郭タワーがありません。国内に2つしかない五稜郭の一つなのに、残念なことです。

龍岡城訪問を終え、臼田駅に戻ってきました。

臼田駅
駅前に置かれていた大石です。説明を読みましたが、経緯が良く分かりませんでした。

千曲川に新しく臼田橋を設置した工事中に千曲川河床から掘り出した大石

臼田駅には改札がありません。電車に乗るときに、乗降口にある整理券を入手し、後で精算する方式です。車内にて車掌さんが回ってきたので、本日の終着である軽井沢駅までの切符を購入しました。佐久平駅経由で新幹線を利用しました。

ところで、龍岡城五稜郭が造られたのは、幕末から明治維新にかけての時代です。この時代、この佐久平原の地に五稜郭を建設する意味はあったのでしょうか。結論からいうと、「藩主である松平乗謨(のりかた)(大給恒(おぎゅうゆずる))の趣味が高じて造られた陣屋」というのが実態のようです。
そもそも、佐久平原を領地とするこの藩に、攻めてくる仮想敵がいません。
当時、フランスやオランダから輸入される大砲は射程1km程度で精度が高く、龍岡城近くの山に敵の大砲が据えられたら、五稜郭など吹っ飛んでしまう、が実態のようです。
「五稜郭」の形状が役に立つとしたら、「各稜堡に設置した砲により、敵に対して死角をなくして十字砲火を浴びせられる長所がある。」「外へ打って出るにも各稜堡からの援護射撃のもと、各門から四方八方何れへも迅速に出て、また安全に城内に引くことができる。」といったことのようです。

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鉢形城訪問

2024-07-22 09:18:07 | 趣味・読書

鉢形城の復原四脚門 
7月20日、埼玉県寄居にある鉢形城を訪問しました。

鉢形城案内図

鉢形城跡は、上の地図で分かるとおり、荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘の上の天然の要害の平山城です。鉢形城は1476年(文明8年)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。
小田原における後北条氏の北条氏康の四男氏邦は、寄居付近の豪族である藤田泰邦に入り婿しました。この氏邦が、1560年ころに鉢形城主となり、鉢形城を整備拡充し、現在の規模となりました。以後、北条氏による北関東支配の拠点として重要な役割を担いました。稀に見る頑強な要害だったとされ、武田信玄、上杉謙信、前田利家、上杉景勝らの数度の攻撃に耐えました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、氏邦は3千の兵とともに籠城。5月13日、前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千人に包囲され攻防戦を展開しましたが、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、氏邦は6月14日、城兵の助命を条件に開城し、城は廃城となりました。
一方、小田原城包囲の戦いは天正18年(1590)4月3日から始まり、結局、7月5日、氏直は開城して降伏しました。

私たちは、JRと秩父鉄道で寄居に到着し、タクシーを利用して鉢形城歴史館に至りました。

鉢形城歴史館入口
この歴史館で百名城のスタンプを押印し、お城に向かいます。

復原四脚門


三の曲輪の復原石積土塁と復原四脚門


三の曲輪から復原四阿と伝秩父曲輪

鉢山城の西側は荒川が流れ、河岸段丘の絶壁が鉢山城を守っています。荒川の対岸から鉢山城を見るとその様子が分かったはずですが、今回は城の側から荒川を見るのみでした(下の写真)。

伝秩父曲輪から荒川


三の曲輪と二の曲輪の間の堀(馬出?)


三の曲輪と二の曲輪の間の堀と土塁(馬出?)


三の曲輪と二の曲輪の間の堀


三の曲輪と二の曲輪の間の堀と土塁


稲荷神社

二の曲輪の東端で深沢川を渡ります(下写真)この深沢川による段丘が、鉢山城の東側の守りとなっています。

深沢川

深沢川を渡った東側が外曲輪になっています。下の写真は、外曲輪とその外側を隔てる土塁です。写真の右が城内の外曲輪、左が城外です。

外曲輪の土塁

歴史館に戻ってきました。その展示を見て回ります。
木の城門をくぐろうとすると、上から兵士に射すくめられました(下写真)。

鉢形城歴史館

以下、鉢形城のジオラマです。

鉢形城ジオラマ 南から

荒川              本曲輪         伝御殿下曲輪
 現稲荷神社     二の曲輪                      深沢川外曲輪

鉢形城ジオラマ 南から


鉢形城ジオラマ 西から

                   二の曲輪       三の曲輪
外曲輪  深沢川  伝御殿下曲輪               本曲輪     荒川

鉢形城ジオラマ 北から

下の地図を見ると、戦国時代末期、関東平野の大部分が北条氏の勢力下にあったことが分かります。また、この地図に記された城で日本二百名城に選定されている城も多くあります。

関東の城

鉢形城歴史館受付の横に飾られていた人形です。

北条氏邦公と大福御前(おふくごぜん)
大福御前は北条氏邦の正室です。
現在の寄居町の辺りに、鎌倉時代からの名家である藤田家がありました。小田原の北条氏康の四男である氏邦は、この藤田家に養子として入り、藤田氏邦を名乗りました。そして、藤田家の娘(氏邦の義兄妹)が大福御前で、2人は結婚したのです。
その氏邦、藤田家の天神城から鉢形城へと移り、名も藤田氏邦から北条氏邦に戻りました。さらに、氏邦は藤田家の弟の1人を殺害し、もう1人の弟とは敵対しました。
その後の秀吉による小田原攻め。鉢形城の氏邦は先に大福御前らを逃がしてから、開城を決断しました。ところがその逃げた大福御前、このあとの彼女の足取りが不明となっています。諸説があります。脱出する際に身投げしたとする説。無事に鉢形城から脱出して、正龍寺で剃髪して尼となったとする説。もう1つ。鉢形城を無事に脱出した大福御前は、落武者を狙う山賊に襲われてしまうのです。大福御前は身ぐるみ奪われ、奥州の久乃村へ売りとばされてしまったといいます。
月日が経ったある日のこと。偶然にも、奥州へ馬の仕入れに来ていた秩父の商人たち。かつての城主の奥方の面影がある女性を見つけました。旧臣らは自ら奥州へと出向き、大福御前を救出したのです。
歴史館に飾られた人形から、このような物語が引き出されるとは思いもしませんでした。

鉢形城の訪問がすべて終了し、電話でタクシーを呼んで寄居駅まで戻りました。

これで、200名城中の20名城をゲットしました。
100名城中では12名城です。
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彦根城訪問

2024-07-21 11:45:49 | 趣味・読書

7月14日の安土城観音寺城に引き続き、15日には彦根城を訪問しました。
朝、京都のホテルを出て、JRで彦根に行きます。彦根駅前の観光案内所に寄りました。お昼ご飯に予定している近江牛のお店の情報を得ました。ちょうど11時発の循環バスが出るところでした。バスは、彦根城二の丸で僕らを下ろします。近くの開国記念館に百名城のスタンプが用意されています。

城内へ向かいました。

大堀切
上写真の橋は、天秤櫓に向かう廊下橋です。廊下橋の上から天秤櫓と琵琶湖を望んだのが下写真です。

天秤櫓と琵琶湖
天秤櫓と太鼓丸を経て太鼓門をくぐると、本丸であり、天守閣がそびえています。

天守

現在、天守閣は耐震工事中で内部は見られません。西の丸を経て、西の丸三重櫓に向かいました。

西の丸三重櫓内部

下写真は西の丸側から見た天守閣です。

天守

本丸から太鼓門を経て太鼓丸に出ます。

太鼓門

太鼓丸には下写真の時報鐘があります。この鐘は、12台藩主井伊直亮が1844年に鋳造したもの、とあります。現在は午前6時、9時、正午、3時、6時についているということで、われわれも正午の鐘の音を聞くことができました。

時報鐘

天秤櫓の内部を見学しました。
彦根城の近くに佐和山城があるはずなのですが、どの山がそれなのかがわかりません。天秤櫓内にて、案内がありました。下写真の中央の山が佐和山城跡のようです。

天秤櫓から佐和山城跡

さて、天秤櫓から出て大堀切に帰ってきました。ここから、元来た表御門に戻るのではなく、大手御門に向かいます。大堀切から大手御門に向かう道は、下写真のような階段になっています。

大手門へ向かう階段

内堀を渡る大手門橋の下を、ちょうど船が通過するところでした。

大手門橋

大手門橋で内堀を渡り、さらに、京橋で中堀を渡ります。

京橋から見た中堀

京橋の先は、夢京橋キャッスルロードです。そこに、われわれが向かう近江肉せんなり亭伽羅があります。


玄関を入ると、井伊の赤備えの甲冑が出迎えてくれます(下写真)。


ちょうどお昼時で混雑を心配したのですが、われわれの前には一組だけで、すぐに番が回ってきました。2階席に案内され、そこは椅子席だったので私には好都合でした。
近江牛 和風ヒレステーキ重(数量限定)が1人分のみ用意できるとのことで、それと近江牛 和風ロースステーキ重を一人前ずつ頼み、家内とシェアすることとしました。
こうして、今回旅行の目的の一つである近江牛を味わうことができました。

彦根駅までの途中、いと重菓舗たねや彦根美濠の舎に立ち寄りました。東京にもたねやはあるのですが扱っているのは和菓子のみであり、たねやの洋菓子はここ彦根でないと購入できないのだそうです。
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